クリスマスイブ礼拝は、
コロナ禍対策により、収録動画によるメッセージの分かち合いのみとなります。説教=「皇帝にまさる救い主の栄光」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』2章1~7節
(新約聖書 102 頁).
讃美=107,109,544,
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【説教要旨】
「そこで敬愛するテオフィロ様、わたしもすべての事を始めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」という、ローマ帝国の身分の高い役人と思しき人物に宛てて記される『ルカによる福音書』。『新約聖書』に収められた福音書はそれぞれ個性的ですが、具体的な宛先が直接には教会宛ではなくして、ローマ帝国の役人宛であるという点で『ルカによる福音書』は異彩を放っています。とりわけ2章と3章には、その時代のローマ帝国を統治していた皇帝を時代の節目に描き、あたかも日本の和暦と同じような扱いで、誰が皇帝であったのかを明記し、それと関連させて救い主の生涯を描こうとしています。
それまで議会の話し合いをもって国政を決定していた共和制ローマが、拡大した領土の統治に苦心する一方で、利害をめぐる暗殺などの混乱を押さえ込むために導入したのが皇帝を頭に置くという制度でした。これにより諮問機関による話し合いを皇帝が承認するかどうかという仕方で、皇帝自らが拒否権をもつ一方、緊急時には皇帝の勅令という仕方でローマ帝国が支配する地域全体を動かす権限が与えられ、力ずくでの統治にも道が拓かれることになります。しかし『ルカによる福音書』の関心は、ローマ皇帝が命じた勅命そのものではなく、その命令のもとで右往左往するほかない人々の群れに埋もれる若い夫婦の物語です。ローマ帝国の役人にはこのような物語よりも、整理された「公文書」のほうが分かりやすく要領も得た表記であったかと考えます。しかし福音書の書き手はあえてそのような体裁をとりません。映画のカメラワークに喩えますと、始めはフレームを大きくとります。そして次第にカメラを絞り込み、そして誰にフォーカスを当てるのかと問えば、皇帝でも役人でも総督でもなく、宿屋に泊まる場所がなかったヨセフとマリアです。『ルカによる福音書』は「住民登録」が、地中海を囲む一帯に君臨するローマ帝国には、税金を納める上で実に効率的であり、民衆を支配する上でもより効果的だったとも描きません。また、人々が出身地に戻るために用いた道路が、21世紀でも解明困難な技術を駆使して建設されたことにも関心を向けません。むしろ支配を受け入れざるを得なかった人々が慌てふためき、「勅令」であるということで、住民登録をしない者は国家反逆罪として逮捕される恐怖のもとで、各々の暮しの事情を問わずに帰郷したその混乱を鮮やかに描きます。「各々」という場合、それは従来まで培われた各々の土地で育んだ交わりを捨てて、人々の関係がバラバラにされる中、他人に関心を向けることもなく我先にと旅路をたどっていく様子を偲ばせます。皇帝の勅令は人々の交わりを解体し、恐怖によって虐げていきます。それが「ローマの平和」の本質でした。
『ルカによる福音書』では、「処女懐胎」に対する古代ユダヤ教との関係以前に、直接的にマリアを脅かす危険をはっきり記します。それは妊婦の長旅です。いつ産気づくか分からない女性をロバに乗せ、そして夫がそのロバを曳くという旅の姿。本来その姿は美化されてはならず危険でまことに異様です。故郷ベツレヘムに到着したマリアとヨセフの長旅を慰労する人の群れもありません。天使ガブリエルから祝福とともに確約された「神にできないことは何一つない」との宣言を受け入れたマリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との返事が映し出したのは、人の眼からすればこのような、何とも危険極まりない道筋でした。
しかし「宿屋には泊まる場所がなかった」マリアとヨセフが飼い葉桶という誰にも顧みられないところで神の御子を授かることで、この時代には人間扱いされなかった人々に、神の祝福に溢れた交わりが授けられます。主の天使が神の栄光を世に照らし、その光に応えたのは寒風吹きすさぶ夜、羊を守り続けたところの羊飼いでした。姿を現わした天の大軍は一斉に語ります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。栄光はローマ皇帝にではなく神に帰せられ、神の平和は世の波に翻弄されながらも神の導きを忘れない人々に祝福として授けられます。この祝福に招かれるのはマリアとヨセフ、そして羊飼いに始まる無名の人々、そして東から訪れる三人の博士という、その時代のユダヤ教の垣根を越えた人々です。皇帝の計画ではなく、神の御心に適う人に与えられる平和。「神の平和(シャーローム)」。それが飼い葉桶に眠る嬰児イエスによって実現したのです。
この「喜ばしい知らせ」は困難の中で語り継がれ、書物となり、虐げられた人々に神の希望を伝えるキリストの物語となりました。そして幾度もローマ帝国から残虐な弾圧こそ受けたものの、その弾圧が却ってローマ帝国そのものが抱える問題を露わにし、同時に交わりを広げていきました。そして遂にローマ帝国は教会を公認せずにはおれなくなります。最後に教会を弾圧した皇帝はこう呟いたと言われます。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。飼い葉桶のキリストの栄光は、強引な「ローマの平和」から痛みや弱さを慈しむ「神の平和」へと変えました。それは決して知略によりません。まず神の愛に則して互いに愛し合い、慈しみ合ってもたらされる平和です。この平和が霞みそうになったとき、飼い葉桶のイエスを思い出し、クリスマスの門出を常に喜びましょう。