2022年12月1日木曜日

2022年12月4日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー待降節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「クリスマスを待ち望んだ人々」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章 14~21節
(新約聖書 107 頁).

讃美=97,30,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  わたしたちにはアドベント、そしてクリスマスの訪れを待ち望む厳粛さを礼拝に求めがちな一面がありますが、キリスト教がすでに文化として村落共同体の祝祭として定着している欧米諸国の地方におきましては、アドベントからクリスマスの期間とは特別な祝祭の雰囲気に包まれます。いわば里帰りの季節でもあり、久々に家族と再会する機会が増えるというものです。クリスマスは故郷に帰れる、クリスマスまでには戦争は終わるという言葉が映画に登場するのも、そのような倣いあればこそ、と言えるでしょう。クリスマスの団らんと望郷の思いとが、重なってまいります。
  本日の『聖書』の箇所では福音書では稀な「人の子イエスの里帰り」の様子が記されます。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。この箇所では人の子イエスがその時代では敬虔なユダヤ教徒でもあり、安息日を尊んでいたと『ルカによる福音書』の書き手集団は描きます。ローマ帝国という、世界最大の多民族国家を舞台にしながらも、人の子イエスが古代ユダヤ教徒であったとの史実に、書き手は誠実に向き合います。人の子イエスが手にする『聖書』とは、その時代のユダヤ教で尊ばれていた『律法』と『預言者』の書。この中でイエスが選んだのは、『イザヤ書』61章でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。『旧約聖書』の『イザヤ書』61章そのものでは、2節に「主の恵みをお伝えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め」とあるように、圧迫されている人々への報復をも謳うのですが、イエスはこの箇所には立ち入りません。初代教会で共有されていたイエスが救い主であるならば、敵味方に隔てられていた人々の間に和解と平和をもたらすに違いないと、の確信が浮かびあがります。
  実際のところ、ローマ帝国の内政と申しますものは実に巧みでした。軍事力による恫喝ばかりでなく、各民族や部族の中でローマ帝国寄りの政権を打ち立て、そして実際にその暮らしを向上させ、懐柔をはかることで、支配を認めさせてきたところがあります。例えばクリスマス物語で知られる箇所として「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」と『ルカによる福音書』2章にはありますが、これはすでにローマ帝国の交通網が整備されていなければ出し得ない勅令です。現代のコンクリートは劣化しますが、ローマ帝国時代に造られたコンクリートは今でもその強度を保っており、どのような造りであったのか分析しかねるところを考えますと、わたしたちの想像を超えています。
  しかし、先ほどのように会堂で『イザヤ書』を朗読した後に、集う故郷の人々が口々に賞賛の言葉を向けたところで、人の子イエスは心を許さずに「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と語りながら預言者エリヤやエリシャが、その癒しを同胞にではなくシドン地方のやもめやシリア人ナアマンといった虐げられた異邦人に向けていたと告げますと、賞賛していた会堂の人々は突如として憤慨し、総立ちになってイエスを町の外へと追い出し、山の崖にまで連れて行き、突き落とそうとした、と記されます。故郷の人々は突如としてイエスに牙を剥き、充分な手続きもなしに石打の刑に処そうとまで怒り狂います。ガリラヤの諸会堂では皆から尊敬を得ていたのに、であります。
  イエス・キリストの言葉は、時にわたしたちの胸に深く突き刺さるときがあります。とりわけ、教会の交わりがイエス・キリストへの感謝よりもムラ社会的な倣いに流されそうになったとき、とりわけ深々と突き刺さります。しかしその言葉によってわたしたちは新しい目覚めを体験します。それは教会がわたしたちの故郷であると同時に、この場にいるわたしたちが生涯を全うした後でも、キリストを頭とした愛のわざを担い続ける交わりが続く、という事実に由来します。この事実に目覚めていることにより、わたしたちのクリスマス、そしてこのクリスマスを待ち望むアドベントが、血のつながりのない人々、すなわちわたしたちには異邦人であるところの人々にも受け継がれてまいります。『聖書』に則するならば、教会は一般の村落共同体とは似て非なるところであり、連なる方々はイエス・キリスト自らによって絶えず新たにされるところでもあります。クリスマスを待ち望んだのは、誰からも癒されることなく、故郷を失ったところの旅人たちでした。東からやってきた博士たちは明らかに異邦人であり、クリスマスの訪れを真っ先に告げ知らされた羊飼いは、税を納める義務も権利もないという、その時代では「忘れられた」「いないとされていた」人々でもありました。そのような方々をお迎えするのも、クリスマスを待ち望んだ人々との喜びの分かちあいに他なりません。