2022年12月29日木曜日

2023年1月1日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「父母の保護から自立する少年イエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約聖書 104頁).

讃美=7,121,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 飼い葉桶にお生まれになった人の子イエスはどのような道を経て救い主へと成長するのでしょうか。『マタイによる福音書』では嬰児イエスのいのちを狙うヘロデ王の追っ手から逃れるためエジプトへと急いだ父ヨセフ、母マリアと幼子の姿を描きます。エジプトで家族はヘロデ王の恐怖政治から逃れる難民の姿に身をやつします。いったい家族がどのようにエジプトで歳月を重ねたのか。それは福音書の文言には書かれてはいません。読者にはヘロデ大王が代替わりをし、その息子がユダヤを支配していると聞いて、家族はガリラヤ地方へ引きこもったと記されるだけです。『マタイによる福音書』で父ヨセフの姿はこの記事が記される2章を最後にして舞台から静かに消えていきます。
 他方で本日みなさまが先ほどお聴きになった『ルカによる福音書』では、幼子イエスの家族に実に立ち入った描写をしています。飼い葉桶の嬰児イエスのいのちを狙う者などどこにもおらず、徹頭徹尾祝福された存在として描かれます。それだけではなく、当時のユダヤ人、いや古代ユダヤ教の倣いに両親は実に忠実で、その時代の庶民がエルサレムの神殿に「山鳩一つがい」または「家鳩の雛二羽」の献げものを持参して、授かった幼子を神に献げる象徴とし、過越祭には12年間一度も絶やさずに毎年エルサレムへ旅をし、神殿で祈ったと記します。当時のローマ帝国の倣いに同化してしまった人々もいたはずだろうに、この家族はモーセの誡めに従い続けた様子が記します。
 しかし本日の記事ではこの家族に大きな変化が生じます。イエスが誕生して12年目のこと、祭りの期間が終わって家族が親族ともども帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残る一方でマリアとヨセフはそれに気づきません。おそらくそれまでならば両親が充分注意を払ってナザレとエルサレムの道を往復していたはずなのですが、今回は前代未聞のケース。「少年イエスはエルサレムに残る」と言えば聞こえはいいのですが、要は両親がエルサレムに置き去りにして、さらには一日分の道のりをナザレへとたどり、親類や知人の間を捜しまわったが見つからず、エルサレムに引き返す他なかったのです。息子を捜す夫婦の胸には何が去来したことでしょう。例えば本日の福音書には「良いサマリア人」の譬えが記されています。その中にはエルサレムから名のある街へと道を急ぐ旅人が追い剥ぎに襲われて服をはぎ取られ殴りつけられ、息も絶え絶えにされてしまった姿が描かれます。エルサレムからナザレへの旅とはいえ、12歳の少年の身に何かあったらと気が気ではない様子が夫婦の狼狽から窺えます。
 とはいえ、両親の心配をよそに、三日後に見つけた少年イエスの姿は意外なものでした。神殿の境内で律法学者の真ん中に座り、律法の話に耳を傾け、疑問や質問を投げかけていたのでした。車座と言ってもよいその語らいの場には、話を聞くために立ち止まる人々の姿もあります。少年イエスには父母への思いや過越の祭からの家路への思い煩いはなく、ひらすら『聖書』の解き証しに向けた関心があるのみであった模様です。身柄は学者が保護していたのでしょう。その夢中な姿に「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と母親は言うほかありません。返す少年イエスの答えは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この一文の中で「父」との言葉に込めた意味合いが大きく変わっていることにお気づきでしょう。すでにこの箇所で少年イエスの言う「父」とはヨセフから「父なる神」へと意味が変わり、将来の救い主としての働きの兆しを見てとれます。しかも「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と、わが子の言動に理解できないものも感じ始めています。「メシアの秘密」の目覚めです。そしてその後、はじめて家族はともにナザレへ戻り、少年イエスはナザレに帰り、両親に仕えて暮したとあります。手伝うということではなくて、父なる神の愛を注がれて、凛とした少年は身体としては衰えつつある父と母を、時が満ちるまで支え続けたのでした。母はこの出来事をすべて忘れることはありません。こうして、少年イエスはキリスト・イエスへと成長していくのであります。
 本日は元旦です。干支や年始の挨拶など配信動画やリモート中継礼拝ではするべきだったかもしれません。けれども教会のメッセージで肝となるのは『聖書』が何をわたしたちに語っているのかというこの一点です。お正月には家族が集まります。集まるはずです。しかしまた今年もコロナ禍の中で年始を迎え、いるはずの家族の姿が見えない、または久しぶりに集まった家族と食卓をともにしながら、少し年をとったね、少し大人びてきたね、との語らいもあるでしょう。「メシアの秘密」に示される「神の愛の秘密」はみなさまにも賜物として備えられています。新たな年。2023年もまた、わたしたちの交わり、家族の交わり、大切な人との交わり、主にある教会の交わりが、変化や困難の中にあるからこそ耕され、新たな希望の種が蒔かれていくことを祈ります。

2022年12月21日水曜日

2022年12月25日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ―降誕節第1主日礼拝―

――クリスマス礼拝――

時間:10時30分~
※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。

説教=「あなたの涙をぬぐうイエス・キリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 3~10 節
(新約聖書  6頁).

讃美=111, 112, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 クリスマスにまつわる物語にはさまざまなお話があります。イギリスの作家チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように、守銭奴のような暮しを続けてきた人物がクリスマスの夜に起きた出来事を通して回心する、または北米はオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』では若い夫婦が貧しさの中でせめてもの贈り物を、と夫は自分の懐中時計を売って鼈甲の櫛を、伴侶は長い髪を切り、それを売って懐中時計につけるプラチナの鎖を買い求めるという一見愚かな行き違いが最も賢いわざだとする、しみじみとした感動とともに読者に希望を与える物語が喜ばれます。
 しかし一方でアイルランドの作家オスカー・ワイルドの『幸福の王子様』では両目にサファイア、剣にルビーを帯びた王子の像が貧しさに喘ぐ人の姿に心を痛め、渡りそびれたツバメの助けを得てきらびやかな宝石をすべて贈り物にした挙句、人々から捨てられ、凍えて亡骸となったツバメとともに神に天国へと招かれる物語、デンマークのアンデルセンの『マッチ売りの少女』、イギリスの作家ウィーダの『フランダースの犬』は、凍てつくクリスマスの夜に凍えながらもその貧しさの中で苦闘した生き方を神に祝福されて天に召される少女や少年を描きます。悲劇的な生涯にも必ず神がともにおられるとのメッセージが鐘のように響きます。
 このようにクリスマスをめぐっては実に多彩な物語が編まれるのですが、一体なぜなのかとみなさまとともに思い巡らします。キリストの誕生という出来事は、もちろん嬉しく、喜ばしくはありますが、その出来事は同時に今、このときに涙する人、悲しむ人、凍える人、孤独に苛まれている人、病の床にある人、家族を失った人、明日をも知れぬ不安に苛まれている人にも等しくともにされているに違いないとの確信や祈りと不可分だったからではないでしょうか。
 例えば『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの誕生とともに、王の座を脅かされるとの恐怖に駆られたヘロデ王が、嬰児イエスのいのちを狙って、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を「一人残らず」殺害させたとの記事が記されます。もちろん、権力闘争は常に暴力を伴い王の跡継ぎをめぐるこのような血生臭い事件は枚挙に暇がないといえばその通りなのですが、本当にそれが当然、当たり前であるとの意識に立っていればこの「幼子殺害事件」の記事は掲載されず、少しも顧みられなかったことでしょう。しかし救い主の誕生との関係の中で、権力への妄執とその妄執がもたらす犯罪行為が白日の下にさらされ、幾度も『旧約聖書』の『預言者の書』に記された死者の復活の出来事が反復されます。
 そうであるならば、今朝は『聖書』のテキストを、クリスマス物語の箇所そのものとするよりも、救い主として成長し、群衆とその中から人の子イエスに従う道に招かれた弟子たちに語った、世に言う「山上の垂訓」から解き明かしてみましょう。
「心の貧しい人々は幸いである」。「貧しさ」とは「頼るべきものが何一つない」という状態を示し、最低限の誇らしさや意地さえも失ってしまっている人々だと言われます。そして「悲しむ人々」、「柔和な人々」、世の不条理に憤りを覚えながらも悔しさに震えている「義に飢え渇く人々」、自分の事柄を棚に上げてでも人の痛みに心を寄せる「憐れみ深い人々」、処世の術を知らず世にあれば欺かれてばかりの「心の清い人々」、そして人々からの無理解に晒されても神の平和を待ち望み、規模を問わずその平和を証ししていくところの「平和を実現する人々」、そして神の正しさである義に依り頼んで迫害される人々は、まさしくクリスマスの主であるイエス・キリストに「幸いである」と特別の祝福を授かり、その祝福の中で深く結びつけられてまいります。ヘロデ王に殺害されていった幼子は、十字架のキリストの死と復活にその道を同じくされて、今や神の恵みに満ちた統治のもとでの甦りの時を待っています。イエスが幼子一人ひとりを抱きあげて祝福された箇所に重なります。苦しむ者も悲しむ者も誰も孤独ではないのです。
 嬰児イエス・キリストのもとに招かれた人々は、誰もがみなその時代にあっては「招かれざる客」「招かれざる人々」として遠ざけられていった人々でした。ヘロデ王に対して「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねた東方からの「無礼な」三人の学者、そして「人として扱われなかった」羊飼い。その人々が飼い葉桶のいのちの光によって包まれたのがクリスマスです。礼拝に集う人々は何らかの生きづらさを抱えているとは言われますが、わたしたちもまたその生きづらさを大なり小なり抱えて活かされています。ときに暮しのことでオロオロするあまり、奉仕や祈りを疎かにし、隣人に無関心となるわたしたちです。だからこそ飼い葉桶の主イエス・キリストはわたしたちを幾度も目覚めさせてくださります。そして涙をぬぐってくださります。それがクリスマスの出来事であり、聖日礼拝を通してそそぐ神の愛の力です。期せずして新型コロナ感染症の流行によって在宅礼拝に絞った2022年のクリスマス。気持ちが満たされないと嘆くよりも、飼い葉桶の主イエスの光が照らす人々に祝福を祈りつつ顔を向けてまいりましょう。モニター越しにではありますが、心からクリスマスの訪れをお祝いしたいと願います。

2022年12月24日(土) クリスマスイブ礼拝 説教 (コロナ禍対策により 収録動画によるメッセージの分かち合いのみとなります)

クリスマスイブ礼拝は、

コロナ禍対策により、収録動画によるメッセージの分かち合いのみとなります。

説教=「皇帝にまさる救い主の栄光」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2章1~7節
(新約聖書 102 頁).

讃美=107,109,544,

クリスマスイブ礼拝の説教は、
下記のリンクよりご覧ください。

説教動画は、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「そこで敬愛するテオフィロ様、わたしもすべての事を始めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」という、ローマ帝国の身分の高い役人と思しき人物に宛てて記される『ルカによる福音書』。『新約聖書』に収められた福音書はそれぞれ個性的ですが、具体的な宛先が直接には教会宛ではなくして、ローマ帝国の役人宛であるという点で『ルカによる福音書』は異彩を放っています。とりわけ2章と3章には、その時代のローマ帝国を統治していた皇帝を時代の節目に描き、あたかも日本の和暦と同じような扱いで、誰が皇帝であったのかを明記し、それと関連させて救い主の生涯を描こうとしています。
 それまで議会の話し合いをもって国政を決定していた共和制ローマが、拡大した領土の統治に苦心する一方で、利害をめぐる暗殺などの混乱を押さえ込むために導入したのが皇帝を頭に置くという制度でした。これにより諮問機関による話し合いを皇帝が承認するかどうかという仕方で、皇帝自らが拒否権をもつ一方、緊急時には皇帝の勅令という仕方でローマ帝国が支配する地域全体を動かす権限が与えられ、力ずくでの統治にも道が拓かれることになります。しかし『ルカによる福音書』の関心は、ローマ皇帝が命じた勅命そのものではなく、その命令のもとで右往左往するほかない人々の群れに埋もれる若い夫婦の物語です。ローマ帝国の役人にはこのような物語よりも、整理された「公文書」のほうが分かりやすく要領も得た表記であったかと考えます。しかし福音書の書き手はあえてそのような体裁をとりません。映画のカメラワークに喩えますと、始めはフレームを大きくとります。そして次第にカメラを絞り込み、そして誰にフォーカスを当てるのかと問えば、皇帝でも役人でも総督でもなく、宿屋に泊まる場所がなかったヨセフとマリアです。『ルカによる福音書』は「住民登録」が、地中海を囲む一帯に君臨するローマ帝国には、税金を納める上で実に効率的であり、民衆を支配する上でもより効果的だったとも描きません。また、人々が出身地に戻るために用いた道路が、21世紀でも解明困難な技術を駆使して建設されたことにも関心を向けません。むしろ支配を受け入れざるを得なかった人々が慌てふためき、「勅令」であるということで、住民登録をしない者は国家反逆罪として逮捕される恐怖のもとで、各々の暮しの事情を問わずに帰郷したその混乱を鮮やかに描きます。「各々」という場合、それは従来まで培われた各々の土地で育んだ交わりを捨てて、人々の関係がバラバラにされる中、他人に関心を向けることもなく我先にと旅路をたどっていく様子を偲ばせます。皇帝の勅令は人々の交わりを解体し、恐怖によって虐げていきます。それが「ローマの平和」の本質でした。
 『ルカによる福音書』では、「処女懐胎」に対する古代ユダヤ教との関係以前に、直接的にマリアを脅かす危険をはっきり記します。それは妊婦の長旅です。いつ産気づくか分からない女性をロバに乗せ、そして夫がそのロバを曳くという旅の姿。本来その姿は美化されてはならず危険でまことに異様です。故郷ベツレヘムに到着したマリアとヨセフの長旅を慰労する人の群れもありません。天使ガブリエルから祝福とともに確約された「神にできないことは何一つない」との宣言を受け入れたマリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との返事が映し出したのは、人の眼からすればこのような、何とも危険極まりない道筋でした。
 しかし「宿屋には泊まる場所がなかった」マリアとヨセフが飼い葉桶という誰にも顧みられないところで神の御子を授かることで、この時代には人間扱いされなかった人々に、神の祝福に溢れた交わりが授けられます。主の天使が神の栄光を世に照らし、その光に応えたのは寒風吹きすさぶ夜、羊を守り続けたところの羊飼いでした。姿を現わした天の大軍は一斉に語ります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。栄光はローマ皇帝にではなく神に帰せられ、神の平和は世の波に翻弄されながらも神の導きを忘れない人々に祝福として授けられます。この祝福に招かれるのはマリアとヨセフ、そして羊飼いに始まる無名の人々、そして東から訪れる三人の博士という、その時代のユダヤ教の垣根を越えた人々です。皇帝の計画ではなく、神の御心に適う人に与えられる平和。「神の平和(シャーローム)」。それが飼い葉桶に眠る嬰児イエスによって実現したのです。
 この「喜ばしい知らせ」は困難の中で語り継がれ、書物となり、虐げられた人々に神の希望を伝えるキリストの物語となりました。そして幾度もローマ帝国から残虐な弾圧こそ受けたものの、その弾圧が却ってローマ帝国そのものが抱える問題を露わにし、同時に交わりを広げていきました。そして遂にローマ帝国は教会を公認せずにはおれなくなります。最後に教会を弾圧した皇帝はこう呟いたと言われます。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。飼い葉桶のキリストの栄光は、強引な「ローマの平和」から痛みや弱さを慈しむ「神の平和」へと変えました。それは決して知略によりません。まず神の愛に則して互いに愛し合い、慈しみ合ってもたらされる平和です。この平和が霞みそうになったとき、飼い葉桶のイエスを思い出し、クリスマスの門出を常に喜びましょう。

2022年12月15日木曜日

2022年12月18日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―待降節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 



説教=「おめでとうマリア」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1章 26~38 節
(新約聖書 100 頁).

讃美=Ⅱ 218,102,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 祭司ザカリアと伴侶エリサベトに洗礼者ヨハネの懐妊を伝え、そしてガリラヤの町に暮すマリアを訪ねる天使ガブリエル。天使ガブリエルは『ルカによる福音書』だけに描かれる御使いであり、「クリスマス物語」で驚きに満ちた出来事を記す個々の物語を自由に飛び回っては結びつけていくという特別な役目を担っています。

 しかし天使ガブリエルに出会った人々はことごとく決してあるはずのない出来事に巻き込まれていきます。それは究極的には喜びの光に包まれてまいりますが、その道筋では苦悩したり、祭司ザカリアにあっては、祭司に必要な言葉さえ一旦は奪われたりするという危機にさらします。ザカリアには天使ガブリエルとの出会いは不安に留まらず、恐怖の念に襲われるという背筋の凍るような出来事で、その報せの内容が何であれ、まずは拒絶するほかに道がありません。その一方、今日の暦でいうところの半年後にガブリエルはマリアのもとに現われ「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」と本日の出会いの箇所にあたっても祝福の言葉から始めます。

 天使ガブリエルがどのように描かれるかは、わたしたちはあくまで『聖書』という「書物としての御言葉」を通してその経緯(いきさつ)をたどっていきます。もちろん、この福音書の箇所は物語としても味わえます。しかし『新約聖書』で描かれる登場人物一人ひとりにおきましては、その出会いも祝福もあまりにも一方的で唐突すぎ、ただただ驚くほかないという一面が絶えずついてまわります。しかしザカリアとは異なり、本日の箇所でのマリアは、ガブリエルの言葉に戸惑い「いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ」とあるだけなのです。年齢からすれば今でいうところの中高生の域を出ないはずのマリアは、ガブリエルと正面切って語り合うという点ではザカリアとは異なる肝の太さ、胆力を授けられています。考え込むマリアにガブリエルは語り続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。この「受胎告知」ではイスラエルの民の歴史に基づくメシア理解が言い表されますが、この宣言に対してマリアは実にシンプルかつ重要な問いかけをいたします。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。「わたしは男の人を知らない」という一文が、エリサベトとマリアとの決定的な違いを示すだけでなく、クリスマス物語の最大の謎だと、あらゆる興味本位の詮索を差し引いても言うことができるでしょう。

 ところで、『マタイによる福音書』1章18~19節には「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。これはヨセフが世間体を気にして縁を切ろうとしたのではなくて、その時代のユダヤ教の誡めにあって、マリアは許嫁の身でありながら妊娠してしまったという理由から、他の男性と関わりをももち、その結果死罪を言い渡されて石打の刑に処せられてもおかしくないとの理解があったとされています。『マタイによる福音書』ではヨセフの目線から描かれているといってもよいかもしれませんが、マリアと身ごもった男の子を助けるためには離縁して、身ごもらせた別の男性と一緒になるという道を苦悩しながらも考えるところにその特質があります。しかし『ルカによる福音書』ではそのような苦悩はザカリアが引き受けます。ガブリエルはただただ祝福を告げるだけです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。その点ではガブリエルは徹底しており、マリアも「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と喜びのうちに返事をいたします。そしてガブリエルはマリアのもとを去り、マリアはエリザベトのもとを訪ねていきます。

 天使ガブリエルの祝福は、これまでの倣いというもの、伝統と呼ばれるものを革命的な仕方で新たにするだけでなく、今わたしたちが常識であるとして捕らわれている軛から解き放ちます。とりわけ「処女懐胎」という言葉が陳腐化または荒唐無稽だと見なす考えが当時も今も支配的な中で、この物語は救い主もまた、いのちとは本来は神から宿される、神秘に満ちたものだとの確信を新たにさせます。やがてマリアは夫ヨセフとともに嬰児イエスを抱えてエルサレムの神殿を詣でた折、老いた律法学者のシメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とイエスの十字架での殺害預言を報らされます。それでも後に齢を重ねたマリアは、イエスの復活を二人の御使いから聴き、弟子に伝えるとの役目を新たに授かります。神が授けたいのちの勝利を、わが子の復活から確信するあり方。それがマリアという女性の生涯を貫いています。「お言葉どおりになりますように」と祈る者となりましょう。

2022年12月8日木曜日

2022年12月11日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―待降節第3主日礼拝―


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 



説教=「語ることのできない喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1 章 18 ~ 25 節
(新約聖書 99 頁).

讃美=Ⅱ 112,Ⅱ 119,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  あまりにも突然な出来事に言葉も出ない、というさまがわたしたちにはあります。そうそう滅多には聞かないからこそ、このようにならずにはおれないのですが、あまりの突然の報せに驚き、言葉を失ってしまうとは確かにあり得えます。
しかしイエスの母マリアが天使ガブリエルに御子の身籠もりを伝えられたとき、マリアは驚きながらも天使との語らいを止めませんでした。さらには『マルコによる福音書』7章でイエスが救い主としてのあゆみの中で出会った「耳が聞こえず舌の回らない人を癒す」との物語で癒された人を観ると聴覚と連動して舌が「もつれてしまう」というまことに写実的な仕方でこの奇跡を描いています。まことに深刻な状況がキリストとの出会いの中で突破されるという喜びの出来事です。
  クリスマスの出来事に先んじて描かれるザカリアとエリザベトの物語。ザカリアは祭司職を務め、伴侶のエリザベトは祭司アロンの系譜に繋がる女性であると匂わせます。アロンとは『旧約聖書』の『出エジプト記』で、神にエジプトの奴隷解放を命じられたモーセが「わたしはもともと弁の立つ方でない」と断りを入れた折に、モーセの言葉を奴隷であったイスラエルの民に語り継いだ人物です。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」と本日の『聖書』ではザカリアとエリザベトを見なします。祭司しか入室を赦されないエルサレムの神殿での至聖所の中で香を焚いて祈る中、ザカリアは主の天使ガブリエルに出会います。ガブリエルは「恐れるな。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と、洗礼者ヨハネの誕生が予告されます。しかしザカリアにはこの告知は不安と恐怖であるばかりか受け入れがたいものであり「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、ガブリエルの告知を一旦拒絶してしまいます。このためガブリエルは「あなたは口が聞けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と指摘し、その口が聞けないようにします。
  ザカリアにはこの出来事は喜びの報せどころか、生涯をかけた職責をも左右しかねませんでした。エルサレムの神殿に務める祭司は、神に向けて民の過ちを述べ、祈りを献げなくてはなりません。『聖書』の朗読の際にも民全体に聞こえるようにしなくてはなりません。「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころのない」はずのザカリアは、祭司としての職能を全うできず、またガブリエルと語らうどころか不安と恐怖すら覚えていくという、祭司として大きな破れを抱えていくこととなります。つまり物語としては、ザカリアが生来讃えられてきた「神の前に正しく、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがない」という人々の評判が破られて、初めて洗礼者ヨハネの誕生の喜びの道へと導かれていくのです。
  『ルカによる福音書』で繰り広げられるクリスマス物語では、1章36節にあるように、エリザベトとマリアは親類の間柄、更には洗礼者ヨハネとイエス・キリストも同じ関係として描かれます。そして天使ガブリエルの言葉によれば「不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神のできないことはない」と書き記されます。周囲の人々から「不妊の女性」と言われていた女性が身籠もるという話は、古くは『創世記』のイスラエルの民の先祖アブラハムの妻サライにまで遡りますが、サライの物語と異なるのは、その恵みの知らせを受けて戸惑うのは女性ではなく、男性であるザカリアであるというところ。『創世記』の物語の筋立てが見事に反転します。それだけではありません。「非の打ちどころのない」はずのザカリアは、マリアにイエスの誕生が予告され、マリアがエリザベトを訪ね、御子イエスの宿りを讃美し、そしてヨハネが誕生するまでの間、ずっと祭司職の務めを果たせなくなり、後にイエス・キリストに癒される人々と同じ立場に身を重ねることによって、初めて洗礼者ヨハネを授かり、その喜びをともにするにいたります。喜びを伴う「産みの苦しみ」は、エリザベトだけでなくザカリアもともにするという関係がこの箇所で生じるにいたります。息子である洗礼者ヨハネと同じく、ザカリアもまたキリストの誕生を乞い願う列に連なることとなります。
  人の子イエスは人の眼からすれば準備万端、全てが整えられたとは言えない場所、すなわち飼い葉桶に生まれましたが、そこには人間の破れを癒して余りある神の恵みが輝いていました。本日の『聖書』では、メシアの訪れを告げ知らせる、最後の預言者である洗礼者ヨハネもまた、非の打ち所のないはずのザカリアの破れを徴として世に遣わされてまいります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも神の愛である聖霊の力によって世に生まれました。『ローマの信徒への手紙』8章26節で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださります」と使徒パウロは語ります。三本目のアドベントの蝋燭が灯されようとする今朝、言葉にならざる呻きを祈りに変え、主の降誕の喜びを先取りしたいと願います。

2022年12月1日木曜日

2022年12月4日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー待降節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「クリスマスを待ち望んだ人々」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章 14~21節
(新約聖書 107 頁).

讃美=97,30,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  わたしたちにはアドベント、そしてクリスマスの訪れを待ち望む厳粛さを礼拝に求めがちな一面がありますが、キリスト教がすでに文化として村落共同体の祝祭として定着している欧米諸国の地方におきましては、アドベントからクリスマスの期間とは特別な祝祭の雰囲気に包まれます。いわば里帰りの季節でもあり、久々に家族と再会する機会が増えるというものです。クリスマスは故郷に帰れる、クリスマスまでには戦争は終わるという言葉が映画に登場するのも、そのような倣いあればこそ、と言えるでしょう。クリスマスの団らんと望郷の思いとが、重なってまいります。
  本日の『聖書』の箇所では福音書では稀な「人の子イエスの里帰り」の様子が記されます。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。この箇所では人の子イエスがその時代では敬虔なユダヤ教徒でもあり、安息日を尊んでいたと『ルカによる福音書』の書き手集団は描きます。ローマ帝国という、世界最大の多民族国家を舞台にしながらも、人の子イエスが古代ユダヤ教徒であったとの史実に、書き手は誠実に向き合います。人の子イエスが手にする『聖書』とは、その時代のユダヤ教で尊ばれていた『律法』と『預言者』の書。この中でイエスが選んだのは、『イザヤ書』61章でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。『旧約聖書』の『イザヤ書』61章そのものでは、2節に「主の恵みをお伝えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め」とあるように、圧迫されている人々への報復をも謳うのですが、イエスはこの箇所には立ち入りません。初代教会で共有されていたイエスが救い主であるならば、敵味方に隔てられていた人々の間に和解と平和をもたらすに違いないと、の確信が浮かびあがります。
  実際のところ、ローマ帝国の内政と申しますものは実に巧みでした。軍事力による恫喝ばかりでなく、各民族や部族の中でローマ帝国寄りの政権を打ち立て、そして実際にその暮らしを向上させ、懐柔をはかることで、支配を認めさせてきたところがあります。例えばクリスマス物語で知られる箇所として「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」と『ルカによる福音書』2章にはありますが、これはすでにローマ帝国の交通網が整備されていなければ出し得ない勅令です。現代のコンクリートは劣化しますが、ローマ帝国時代に造られたコンクリートは今でもその強度を保っており、どのような造りであったのか分析しかねるところを考えますと、わたしたちの想像を超えています。
  しかし、先ほどのように会堂で『イザヤ書』を朗読した後に、集う故郷の人々が口々に賞賛の言葉を向けたところで、人の子イエスは心を許さずに「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と語りながら預言者エリヤやエリシャが、その癒しを同胞にではなくシドン地方のやもめやシリア人ナアマンといった虐げられた異邦人に向けていたと告げますと、賞賛していた会堂の人々は突如として憤慨し、総立ちになってイエスを町の外へと追い出し、山の崖にまで連れて行き、突き落とそうとした、と記されます。故郷の人々は突如としてイエスに牙を剥き、充分な手続きもなしに石打の刑に処そうとまで怒り狂います。ガリラヤの諸会堂では皆から尊敬を得ていたのに、であります。
  イエス・キリストの言葉は、時にわたしたちの胸に深く突き刺さるときがあります。とりわけ、教会の交わりがイエス・キリストへの感謝よりもムラ社会的な倣いに流されそうになったとき、とりわけ深々と突き刺さります。しかしその言葉によってわたしたちは新しい目覚めを体験します。それは教会がわたしたちの故郷であると同時に、この場にいるわたしたちが生涯を全うした後でも、キリストを頭とした愛のわざを担い続ける交わりが続く、という事実に由来します。この事実に目覚めていることにより、わたしたちのクリスマス、そしてこのクリスマスを待ち望むアドベントが、血のつながりのない人々、すなわちわたしたちには異邦人であるところの人々にも受け継がれてまいります。『聖書』に則するならば、教会は一般の村落共同体とは似て非なるところであり、連なる方々はイエス・キリスト自らによって絶えず新たにされるところでもあります。クリスマスを待ち望んだのは、誰からも癒されることなく、故郷を失ったところの旅人たちでした。東からやってきた博士たちは明らかに異邦人であり、クリスマスの訪れを真っ先に告げ知らされた羊飼いは、税を納める義務も権利もないという、その時代では「忘れられた」「いないとされていた」人々でもありました。そのような方々をお迎えするのも、クリスマスを待ち望んだ人々との喜びの分かちあいに他なりません。



2022年11月24日木曜日

2022年11月27日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー待降節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「波間ただよう舟を照らす光」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』21 章 25~33 節
(新約聖書 152  頁).

讃美=95,94,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  新型コロナウイルスの型番をめぐってギリシア語のアルファベットを使用し尽くしたら、今度は天文学上の名称をあてはめるとのこと。今のところケンタウルス株、ケルベロス株、グリフォン株といったコードネームが用いられています。ケンタウルスの場合、下半身は馬、上半身は人間。ケルベロスは古代ギリシア神話で理解される冥府(よみ:死後の世界)を守護する番犬で、三つの頭をもち、青銅の声で吠え、竜の尾と蛇のたてがみをもち、冥界から逃げ出そうとする者に襲いかかるとされます。星の名前としては冥王星の衛星につけられていると申します。グリフォンの場合、上半身が猛禽類の鷲、下半身がライオンという出で立ちで、天文学にその名は見られませんが、クリミア半島やポーランド、ドイツの紋章に用いられる怪物とされています。いずれにしても、複数の動物のかたちをかけあわせるという、日本でいうところの「鵼(ぬえ)」のような生き物ですが、おそらくは次々と変異してつかみどころがないという意味でしょうか。概していえばオミクロン株には変わらないとのことです。
  ただこのような恐ろしい怪物の名をウィルスに重ねるのは、お世辞にもよい趣味だとは申せません。新型コロナウイルス感染症が流行してから3年が過ぎ、来年で4年目を迎えようとしています。新しい株のウィルスが発生したのであれば、単に注意をし、相応しい対応をすればよいだけであり、実際にわたしたちの対応の仕方は限られています。こまめに消毒をし、出かける際にはマスクをつけて、人混みには立ち入らず、罹患した場合でも落ち着いて医師の診断を仰ぐほかに道はありません。リモート配信型の礼拝も全国の教会ではずいぶんと普及しました。これに加えてあえて不安をこれでもかと煽るのもいかがなものでしょうか。
  そしてさらに思い起こしてみれば、一年も残りひと月となれば、毎年のように世界規模の戦争をどうするのか、飢餓や疫病にどう処するのか、学生なら卒論をどうするのか、年末の収支をどうするのかとの課題がわたしたちには突きつけられます。だから、世に神の平安と平和をもたらす救い主の誕生を待ち望む待降節が忙しさの中にあっても恋しいのです。本日の『聖書』の箇所は、先ほどお読みした世の終わりの出来事が記されます。どれもこれも世に不安をもたらすとその時代の人々が受けとめた事柄です。「太陽と月と星に徴が現われる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る」と始まるキリストの再臨の箇所。しかし世には荒唐無稽だと映る「キリストの再臨」という言葉は、神の愛による統治の始まりと解放のときを示します。つまり今わたしたちが抱えている日毎の思い悩みに限らず、もっと辛い状況にあるいのちも、単なる苦しみに終わるわけがなく、終わるはずもないとはっきり記されます。この教えにピンとこない弟子もいたのでしょう、続いて人の子イエスが語るのは「いちじくの木のたとえ」、そして「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という、世の混乱が増すほどに輝きを極める、イエス・キリストに示された神の希望です。教会はこれまで幾度もいくたびも、それこそ毎年まいとし、存亡に関わるような危機に置かれました。しかしそのような混乱の中で献げられる祈りが教会の交わりを支え、そして新しくしてきたのも事実です。時代に過剰適応するのではなく、キリストを通して世に関わります。そしてこの関わりの中でわたしたちは、世にあってさまよう者という他人事のような言い方をせず、羅針盤が壊れてしまった舟であっても、人々を安心させる神の愛の光を見出し、またその光を反射させる灯台の光の役割を担っていると、この降誕節に確かめます。先日「ノアの箱舟」の物語に触れる機会を持ちましたが、あの物語でいう箱舟はヘブライ語で「テーバー」と申します。これは男児殺害の勅令のもと、赤ん坊のモーセのいのちを、ナイル川の岸辺で守った籠をも示します。そしてさらには、混乱した世の荒ぶる波の中で人々の逃れの場となる神殿を指し示し、『新約聖書』におきましては、ついには教会の象徴として用いられてまいります。わたしたちが乗り込んでいるこの舟は、確かに誰もが某かの不安を抱えているかもしれませんが、イエス・キリストが世に生まれ給う時がやってくるという出来事が作った流れに乗っています。その確認を通してわたしたちはいのちの光を映し出す役割を、恵みの中で果たしてまいります。具体的にはどのようなあり方でしょうか。
  その証しとして、長野県は千曲川の近くの佐久に暮し、幼き日に罹患した赤痢の後遺症で、首から下が動かなくなり、話すことも困難となりながらも、現在のALS患者さんがコンピューターでそうするように、ご家族のかざす五十音の表で言葉を紡いだ瞬きの詩人・水野源三さんの作品を今朝はご紹介します。『はっきりと分かりました』という作品です。
  「焚き火のあたたかさは 焚き火に手をかざした その時に はっきりと分かりました 焼きいものうまさは 焼きいもを食べたその時に はっきりと分かりました キリストの愛は キリストを信じたその時に はっきりと分かりました」。
古代ギリシア神話の名を借りて迫る不安に、水野さんの詩は優しく温かな光で勝利しています。この光を待降節に仰ぎましょう。

2022年11月18日金曜日

2022年11月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ー聖霊降誕前第5主日礼拝ー

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「実りをもたらす汗と喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』23 章 35 ~ 43 節
(新約聖書 158 頁).

讃美=504,461,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 日本の地に『聖書』の教えが伝道された波は、これまで二度あると言われています。第一にはよく知られている安土・桃山と言われるという時代、とりわけ織田信長という君主の影響が強かった頃には、所謂キリシタンの時代として訪れます。第二の波は「切支丹禁令の高札」撤去の1873(明治6)年に開花するまで、すでに幕末に居留地にいたアメリカンボードがつけた道筋に火が灯され、日本の近代化の波とともに広がります。ところによっては「リバイバル」と呼ばれる、短期間に多くの人々がキリスト教に回心するという出来事も生じ、教会への反発が却って人々の関心をもたらす事態にまでいたります。ただこの「リバイバル」という出来事。社会の混乱や伝統的な常識が破壊された、まことに混沌とした状況を背景にしており、究極的には神のなさることで人の及ぶところではないと感じます。明治以降に関して言えば、1868(明治元)年から1869(明治2)年にいたる戊辰戦争、その戦争の後に本格的に始まる、犠牲に見合わない処遇に対する不平士族の反乱、そして1877(明治10)年の西南戦争にいたるまで、年ごとに社会が揺れに揺れた時代。何が正しいかどうかの基準は、誰が天皇の側に立つかどうかにかかっています。戊辰戦争には官軍だった薩摩は、西南戦争では賊軍になります。会津は戊辰戦争では賊軍になり、西南戦争では官軍になります。市井の人々はこの大地震に揺れながら暮すほかなくなります。強制的に廃藩置県が行われ、武士の権利と暮しの保証が消し去られますと、その都度社会に反抗するほかない人々も生じます。しかし大概は捕縛されて賊徒扱いされ磔刑や梟首に処せられます。この残酷な刑は1870(明治3)年に磔刑が廃止、1879(明治12)年に梟首が廃止されるまで、人々に恐怖と深い心の傷を遺します。処刑された人々の亡骸は埋葬を赦されません。つまり、「いなかった人々」として弔うことすら赦されず、関わる親族すら間接的に処罰されることになるのです。1960年代までその苦しみは続いたとさえ言われています。
 そう考えますと本日の『聖書』の箇所で、十字架刑に処せられたイエス・キリストと二人の犯罪人との会話が描かれている福音書の描写は、劇的であるどころか異様ですらあります。ある者は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみよ」と罵ります。その言葉は議員や兵士の言葉と寸分違うところはありません。しかしもう一人の死刑囚は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」とたしなめた後に、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、人の子イエスの無罪と救い主との関わりを願い求めます。この願いにイエス・キリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園に入る」と宣言します。苦しみを伴う刑罰以上に、この宣言は決して破られることのない喜びの約束でもあったのです。
 ところでイエス・キリストの語った「楽園」という言葉。収穫感謝日礼拝の今朝は概してふたつの解き明かしができるかと考えます。第一には『創世記』にある「天地創造」の物語にある「エデン」。人間が神との約束を破り、その関わりを歪める前に暮していた実り豊かな場所です。主なる神はエデンの地を耕すために人を置かれます。人はエデンの地を、汗を流し整えていきますが、それは決して労苦にはならず、むしろ喜びとなりました。楽園で人間は決してひもじい思いをすることはなかったでしょう。満ち足りていれば人は感謝の念こそあれ、貪ったり争ったりすることなどは考えられません。キリシタンが迫害を耐え抜いたのも、このような「ぱらいぞ」への素朴な憧れがあったからだと指摘する人さえいます。しかしそれだけではまだ不十分にも思います。
  第二には、イエス・キリストが備え給う神の国です。神の愛にあふれるその統治は、全ての死者を新たに復活させ、飢えも悲しみももたらしません。「天地創造」物語では人は死を知りません。主なる神から「善悪の知識の実を食べると死んでしまう」と言われ、不安を覚えたかも知れませんが、恐怖に慄く様子は記されません。しかし、やがて世に訪れる神の国にあっては、人は死の恐怖や苦しみを乗り越えて、祝福と喜びを授かってまいります。常識が何か知らないまま大人が殺害され、感染症や栄養失調でこどもたちが息絶えていった世にあって、同時代に同じ痛みにありながらも、毅然としてイエス・キリストに従う喜びを語った人々の福音の証しは、喜びの実りとなって今もなおわたしたちを励まし続けます。神の言葉の伝道は、その証しにつながり、後々には様々なキリスト教主義に立つ社会福祉・社会事業・教育のわざをもたらしてまいりました。わたしたちは永眠者記念礼拝、先週は幼児祝福式礼拝を献げました。集った人々の数を第一にではなく、こどもたちの笑顔、保護者の方々の笑顔、そして教会に寄せられた深い信頼にわたしたちはまず関心を寄せましょう。『マタイによる福音書』9章37節には「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に感謝しなさい」とあります。世が乱れるほど教会は救いの場所、そして交わりとして用いられます。そのために献げられる汗は尊いものです。教会の奉仕と交わりを深く信頼し、祈り求めましょう。

2022年11月10日木曜日

2022年11月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー聖霊降降誕節前第6主日礼拝ー

――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「天使たちの語らい」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』20 章 27 ~ 40 節
(新約 150 頁).

讃美=312,467,465(1.3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
  讃美歌の好みは人夫々かもしれませんが、わたしの推しは青表紙の『こどもさんびか』。童謡の「ぞうさん」で知られる阪田寛夫、「仮面ライダー」を始めとした今にも続くこどもたちのヒーローの歌を作曲した子門真人、世界的な指揮者である小澤征爾のクラスメートであり、数々のCMヒットソングを作った山本直純、といった方々が曲や詩を寄せているというだけでなく、妙に今の時代に媚びようとせず、ともすれば難しい解説が必要な『聖書』の箇所を実にシンプルに、こどもだけでなく学生や大人にも分かりやすく歌いあげているのがその理由です。例えば青表紙の讃美歌の5番ですが「かみさまは そのひとりごを よのなかにくださったほど よのひとを あいされました かみのこを しんじるものが あたらしい いのちをうけて いつまでも いきるためです」。『ヨハネによる福音書』3章16節を、これほどまでに簡素に、そして誰の耳にも残るようなやさしいメロディーラインで歌いあげた讃美歌はほかにないのではないかと思うほどです。これほどまでに簡素であれば、何歳になっても、どのようなライフステージを迎えても、困難に直面しても、病床にあっても、または生涯を全うするところの臨終の場にあっても、「ああ、神さまはいつもそばにいてくださるのだな」と想えるというものです。キリストを通した神との出会いが、過ぎ去っていく過去のものではなく、いわんや洗礼を授かったという出来事が、若いころの麻疹のようないっときの熱情のようなものでもなく、世の事々に左右されず、どこかでじんわりと続いていくような思いがいたします。
 それに較べますと、本日の『聖書』の箇所でサドカイ派と呼ばれた人々が人の子イエスに問いかける問答と申しますのは、人の一生を話題にする割には少しばかり軽い印象を受けます。確かにサドカイ派が用いている『聖書』が『創世記』から『申命記』に限られます。そしてそこでは復活の出来事が直接語られることなく、主要人物もことごとく埋葬されていく仕方で物語が節目を迎えます。それにしても、「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女性を妻にしましたが、七人とも同じようにこどもを遺さないで死にました。最後にその女性も死にました。すると復活の時、その女性は誰の妻となるのでしょうか。七人ともその女性を妻にしたのです」。この箇所で描かれるサドカイ派の器の小ささは、子を授かることなく伴侶と死に別れた女性の悲しみを一顧だにせず、ひたすらその相続ばかりに関心を寄せているところにあります。このような結婚のしきたりは当時の財産を守るために編み出された倣いでもありますが、七人の兄弟の間をたらい回しにされた挙句、子を遺すことなく召されていく女性の痛みといったもの、寂しさといったものに、あまりにも無頓着に過ぎます。
 対してイエスは次のように答えます。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。この答えに、サドカイ派とは異なり、死者の復活を確信する律法学者は賛成いたします。
 ところで、イエス・キリストの語る「生きている者」とは誰を指すのでしょうか。単に今の世にあってこの場に招かれている者、あるいは今、鼻で息をしている者だけを指すのでしょうか。それは断じて違います。過ぎた週の永眠者記念礼拝で確かめたように、わたしたちからすれば天に召された者だと見なされる人々も、いのちの新しい舞台に立つものとして「生きているもの」とされます。そして、このような大人の論争からはほど遠い、こどもたちもまた、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神とともに活かされている者として、遣わされた親御さんやその役を担う人々によって活かされています。いのちとはできるものでもつくるものもなく、わたしたちは授かるものだと心得ています。幼い子が感染症で倒れていく、逆縁が日常であった時代に限らず、いずれはわたしたちの生活の場から羽ばたいていくいのちとして、イエス・キリストは言われます。「『こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。そして、こどもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と『マルコによる福音書』にあります。幼児祝福式は、こどもたちだけでなく、育む方々のありかた、支える方々全てを祝福し、その祝福の中で主なる神の問いかけを真摯に受けとめていく場でもあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」。イエス・キリストの導きに従い、『聖書』を通して、天使たちの語らいに耳を傾けてみましょう。この子たちのためにわたしたちは活かされています。

2022年11月3日木曜日

2022年11月6日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー聖霊降誕節前第7主日礼拝ー

――永眠者記念礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「神に祝福された家族とともに」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』3章1~6節 
(新約聖書105ページ).

讃美=520,496,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『新約聖書』には福音書が四部編み込まれていますが、内容の展開のよく似た三部を、人の子イエスへの理解に共通するところあり、との理由で「共観福音書」と呼んでおります。最も初期に記され、分量としては最も短いのは『マルコによる福音書』、それから人の子イエスの生きざまと教えが『旧約聖書』に記された救い主の訪れの完成だとことのほか強調するのが『マタイによる福音書』、ローマ帝国という有史以来今日にいたるまで最大の規模を誇る国家の力に勝る救い主の訪れの喜びを、キリストの復活の出来事の後に続く教会の働きとともに記したのが『ルカによる福音書』です。当然ながらいずれの福音書にいたしましても書き手の集団となった初代教会の人々は今、天に召されています。
 今朝の箇所はイエス誕生の物語、クリスマス物語の後にいよいよイエスの救い主としての働きが始まるその導入にあたる箇所という見方もできます。そこにはその時代の実に多くの権力者の名前が連ねられています。「皇帝ティベリウス」とはローマ帝国2代目の皇帝、「ガリラヤの領主ヘロデとその系譜に連なる者」とは救い主の訪れを恐れるあまりイエス誕生の地で二歳以下の男の子を虐殺したヘロデ大王の息子」、そして「大祭司アンナスとカイアファ」とはイエスの時代の古代ユダヤ教にあって、エルサレムの神殿でユダヤ社会では最高権力の立場にあった者です。興味深いことには、皇帝ティベリウスを始めとしてその名が連ねられる人々は、ことごとくイエス・キリストの生涯に、まさしく苦難そのものをもたらした人々です。ということは、人の子イエスが交わりを深めて癒し、神の愛の喜びに包んだ人々を、その癒しに先だっての苦しみのどん底に追いやった人々でもあると言えましょう。
 福音書におきましては、しばしば「群衆」という言葉が用いられます。この「群衆」という言葉は、これらの権力者とは全く異なる暮しの次元に置かれた人々です。雨が降れば雨漏りのするあばら家に暮し、病が流行ればそれが病とも分からず悪霊にとり憑かれたと思い斃れていく、決して記録文章や公文書には名を残さない人々として姿を消していく人々です。何も悪いことはしていないとは言いながらも草生す屍となっていった人々も多かったのではないでしょうか。
 確かに人が書き記すという意味での歴史におきましては、このような無名の民の姿はやがて忘れ去れていくことになるでしょう。しかし神の前に書き記された救い主の物語としての福音書にあっては、イエス・キリストとの深い関係の中で癒され、祝福された人々として描かれてまいります。その物語そのものが、いわばキリストと出会い、神の恵みの風に吹かれてあゆむ人々の群像としての性格をも帯びてまいります。それは本日の『聖書』の箇所の冒頭で記された、名を刻まれた権力者たちに優る人々です。
 本日は永眠者記念礼拝です。わたしたちの目の前には天に召された兄弟姉妹を偲ぶ写真が並べられています。もちろん、わたしたち自らも含めて、この世にあってその名前が数千年にわたって語り継がれるかと問われれば、世にあるわたしたちとしては沈黙するほかはありません。しかし神はわたしたちが世にあって生涯を全うした、生きたという事実を決して消えることのないこの世界という書物に掘り刻まれます。『聖書』の世界では「書く」とはまさに「彫り刻む」ということを意味していたからです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』。ナザレのイエスの登場に先駆けて現われた洗礼者ヨハネのこの言葉は、わたしたちが滅びに向かう存在ではなく、キリストの復活という出来事の中で、「死ぬ」のではなくて「生きた」といういのちの輝きのもとに生涯が振り返られることを示しているとも受けとめられます。谷に行く手を閉ざされた道、山々を汗だくになって登るほかないという道、あるいはそびえ立つ山々に行く手を遮られるという道、どこへと行着くのか分からない曲がりくねった道、そして力の弱い者から置き去りにされていくでこぼこの道。世を生き抜かれ、天に召された方々が当事者として記憶しているその経験は、わたしたちには懸命に想像力を働かせて追体験はできても、決してそのものとして分かるところではありません。どんな歴史書を調べても、資料を調査しても無理なことです。しかし神自らはそのあゆみを全てご存じであり、人、そしていのちが滅びにいたる存在から、絶えずわたしたちとともにいて、生きていたというその事実を発信し続けるのです。そのメッセージには地上にあるところのあらゆる権力でさえ敵うところではありません。
 週ごとの礼拝で、わたしたちは「主の祈り」という祈りを献げています。日本には1880年に翻訳されて以来、用いられている祈りの言葉です。わたしたちはイエス・キリストが教えてくださった祈りによって、召された方々との交わりを今も愉しむことができるのです。教会の交わりの中で献げられる祈り。世にあって招かれたわたしたちだけではなく、今その身体は眠りについてはいるものの、神自らのもとで豊かに祝福されている兄弟姉妹たちとの、キリストを通した喜ばしい語らいでもあるのです。

2022年10月27日木曜日

2022年10月30日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降誕節前第8主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「その人の輝きはどこから来るのか」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11章37~44節
(新約聖書130ページ)

讃美=344,Ⅱ.167(1~4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 林竹治郎という画家がいます。「朝の祈り」という名画で知られています。丸いちゃぶ台を囲んで、母親と四人のこどもが祈っているという情景。日露戦争の最中に描かれたこの作品には、壁に軍刀と軍服姿の肖像画が書き込まれているところから、林自らの家庭を土台にしながらも、その時代の人々の思いを、『聖書』を囲み祈る家族の姿へと凝縮させたところに大きな評価を授かり、今も北海道立美術館に展示されています。キリスト者の家庭と申しますと、このようなイメージを彷彿とされる方々も多いのではないでしょうか。帰らぬ家族を待ちわびながら、清貧の中で『聖書』を囲み、祈りを献げ、家族にはとりたてて争いもなく、日曜日には礼拝で祈りを重ね、訪れる人々に笑顔で向き合うという具合です。なるほどわたしたちのモデルとなる絵画のイメージではありますが、どのようなイメージであれ、わたしたちが特定のイメージに過分に縛られますと、日々の暮らしが喜びよりも窮屈なものに感じるようになる場合もあります。イメージとしてのキリスト教はその時代その時代によって変わりますが、『聖書』の言葉は変わりませんから、信仰生活に行き詰まりを感じるのであれば今一度『聖書』に立ち帰るのが肝になってまいります。
 本日の『聖書』の箇所では、人の子イエスがファリサイ派の人から食事の招待を受けた、とあります。ファリサイ派にも人の子イエスの教えや行いに関心を抱く人々は少なからずおりました。しかしあろうことか、その宴席で人の子イエスとファリサイ派の決定的な違いが明らかになってまいります。それは、ファリサイ派の倣いに従って、人の子イエスが戒律に従って食前に身を清めなかったところから始まります。よく似た記事は『マルコによる福音書』7章1~4節にもあります。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを堅く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めていないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが沢山ある」。今朝の箇所では弟子ではなく人の子イエス自らがこの倣いに従わなかったということで不審を抱かれることとなります。もはや問題は単なる衛生面に関する事柄でも「昔の人の言い伝え」を守るかどうかという事柄でもありません。ファリサイ派の抱くイメージにそぐわなかったイエス・キリストの立ち振る舞いそのものにありました。本来ならば人の子イエスと語らう食卓の交わりが不審の念によって切り裂かれてしまうのです。すなわち「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。杯や皿の外側は目に見えますが、人の内側と申しますものは目には見えません。この見えないところへの配慮が疎かになっているとイエス・キリストは指摘します。
 さらにイエスの指摘は続きます。「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛は疎かにしている」。人の子イエスの指摘は、ファリサイ派の内面の問題から徐々に内面に由来するところのわざへと及んでまいります。先ほどの箇所でも「ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とありました。これが当時のユダヤ教における十分の一献金も含めた「尊ぶべきは正義の実行と神への愛」と次第にその輪郭がはっきりしてまいります。そして遂には「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」と身についた習慣までに指摘が及びます。パウロが『コリントの信徒への手紙Ⅱ』4章18節で記した「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」との言葉には、実はイエス・キリストによる、絶えず歪みを抱えるところのわたしたちへの誡めの言葉が含まれます。これは忘れてはいけないでしょう。今朝の礼拝でひとつの言葉に凝縮するならば「キリストの恵みに応える柔軟さを大切にする」とも言えます。わたしたちは倣いに硬直いたしますと、責任と良識を伴うその倣いへの批判や時代の流れに目をつむり、耳を塞ぎ、何も言わず、ただ黙認しようとします。教会の伝道というものがうまくいかないとの言葉をあちこちで耳にしますが、それは教会各々のもつ賜物が、教会そのものの硬直した倣いの中で存分に生かしきれていないという場合が殆どです。実にもったいないことです。齢を重ねようと、現在、ご家族に何らかの課題があろうと、主なる神の眼差しから見た場合、必ずどこかにキラリと輝く尊さが見いだせるはずです。その尊さにこそ、神が優しく祝福を授けてくださっています。「世の中は変わってしまった」と溜息をつく時が多くなっています。前向きに「変わった」のではなく「変わってしまった」と呟きます。だからこそ主なる神に油を注いでいただき、凝り固まった魂を輝かせていただいているとの確信に立ちたく願います。



2022年10月20日木曜日

2022年10月23日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)※当日の礼拝中継視聴用リンクを掲載しています。

  ー降誕節前第9主日礼拝 ー

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

メッセージ=福井生(いくる)先生
主題=「この世界に立つということ」

聖書=コリントの信徒への手紙Ⅱ 
   4章16~18節
  (新約聖書329ページ).

讃美=536,531,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
(礼拝終了後も、中継動画をご視聴頂けます)

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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2022年10月13日木曜日

2022年10月16日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第20主日礼拝 ー
―長寿感謝の日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「こころからしあわせになるために」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章1~12節 
(新約聖書6頁).

讃美=333,536,512(1),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「一度退任した教会とは決して関わってはならない」と、伝道師として仕えた教会の牧師からわたしは徹底的に叩き込まれました。それは新任の牧師と教会の新しい展開を妨げる大きな原因になるとの理由。至極尤もだと今でも思っています。ただしそれが同じ地区の教会に留まらず、当該教会の牧師から婚約式を依頼されるとなると話は難しくなってまいります。配慮しながらではありますがひっそりと関わりを続けることにより、わたしたちにリモート礼拝の技術を教えてくれたのはその牧師です。そうしたわけで先週の聖日礼拝後、退任してから20年ぶりにその教会を訪問しました。青年牧師と、近い将来に伴侶となるフィアンセの仲睦まじい雰囲気、雰囲気、そして教会員を始めとして集まった会衆の喜びにしみじみするとともに、20年の時の流れの厳粛さを、つくづく噛みしめました。婚約式の後に「先生、あのときは教会員だけで礼拝堂を建てて、借入金返済も含めてみんな余裕がなかった。悪いことを言ったなあ」と握手を求められたり、当時激しく叱咤を受けた方からは涙ながらに握手を求められたりと、こちらも情に流されないよう堪えながら対応しました。そのときには分からなくても、歳月を重ねることで体感的に分かるところ多く、こちらも年相応にしっかりしなくてはと思いながらその場を後にいたしました。
 本日の『聖書』の記事は、イエスが群衆にも聞こえるような仕方で弟子に語った、俗に「山上の垂訓」と呼ばれる箇所です。おそらく教会と関わらない人であってもご存じの方は多いのではないでしょうか。なぜなら、その教えの内容は、世にあって説得力をもつ、目標として設定する幸せとは一見すると大きくかけ離れているからです。なぜ世にあって欺かれていくような心の貧しい人々が幸いなのか。なぜ悲しむ人々が幸いなのか。なぜ暴力に痛めつけられるようなありようの柔和な人々が幸いなのか、不正の中に立つところの、義に飢え渇く人々が幸いなのか、虐げられた人々に思いを寄せる憐れみ深い人々が、人々を搾取し世には力強く振る舞っているかのように思える人々よりも幸いなのか、争いの中で豊かさを勝ちとる人々よりも平和を実現する人々のほうが幸いなのか、筋道を通そうとすることによって却って虐げられる人々のほうが幸いなのか、イエス・キリストと関わったばかりに罵倒され、泥水を啜るような極貧の暮しを選ぶほかない人々が幸いなのか、確かに言葉としては分かりやすく、翻訳もそれほど難しくはないことでしょうが、それにしても、世にあってもてはやされる幸せと人の子イエスが説いた幸せとはなぜこうも食い違うのでしょうか。明治以降、日本で『聖書』が読まれるようになってからの永遠の問いとなっています。
 少なくとも山上の垂訓で重要なのは、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」「キリストのゆえに迫害される人々」が、「幸いである」とイエス・キリストの祝福を授けられているというところです。人が自力で追い求めていく「幸せの青い鳥」はかのおとぎ話にあるとおり、決して人の手の届くことはありません。そのときそのときの時代や雰囲気に大きく左右されてまいります。「かの時代にはそうであったけれども今では幸せの尺度ではない」という事態が大いにあり得るのです。人が追い求めていく幸せとはかくも脆いものです。けれどもキリストに祝福されたからといって、この貧しさに、悲しみに暮れることに甘んじていて良いのだろうかとの声には、『ヨハネによる福音書』16章20節の「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」が応えます。まことに力強い宣言です。「山上の垂訓」でイエス・キリストに祝福された人々は、弟子だけではなく、その声を聴いている名もなき民であるところの群衆も含んでいます。弟子もまたこのような群れから招かれた人々です。その祝福は、わたしたち個々人、一人ひとりにバラバラに所有されるものではなくて、当事者にさえ気づかない、まさしく授かりものの豊かな交わりを育んでまいります。たとえ貧困の中にあろうとも、戦争の中にあろうとも、「健やかなとき」よりも「病めるとき」のほうが長いものだと家庭での生活に溜息をつくことがあったとしても、大切な人を天に見送るようなことがあったとしても、キリストによる祝福は時を重ねる毎に、祝福を授かった人々に深く根を張ってまいります。
 本日は長寿感謝の日礼拝です。齢を重ねた人の言葉がいつも正しいとは限りません。なぜなら人間はいつまでも破れを負うからです。しかし齢を重ねた方々の特権があるとするならば、時を重ねれば必ず分かることがあるとの言葉を、誰よりも深くその身に刻んでおられることだと『聖書』は語ります。後に続く者であるところの人々にもやがては、長期記憶のみが残り、最近の事々はよく忘れてしまう身体になることでしょう。しかしその人が世にある限りいつまでも残る記憶の中に讃美があり、『聖書』があり、祈りがあるとするならば、これほどの幸せはないといえるのではないでしょうか。人がこころから幸せになるために欠かせないのはイエス・キリストとの深い関わり。その関わりは地下水脈のように潤いを湛えています。その喜びを伝えてまいりましょう。

2022年10月6日木曜日

2022年10月9日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第19主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「それはわたしのことですか」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章26~31節
(新約聖書92頁).

讃美=298,3,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 SNSを用いて礼拝を中継したり、メッセージ動画を配信したりするという試み。コロナ禍の三年間、当初は「リモートワーク」という言葉の意味すらも分からなかったわたしたちでさえ、今やそれが日常化し、事務レベルの会議であれば、わざわざ出張するまでもなくモニター越しに意見を交換できるようになりました。コロナ禍により対面式のコミュニケーションが憚られる一方で、物理的な距離を問わないコミュニケーション技術が加速度的に発達してまいります。その結果、顔と顔を合わせての対話でさえ、偽名を用いたり、画像を加工したりすることも可能となりました。媒体となるネットワークによっては匿名で投稿できるものも出てきます。匿名での誹謗中傷が、人を病に陥らせるだけでなく、自死へと追い込むという社会問題も起きています。匿名となったとき、責任を問われなくなったとき、人はこうまでも粗暴になれるものかと、コミュニケーション技術が発達するほど荒む人心に肩を落とす時もあります。言葉の重さが問われなくなり、言葉が上滑りし、相手がどのように受けとめているのか気にならなくなるときほど、その言葉は暴力的にさえ響きます。当事者性を欠いた言葉ほど恐ろしいものはありません。
 ところで、神の言葉に聴き従うはずの教会でさえ例外ではありません。神を見失ったときには、その言葉が上滑りし、交わりが混乱するという事態が幾度も生じました。本日の箇所で人の子イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずく」と、讃美の調べの後に唐突に弟子たちに語ります。「あなたがたはわたしにつまずく」ではなく「あなたがたは皆わたしにつまずく」、つまり「つまずき」はすでに弟子全員にわたる確定条項なのだと言わんばかりの言葉です。イエスのこの語りかけは『旧約聖書』に基づいており、続く言葉には「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」との、希望に満ちた復活の出来事によって拓かれた道が示されています。けれどもその折、弟子を代表するはずのペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と抗弁します。ペトロの抗弁は次の点で問題です。則ち、「たとえ、みんながつまずいても」というところ。他の仲間はさておき、というところで、すでにペトロの高慢さが顕われています。そしてこれまでペトロがつき従ってきたイエスは、ペトロには神なしに受け入れられた、単なる人としてイエスであり、たとえイエスをメシアだと告白したところで、その告白は大きく的を外していたところです。そしてさらに力を込めて言うには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。ペトロは悪気があってこのように口走ったわけではなかったでしょう。むしろ、讃美の後でありながら、常々慕っている師匠でもあるイエスから出た言葉の真意が分からず、憤慨してつい出た言葉であったのかも知れません。しかし、この言葉が呼び水になって「皆の者も同じように言った」とあるように、一二弟子の交わりが解体されていくのです。
 悪意ではない。しかし交わりに分断を招く言葉。ペトロは自分の言葉が、他の弟子との関係を切り裂いている事実に気づきません。傷つけていることに無頓着です。これは時としてわたしたちにも重なります。ペトロが義しさを過剰に主張するほどに「羊は散ってしまう」という言葉を期せずして実現しているのです。「自分は義しい」とは反転すれば「他の人は間違っている」となります。それは心外ですから、他の弟子も同じように「自分の義しさ」を主張するところとなります。
  そのようなペトロに、イエスは語りかけます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」。ペトロは何を言われているのか分からないまま、事態は移ろっていきます。イエス・キリストの言葉が何を示しているのか、そして自分の言葉がどれほど当事者性を欠いた、「それはわたしのことですか」と言わんばかりの響きしか持ち得なかったか。ゲツセマネでイエスが苦しみの中で祈っているときに眠りこけるだけでなく、祭司長や律法学者、煽られ武装した群衆がイエスの身柄を拘束したときに、弟子は皆逃亡するという醜態。そして人の子イエスが不当な裁判を受けているとき、怖々とイエスの後をたどりながら、大祭司の屋敷の中庭で火に当たりつつ、女中に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と問われ、「分からない」と答える。鶏の声が響く中で「この人は、あの人の仲間だ」と言いふらされるのを怖れて「違う」と打ち消す。そして「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だからだ」と指摘され、呪いの言葉さえ発しながら「知らない」と恐怖に駆られて叫ぶ。その時々に口にした言葉に明らかです。「それはあなたのことなのです」。もはやペトロの逃げ場はありません。誰よりもペトロ自らが、わだかまりとともに胸に刻むほかなかったイエス・キリストの言葉どおりになってしまったと気づき、泣き出すところではっきりしました。自分のほうから投げかけたイエス・キリストとの関わりを、恐怖の中で呪い、裏切った結果、とめどもなく流れる涙の中でペトロはイエス・キリストの出来事の当事者となりました。『聖書』の言葉の当事者としてあゆむとき、たとえ涙の中でもその道は「神の愛を証しする道」となります。その道はキリストの慰めと復活の光に包まれています。

2022年9月29日木曜日

2022年10月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第18主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「あなたのために食卓を備えるキリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章10~21節
(新約聖書91頁)

讃美=517,392(1,2,4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
 火山の噴火に伴う火砕流で、紀元79年に一気に滅んだポンペイ。この町の滅亡はあまりも急であったこと、そして火砕流や溶岩、軽石の特性から、『新約聖書』の舞台となったローマの町の人々の暮らしの痕跡が、今も生々しく残っています。そこには当時の宿屋や洗面所、居酒屋や今でいうところの宴席となる大広間まで鮮やかなモザイク画とともに残っています。発見されたレシピによると、食前には消化を助けるためのムルスム(蜂蜜入りワイン)、大地の糧として穀類、豆、野菜、果実、火の糧として祭壇の肉、肉屋の肉、狩猟の獲物、風の糧として鳥類、鳥の卵、水の糧として魚や甲殻類が出されたと申します。ローマの市民権をさえあれば、庶民でさえも平たいパンや、大麦やエン麦を炊いて、塩やオリーブ油、魚醤で味付けしたオートミール、豚や魚、鳥のゆで肉やハム、ソーセージを当たり前に食べられました。奴隷はこの中には入りませんが、現代のわたしたちの暮らし向きからしても、かなりしっかりした食事を摂っていたと言えます。宴と言えば別段貴族でなくても珍味やお酒が振る舞われたことでしょう。

 そう考えますと、ユダヤ教の「過越の祭」で人々がともにする食事は、極端なまでに質素です。小羊のすねの骨か鶏の脚の骨をカラカラになるまで焼いたもの、苦菜と呼ばれる西洋わさびの葉、苦菜を浸して食べる塩水、デーツとクルミ、レモン汁と粗挽きのナツメグ、肉桂を混ぜて焼いたもの(甘味)、小羊(ゆで卵でも代用可)、野菜、そして種なしパンと赤ワイン。これが概して過越の祭では食せられます。どの食材にも象徴的な意味がありますが、おそらく当時の舌の肥えたローマ市民であれば、祝祭にまでこのような無味乾燥な食事をともにしなくてはならなかったのか理解できなかったことでしょう。祭りといえばご馳走を食べるのが人情ですが、現代のユダヤ教、そして人の子イエスの古代ユダヤ教の世界ではなおのこと方向性が全く異なっていて、自分たちの先祖がかつてどこにいたのか、その苦境を思い出すために食卓を囲むのです。エジプトでの奴隷の暮らしと、その暮らしからの解放を思い出すための食卓です。「臥薪嘗胆」という言葉があります。人生の辛い時期を忘れないために薪を並べたところに横たわり、苦みに満ちた動物の干した肝を舐めるというわざを示します。これは中国の故事から生まれたところの、侮辱的扱いに遭ったことを忘れないための格言で、神によって奴隷の暮らしから解放された喜びと艱難を思い出す態度とは明らかに異なります。

 そのような、富の格差を超えてまで行われる過越の祭の食卓に、人の子イエスを権力者に引き渡そうとするイスカリオテのユダの眼が光ります。過越の食卓をどのように整えたらよいのか、どうすればよいのか分からないといった他の弟子とは全く対照的な態度です。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい」。無名の男性に従うことで、弟子は解放の出来事を祝う宴を設けることができました。おそらくは一二人の弟子以外の名もない弟子、そしてイエスをメシアであると受け入れた人々がいた様子が偲ばれます。しかし食卓の席で、一二人の弟子も、備えを整えた人々も絶句するような言葉を人の子イエスから聴くこととなります。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。その後弟子の「まさかわたしのことでは」と混乱する様子、パニックに陥る様子が描かれます。実に人間臭い描写です。誰もがキリストとの関わりの中で、自らのあり方に確信が持てていない証拠です。「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな」ではなくて、何を食べていても、何を着ていても、この確信のなさを隠し通せる術がないのです。この箇所で弟子の覚悟の不確かさが明るみに出ました。そして次には「一二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と、まことに激しい言葉を語ります。この箇所からわたしたちは何を聞き取ろうというのでしょうか。

 わたしたちはこの箇所で群れなす心の闇や惑いにばかり心を奪われているようです。実はイエス・キリストはこの箇所で、弟子各々の心に完結した、「思い」としての信仰の不確かさを露見させました。そしてイスカリオテのユダの謀すらも無力にしてしまっているのです。「裏切り」とは裏切られるはずの者に気づかれない限りにおいて、はじめて決定的になります。始めから裏切りが分かれば裏切りは意味をなさないのです。だからイエス・キリストにはもはやユダがどのような表情をしていたとしても、ともに鉢に食べ物を浸すという至近距離にいたとしても、その裏切りは無意味です。キリストの前に隠し事をするなどという態度は人間には無理なのです。それだけ神の恵みの力は圧倒的なのです。だからわたしたちは安心してキリストが備える食卓に連なるのです。

 理不尽な苦しみや傷みを知りながら、もっとましなことができやしないかと悔しさを噛みしめるわたしたちに、イエス・キリストは自ら備えた食卓で「話しを聴こうじゃないか」と語りかけます。コロナ禍のピークアウトの後に見えてくるさまざまな課題以上に、神はわたしたちの重荷を見抜いています。だからこそキリストが世に遣わされ、重荷をともに担ってくださるのです。