2022年11月3日木曜日

2022年11月6日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

   ー聖霊降誕節前第7主日礼拝ー

――永眠者記念礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「神に祝福された家族とともに」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』3章1~6節 
(新約聖書105ページ).

讃美=520,496,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『新約聖書』には福音書が四部編み込まれていますが、内容の展開のよく似た三部を、人の子イエスへの理解に共通するところあり、との理由で「共観福音書」と呼んでおります。最も初期に記され、分量としては最も短いのは『マルコによる福音書』、それから人の子イエスの生きざまと教えが『旧約聖書』に記された救い主の訪れの完成だとことのほか強調するのが『マタイによる福音書』、ローマ帝国という有史以来今日にいたるまで最大の規模を誇る国家の力に勝る救い主の訪れの喜びを、キリストの復活の出来事の後に続く教会の働きとともに記したのが『ルカによる福音書』です。当然ながらいずれの福音書にいたしましても書き手の集団となった初代教会の人々は今、天に召されています。
 今朝の箇所はイエス誕生の物語、クリスマス物語の後にいよいよイエスの救い主としての働きが始まるその導入にあたる箇所という見方もできます。そこにはその時代の実に多くの権力者の名前が連ねられています。「皇帝ティベリウス」とはローマ帝国2代目の皇帝、「ガリラヤの領主ヘロデとその系譜に連なる者」とは救い主の訪れを恐れるあまりイエス誕生の地で二歳以下の男の子を虐殺したヘロデ大王の息子」、そして「大祭司アンナスとカイアファ」とはイエスの時代の古代ユダヤ教にあって、エルサレムの神殿でユダヤ社会では最高権力の立場にあった者です。興味深いことには、皇帝ティベリウスを始めとしてその名が連ねられる人々は、ことごとくイエス・キリストの生涯に、まさしく苦難そのものをもたらした人々です。ということは、人の子イエスが交わりを深めて癒し、神の愛の喜びに包んだ人々を、その癒しに先だっての苦しみのどん底に追いやった人々でもあると言えましょう。
 福音書におきましては、しばしば「群衆」という言葉が用いられます。この「群衆」という言葉は、これらの権力者とは全く異なる暮しの次元に置かれた人々です。雨が降れば雨漏りのするあばら家に暮し、病が流行ればそれが病とも分からず悪霊にとり憑かれたと思い斃れていく、決して記録文章や公文書には名を残さない人々として姿を消していく人々です。何も悪いことはしていないとは言いながらも草生す屍となっていった人々も多かったのではないでしょうか。
 確かに人が書き記すという意味での歴史におきましては、このような無名の民の姿はやがて忘れ去れていくことになるでしょう。しかし神の前に書き記された救い主の物語としての福音書にあっては、イエス・キリストとの深い関係の中で癒され、祝福された人々として描かれてまいります。その物語そのものが、いわばキリストと出会い、神の恵みの風に吹かれてあゆむ人々の群像としての性格をも帯びてまいります。それは本日の『聖書』の箇所の冒頭で記された、名を刻まれた権力者たちに優る人々です。
 本日は永眠者記念礼拝です。わたしたちの目の前には天に召された兄弟姉妹を偲ぶ写真が並べられています。もちろん、わたしたち自らも含めて、この世にあってその名前が数千年にわたって語り継がれるかと問われれば、世にあるわたしたちとしては沈黙するほかはありません。しかし神はわたしたちが世にあって生涯を全うした、生きたという事実を決して消えることのないこの世界という書物に掘り刻まれます。『聖書』の世界では「書く」とはまさに「彫り刻む」ということを意味していたからです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』。ナザレのイエスの登場に先駆けて現われた洗礼者ヨハネのこの言葉は、わたしたちが滅びに向かう存在ではなく、キリストの復活という出来事の中で、「死ぬ」のではなくて「生きた」といういのちの輝きのもとに生涯が振り返られることを示しているとも受けとめられます。谷に行く手を閉ざされた道、山々を汗だくになって登るほかないという道、あるいはそびえ立つ山々に行く手を遮られるという道、どこへと行着くのか分からない曲がりくねった道、そして力の弱い者から置き去りにされていくでこぼこの道。世を生き抜かれ、天に召された方々が当事者として記憶しているその経験は、わたしたちには懸命に想像力を働かせて追体験はできても、決してそのものとして分かるところではありません。どんな歴史書を調べても、資料を調査しても無理なことです。しかし神自らはそのあゆみを全てご存じであり、人、そしていのちが滅びにいたる存在から、絶えずわたしたちとともにいて、生きていたというその事実を発信し続けるのです。そのメッセージには地上にあるところのあらゆる権力でさえ敵うところではありません。
 週ごとの礼拝で、わたしたちは「主の祈り」という祈りを献げています。日本には1880年に翻訳されて以来、用いられている祈りの言葉です。わたしたちはイエス・キリストが教えてくださった祈りによって、召された方々との交わりを今も愉しむことができるのです。教会の交わりの中で献げられる祈り。世にあって招かれたわたしたちだけではなく、今その身体は眠りについてはいるものの、神自らのもとで豊かに祝福されている兄弟姉妹たちとの、キリストを通した喜ばしい語らいでもあるのです。