2022年11月24日木曜日

2022年11月27日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー待降節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「波間ただよう舟を照らす光」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』21 章 25~33 節
(新約聖書 152  頁).

讃美=95,94,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  新型コロナウイルスの型番をめぐってギリシア語のアルファベットを使用し尽くしたら、今度は天文学上の名称をあてはめるとのこと。今のところケンタウルス株、ケルベロス株、グリフォン株といったコードネームが用いられています。ケンタウルスの場合、下半身は馬、上半身は人間。ケルベロスは古代ギリシア神話で理解される冥府(よみ:死後の世界)を守護する番犬で、三つの頭をもち、青銅の声で吠え、竜の尾と蛇のたてがみをもち、冥界から逃げ出そうとする者に襲いかかるとされます。星の名前としては冥王星の衛星につけられていると申します。グリフォンの場合、上半身が猛禽類の鷲、下半身がライオンという出で立ちで、天文学にその名は見られませんが、クリミア半島やポーランド、ドイツの紋章に用いられる怪物とされています。いずれにしても、複数の動物のかたちをかけあわせるという、日本でいうところの「鵼(ぬえ)」のような生き物ですが、おそらくは次々と変異してつかみどころがないという意味でしょうか。概していえばオミクロン株には変わらないとのことです。
  ただこのような恐ろしい怪物の名をウィルスに重ねるのは、お世辞にもよい趣味だとは申せません。新型コロナウイルス感染症が流行してから3年が過ぎ、来年で4年目を迎えようとしています。新しい株のウィルスが発生したのであれば、単に注意をし、相応しい対応をすればよいだけであり、実際にわたしたちの対応の仕方は限られています。こまめに消毒をし、出かける際にはマスクをつけて、人混みには立ち入らず、罹患した場合でも落ち着いて医師の診断を仰ぐほかに道はありません。リモート配信型の礼拝も全国の教会ではずいぶんと普及しました。これに加えてあえて不安をこれでもかと煽るのもいかがなものでしょうか。
  そしてさらに思い起こしてみれば、一年も残りひと月となれば、毎年のように世界規模の戦争をどうするのか、飢餓や疫病にどう処するのか、学生なら卒論をどうするのか、年末の収支をどうするのかとの課題がわたしたちには突きつけられます。だから、世に神の平安と平和をもたらす救い主の誕生を待ち望む待降節が忙しさの中にあっても恋しいのです。本日の『聖書』の箇所は、先ほどお読みした世の終わりの出来事が記されます。どれもこれも世に不安をもたらすとその時代の人々が受けとめた事柄です。「太陽と月と星に徴が現われる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る」と始まるキリストの再臨の箇所。しかし世には荒唐無稽だと映る「キリストの再臨」という言葉は、神の愛による統治の始まりと解放のときを示します。つまり今わたしたちが抱えている日毎の思い悩みに限らず、もっと辛い状況にあるいのちも、単なる苦しみに終わるわけがなく、終わるはずもないとはっきり記されます。この教えにピンとこない弟子もいたのでしょう、続いて人の子イエスが語るのは「いちじくの木のたとえ」、そして「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という、世の混乱が増すほどに輝きを極める、イエス・キリストに示された神の希望です。教会はこれまで幾度もいくたびも、それこそ毎年まいとし、存亡に関わるような危機に置かれました。しかしそのような混乱の中で献げられる祈りが教会の交わりを支え、そして新しくしてきたのも事実です。時代に過剰適応するのではなく、キリストを通して世に関わります。そしてこの関わりの中でわたしたちは、世にあってさまよう者という他人事のような言い方をせず、羅針盤が壊れてしまった舟であっても、人々を安心させる神の愛の光を見出し、またその光を反射させる灯台の光の役割を担っていると、この降誕節に確かめます。先日「ノアの箱舟」の物語に触れる機会を持ちましたが、あの物語でいう箱舟はヘブライ語で「テーバー」と申します。これは男児殺害の勅令のもと、赤ん坊のモーセのいのちを、ナイル川の岸辺で守った籠をも示します。そしてさらには、混乱した世の荒ぶる波の中で人々の逃れの場となる神殿を指し示し、『新約聖書』におきましては、ついには教会の象徴として用いられてまいります。わたしたちが乗り込んでいるこの舟は、確かに誰もが某かの不安を抱えているかもしれませんが、イエス・キリストが世に生まれ給う時がやってくるという出来事が作った流れに乗っています。その確認を通してわたしたちはいのちの光を映し出す役割を、恵みの中で果たしてまいります。具体的にはどのようなあり方でしょうか。
  その証しとして、長野県は千曲川の近くの佐久に暮し、幼き日に罹患した赤痢の後遺症で、首から下が動かなくなり、話すことも困難となりながらも、現在のALS患者さんがコンピューターでそうするように、ご家族のかざす五十音の表で言葉を紡いだ瞬きの詩人・水野源三さんの作品を今朝はご紹介します。『はっきりと分かりました』という作品です。
  「焚き火のあたたかさは 焚き火に手をかざした その時に はっきりと分かりました 焼きいものうまさは 焼きいもを食べたその時に はっきりと分かりました キリストの愛は キリストを信じたその時に はっきりと分かりました」。
古代ギリシア神話の名を借りて迫る不安に、水野さんの詩は優しく温かな光で勝利しています。この光を待降節に仰ぎましょう。