―待降節第3主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「語ることのできない喜び」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』1 章 18 ~ 25 節
(新約聖書 99 頁).
讃美=Ⅱ 112,Ⅱ 119,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
あまりにも突然な出来事に言葉も出ない、というさまがわたしたちにはあります。そうそう滅多には聞かないからこそ、このようにならずにはおれないのですが、あまりの突然の報せに驚き、言葉を失ってしまうとは確かにあり得えます。
しかしイエスの母マリアが天使ガブリエルに御子の身籠もりを伝えられたとき、マリアは驚きながらも天使との語らいを止めませんでした。さらには『マルコによる福音書』7章でイエスが救い主としてのあゆみの中で出会った「耳が聞こえず舌の回らない人を癒す」との物語で癒された人を観ると聴覚と連動して舌が「もつれてしまう」というまことに写実的な仕方でこの奇跡を描いています。まことに深刻な状況がキリストとの出会いの中で突破されるという喜びの出来事です。
クリスマスの出来事に先んじて描かれるザカリアとエリザベトの物語。ザカリアは祭司職を務め、伴侶のエリザベトは祭司アロンの系譜に繋がる女性であると匂わせます。アロンとは『旧約聖書』の『出エジプト記』で、神にエジプトの奴隷解放を命じられたモーセが「わたしはもともと弁の立つ方でない」と断りを入れた折に、モーセの言葉を奴隷であったイスラエルの民に語り継いだ人物です。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」と本日の『聖書』ではザカリアとエリザベトを見なします。祭司しか入室を赦されないエルサレムの神殿での至聖所の中で香を焚いて祈る中、ザカリアは主の天使ガブリエルに出会います。ガブリエルは「恐れるな。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と、洗礼者ヨハネの誕生が予告されます。しかしザカリアにはこの告知は不安と恐怖であるばかりか受け入れがたいものであり「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、ガブリエルの告知を一旦拒絶してしまいます。このためガブリエルは「あなたは口が聞けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と指摘し、その口が聞けないようにします。
ザカリアにはこの出来事は喜びの報せどころか、生涯をかけた職責をも左右しかねませんでした。エルサレムの神殿に務める祭司は、神に向けて民の過ちを述べ、祈りを献げなくてはなりません。『聖書』の朗読の際にも民全体に聞こえるようにしなくてはなりません。「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころのない」はずのザカリアは、祭司としての職能を全うできず、またガブリエルと語らうどころか不安と恐怖すら覚えていくという、祭司として大きな破れを抱えていくこととなります。つまり物語としては、ザカリアが生来讃えられてきた「神の前に正しく、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがない」という人々の評判が破られて、初めて洗礼者ヨハネの誕生の喜びの道へと導かれていくのです。
『ルカによる福音書』で繰り広げられるクリスマス物語では、1章36節にあるように、エリザベトとマリアは親類の間柄、更には洗礼者ヨハネとイエス・キリストも同じ関係として描かれます。そして天使ガブリエルの言葉によれば「不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神のできないことはない」と書き記されます。周囲の人々から「不妊の女性」と言われていた女性が身籠もるという話は、古くは『創世記』のイスラエルの民の先祖アブラハムの妻サライにまで遡りますが、サライの物語と異なるのは、その恵みの知らせを受けて戸惑うのは女性ではなく、男性であるザカリアであるというところ。『創世記』の物語の筋立てが見事に反転します。それだけではありません。「非の打ちどころのない」はずのザカリアは、マリアにイエスの誕生が予告され、マリアがエリザベトを訪ね、御子イエスの宿りを讃美し、そしてヨハネが誕生するまでの間、ずっと祭司職の務めを果たせなくなり、後にイエス・キリストに癒される人々と同じ立場に身を重ねることによって、初めて洗礼者ヨハネを授かり、その喜びをともにするにいたります。喜びを伴う「産みの苦しみ」は、エリザベトだけでなくザカリアもともにするという関係がこの箇所で生じるにいたります。息子である洗礼者ヨハネと同じく、ザカリアもまたキリストの誕生を乞い願う列に連なることとなります。
人の子イエスは人の眼からすれば準備万端、全てが整えられたとは言えない場所、すなわち飼い葉桶に生まれましたが、そこには人間の破れを癒して余りある神の恵みが輝いていました。本日の『聖書』では、メシアの訪れを告げ知らせる、最後の預言者である洗礼者ヨハネもまた、非の打ち所のないはずのザカリアの破れを徴として世に遣わされてまいります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも神の愛である聖霊の力によって世に生まれました。『ローマの信徒への手紙』8章26節で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださります」と使徒パウロは語ります。三本目のアドベントの蝋燭が灯されようとする今朝、言葉にならざる呻きを祈りに変え、主の降誕の喜びを先取りしたいと願います。