―長寿感謝の日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
本日の『聖書』の記事は、イエスが群衆にも聞こえるような仕方で弟子に語った、俗に「山上の垂訓」と呼ばれる箇所です。おそらく教会と関わらない人であってもご存じの方は多いのではないでしょうか。なぜなら、その教えの内容は、世にあって説得力をもつ、目標として設定する幸せとは一見すると大きくかけ離れているからです。なぜ世にあって欺かれていくような心の貧しい人々が幸いなのか。なぜ悲しむ人々が幸いなのか。なぜ暴力に痛めつけられるようなありようの柔和な人々が幸いなのか、不正の中に立つところの、義に飢え渇く人々が幸いなのか、虐げられた人々に思いを寄せる憐れみ深い人々が、人々を搾取し世には力強く振る舞っているかのように思える人々よりも幸いなのか、争いの中で豊かさを勝ちとる人々よりも平和を実現する人々のほうが幸いなのか、筋道を通そうとすることによって却って虐げられる人々のほうが幸いなのか、イエス・キリストと関わったばかりに罵倒され、泥水を啜るような極貧の暮しを選ぶほかない人々が幸いなのか、確かに言葉としては分かりやすく、翻訳もそれほど難しくはないことでしょうが、それにしても、世にあってもてはやされる幸せと人の子イエスが説いた幸せとはなぜこうも食い違うのでしょうか。明治以降、日本で『聖書』が読まれるようになってからの永遠の問いとなっています。
少なくとも山上の垂訓で重要なのは、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」「キリストのゆえに迫害される人々」が、「幸いである」とイエス・キリストの祝福を授けられているというところです。人が自力で追い求めていく「幸せの青い鳥」はかのおとぎ話にあるとおり、決して人の手の届くことはありません。そのときそのときの時代や雰囲気に大きく左右されてまいります。「かの時代にはそうであったけれども今では幸せの尺度ではない」という事態が大いにあり得るのです。人が追い求めていく幸せとはかくも脆いものです。けれどもキリストに祝福されたからといって、この貧しさに、悲しみに暮れることに甘んじていて良いのだろうかとの声には、『ヨハネによる福音書』16章20節の「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」が応えます。まことに力強い宣言です。「山上の垂訓」でイエス・キリストに祝福された人々は、弟子だけではなく、その声を聴いている名もなき民であるところの群衆も含んでいます。弟子もまたこのような群れから招かれた人々です。その祝福は、わたしたち個々人、一人ひとりにバラバラに所有されるものではなくて、当事者にさえ気づかない、まさしく授かりものの豊かな交わりを育んでまいります。たとえ貧困の中にあろうとも、戦争の中にあろうとも、「健やかなとき」よりも「病めるとき」のほうが長いものだと家庭での生活に溜息をつくことがあったとしても、大切な人を天に見送るようなことがあったとしても、キリストによる祝福は時を重ねる毎に、祝福を授かった人々に深く根を張ってまいります。
本日は長寿感謝の日礼拝です。齢を重ねた人の言葉がいつも正しいとは限りません。なぜなら人間はいつまでも破れを負うからです。しかし齢を重ねた方々の特権があるとするならば、時を重ねれば必ず分かることがあるとの言葉を、誰よりも深くその身に刻んでおられることだと『聖書』は語ります。後に続く者であるところの人々にもやがては、長期記憶のみが残り、最近の事々はよく忘れてしまう身体になることでしょう。しかしその人が世にある限りいつまでも残る記憶の中に讃美があり、『聖書』があり、祈りがあるとするならば、これほどの幸せはないといえるのではないでしょうか。人がこころから幸せになるために欠かせないのはイエス・キリストとの深い関わり。その関わりは地下水脈のように潤いを湛えています。その喜びを伝えてまいりましょう。
説教=「こころからしあわせになるために」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』5章1~12節
(新約聖書6頁).
讃美=333,536,512(1),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「一度退任した教会とは決して関わってはならない」と、伝道師として仕えた教会の牧師からわたしは徹底的に叩き込まれました。それは新任の牧師と教会の新しい展開を妨げる大きな原因になるとの理由。至極尤もだと今でも思っています。ただしそれが同じ地区の教会に留まらず、当該教会の牧師から婚約式を依頼されるとなると話は難しくなってまいります。配慮しながらではありますがひっそりと関わりを続けることにより、わたしたちにリモート礼拝の技術を教えてくれたのはその牧師です。そうしたわけで先週の聖日礼拝後、退任してから20年ぶりにその教会を訪問しました。青年牧師と、近い将来に伴侶となるフィアンセの仲睦まじい雰囲気、雰囲気、そして教会員を始めとして集まった会衆の喜びにしみじみするとともに、20年の時の流れの厳粛さを、つくづく噛みしめました。婚約式の後に「先生、あのときは教会員だけで礼拝堂を建てて、借入金返済も含めてみんな余裕がなかった。悪いことを言ったなあ」と握手を求められたり、当時激しく叱咤を受けた方からは涙ながらに握手を求められたりと、こちらも情に流されないよう堪えながら対応しました。そのときには分からなくても、歳月を重ねることで体感的に分かるところ多く、こちらも年相応にしっかりしなくてはと思いながらその場を後にいたしました。
本日の『聖書』の記事は、イエスが群衆にも聞こえるような仕方で弟子に語った、俗に「山上の垂訓」と呼ばれる箇所です。おそらく教会と関わらない人であってもご存じの方は多いのではないでしょうか。なぜなら、その教えの内容は、世にあって説得力をもつ、目標として設定する幸せとは一見すると大きくかけ離れているからです。なぜ世にあって欺かれていくような心の貧しい人々が幸いなのか。なぜ悲しむ人々が幸いなのか。なぜ暴力に痛めつけられるようなありようの柔和な人々が幸いなのか、不正の中に立つところの、義に飢え渇く人々が幸いなのか、虐げられた人々に思いを寄せる憐れみ深い人々が、人々を搾取し世には力強く振る舞っているかのように思える人々よりも幸いなのか、争いの中で豊かさを勝ちとる人々よりも平和を実現する人々のほうが幸いなのか、筋道を通そうとすることによって却って虐げられる人々のほうが幸いなのか、イエス・キリストと関わったばかりに罵倒され、泥水を啜るような極貧の暮しを選ぶほかない人々が幸いなのか、確かに言葉としては分かりやすく、翻訳もそれほど難しくはないことでしょうが、それにしても、世にあってもてはやされる幸せと人の子イエスが説いた幸せとはなぜこうも食い違うのでしょうか。明治以降、日本で『聖書』が読まれるようになってからの永遠の問いとなっています。
少なくとも山上の垂訓で重要なのは、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」「キリストのゆえに迫害される人々」が、「幸いである」とイエス・キリストの祝福を授けられているというところです。人が自力で追い求めていく「幸せの青い鳥」はかのおとぎ話にあるとおり、決して人の手の届くことはありません。そのときそのときの時代や雰囲気に大きく左右されてまいります。「かの時代にはそうであったけれども今では幸せの尺度ではない」という事態が大いにあり得るのです。人が追い求めていく幸せとはかくも脆いものです。けれどもキリストに祝福されたからといって、この貧しさに、悲しみに暮れることに甘んじていて良いのだろうかとの声には、『ヨハネによる福音書』16章20節の「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」が応えます。まことに力強い宣言です。「山上の垂訓」でイエス・キリストに祝福された人々は、弟子だけではなく、その声を聴いている名もなき民であるところの群衆も含んでいます。弟子もまたこのような群れから招かれた人々です。その祝福は、わたしたち個々人、一人ひとりにバラバラに所有されるものではなくて、当事者にさえ気づかない、まさしく授かりものの豊かな交わりを育んでまいります。たとえ貧困の中にあろうとも、戦争の中にあろうとも、「健やかなとき」よりも「病めるとき」のほうが長いものだと家庭での生活に溜息をつくことがあったとしても、大切な人を天に見送るようなことがあったとしても、キリストによる祝福は時を重ねる毎に、祝福を授かった人々に深く根を張ってまいります。
本日は長寿感謝の日礼拝です。齢を重ねた人の言葉がいつも正しいとは限りません。なぜなら人間はいつまでも破れを負うからです。しかし齢を重ねた方々の特権があるとするならば、時を重ねれば必ず分かることがあるとの言葉を、誰よりも深くその身に刻んでおられることだと『聖書』は語ります。後に続く者であるところの人々にもやがては、長期記憶のみが残り、最近の事々はよく忘れてしまう身体になることでしょう。しかしその人が世にある限りいつまでも残る記憶の中に讃美があり、『聖書』があり、祈りがあるとするならば、これほどの幸せはないといえるのではないでしょうか。人がこころから幸せになるために欠かせないのはイエス・キリストとの深い関わり。その関わりは地下水脈のように潤いを湛えています。その喜びを伝えてまいりましょう。