時間:10時30分~
※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「父母の保護から自立する少年イエス」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約聖書 104頁).
讃美=7,121,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
飼い葉桶にお生まれになった人の子イエスはどのような道を経て救い主へと成長するのでしょうか。『マタイによる福音書』では嬰児イエスのいのちを狙うヘロデ王の追っ手から逃れるためエジプトへと急いだ父ヨセフ、母マリアと幼子の姿を描きます。エジプトで家族はヘロデ王の恐怖政治から逃れる難民の姿に身をやつします。いったい家族がどのようにエジプトで歳月を重ねたのか。それは福音書の文言には書かれてはいません。読者にはヘロデ大王が代替わりをし、その息子がユダヤを支配していると聞いて、家族はガリラヤ地方へ引きこもったと記されるだけです。『マタイによる福音書』で父ヨセフの姿はこの記事が記される2章を最後にして舞台から静かに消えていきます。
他方で本日みなさまが先ほどお聴きになった『ルカによる福音書』では、幼子イエスの家族に実に立ち入った描写をしています。飼い葉桶の嬰児イエスのいのちを狙う者などどこにもおらず、徹頭徹尾祝福された存在として描かれます。それだけではなく、当時のユダヤ人、いや古代ユダヤ教の倣いに両親は実に忠実で、その時代の庶民がエルサレムの神殿に「山鳩一つがい」または「家鳩の雛二羽」の献げものを持参して、授かった幼子を神に献げる象徴とし、過越祭には12年間一度も絶やさずに毎年エルサレムへ旅をし、神殿で祈ったと記します。当時のローマ帝国の倣いに同化してしまった人々もいたはずだろうに、この家族はモーセの誡めに従い続けた様子が記します。
しかし本日の記事ではこの家族に大きな変化が生じます。イエスが誕生して12年目のこと、祭りの期間が終わって家族が親族ともども帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残る一方でマリアとヨセフはそれに気づきません。おそらくそれまでならば両親が充分注意を払ってナザレとエルサレムの道を往復していたはずなのですが、今回は前代未聞のケース。「少年イエスはエルサレムに残る」と言えば聞こえはいいのですが、要は両親がエルサレムに置き去りにして、さらには一日分の道のりをナザレへとたどり、親類や知人の間を捜しまわったが見つからず、エルサレムに引き返す他なかったのです。息子を捜す夫婦の胸には何が去来したことでしょう。例えば本日の福音書には「良いサマリア人」の譬えが記されています。その中にはエルサレムから名のある街へと道を急ぐ旅人が追い剥ぎに襲われて服をはぎ取られ殴りつけられ、息も絶え絶えにされてしまった姿が描かれます。エルサレムからナザレへの旅とはいえ、12歳の少年の身に何かあったらと気が気ではない様子が夫婦の狼狽から窺えます。
とはいえ、両親の心配をよそに、三日後に見つけた少年イエスの姿は意外なものでした。神殿の境内で律法学者の真ん中に座り、律法の話に耳を傾け、疑問や質問を投げかけていたのでした。車座と言ってもよいその語らいの場には、話を聞くために立ち止まる人々の姿もあります。少年イエスには父母への思いや過越の祭からの家路への思い煩いはなく、ひらすら『聖書』の解き証しに向けた関心があるのみであった模様です。身柄は学者が保護していたのでしょう。その夢中な姿に「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と母親は言うほかありません。返す少年イエスの答えは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この一文の中で「父」との言葉に込めた意味合いが大きく変わっていることにお気づきでしょう。すでにこの箇所で少年イエスの言う「父」とはヨセフから「父なる神」へと意味が変わり、将来の救い主としての働きの兆しを見てとれます。しかも「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と、わが子の言動に理解できないものも感じ始めています。「メシアの秘密」の目覚めです。そしてその後、はじめて家族はともにナザレへ戻り、少年イエスはナザレに帰り、両親に仕えて暮したとあります。手伝うということではなくて、父なる神の愛を注がれて、凛とした少年は身体としては衰えつつある父と母を、時が満ちるまで支え続けたのでした。母はこの出来事をすべて忘れることはありません。こうして、少年イエスはキリスト・イエスへと成長していくのであります。
本日は元旦です。干支や年始の挨拶など配信動画やリモート中継礼拝ではするべきだったかもしれません。けれども教会のメッセージで肝となるのは『聖書』が何をわたしたちに語っているのかというこの一点です。お正月には家族が集まります。集まるはずです。しかしまた今年もコロナ禍の中で年始を迎え、いるはずの家族の姿が見えない、または久しぶりに集まった家族と食卓をともにしながら、少し年をとったね、少し大人びてきたね、との語らいもあるでしょう。「メシアの秘密」に示される「神の愛の秘密」はみなさまにも賜物として備えられています。新たな年。2023年もまた、わたしたちの交わり、家族の交わり、大切な人との交わり、主にある教会の交わりが、変化や困難の中にあるからこそ耕され、新たな希望の種が蒔かれていくことを祈ります。