―降誕節第1主日礼拝―
――クリスマス礼拝――
時間:10時30分~※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「あなたの涙をぬぐうイエス・キリスト」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』5 章 3~10 節
(新約聖書 6頁).
讃美=111, 112, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
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クリスマスにまつわる物語にはさまざまなお話があります。イギリスの作家チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように、守銭奴のような暮しを続けてきた人物がクリスマスの夜に起きた出来事を通して回心する、または北米はオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』では若い夫婦が貧しさの中でせめてもの贈り物を、と夫は自分の懐中時計を売って鼈甲の櫛を、伴侶は長い髪を切り、それを売って懐中時計につけるプラチナの鎖を買い求めるという一見愚かな行き違いが最も賢いわざだとする、しみじみとした感動とともに読者に希望を与える物語が喜ばれます。
しかし一方でアイルランドの作家オスカー・ワイルドの『幸福の王子様』では両目にサファイア、剣にルビーを帯びた王子の像が貧しさに喘ぐ人の姿に心を痛め、渡りそびれたツバメの助けを得てきらびやかな宝石をすべて贈り物にした挙句、人々から捨てられ、凍えて亡骸となったツバメとともに神に天国へと招かれる物語、デンマークのアンデルセンの『マッチ売りの少女』、イギリスの作家ウィーダの『フランダースの犬』は、凍てつくクリスマスの夜に凍えながらもその貧しさの中で苦闘した生き方を神に祝福されて天に召される少女や少年を描きます。悲劇的な生涯にも必ず神がともにおられるとのメッセージが鐘のように響きます。
このようにクリスマスをめぐっては実に多彩な物語が編まれるのですが、一体なぜなのかとみなさまとともに思い巡らします。キリストの誕生という出来事は、もちろん嬉しく、喜ばしくはありますが、その出来事は同時に今、このときに涙する人、悲しむ人、凍える人、孤独に苛まれている人、病の床にある人、家族を失った人、明日をも知れぬ不安に苛まれている人にも等しくともにされているに違いないとの確信や祈りと不可分だったからではないでしょうか。
例えば『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの誕生とともに、王の座を脅かされるとの恐怖に駆られたヘロデ王が、嬰児イエスのいのちを狙って、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を「一人残らず」殺害させたとの記事が記されます。もちろん、権力闘争は常に暴力を伴い王の跡継ぎをめぐるこのような血生臭い事件は枚挙に暇がないといえばその通りなのですが、本当にそれが当然、当たり前であるとの意識に立っていればこの「幼子殺害事件」の記事は掲載されず、少しも顧みられなかったことでしょう。しかし救い主の誕生との関係の中で、権力への妄執とその妄執がもたらす犯罪行為が白日の下にさらされ、幾度も『旧約聖書』の『預言者の書』に記された死者の復活の出来事が反復されます。
そうであるならば、今朝は『聖書』のテキストを、クリスマス物語の箇所そのものとするよりも、救い主として成長し、群衆とその中から人の子イエスに従う道に招かれた弟子たちに語った、世に言う「山上の垂訓」から解き明かしてみましょう。
「心の貧しい人々は幸いである」。「貧しさ」とは「頼るべきものが何一つない」という状態を示し、最低限の誇らしさや意地さえも失ってしまっている人々だと言われます。そして「悲しむ人々」、「柔和な人々」、世の不条理に憤りを覚えながらも悔しさに震えている「義に飢え渇く人々」、自分の事柄を棚に上げてでも人の痛みに心を寄せる「憐れみ深い人々」、処世の術を知らず世にあれば欺かれてばかりの「心の清い人々」、そして人々からの無理解に晒されても神の平和を待ち望み、規模を問わずその平和を証ししていくところの「平和を実現する人々」、そして神の正しさである義に依り頼んで迫害される人々は、まさしくクリスマスの主であるイエス・キリストに「幸いである」と特別の祝福を授かり、その祝福の中で深く結びつけられてまいります。ヘロデ王に殺害されていった幼子は、十字架のキリストの死と復活にその道を同じくされて、今や神の恵みに満ちた統治のもとでの甦りの時を待っています。イエスが幼子一人ひとりを抱きあげて祝福された箇所に重なります。苦しむ者も悲しむ者も誰も孤独ではないのです。
嬰児イエス・キリストのもとに招かれた人々は、誰もがみなその時代にあっては「招かれざる客」「招かれざる人々」として遠ざけられていった人々でした。ヘロデ王に対して「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねた東方からの「無礼な」三人の学者、そして「人として扱われなかった」羊飼い。その人々が飼い葉桶のいのちの光によって包まれたのがクリスマスです。礼拝に集う人々は何らかの生きづらさを抱えているとは言われますが、わたしたちもまたその生きづらさを大なり小なり抱えて活かされています。ときに暮しのことでオロオロするあまり、奉仕や祈りを疎かにし、隣人に無関心となるわたしたちです。だからこそ飼い葉桶の主イエス・キリストはわたしたちを幾度も目覚めさせてくださります。そして涙をぬぐってくださります。それがクリスマスの出来事であり、聖日礼拝を通してそそぐ神の愛の力です。期せずして新型コロナ感染症の流行によって在宅礼拝に絞った2022年のクリスマス。気持ちが満たされないと嘆くよりも、飼い葉桶の主イエスの光が照らす人々に祝福を祈りつつ顔を向けてまいりましょう。モニター越しにではありますが、心からクリスマスの訪れをお祝いしたいと願います。