2023年4月27日木曜日

2023年 4月30日(日) 礼拝 説教

   ー復活節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「飢えることなく、渇くことなく」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 34~40 節
(新約聖書 175 頁).

讃美= 187, 392,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 かつて学生で賑わっていた街も今は昔。貸与型奨学金の時代から、進学ローン型の奨学金に制度が変わった結果、卒業後に返済する奨学金には利子がつくようになりました。つまり、一部の免除職を除いて、毎月あたかも、金融機関からの借入金を返済するかのような仕組みになり、「学業優先」との言葉とは裏腹に大学生はアルバイトをするのが当たり前という時代になりました。大学まで進学できたのだから、それだけでも感謝しなくてはという言葉もあるでしょう。しかし学生間でも経済的な格差が一層開いてしまいますと、例えばアルバイトの種類ひとつとってもその内容に大きく違いが出てまいります。見通しのない短期のアルバイト、一定の計画性をもって臨める長期のアルバイト。腹を減らして一日に格落ちのリンゴやバナナを食べながら本を読むという学生がいるのは今も昔も代わりません。皿洗いをしてくれれば餃子は無料という店でも、毎回皿洗いをするわけにもまいりません。

 もちろん若いころの貧しさはその後の頑張りでどうにか克服できもいたしますが、年齢を一定重ねたところで陥る貧困は正直辛いものです。さらには幼いころ味わった貧しさゆえに人格が歪んでしまうということすらあり得ます。お金さえあれば人生は豊かになるという妄想にとりつかれてしまいますと、そこから抜け出すことは容易ではありません。分からない箇所を見つける喜びから、万事分かりやすければそれでよいという考えへと流されていきます。ドイツでは国家公務員扱いとなっている演奏家が、日本では個人としては日々の暮しすらままならないという状態が慢性化していることからもその問題の深さが分かるというものです。

 本日の『聖書』の箇所では二匹の魚と五つのパンで人々を満たした奇跡の出来事の後日談が記されます。イエスは誰一人洩れなく食を分かちあう奇跡を成し遂げた後、追いかけてきた群衆にこう申します。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。それに対して群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、人の子イエスは次のように答えます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは実に豊かな広がりをもっている箇所です。この言葉はどのように言い換えられるのかという一点につき、『マタイによる福音書』ではイエスが野の花や空の鳥を指し示して「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて全て与えられる」と語ります。イエス・キリストの身体をいのちのパンとして受け容れる者は、神の国と神の義をまず求めるものであり、そうすれば「これらのものはみな加えて全て与えられる」というのです。この文言は決して侮られるべきものではありません。祈りのうちにわたしたちの願いや思いが神の御旨に適っているかどうかを吟味する時を尊びたいと願います。

 もしわたしたちの暮らしが誰かを欺いたり収奪したりというわざにのみ根ざすならば、それがどのような絢爛豪華さを伴っていたとしても、そこにはただの飢え渇きと表裏一体の欲望はあったとしても、まことの愛の絆を育むことは極めて困難です。血が通っているはずの家族でさえ離散し、戦国時代の人間関係さながらの争いというものが遺産相続といったものにあっても生じるものです。けれども家族のうちに暮すところのか弱い者、繊細な者、生きづらさを抱えている者を支えていく生き方には、却って互いを物心両面にわたって支えていく交わりを授かります。パウロは『フィリピの信徒への手紙』4章10節で次のように語ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。パウロでさえもこの手紙の中でようやく「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあるように、ひとかどならざる葛藤を経ながらもこのようなあり方へと方向転換していったのではないでしょうか。

 牧師のいないまま、無牧のままで会堂改築を決意し、礼拝堂の再建に着手した教会をわたしは知っています。当座は借入金の返済のために何をするべきかで汲々としていたところ、地域につながるための様々な集会を祈り求めては実践することで、滞りなく借金を返済した教会もあるのも確かです。このご時世。確かに教会は大きな課題を背負っています。けれどもだからといってそれが教会の否定には決してつながらないという事例を目のあたりにしました。「わたしはいのちのパンである」。『聖書』だからこそ記しうる宣言。この宣言は復活の喜びにつながっています。だからこそわたしたちは時に応じた分かちあいの志しを祈り求めます。

2023年4月20日木曜日

2023年 4月23日(日) 礼拝 説教

   ー復活節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「おかれた場所で咲くもまたよし」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24 章 36~49 節
(新約聖書 160 頁).

讃美=  453, Ⅱ 192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 2012年、ある調査によれば累計で約200万部のベストセラーになった著作があります。それは『置かれた場所で咲きなさい』。ノートルダム清心学園理事長であったシスター渡辺和子さんが、宣教師に渡されたメモとして授けられた言葉に救いを得たところから始まるエッセイであり、文章表現の美しさとともにベストセラーとなりました。2012年といえば東日本大震災の翌年であり、その傷から被災地もまだ立ち直っていない人々が大勢。どうすればよいのか途方に暮れる方々の一部には救いのメッセージにはなったでしょう。確かに2.26事件で父親を殺められた渡辺和子さんの、元兵士に向けた赦しの言葉には心が動かされます。

 けれどもこの言葉はすべての人にあてはまるものかと考えると、首を傾げたくなります。著書とは意識・無意識に一定の読者層を想定して執筆されます。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が大規模な教育現場や教会などで語られるのであれば納得もいくのですが、茨の中に落ちてしまったような環境にいる方々との具体的な関わりの中では、とてもではありませんが語れません。茨を取り除くか、または土ごと植え替えなければ、生命の危機にすら晒される人々が大勢いるのが、あれから10年後の世界です。
『ルカによる福音書』のほぼ最後にあたる本日の箇所で、復活されたイエス・キリストは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と語ります。「父が約束されたもの」とは事実上の続編『使徒言行録』に記される聖霊降臨の出来事も含んでいます。しかし内容のよく似た他の福音書の「ガリラヤへ行け」とはメッセージが明らかに異なります。「置かれた場所で咲きなさい」とは「都に留まれ」の意味なのでしょうか。

 イエス・キリストが「都に留まれ」と弟子たちに命じるその訳は、エルサレムが聖霊降臨の場であるとともに、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ためのベースキャンプになるとの理解があります。そして復活したイエス・キリストはすべての国の民に通じる仕草でもって使徒となる弟子に伝えられる神のメッセージを示します。それは「あなたがたに平和があるように」との言葉と、「焼いた魚を食べる」という行為です。イエス・キリストの語る平和とは、単に戦争のない状態を示すのではありません。それは世界的な使信であり、また身近なメッセージとして、人々がキリストを軸とした「分かち合い」の中で活かされる日々を示します。そして「焼いた魚」とは実際には当時の貧しい人々が味わった日々の糧であり、おそらくあらゆる民の間で食されていた食べ物です。すなわち、いよいよこれから弟子たちは、世界宣教のわざに従事していく象徴として、イエス・キリストは貧富や文化を問わず、すべての民と食卓をともにする交わりを具体的に示します。復活したイエス・キリストは幽霊ではありません。肉体と分離した霊魂ではありません。その手とその足には十字架で受けた傷が明らかに示されていたはずです。それは傷そのものとして歴史を示しています。復活したイエス・キリストに背中を押されて、弟子たちは死を越えていく喜びの報せを数多の出会いの中で広げてまいります。それはその場に留まり続けるだけでは味わえない出来事の連続です。その時、その時にあっては、空を仰いで「どこから助けは来るのだろうか」と呟くほかない場面にも出くわすことでしょう。けれどもその道中には、甦られたイエス・キリストがともにあゆんでくださっているのです。弟子は使徒として神の愛の証しを立てるために置かれた場所で福音の咲くこともあれば、見聞きしたこともないような体験を通して花を咲かせる自由を授かってまいります。置かれた場所で萎れそうになるとき、主の御手はその人を土ごと別のところへと変えてくださります。ですから、置かれた場所であっても、そうでなくても、神の御旨であるならば、わたしたちは自由に、そして伸びやかに旅を続けることができるのです。

 思えばアブラハムから始まる族長たち、モーセに率いられたイスラエルの民は、旅と深く関わっていました。人の子イエスもさまざまな場所を移り変わりながら神の愛がすべてを治めるとの希望を語りました。そしてわたしたちもまた、めまぐるしく変わる世の常識や技術の中で、祈りながら神の愛を証ししようとしています。上手くいったと思えば傲慢になったり、その傲慢さが却って砕かれたり、駄目だと思って頭を抱えれば思わないところから感謝をされて心を震わせたりと、キリストがともにいてくださるからこそ、実ににぎわい豊かな日々を過ごすことができるというものです。

 教会という場所や交わりは、決して人を特定の場所や境遇に縛りつけるようなメッセージを語ることはありません。もちろん今は動くべき時ではない、今は待つべき時であると主なる神は語ります。しかし窮地にある人々を、神はその場に留まり続けなさいとは決して仰せにはならないのです。シスター渡辺和子さんのように自らのライフトーリーを語りうる人もいれば、そうでない人もいます。けれどもすべての人々の花を、神さまは咲かせてくださると、復活の主イエスは仰せになっておられます。

2023年4月13日木曜日

2023年 4月16日(日) 礼拝 説教

ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ともにあゆむイエス・キリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24 章 13~27 節
(新約聖書 160 頁).

讃美= 154, 155,540.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今年のイースターは4月9日でした。この日は77年目のディートリヒ・ボンヘッファーの命日にあたります。ボンヘッファーという人物の名前を知らないという方もいるかもしれませんが、世代的に言うと若き日の土山牧羔先生を指導した世代からは少し若いところに位置する人物です。21歳の若さで博士学位を最優秀成績で取得するという天才的な一面がある一方で、その時代のドイツの実権を握っていたヒトラー政権に対しては、その方針、すなわち国策に無用とされた障碍者の安楽死や似非科学に基づいた人種理論によって人間を分類して虐殺を行なう政策、ユダヤ人の公職追放、『聖書』もユダヤ教の依るべきテキストであるという理由から『旧約聖書』を否定する態度を批判、戦争に反対した態度により「戦力破壊活動」を理由に逮捕、そしてヒトラー暗殺計画に連座したという理由から39歳で第二次世界大戦末期の欧州で殺害された神学者でした。ボンヘッファーの著作の中には『聖書研究』という書物があります(生原優、畑裕喜、村上伸訳、『ボンヘッファー聖書研究旧約編』、新教出版社、2005)。その中に「キリストの教会は、すべてのことの終わりについて証言する。キリストの教会は終わりから生き、終わりから考え、終わりから行動し、終わりから宣べ伝える」との一文があります。いったい何のことだろうと考えるのですが、福音書の中でイエス・キリストが語った「神の国」または「神の愛による統治の完成」と理解するとわたしたちにも馴染み深くなるかもしれません。わたしたちが告別式の説教でともにするところの、召された人の身体を前にして語られる復活のメッセージ。すべてのものが、人の世の罪でさえも、また社会に生じている様々な歪みさえも神の愛によって新たにされ、完成されるという「世の終わり」。この「世の終わり」に基づいて当時としては画期的な着想のもとで執筆され、公刊されました。

 『ルカによる福音書』では、イエス・キリストは神の国を「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とファリサイ派の人々に語りかけます。つまり、わたしたちの一見凡庸に思える、しかし祈りの中で育まれる交わりの中にこそ、神の国の訪れが「未だなお」と「もはやすでに」との緊張感の中ですでに授けられているのだとの理解に立ちます。まさしく『聖徒の交わり』であり『共にいきる生活』というボンヘッファーの主題に重なります。神の統治の先取りとして、夕暮れのエマオへの道の風景が描かれていくと考えても全く問題はありません。エルサレムから11キロほど離れたところにあるエマオという村。その道を歩く二人の弟子には、女性たちが懸命に伝えたであろう主の復活の出来事のメッセージはまだはっきりとは理解されてはいません。二人にとってイエスは「イスラエルを解放してくださる」という意味での救い主であり「イエスは生きておられる」との証言を受けとめはするものの、人の子イエスを埋葬したはずの墓は空だった、という程度でしか理解できてはいません。この二人の弟子はイエス・キリストをそのような枠の中でしか捉えてはおりませんでしたし、納得もできてはいなかったことでしょう。だからこそ10キロに及ぶその道すがら、復活の出来事の現場にいた女性たちから受けた報せを疑いながら議論し続けずにはおれなかったのです。

 しかしそのような疑いをも含めたところのやりとりの中に、主イエス・キリストはそれとない姿でともにあゆんでくださったのです。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか」と、あえてざっくりと分かりやすく申しあげれば「仕方がないなあ」と言いながら、モーセ、すなわち『律法』とすべての『預言者の書』から始めて、その時代の『聖書』すべてにわたってキリスト自らに基づいて記されていることを解き明かされたのだ、と書き記すのです。言い換えればキリストの訪れに基づいて、すなわち神の支配の先駆けに基づいて『旧約聖書』全体が解き明かされることとなります。その究極の救い主のありかたが「ともにあゆむキリスト」となります。

 『旧約聖書』に収められている物語を目通しすれば、そこには決して理想的な人物像が描かれていないことに気づかされます。神との約束を気づかないまま破り続けていく人間。虐げられた人々と分かち合うべきところ、独り占めして道を踏み外す原因となる財産の用いられ方、言われなき殺人。また神の名前を口実にした大量殺戮や戦争。エジプトのファラオの命令に基づいてナイル川に投げ捨てられていくこどもたち。若いころは神から知恵を授かった名君であっても年老いて権力欲にとりつかれる王の姿。見えない神より見える金銀に心が奪われる人々の群れとその滅び。そのような世界と無関係では暮らせない中で神を受け容れた人々の危機、使徒たちの群れの危機、そしてわたしたちの暮しの危機。魂の危機は時を超えて重なっています。そのような中だからこそ、十字架で処刑された後も変わらずに「シャローム:神の平和があるように」(神さまがいる。大丈夫だよ)と声をかけ、自らの身体の痛みに先んじてわたしたちの心身の痛みや悩みを分かち合ってくださる救い主が、幼いころから、そして今もなおわたしたちとともにあゆんでくださるのです。わたしたちの暮らしの中でともにあゆむイエス・キリストをより信頼してまいりましょう。

2023年4月7日金曜日

2023年 4月9日(日) 礼拝 説教

ーイースター礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「いのちの復活に触れて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』20 章 11~18 節
(新約聖書 209 頁).

讃美= 146, 148, 讃美ファイル 3, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今年の受難節ではなぜか、キリストの受難のあゆみを解き明かす説教は機会としては少なかったように思います。三年間続いた新型コロナウイルス感染症対応型の礼拝がまだ身体から感覚として脱けていないからか、それとも大切なご家族を見送る方々とともにいたこともあり、魂が耐えられず敢えて離れていたかどうなのかは分かりません。ただ、牧師・教会員お互いは家族に等しい大切な存在のはずで、そのような方々を弔うわざは、なかなか機械的にできるものではありません。「あなたはプロなのだから」との指摘に感じるのは、要は信頼を得られるキャリアやノルマを積み重ねるわざと『聖書』への向き合いや教会員のへの向き合いを同一視することに他なりません。そのような気持ちになれば作業は簡単です。無難に教会と向き合い、各個教会のバックヤードにある組織にも抜け目なく向き合い、年月を経るに連れて規模も肩書きも立派なものにしていく。その中での告別式や結婚式も淡々とこなし、『聖書』の言葉も刺激的なものは避けていくといった具合です。

 しかし牧師に限らず教会に根を下ろす役目はプロフェッショナルではなく「コーリング」と呼ばれます。つまり自ら「ある職種を選ぶ」という意志に先んじて、何者かの声に呼び止められてその役目に招かれていくという道です。もしある人が個人的な願望にのみ基づいて牧師の道を選ぶとすれば、やがて幾つも綻びが生じてまいります。意見の合わない者は直ちに排除の対象となり、教会も事業体も組織として手練手管を用いて大きくさせ利潤を得られるようにします。多様性を認めない者への抵抗とは異なる不毛な争いも生じますが、これには人としてどうなのかという仕方を用いてでも対処します。コーリングという言葉が欠けているならば、たとえ全世界を手に入れたとしても、その人の死とともに、一代限りで全ては雲散霧消してしまいます。

 ナザレのイエスが神の呼び声を聞く場面を、本日の箇所にいたるまで少なくともわたしたちは二度触れているはずです。第一には人の子イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから水による清めの洗礼を授かったとき。最初期に成立した福音書では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声。そして、イエスが僅かな弟子を連れて山に登り、『旧約聖書』を代表するモーセと預言者エリヤと語らい、真っ白に輝く姿に変容したときの「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声。栄光を現わすと言われるこの神の語りかけも、十字架への苦難の始まり、そしてモーセとエリヤとの語らいは「イエスがどのような最期を遂げるか」を内容としていました。いずれにせよ、イエスは救い主として神に拓かれた苦難の道をたどり、そしてあゆまれました。それは自分のいのちを削り人々に癒しと慰めと希望を授けるあり方でした。その果てに待ち受けていたのは十字架刑による死でした。

 ローマ帝国の磔刑とは十字架に掛けられる前に鞭で身体中を傷つけられ、衰弱させられます。そして少しでも苦しみが増すように脱臼させられて杭に釘打たれます。全体重を用いての亡骸の傷みは想像を絶します。変わり果てた遺体をせめて清めにと墓を訪れた弟子たちは、主の復活に気づかずその遺体が取り去られたものと思いその場から立ち去ってしまいます。『ヨハネによる福音書』に登場する「イエスの愛していたもう一人の弟子」は復活を信じるものの、その後にどのように振る舞ったかは記されていません。

 しかしマグダラのマリアの描写は実に対照的で、活きいきとしています。マリアは弟子たちとは異なり、墓の中に白い衣を着た二人の天使を見ます。一人はイエスの骸が置かれた頭の方、一人は足の方に座っています。御使は「女性よ、なぜ泣いているのか」と尋ねますと「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません」。慟哭と身の震えが伝わります。「わたしがあの人を引き取ります」。このマリアのうろたえを受けとめながら名を呼びかけた声は、マリア自らから「ラボニ(先生)」という言葉を引き出します。「わたしにすがりつくのはよしなさい」とはどのような意味でしょうか。それは「マグダラのマリアにもまた神が授けた役割がある。それは『あなたがたの神のところに上る』との言葉を仲間に伝えることだ」とのメッセージです。「イエスの愛していたもう一人の弟子」に較べますと、まことに力にあふれて「わたしは主を見た」と「信じる」という言葉よりもさらに直接的な言葉で弟子に自らの体験を語ります。このかけがえのない出会いは決して消えることはありません。

 わたしたちの教会はイエス・キリストを土台とし、イエス・キリストを頭とした交わりに連なっています。世にある組織として問われる責任はその礎の上にあります。そして様々な社会不安と無責任さが世を覆うほどに、わたしたちの交わりに多くの痛みの中から助けを求める手が伸ばされています。イエス・キリストは孤独と絶望と、痛みと涙と裏切りを知る救い主です。その痛みがマリアの悲しみを癒し、いのちの希望とともに、あゆむべき方向に向かわせたに違いありません。いのちの復活に触れる雛形がそこには描かれます。そしてわたしたちもまた、味わう悲しみや痛みをイエス・キリストの復活に重ね、進むべき道へと向きを変えられていきます。特別な思いで迎える主の復活の喜び。何も恐れる必要はありません。主が支えてくださるのです。

2023年3月31日金曜日

2023年 4月2日(日) 礼拝 説教

  ―受難節第6主日礼拝―

ー棕櫚の主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「責任転嫁をしなかった人とともに」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』23 章 32~43 節
(新約聖書 158 頁).

讃美= 讃美ファイル 5, 257, 136, 271B, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】

 「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。」「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。『創世記』3章に記される、人間よりも賢いとされた蛇に唆されて善悪を知る知識の実を男女が食べたという、よく知られた場面です。『創世記』がバビロン捕囚の中で記された書物だと踏まえればなるほど話として納得はします。しかし問題はそのような時代考証には直接関わりはありません。むしろ「決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」との約束を授かった男性が、本来食べてはならないはずのその実を食べ、あたかも神であるかのように振る舞い始めたその最初の所作とは「弱い部分を隠すべきだ」と否定的な評価を加え、そして主なる神が歩いてくる音を聞けば身を隠し、そして善悪の知識の木の実を食べたその責任を「わたしの肉の肉、骨の骨」とまで喜びのあまり呼ばわり手を携えた女性に責任を転嫁してしまうという態度の豹変ぶりです。『創世記』の文脈では人間関係の最も基本となるのは夫婦とされ、「人間がともに生きるありかた」の最も基本となる絆であるとされます。「村」や「家」という集団を越えて、血のつながらない二人が神の前にお互いが対等の関わりを築くというのが古代社会では革命的な着想であるばかりか、今日に至ってなおも結婚式の式文で求められる誓いにすらなっています。しかし神との約束を疎かにしたことで、人間の間には不信の念が芽生え、女性は男性に支配され、男性は生涯食べ物を得ようと苦しむという結果にいたったとの物語が記されます。ただし注意しなくてはならないのはこの箇所には直接「罪」という言葉は記されておらず、したがって西方キリスト教の教えの中で見られる「原罪」という考えも『創世記』本文からは見られません。ただし決定的な事柄としては、神は責任転嫁という人間のあり方を決して見逃してはいなかったところ。そのルーツは自らとの結んだ約束の放棄にあったからだ。これが古代ヘブライ人の理解です。すべての人の歪みがこの物語には集約されています。

 本日の福音書の箇所には、実はこれほどの道筋があります。「ゴルゴダ」と呼ばれたその処刑場には三本の杭が建てられ、手を打ちつけるための横木がはめ込まれていました。そしてその真ん中の杭には、虐げられた人々、排除された人々とともにあゆみ、エルサレムの祭司長や律法学者たちから危険視された結果殺意を向けられ、不当な逮捕と裁判を受け、判決は責任不在のまま「たらい回し」にされた結果、刑に処せられた救い主イエス・キリストの姿があります。たらい回しもまた「責任転嫁」の別の言い方です。「自分を救ってみろ」との声も、現代の自己責任論にもつながる、誰も責任をとらないという意味では無責任論であり、責任転嫁の枠を出ない言葉でしょう。しかしあろうことかこの処刑場で奇跡が起きます。それは「お前は神をも恐れていないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」と弱り切った体力を振り絞り呻く受刑者の声です。イエス・キリストが無罪であるとの告白が、この死刑囚には自らの犯した罪と真正面から向き合わせ、あらゆる責任転嫁の誘惑から解放しています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と十字架の上でイエス・キリストに語りかけます。究極の苦しみ悶えの中での信仰の呟きが、この死刑囚の苦しみを全く異なる次元へと変容させるのです。

 世界的な戦争のみならず、わたしたちの身近なところで起きるトラブルや不適切な言動。このような言動もまた「悪いのはわたしではない、別の誰かだ」との思いから始まります。それがその場にいない人々であったり、生活文化の異なる人々であったり。多様性を尊重しないところの、人権を踏みにじる言動もまた同じ理屈から生まれます。「悪いのはわたしではない」。その意味では『創世記』の天地創造物語の書き手集団の視点はまさしく神から授かった慧眼とも呼べるでしょう。しかし『創世記』のあの箇所でさえ、神との約束を反故にして楽園から追放される男女には皮の衣が着せられます。この衣には試練に満ちたあゆみの中「死なないように」との神の愛がほのめかされています。その時代、ローマの法学者でさえ逡巡したと言われる残酷な刑罰を自らの過ちへの正当な措置だと受けとめた無名の犯罪人とイエス・キリストとの語らいは、この犯罪人を不条理極まりなく、その過酷な生涯とは全く異なる地平へと引きあげます。イエス・キリストとのいのちを賭した関わりの中で、死刑囚は罪を認めないとの責任転嫁の呪縛を絶ちました。本日は棕櫚の主日礼拝。受難週の始まる主日礼拝です。その主日礼拝にこの教会では讃美が響き、栄華を誇ったソロモン王の宮殿よりも美しい花であり十字架を示すガーベラを分かちあいます。それはイエス・キリストの十字架の血潮が、わたしたちにあらゆる責任転嫁を止めさせ、その先にある滅びを突破する復活といういのちの出来事を指し示すためです。

2023年3月24日金曜日

2023年 3月26日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「世も人も新たにされるには」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』20 章 9~19 節
(新約聖書 149 頁).

讃美= 262,191,544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と、古代の教会の時代から今にいたるまで教会の事実上の背骨の役目を担ってきた使徒信条告白があります。文語訳の「われは天地の造り主 全能の父なる神を信ず」と母教会では洗礼や堅信礼前には必ず暗唱するようにと指導されたものでした。しかしながら神は自らとしては『旧約聖書』にあっても宇宙や地球、いのちを始めとした万物に対して単に鎮座まします姿としては描かれません。『旧約聖書』とりわけ『創世記』で注目される神がわたしたちの世に向けてとる態度とは「くだる」という態度です。よく知られた「バベルの街の物語」でも「降っていく」とあり「ソドムの街の滅亡」物語でも、神はまず降っていって都市に暮す人々の様子を詳らかに調べます。全能の神の立場にただ留まるのであればわざわざそのような所作に及ぶ必要もないのですが、おごり高ぶる上昇志向の人間とは対照的に、自ら謙るだけでなく、人間に悔い改めと気づきの暇を授ける慈しみというものを感じる神の姿勢です。

 その姿勢はイスラエルの民、そしてわたしたちにも信仰の父と呼ばれるアブラハムが豊かさを快楽の源と取り違える乱れた都市ソドムを執り成す場面で一層徹底されます。アブラハムがこの都市国家が滅ばないように擁護するのは一重にそこに甥のロトが住まいを構えていたからで、もし神がソドムを滅ぼすのであればそれは甥も巻き添えを喰らってしまうに違いないとの思いもあったことでしょう。族長としては到底許容できない事態です。そのアブラハムに応えるべく、主なる神は御使いを通して「もしソドムに義しい人がいるならば」とのテーマで語らい、当初の条件の50人を10人に譲歩させてまで救いを授かろうといたします。

 もちろんこの物語は『新約聖書』の舞台ではすでに「伝承・伝説の物語」になっていたかもしれません。しかし人の子イエスはさらに身近な題材と内容としてはサスペンスやホラーに近い物語を語ります。ぶどう園の主人が農園を農夫に貸して長旅に出かけ、収穫の時を迎えたので僕を送ったところ、袋だたきにされ追い返されます。さらに他の僕を送ったものの、今度は袋だたきに加え侮辱まで受けて何も渡さず追い返されます。そして三人目は傷を負わされて追い返されます。あろうことか主人は「どうしようか、わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と息子を遣わします。もはや素朴なぶどう園の労働者の姿はそこにはなく、相続財産を奪う、ならず者集団と化した群れがあります。息子は殺害され放り出されてしまいます。今日で言えば誘拐殺人と死体遺棄の現行犯と見なされて当然の狼藉に及びます。しかしなぜこのような物語が記されたのでしょうか。

 わたしたちがぶどう園の主人であれば最初の僕が暴行を受けた時点で事実確認をし、何らかの対策を協議し結論を出すことでしょう。事実『旧約聖書』の族長物語や『士師記』、『サムエル記』、『列王記』などでは狼藉者に制裁を与えたところで指導者が神から責めを受ける場面はありません。他方でこのぶどう園の主人は、次から次へと僕を送っては重傷を負わされしまい、遂には愛息まで遣わし殺害の憂き目に遭います。神は犯罪の被害者遺族となってしまうのです。そういたしますと別の角度からこの箇所を味わう必要もまた生じます。つまり次々に派遣された僕は預言者であり、最後に遣わされた息子は救い主イエス・キリスト、これら神の役目を委託された者の殺害に及ぶのは欲に眩んだイスラエルの民を始めとしたわたしたち人間となります。しかしそれでも謎めくのは、なぜ神は自らのメッセージを託した重要な人物を人海戦術のような仕方でならず者の中に送り込むのかという点です。

 本日はこの箇所で『創世記』2章以下で「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と人に語りかけた主なる神の愚かさを重ねてみましょう。この箇所での神の振る舞いは人の目からは愚かにしか見えません。しかしそこには深いメッセージが隠されています。本日の福音書の箇所でもそれは言えます。それは相手がどれほど残忍な、ならず者であろうと僕を遣わし、息子を派遣することを止めないぶどう園の主人の姿です。これもまた主なる神の愚かさを語るに充分な内容で、人の子イエスの「さて、ぶどう園の主人はどうするであろうか」との言葉は、譬え話の本筋とは直接の繋がりはなく、対話を目的とした問いかけになっています。ならず者集団の巣窟となっているぶどう園はおそらくわたしたち人の世の問題を深く掘り下げた世界として描かれています。そこでは神の役目を授かった者が辛酸を舐める不条理に満ちています。そして僕に始まって自らの息子もまた徹底的に排除されるという酷たらしい現実と重ねられます。しかしイエス・キリストは次のような結論を導きます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。「隅の親石」とは木造建築でいう大黒柱にあたります。人々の群れに捨てられた木材が、是非とも必要な背骨の役目を果たすという物語です。排除される人々とともにあゆむイエス・キリストは、確かに福音書の舞台で十字架へと追いやられていきます。しかしイエス・キリストに根ざす交わりは、様々な生き辛さを抱えながら世に神の平和と希望をもたらします。世も人もそのように新たにされてまいります。

2023年3月17日金曜日

2023年 3月19日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「昔も今も愛を貫く神とわたしたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 28~36 節
(新約聖書 123 頁).

讃美= 66,270,544. 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 イエスがひとり祈っていたとき、ともにいた弟子に「あなたがたはわたしを何者だと思っているのか」と問われ、ペトロは「神からのメシアです」と答えたという記事。この記事がすでに記されていると踏まえながら、本日の箇所を読み解いていきます。すると凝縮された内容を本日の御言葉が訴えているとおぼろげながらに分かります。ペトロのメシア告白、則ちイエスが「救い主」であるとの告白は、ペトロ自らの権威を象徴するとの理解も確かにありますが、丹念に読みますとその理解は福音書が伝えようとしていた内容と大幅にずれているように思えます。それはペトロの告白の八日後に起きたとされる「山上の変容」の物語に記される通りです。イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登ります。イエスは祈っておられるうちに、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現われて語りあうにいたりました。語りあいの内容は人の子イエスがエルサレムで遂げる最期でした。ペトロは猛烈な眠気に襲われながら、輝くイエスの姿と二人の姿が目に入り、山小屋を三軒建てようとよく分からないことを申します。「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」。この幻はイエスがまさしくキリストであることを弟子たちに示しているのですが、ペトロはボタンを掛け違えたような反応しかできていません。モーセは『旧約聖書』で十戒を始めとした誡め『律法(トーラー)』を象徴し、エリヤは預言者の代表として『預言者の書(ネビイーム)』を暗示しており、したがって『旧約聖書』に記された神の救いの約束の完成としてイエスが描かれてはいるものの、その最期である「十字架での処刑」こそが、その約束が始まる時であるとのところまでにはペトロの理解はまだ及んではいません。ペトロの理解は他の弟子同様に実に素朴でした。「ローマ帝国の支配から解放してくださる英雄」としての救い主。それがペトロのメシア理解であるならば、イエス・キリストに課せられた苦難に満ちた救い主のあゆみは心にも浮かばず、ただただイスラエルの民のみが救いに預かるという限定的な救いに留まるほかなかったでしょう。救い主の十字架での死と復活を幾度も否定する。それがペトロのむき出しの姿です。

 それではイエス・キリストの救いに連なるのはどのような人々であったのでしょうか。もちろん、福音書の物語で人の子イエスに出会った人々も洩れなかったことでしょう。目の見えない人、聴覚を失った人、手足の動かない人、悪霊にとりつかれたと決めつけられた人々。その時代のユダヤ教の共同体から排除されたこの人々に救いが及んだのは間違いありません。しかし『新約聖書』は言うに及ばず『旧約聖書』にもすでにその時代のユダヤ教徒以外の者にもまた神の愛がそそがれ、決して救いの蚊帳の外には置かれてはいないと明言されます。例えば『創世記』には「神はご自身にかたどって人を創造された」とあるだけに留まらず、「ソドムの滅亡」の物語では、古代都市ソドムの滅亡から辛うじて逃れたロトと二人の娘が、残酷かつ異様な体験の衝撃からか男女の関わりを持ち、それぞれ男児を授かるというエピソードが盛り込まれます。ただし、授かったこどもは、遠くダビデの先祖となる女性ルツの属する民の系譜となり、こども自らには決して罪はないとの理解が記されます。ペトロがこの記事を心に留めていたかは分かりません。しかし穢れた系譜に属するとされた人々にこそ救いが及ぶとの理解は画期的。「人生の闇」にも光は必ず射すのです。

 言うまでもなく、モーセは自ら「乳と蜜流れる土地」カナンの地には入れずに、またエリヤは絶えず神に逆らうイスラエルの民から遠ざけられるという、後の世には誉め讃えられながらも、物語を味わえば日本語でいう「畳の上では死ねなかった」人々ばかりです。イエスと語らう『律法』の象徴が高名な律法学者ではなく、『預言者の書』の象徴が時の賞賛を浴びた人ではなく、その時代の王族からいのちを狙われた預言者であるところからしても、キリストの苦難の頂点が示されているのは明らかです。さらに今なおその救いのスケールの大きさにわたしたちは圧倒されるばかり。本日の聖書箇所の書き手も踏まえた『マルコによる福音書』で最初に「この人は本当に神の子だった」との告白は、十字架刑の現場の責任者であるローマ軍の百人隊長から発せられます。

 わたしたちは「『旧約聖書』に記されているのは裁きの神」「『新約聖書』に記されているのは愛の神」だと誤解している節があります。けれども福音書を始めとした『新約聖書』の書き手集団は徹底的に『旧約聖書』を味わいながら、異なる民、異なる時代に活きいきと救いのメッセージを紡ぎ、それは神の遣わしたキリストをどの角度からも示します。時にわたしたちは『聖書』が「分からない」と呟きます。しかしその「分からない」という事実には、神の愛による養いの「伸びしろ」が隠れています。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」。イエスの不当逮捕の直前、ゲツセマネの園での態度と同じように眠気に襲われていたペトロ。しかしペトロがその眠りから醒めるとき、わたしたちにも目覚めが起きます。昔も今も時代を問わずわたしたちを愛さずにはおれない神。そのような神がわたしたちを愚かなまでに信頼して遣わされた救い主イエス・キリスト。神の愛は「愚かなまでの信頼」という姿をもとります。時に世の常識からは遠ざけられさえもする神の愛こそが、わたしたちの前にそびえる壁を打ち砕くのです。