2018年12月30日日曜日

2018年12月30日(日) 説教「交わりを新たにするメシア」 稲山聖修牧師 

2018年12月30日
「交わりを新たにするメシア」
マタイによる福音書2章1節~12節
説教:稲山聖修牧師


東方の三人の博士の物語の闇。物語の書き手は、キリストの誕生を歓迎しない者からも決して目を逸らさない。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。遠くの地から三博士は、幾重もの地境や国境線を越えてエルサレムを訪れた。三人の博士の問いは、期せずしてヘロデ王の本性を暴露する。ヘロデはユダヤ人の王には見えなかったのだ。ヘロデ王はこの問いに堪えられない。「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々もみな、同様であった」。イエス・キリストの誕生は、ヘロデ王とエルサレムの人々には暮しや考え方の土台を覆す出来事に映る。追いつめられたヘロデは権力を脅かす乳飲み子の居場所を明らかにすべく全力を尽くす。それはキリストの誕生を始めから無かったことにしようとする謀だ。その手先となるのが民の祭司長や律法学者だ。律法学者は預言者の書物を引用する。「ユダの地・ベツレヘムよ。お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者であるからである」。『マタイによる福音書』で引用されるのは旧約聖書の『ミカ書』5章1節。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出世は古く、永遠の昔にさかのぼる」。おや、と読み手は考え込む。ヘブライ語のテキストとは異なる修正・加筆が福音書の引用には目につくからだ。『マタイによる福音書』では「決して一番小さいものではない」。これは実に不可思議な一文だ。ベツレヘムで起きるのは、決して喜ばしい出来事ばかりではないからだ。


ヘロデは憑かれたかのように救い主の生まれる場所を調べあげ、占星術の学者たちを非公式に呼び寄せる。そして博士の証言をもとに、その時を特定しようとする。そしてさらには「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。詳しく調べて報告せよ。これは三人の博士を間者・工作員として抱き込もうとする画策だ。三人の博士の報告が入り次第、ただちに兵士を派遣して御子イエス・キリストをないものにしようとする魂胆。「わたしも行って拝もう」とは偽りなのだ。
しかし三人の博士は、共犯関係に陥る危機を辛うじて免れる。それは「ヘロデのところへ帰るな」とのメッセージを夢の中で受けたからだ、と物語は記す。異邦人である博士に天使の言葉が臨み、三人は新しい道を拓いて帰途についた。その後に起きた惨劇とは。「さてヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。三人の博士を欺いたのはヘロデであるのだが、その怒りは全く的外れである。そしていわゆるベツレヘムの嬰児虐殺。しかしわたしたちは知っている。すでに『出エジプト記』では、モーセの誕生物語の前触れとして、ファラオのヘブライ人の嬰児虐殺命令があることを。忘却の穴に投げ込まれるはずの事件が、救い主の誕生の光の中で描かれる。だからこそ人々は救い主を待ち望んでいたのだ。


三人の博士、そしてヨセフとマリアはヘロデとは真逆の道を歩んだ。救い主のいのちのために全てを投げ打って歩むという生き方。これは人の弱さを深く感じる繊細さの中で苦しむことも多い道。けれどもそのような者の夢に、天使の声は響く。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。教会を迫害したローマ皇帝ユリアヌスは、そのように呟いた。皇帝ユリアヌスには、不思議とヘロデ王の姿が重なる。そして、殺害されたベツレヘムのこどもたちは、神の国の実現、神の支配の訪れととも全てが新しくされたときに、キリストと深くつながって復活するのである。クリスマス物語には、すでに終末論的な救済の調べが静かに響く。メシアはこのように、わたしたちの交わりを恐怖から解放し、いのちの光で包み、新たにしてくださる。ベツレヘムはキリストによる救いの始まりの場として「決して小さな者ではない」。破れに満ちた世の交わりを新たにするメシアはこうして生まれたのだった。

2018年12月23日日曜日

2018年12月23日(日) 説教「開かれた神の恵みのとびら」 稲山聖修牧師

2018年12月23日礼拝説教
「開かれた神の恵みのとびら」

ルカによる福音書2章8節~17節
説教:稲山聖修牧師



 祖国を失い、旅人としての暮しを余儀なくされている人々。交わりから弾き出され、途方に暮れるほかない人々。その中で、生涯をかけて培った賜物を精一杯用いてメシアの誕生を祝いに訪れた人々がいた。英雄讃美とは一線を画する物語がクリスマス物語の中には縦横に織り込まれる。『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』の物語を通して、最も早く飼葉桶の主イエスのもとに到着したと思われるのが羊飼いだった。旧約聖書では羊飼いはひときわ尊い職業であるかのように記されるが、実はローマ帝国に支配されたユダヤの地では、その仕事への従事者は、時代の最底辺の層をなしていたとされる。羊たちを連れて導くその土地は神から授かった嗣業の土地ではなく、いつのまにか大地主の所有となっていた。住民登録の通知さえ羊飼いには届かない。


 羊飼いが誰からも顧みられなかった様子は、マリアと直接関わりのないこの人々に主の天使が臨むというところからも伝わる。羊飼いは自由意志を抱けず、経済構造の中に絡め取られた奴隷のあり方を強いられていた。しかし、主の天使が臨んだときにに、羊飼いは主のしもべとしての居場所を授かる。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。その様子は実に劇的だ。
続く言葉は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。「民全体」とは、ローマ帝国の住民登録の対象となった人々よりも一層の広がりがある。それはこの羊飼いたちであり、後に主イエスの宣教の中で出会った人々であり、異邦人やユダヤ人を問わずイエス・キリストに対して十字架への道をこしらえた人々をも含む。そしてクリスマス物語に戻れば、異邦の地から訪れた三博士にも及ぶ。「今日ダビデの町で、あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。この宣言の後、羊飼いたちに主イエスの誕生を告げた天使は、実は天の大軍の導き手でもあったことが記される。天の大軍による神讃美がこだまする。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。神の栄光がたたられる場所では、必ず平和が備えられるとの宣言だ。戦争の間にある脆い平和ではなく、主の平安であるシャロームが臨む。羊飼いは、目に見える状況そのものは何ら変わらないのにも拘わらず、そして「夜通し羊の番をする」という過酷な仕事の中で恐らくは疲れきっていたのにも拘わらず、実に活動的なあり方へと変容させられる。この変容をもたらすのは、イエス・キリストとの絆以外の何ものでもない。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主がお知られくださったその出来事を見ようではないか」。土地に束縛された羊飼い。その軛から解放されて赴く先には、マリアとヨセフ、そして乳飲み子がいた。三人の博士たちでさえ、ともすればヘロデ王という世俗の権力に問い尋ねなくてはならなかった険しい道を、誰にも問わず見事に踏破する羊飼い。

御子イエス・キリストの誕生によって励まされ、力を授かることが、これほどまでに自分のあり方を諦めていた人々を奮い立たせるとは、その時代の誰が想像したことだろうか。これもまた処女降誕の出来事と並び、人の目にはあり得ない出来事に違いない。けれども人には不可能なことが、神にはおできになるのだ。


そしてついに羊飼いは、マリアとヨセフ、そして飼葉桶に寝かせてある乳飲み子について天使が知らせてくれたことを人々に伝える。決して雄弁ではない羊飼いが、人々に御子イエス・キリストの誕生を告げ知らせるという出来事もまた、奇跡として記憶されるべき出来事だ。名もない人々である羊飼いは、もはや地上の何者をも恐れる必要はない。なぜなら彼らもまた、天の大軍に護られている御子イエス・キリストとの深い関わりに置かれているからだ。神の恵みのとびらは、こうして開かれる。御子イエス・キリストの降誕を心からお祝いしよう。メリークリスマス!

2018年12月16日日曜日

2018年12月16日(日) 説教「神にできないことは何ひとつない」 稲山聖修牧師

2018年12月16日
「神にできないことは何ひとつない」

ルカによる福音書1章26節~38節
説教:稲山聖修牧師

 福音書が語ろうとした主イエスの母マリアは、ルネサンス期の欧州の絵画に見られるような王妃のような姿であったかどうかは分からない。それでも今朝の箇所で驚かされるのは、マリアがどのような姿であったにせよ、天使ガブリエルとの出会いについては、平然として物怖じしないところである。マリアの戸惑いはむしろガブリエルのメッセージに向けられていた。「『おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる』。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。その言葉はあまりにも唐突で、前代未聞の出来事に読者をも巻き込む。続くメッセージは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」というものだ。「恐れることはない」と語るメッセージの中身が、実はローマ帝国の支配をも超える、この世の政治的な面だけでなく絶対的な支配にまで及ぶ。平常心でおれるはずのないメッセージ。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるのが精一杯。とは言え『ルカによる福音書』は、受胎告知を喜びの出来事として見事に描く。それにしても、いわゆる処女降誕という出来事は何を示しているのだろうか。


 第一には、「人にはできないことを神は必ず成し遂げる」という、神の秘義とメシアの秘密について語るところ。あり得ないはず出来事の前に、人はただ無力であるばかりか、その出来事によってのみ、わたしたちはいのちのかけがえのなさを、限られた人生に見出すことができる。身体の特性やこの世の英達を問わず、誰もが喜びに包まれる出来事は、イエス・キリストなしには起こりえない。その出来事は救い主を宿したマリア自らも新たにする。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。マリアの人生は、マリア自身の手から離れている。近代社会が追及した「わたし」を中心にしたあり方が、ここに見事に打ち砕かれる。マリアは一人の女性として、主の僕であると告白するが、実はこの言葉には主なる神への深い信頼が隠されている。


 第二には、そのような神のわざは始まったばかりだということだ。天使ガブリエルの祝福をただちに証明するのは、マリア自身には不可能だ。しかし、月が満ちて嬰児が飼葉桶に生まれたときに、全ての恐れは喜びに変わる。人々が全ての恐れから解き放たれるという、世にあっては不可能な出来事でも神には可能だということがあらわにされる。「啓示」とはこのことだ。ヨセフの不安は勇気に、マリアの不安は喜びに変わる。

 そして今朝語るべき肝心な事柄としては、人々の解放とは、果たしてどのようなものだったかという問いへの応えだ。『ヨハネによる福音書』では、神の子となる資格として「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」と記す。処女懐胎である以上、それはイエス・キリストを中心にした交わりが、人々を縛る血縁に基づく支配原理、現代でいえば血統、性別、人種という神話から解放するということ、そして、世のさまざまな常識や倣いというものは、これまでのようにいのちを奪う力にはなり得ないということ、欲望もまた然りだということ、さらには束縛の言葉を、もはや恐れることはないということが明らかにされる。人々を縛りつける枷を打ち砕きながら、人々が連帯する交わりへと切り結ぶ出来事がここに起きるのだと言える。

 古代社会で力を振るっていたさまざまな支配原理は、優生思想、DNA神話、固定化される経済格差の神話というように、かたちを変えて今なおわたしたちを脅かす。近代社会のもたらした迷信をも、御子を宿したマリアの喜びは打ち砕き、人々を解放する。マリアの不安と喜びは、期せずして『ヨハネによる福音書』16章33節にあるキリストの言葉を証しする。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。わたしたちも、この言葉を証ししていく者となることを究極の喜びとしたい。クリスマスは間近に迫っている。

2018年12月9日日曜日

2018年12月9日(日) 説教「聖書の言葉の実現」 稲山聖修牧師

2018年12月9日
「聖書の言葉の実現」
ルカによる福音書4章16節~21節
説教:稲山聖修牧師


 故郷ナザレでの主イエス・キリストの物語は何ともほろ苦い。『ルカによる福音書』の場合では、主イエスが一人ナザレに身を寄せ、普段通り安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとしてお立ちになる。手渡されたのは『イザヤ書』の巻物。『イザヤ書』は預言者イザヤのわざをめぐる物語だ。
 主イエスが目を留めた『イザヤ書』の箇所は、61章2~3節と言われる。今朝の箇所でイエス・キリストが目を留めた箇所と、テキスト本来の箇所との決定的な違いは、主イエスの言葉には「報復」という言葉がないところ。これは実に決定的だ。なぜなら、「書き記された神の言葉」としての聖書の言葉が実現した以上、同害復讐法に根ざすところの考え方から全ての民は解放されることになるからだ。当初人々は主イエスをほめ讃える。その声の中で主イエスの出自が述べられる。「この人はヨセフの子ではないか」。マルコやマタイの場合では「マリアの息子」・「母親はマリア」とされるが、『ルカによる福音書』の場合は手が加えられる。つまり家族としてはとりたてて課題のない家族の出身であるとして描かれる。


 ところで、語り手の話が自分に迫らなければ、人は距離を置いて誉め讃えることができる。 他方、聖書の言葉の実現が、人や世のあり方に変化をもたらしたり、社会に大きな変革を求める場合、自ずと雑多なわだかまりや敵意が出てくる。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれと言うに違いない」と始まる主イエスの言葉に、会堂に集う人々の表情は次第に険しくなる。そして「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」との言葉に続く旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語に基づくところの、救いは、律法に定められたイスラエルの民からではなく、イスラエルの民の外部、すなわち異邦人から及ぶものなのだとの話にいたると、人々は皆憤慨し、イエスを町の外に追い出して山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたとさえ、『ルカによる福音書』には記される。


 それにしても「聖書の言葉の実現」が、会堂に集まった人々に喜びや慰めではなくて、憤慨や怒りや殺意さえもたらしてしまうのは皮肉だ。なぜこんなことが起きたのか。それは聖書の言葉の実現としての御子の受肉、すなわちイエス・キリストの誕生と生涯が、多くの人々の目からは隠されているという意味で、秘義であったからではなかろうか。この秘義が露わにされ、啓示されるという出来事を指し示す使命が、クリスマスの物語には託されてはいなかったかと思うのである。


もっとも初期に記された福音書である『マルコによる福音書』にはクリスマス物語は記されない。おそらくそれはまだイエス・キリストの「人の子」としての働きが、まだ人々の心に深く、熱を帯びて刻まれていたからではなかったか。そして、後の世に記された福音書では、なぜクリスマスの物語が記されていった事情としては、教会のわざの中で、イエス・キリストの教えとわざが、教会の交わりの現実から隠されてしまうこともあったからだ、と受けとめることもできるだろう。成立が最もわたしたちの時代に近いとされる『ヨハネによる福音書』において、「聖書の言葉の実現」とは次のように記される。それは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。物語としての特性がそぎ落とされた、スリムな言葉だとも言えよう。けれどもこの言葉に示される出来事がどれだけ多くの、名も無き人々に喜びをもたらしたのかといえば、わたしたちはさらに深く、繰り返し聖書の言葉を味わう必要がある。聖書の言葉の実現を喜び、その実現への喜びを通して、世の様々な変化や激動の時代に向き合いたい。この待降節、救い主イエス・キリストの誕生を待ち望みながら。

2018年12月2日日曜日

2018年12月2日(日)  説教「主はわたしたちの救い」 稲山聖修牧師

2018年12月2日
「主はわたしたちの救い」
エレミヤ書33章14節~16節
説教:稲山聖修牧師

 預言者エレミヤの活動した時代は、イスラエルの民が平和に暮らせる世ではなかった。繁栄を極めたソロモン王の治世のその実は、今でいう所得の格差が身分によって固定される問題を伴っていた。ソロモン王の没後、国は分裂する。北部はサマリアと都とするイスラエル王国、南はエルサレムを都と定めたユダ王国。経済的に繁栄を極めたイスラエル王国では、その後アッシリア帝国という覇権国家に呑み込まれ、移住したイスラエル12部族のうち10部族は姿を消す。残るは南のユダ王国だけだ。ユダ族とベニヤミン族のみが生き残った。


 問題はアッシリアの牙だけではない。ユダ王国の隣にはエジプト王国。北からはアッシリア帝国の勢力圏から、新たにバビロニア王国という新興国が現れる。かつてソロモン王が妃を迎えていたエジプト王国を、ユダ王国の歴代の王は頼るようになるが、人の力や軍事力に頼って国土を守ろうとする人々を諫める預言者が現れる。エレミヤがその人だった。「エジプトに頼るな」と説くエレミヤは語る。「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃墟となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に70年の間仕える」(エレミヤ書25章8~11節)。バビロニアに降伏して、マイナスから始めなくてはならないと説くエレミヤ。その言葉は決して受け入れられはしなかった。王から遠ざけられ、民からは裏切り者呼ばわりされ、言葉礫や石礫を浴びせられ、いのちすら狙われ、身柄を拘束される。むしろ国の未来の安全神話を説く偽預言者が歓迎される始末だ。


 けれどもエレミヤは同時に語るのは、バビロンに捕虜として連行され、長らくそこに奴隷として暮らす屈辱が人々に何をもたらすのかという話。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。バビロン捕囚の苦難の先にはいったい何が待ち受けているのか。預言者エレミヤは、メシアの到来を語る。バビロン捕囚の後、幾度もイスラエルの残りの民には困難が待ち受けていた。ペルシアに解放されエルサレムに帰還した後も、そこには荒れ果てた廃墟を遺すのみ。新たに神殿を再建した後も、異邦人の支配の下で、更に神殿は無残にも破壊される。果てにはローマ帝国の支配に置かれ、政治的に利用されるばかりの神殿となる。けれども、それこそローマ皇帝の命令の中で右往左往するほかない、マリアの身体に宿された救い主を遙かに仰ぎ見るかのように、エレミヤは「主は正義の若枝を生え出でさせる」との希望を語る。樹が倒されても、そこから若枝が芽吹くように、深く根を下ろしたイスラエルの民の歴史を基にして、民の垣根を越えていく新たな交わりが、神の国の訪れの中で生まれるに違いないとの確信をエレミヤは語った。この祈りの中で、御子イエス・キリストが救い主として世に遣わされるのだとのメッセージをわたしたちは聴く。


 わたしたちは常に聖書を開く度に、必ずしも「ありのままでよい」と耳障りよく響くばかりではない声を聞く。「主なる神に立ち返れ!」と聖書は常に語りかける。同時にわたしたちは、その言葉に根を下ろしていれば、万事休するという事態に遭っても、必ず逃れの道が備えられると知っている。いのちを授かった女性の旅は、今でもその危うさから憚られるというものだ。けれどもその道筋はあらゆる禍いから護られ、全うされていったのだと聖書はわたしたちに知らせる。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と『ヨハネによる福音書』にはある。バビロン捕囚への道は、いつの日か救い主イエス・キリストにいたる道へと変容する。クリスマスの出来事へのあゆみは、今、始まったばかりだ。

2018年11月25日日曜日

2018年11月25日(日) 説教「就労時間を問わない雇い主の譬え」 稲山聖修牧師 

2018年11月25日
説教「就労時間を問わない雇い主の譬え」

マタイによる福音書20章23節~29節
稲山聖修牧師

 人が汗水を流して働くという現実は今も昔も変わりない。「ぶどう園の労働者の譬え」では次のような話がある。堅実な雇用者でもある主人が、ぶどう園の労働者を雇うため朝早く出かけていった。手当ては日給制。一日1デナリオン。概ね8,000円から10,000円に相当する。この賃金から見れば、ぶどう園の主人は雇用した労働者を疎かには扱っていないと分かる。夜明け、朝の9時ごろ、12時と3時ごろに主人は募集を行い、幸いにも人集めができた。

 物語が読者の常識とは異なる展開を見せるのは夕方の5時ごろという、今でいえば夜のシフトに入るような時間帯に募集した人々をめぐる話。この時代は24時間制のシフトでの仕事は奴隷か羊飼い、あるいは兵士という仕事であり、一般の労働者は遅くまで汗を流さない。ぶどう園の主人は尋ねる。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。彼らは「誰も雇ってくれないのです」と言った。何かの事情があったのか。諸事情から意欲に欠ける人々だったのか。主人は「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と語りかける。日没とともに業務が終わる。主人は現場監督に声をかける。「労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」という、働き手には待ちに待ったその時。夕方の5時頃という、長く見積もって二時間弱しか勤務しなかった被雇用者には1デナリオンずつ支払われる。早朝から雇用された人々はもっと支払額があるはずだと思ったところ、これまた1デナリオン。ぶどう園のある地域。概ね空気は乾燥し、日射しも強い。当然ながら不平が出る。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。一見すれば、現代の高校生からしても奇天烈だ。この雇用者は何を考えているのだろうかという話にさえなるだろう。話のおかしさは、ぶどう畑の主人自らが赴いて、本来は奴隷あるいは農奴の仕事でさえあった労働のため、金銭の支払いを前提にした人集めをし、主人自らが手配師を通さず雇用するまでに及ぶ。主人自らが日雇い労働者のたむろする場に出かけて声かけすること自体、非常識だ。さらには不平を述べる非正規雇用者に主人が「友よ」と呼びかけているところも分からない。日雇い労働者にそのような声かけをする雇用者など現代ではまずあり得ない。実は見落としがちなのは、この話が『マタイによる福音書』の天の国、つまり神の国の譬えというところなのだ。

「ぶどう園」とは、生きるにあたってただちに安らぎに包まれるパラダイスではなく、徹頭徹尾わたしたちが暮らすこの世である。けれども、世にあって与えられている仕事とはぶどう園での仕事、つまり、『ヨハネによる福音書』では「わたしはまことのぶどうの木」と記されるように、何らかの仕方でイエス・キリストにつながる働きである。ぶどう園の労働者はその実りを集める働きを託されたのである。そして問題とされる就労時間についてであるが、これはわたしたちの「いのちの長さ」を示していると受けとめるのも可能だ。
親しい人を天に送る。自然災害は年齢を問わずに、いのちを奪う。現代では20代から30代の死因の最たるものは自死。若者には夢があり活力があふれるとは言えない時代を迎えて久しい。さらには、病院の小児病棟に関わっていたお仕事やご家族のみが知る世界、いや、話を煮詰めれば、直接には陽の目を見るような仕方で生涯を全うできなかった小さないのちすらある。しかし聖書が伝える神の国では、いのちの長短を問わず、一人ひとりに、一日働いた証しである1デナリオンが祝福のしるしとして与えられる。いのちはその長さによって祝福を受けるのではなく、生を受けたという事実そのものにより祝福に包まれる。資格や能力などは問われない。

それではぶどう園の主人とは誰のことか。それこそ主なる神である。神がイエス・キリストを通して備え給う祝福は、わたしたちの暮しの中では最も軽んじているところから臨む。それが神の眼差しの中で、豊かな実りを備えられていく秘義である。生涯の長さを問わず、いのちが豊かに祝福される中で、人は人生の収穫を授かり、十全な祝福を受ける。その喜びを分かち合うのが、託された「1デナリオンの働き」ではないだろうか。

2018年11月18日日曜日

2018年11月18日(日) 説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」稲山聖修牧師

2018年11月18日
説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」
ルカによる福音書9章57節~62節

稲山聖修牧師

都市国家ソドム滅亡の物語は、旧約聖書の中でもよく知られている。物語の軸は族長アブラムと甥のロト。家畜が殖えすぎた結果生じた親族間の紛争を避けるため、アブラムはロトに自分の望む道を選ばせる。族長としての権利の一時的な留保である。そして甥ロトとは異なるあゆみを、アブラムは選んだ。この知恵によって、辛うじて骨肉の争いは避けられた。ロトが選んだ道はヨルダン川流域の低地一帯の肥沃な土地。ロトの道は、かの都市国家に通じていた。他方、アブラムは別段ライフスタイルを変えることなく天幕に暮し続けた。
 ところで、貧しさが極まると人は正常な判断ができなくなる。これは快適さの頂点にいても言えるようだ。繁栄の極みにあったソドム。都市の滅びを告げる御使いの言葉に、ロトの家族の対応は決して毅然としたものではない。ロトの伴侶は逃避行の最中、御使いの言葉に反して後ろを振り返り落命する。結局のところ、二人の娘の他には、ロトは家族を失うこととなる。決してハッピーエンドを迎えない、苦味を伴う物語には、神のとの関わりの中で展開するリアリズムがある。

 主イエス・キリストも福音書の書き手も、この物語を知っていたはずだ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。主イエスの今朝の言葉である。けれどもそれは、御使いがロトに求めた決断とは、やや異なるだろう。キリストに従う道は、単なる破滅からの逃避行とは必ずしも一致しないからである。
 「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従ってまいります」と語る人にキリストは応える。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」。キリストに従う道とは、世の交わりの只中で、世の眼差しとは異なる視点を授かることだ。同時にこれは、世の様々な中傷を恐れないことでもある。彼にその勇気はあっただろうか。
 また「わたしに従いなさい」と呼びかけられた別の人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と返す。もし弔いが本当ならば、この人はこの場に居合わせてはいないはずだ。問題は、弔いを引き合いに出して招きを断ろうとしたところにある。さらに他の人が言うには、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人はキリストに従う上で、何か失うものがありはしないかとの恐れから逃れられずにいる。家族との関わりと、イエス・キリストとの関わりを別個に考えている。心定まらず家族に依存してしまっている。主に全幅の信頼をおけない悲しみがある。わたしたちにも決して他人事ではない。


 イエス・キリストに従う道。劇的な変化を直ちにもたらすかと問われれば、必ずしもそうではない場合もある。けれども、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に心がけるべきです」との『ローマの信徒への手紙』のパウロの言葉には、キリストを中心とした交わりの中では、単に「足るを知る」だけに留まらず、分かち合いの喜びがあると伝えようとしているメッセージがある。「隣人」という言葉には、血縁・地縁・文化・言語・国籍・世代・性別を超える寛容さが示されている。そこには神から授けられたいのちの鼓動が響く。この交わりこそが「神の国の写し」なのではないだろうか。後ろを振り返らず、キリストを仰ぎながら、感謝の喜びの中で、主にある交わりを広げていきたい。

2018年11月11日日曜日

2018年11月11日(日)幼児祝福式礼拝 説教「このおさなごを見なさい」


 018年11月11日:幼児祝福式礼拝
「このおさなごを見なさい」 ルカによる福音書3章7節~11節 説教:稲山聖修牧師

バプテスマのヨハネという人がいた。荒れ野に暮し、聖書を味わい、らくだの衣を身に纏い、革の帯を締め、いなごと野蜜を糧として生きていた異形の漢。ヨハネに課された役目は何か。それは、神の正義が実現するそのしるしとして、救い主の訪れを人々に告げるためであった。神の正義は何か。それは貧しい人々が不安から解き放たれ、悲しみに暮れる人々が涙を拭われ、あらゆる不公平・不平等がとりはらわれて、人々がみな分かち合いながら暮らすという道筋でもあった。人々はもはやその中では心の痛みを覚えることなく、ひたすら野の花のように素直に生き、他人と自分とを較べず、感謝とともに喜びに包まれるのである。神の国はその結晶だ。

けれども世には様々な暮しがある。豊かな生活を楽しむ人もいれば、貧しさの中で学ぶ機会も得られない人々もいる。誰からも見放されて悲しむあまり、流す涙も失ってしまった人々もいる。善意の言葉に耳を傾けなくなってしまった人もいる。バプテスマのヨハネは人々に呼びかける。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。ヨハネは心砕かれた人々に、清めの洗礼を授けていく。群衆の中にその時代、人々を導いていた律法学者やエルサレムの神殿で力をほしいままにしたサドカイ派の人々の姿を見出した。律法学者やサドカイ派の人々は、ヨハネから清めの洗礼を受けたところで、その暮しのありようを変えるはずもない。だからこそヨハネの言葉はこだまする。「<我々の父はアブラハムだ>などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。名もない群衆は、この厳しい問いかけに戸惑いながらもどうにか応えることができる。「では、どうすればよいのですか」。群衆はなすすべを知らないからこそ、ヨハネに「どうすればよいのか」と問うことが赦されている。その言葉は単純明快で「下着を二枚もっている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。分かりやすくいえば、財産を独り占めするなということである。徴税人に対しても、お金を人からだまし取るなという。兵士に対しても、略奪せず、定められた手当てに感謝せよと語る。このような人々は人として正気に立ち返り、分かち合いの交わりを育むチャンスを与えられている。この分かち合いにより、人々は貧しさから解放される以上に、自分は一人ではないのだとの平安と和解への道に導かれる。
けれども権力をもち、生活水準が高く、ことさら暮しを変えようとはしない人々は、ヨハネの言葉に耳を貸そうとはしない。けれどもだからといってヨハネは黙ろうともしない。ただ語り続ける。なぜならばその働きは救い主を指し示す一本の指としての働きだからである。
それでは、救い主イエス・キリストは、果たして誰を祝福したというのか。それは群衆の中にいた人々が連れてきたこどもたちである。この子はどのようなこどもたちであったというのか。孤児だったかもしれない。障がいという特性をもったこどもたちだったかもしれない。けれども、こどもたちを連れてきた人々を立ち退かせようとした弟子のさまを、主イエスは深い怒りとともにお叱りになり、語るには「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の正義の実現はこの子たちのなのだ」。このとき、イエス・キリストの眼差しは弟子にも、大人にも向いてはいない。まさしくこどもたちを抱きあげて、その弱さを祝福された。主イエスはこどもたちに、親御さんの言うことをよく聞くようになりなさいと教えたのでもなく、学校に連れて行って勉強させようとしたのでもなく、行儀よくせよと仰せになったのでもない。名前さえ知らないこどもたちを抱きあげて祝福されたのである。どのようなこどもであっても、この祝福から漏れることはない。なぜなら主イエス・キリストは、神の子として世に生まれ、こどもたちの苦しみや子育ての葛藤を、わが身に担う歩みを辿ったからである。ヨハネはキリストを指し示す。キリストはおさなごを祝福し、人々に、神の国の結晶としてお示しになった。「あの方は栄え、わたしは衰えなくてはならない」とヨハネは語った。キリストの栄光は、今や栄えの中にあるこどもたちに向けられている。たとえわたしたちが衰えても、こどもたちへの祝福は永遠なのだ。

2018年11月4日日曜日

2018年11月4日(日) 説教「黄昏は彼方の朝焼け」 稲山聖修牧師

2018年11月4日
「黄昏は彼方の朝焼け」
ヨハネによる福音書11章17節~27節
稲山聖修牧師


何かを描くとき、わたしたちは線をもちいて素描する。しかし実際にはそのような線は存在しない。光と影が織りなす世界を「線」として受けとめはするものの、実は光の反射の度合いに応じて色彩として認識している。身近で親しい々が逝去された場合でも同じようなことがいえる。逝去された方々は、異なる世界へと逝ってしまったかのような悲しみに暮れ、自分でも予想だにしなかった、こみあげる嗚咽に当惑しさえもする。けれども聖書はその悲しみに留まるばかりの生き死にの理解には立たない。
 聖書を突き詰めれば、逝去された方々が主のみもとへ召される場であるところの「天の国」が、実はわたしたちと線引きされた世にあるのではなくて、天国のほうがわたしたちの現実の世の只中に突入してくるという地平が開かれる。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と、『ヨハネの黙示録』21章3~4節に表現されている世界。いのちの光に包まれる中で「逝去された方々の復活」の出来事が理解され、救い主の復活の姿に結晶していく。
 『ヨハネによる福音書』では「いのちの光」が強調される。そのみずみずしい描写が本日の「ラザロの復活」の物語にある。ラザロの病は誰の目から見ても癒しがたいものであった。姉妹たちは、イエスのもとに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」とのメッセージを伝える。治療が難しいありさまは、イエス・キリストが示す。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。言葉尻を捉えれば、この病は死に至る病であると主イエスは家族に宣告しているようなものだ。しかし立ちはだかる死の壁が決して絶対ではないことも同時に語る。主の招きに応え、イエス・キリストを通して永遠のいのちに立ち入ることが、わたしたちには開かれている。かくてラザロはその地上の生涯を悲しみの中で終える。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。その場には、時にキリストを呪い、石を投げようとさえしたユダヤ人の人々もラザロを悼みにきているのだ。敵対関係にある人々が、ラザロの痛みを通し、いのちにいたる深い交わりをともに授かっている。新しいいのちの兆しが暗示されている。それは主イエスが、ラザロの死に悲しむマルタに語る通りだ。「<イエスが、あなたの兄弟は復活する>」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活のときに復活するすることは存じております」といった。マルタも死者の復活を知ってはいるが、それは彼方の出来事に留まったままだ。主イエスはそんなマルタに迫る。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは生と死の線引きは、わたしたちの受けとめ方と代わらないのであり、実はその境界線を超えていくキリストが、立ちはだかる死の壁を突破していくとの希望が語られる。いのちの終わりは誰もが避けられない。しかしそれは此方の黄昏と彼方の日の出の「あいだ」に過ぎない、暫定的なものだ。

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。もしこのパウロの言葉が、すでに眠りについた「永眠者」として刻まれる人々にも向けられていたとするならば。神のいのちの力に導き出されていく歴史として鼓動しながら、イエス・キリストを通してともにおられる逝去者の方々もまた、この礼拝にわたしたちと一緒におられることとなる。「永眠者」の方々は、わたしたちが神の愛に包まれ、喜びの中で生きる「根」となってくださった方々でもある。その根の最もふかいところにはイエス・キリストがおられる。このいのちのつながりを、永眠者記念礼拝の中で、わたしたちは静かに確かめる。

2018年10月28日日曜日

2018年10月28日(日) 説教「成果主義を超えていく道」稲山聖修牧師

2018年10月28日
「成果主義を超えていく道」
ルカによる福音書12章13節~21節
稲山聖修牧師


 ハロウィンは教会ともキリスト教とも本来は何のゆかりもない。けれどもその祭りが行われる時期と教会の暦は無関係ではない。今でいう諸聖人の日。中世の教会では、神とキリストのもとに地上での働きを祝福された諸々の聖人の憩う天国、現世、世の人々がその過ちのゆえに死後に償いを行う煉獄、そして大罪を犯した人々が凍りづけにされる地獄という四層の世界を伝えた。聖人の徳を教会を通して分けてもらい、そして少しでも煉獄での苦しみを短くしようとするクーポン券が献金の領収書の役目も果たしていた。それが贖宥状。死後の世界にまで功徳という成果が竿を差すという考えが常識だったが、実は聖書にはそんな考えはない。この発見が当時の欧州社会のあり方を覆す「宗教改革」につながった。

 成果主義という言葉は2018年現在の世の中でも底知れない不気味さを伴っているが、聖書に記される主イエスはどのような考えに立ったのか。『ルカによる福音書』の箇所では、ある相談事がキリストのもとに持ち込まれる。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。この申出にキリストは厳しく応じる。「だれがわたしを、あながたの裁判官や調停人に任命したのか」。この相談事をきっかけにする教えは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。続く主イエスの譬え。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは<どうしよう。作物をしまっておく場所がない>と思い巡らしたが、やがて言った。<こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と>。しかし神は、<愚かなものよ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか>と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ」。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と極めて厳重に指摘されるのは、わたしたちが何でも自分だけのものにしたがる傾向を帯びているところ。譬え話はその傾向を分かりやすく表現する。キリストは人間に「自分のものは自分のものなのだ!」と臆面も無く主張するさまを見抜く。そしてそのためにどのような手段も選ばない、血なまぐさい争いの姿を観る。

 それではどうすればよいのか。わたしたちが仮に経済的に富める立場に立つとするならば、続く「野の花・空の鳥の譬え」を真剣に味わいながら、その富を分かち合うわざを誠実に考えることだ。ただしこのわざは貧しい立場にある人のほうが踏み出しやすい世界かもしれない。なぜなら神が備えてくださった宝は、経済的な蓄えに限らず、時間、奉仕、思い、祈り、時には病や悲しみにも隠されているからだ。山上の説教で「貧しい人々は幸いだ」と語り、貧困や悲しみのどん底に置かれている人々に、交わりと分かち合いの豊かさを説いたのはイエス・キリストである。その分かち合いの喜びを、愚かな金持ちが知らなかったとするならば、それこそ不幸というものだ。本来はともにいるはずの畑を耕す労働者や家族の姿は譬え話のどこにも描かれない。成果主義の行き着く果ては、交わりの断絶に尽きる。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章15節に記す。「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」。いったいこの言葉のどこに成果主義があるというのか。宗教改革者たちは、人はそのわざによって天国に居場所を与えられるという、かの時代の成果主義の壁を破った。イエス・キリストが生涯を通してお示しになったのは、わたしたちが天国へ行くのではなく、天国がわたしたちのもとに来るという出来事だ。その出来事を胸に刻みながら、世の成果主義とは別の道が示されていることを証ししたい。11月からアドベントやクリスマスに向けて、教会のわざはますます豊かになる。みなさまにはお疲れよりも主なる神の平安と喜びが先立つように願ってやみません。

2018年10月21日日曜日

2018年10月21日(日) 説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」稲山聖修牧師

2018年10月21日
説教「苦しみ、憤り、微笑むキリスト」
マタイによる福音書5章1節~12節
稲山聖修牧師

「山上の垂訓」。敵を愛しなさいとの教えと並び、世に広く知られている主イエスの教えだ。その教えを傾聴しながらも、わたしたちは主イエスの言葉に向き合った人々の姿をいつの間にか忘れる。教えの聴き手は、教えの宣べ伝えや病の癒しをきっかけに出会った、時にエルサレムの人々からは異邦の地と蔑まれた地に暮らす人々の群れ。この群れは主イエスの回りに「集った」のではなく「従った」と記される。この文章を踏まえると、名だたる弟子たちには群衆と違いがあるようには思えない。

「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたがより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。この教えは一般的な常識や道徳の逆を行く。「心の貧しい人」とは謙遜どころか、経済的にも貧困の最中にある人々を指す。但し、世の倣いから落伍し、暮しに汲々とするほかない民は、決して単数形では記されない。キリストから「幸いだ」と示されるとき、困窮にある人々は分かち合いの中に置かれ、神の国のモデルとなる。「悲しむ者」も決して単数形では記されない。慰めによって全人的な支えを必ず受ける。「柔和な人々」、即ち暴力を前にして無力なままの人々にこそ、神は必ず居場所を与える。不正な世のあり方を前にしながら義憤に駆られるほかに道のない人々は、そのような憤りを覚える必要がないところを備えられる。憐れみ深い人々は、その憐れみの故に交わりから絶たれることはなく、心の清い人も、その繊細さ故に苦しみを知ることはない。平和(シャーローム)を実現する人々も幸いと呼ばれ、キリストからの祝福を授かる。世の只中に身を置き、ときにいのちすら奪われていく人々でさえ、神の祝福から決して退けられない。

イエス・キリストは自ら、極貧をを知り、涙を流し、なすすべなく立ち尽くす人々の只中に分け入り、迫害を恐れず神に備えられた道を辿り、痛みを分かち、生きづらさを抱えた人々とともに立ち、平和を喜び、人々に代わって世の不当な暴力を一身に背負われた。主イエスは「悟り」を開いたり、超然とした態度でわたしたちに向き合いはしない。「向き合う」というよりも、「ふとそばにいてくださる」というあり方。山上の垂訓はそのような姿を示す。このような慰めと祝福によって十全に肯定された「大勢の群衆」は、新しい役目を授かる。それは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」との役割だ。自らを蔑むほかない者が、今や世の光としての輝きに包まれて、キリストの証しを立てるのだ。

 パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1~2節で、パウロは「この世に倣うな」と記す。世の倣いを教会の交わりに持ち込んでは自己満足しがちなわたしたちには強烈な教えだ。それでは誰に倣うのか。それは誰に従うのかとの問いかけに等しい。キリストに従う道。この世と深く関わりながら、この世に倣うことなく歩んだのがイエス・キリストだ。その姿をおぼろでありながらも、映し出す群れこそがわたしたちである。病の中にも、悲しみの中にも、キリストはそばに立ち給う。

2018年10月14日日曜日

2018年10月14日(日) 説教「大きな挫折による新しい目覚め」稲山聖修牧師

2018年10月14日
「大きな挫折による新しい目覚め」
マルコによる福音書14章66節~72節
説教:稲山聖修牧師


「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。破れに満ちた人間が、神に立てる誓いに潜む欺瞞を鋭く抉るキリストの教えがあるのにも拘らず、弟子は軽々に主イエスに誓う。ペトロの場合。『マルコによる福音書』14章29節以降の箇所では「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」とあり、31節の「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主張する。これは結果としてキリストの前に立てた誓いとなっている。ペトロの誓いが砕かれるさまを、今朝の箇所では実に生々しく描く。
 「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。<あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた>。しかし、ペトロは打ち消して、<あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない>と言った」。女中の眼差しに、ペトロは堪えられない。雄鶏の声。女中は再び「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出す。打ち消すペトロ。居合わせた人々は「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と連呼する。キリストとの関わりを拒絶するペトロの言葉から、より鮮やかにその関わりが浮かびあがる。呪いの言葉さえ口にしながらペトロは主イエスを知らないと誓う。キリストとの誓いを破るという存外の誓いを立てるという歪み。その歪みを告発するかのように、再び響く鶏の声。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」というキリストの言葉を思い出し、ペトロは号泣する。   
 ペトロはイエス・キリストに立てた誓いを破ることを通してのみ、主イエスの教えを全身で受けとめるほかにはなかった。キリストへの誓いを破るわざ。この大きな挫折を、わたしたちはわが身のこととして受けとめきれるだろうのか。しかしながら、キリストを頭と仰ぐ教会の交わりは、この挫折を書き遺した。そこにはペトロを深く包むキリストの愛への確信があった。今朝の箇所には何者をも口を挿むことを赦されない信仰の養いが記されている。過ちによって深く傷つき、その傷を忘れられなくなるペトロの涙。これもまたパウロの記す「イエスの焼き印を身に帯びる」という、身近なところにある神の秘義ではないだろうか。「信仰の継承」とは本質的には教理を刷り込む類のものではない。むしろ立ち直れるかどうかが危ぶまれるほどの挫折を通して初めて与えられる目覚めにある。この目覚めと気づきなしには、わたしたちの信仰は頑ななあり方に留まる他にはないだろう。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章25節以降に記す。「兄弟たち、自分を賢い者だとうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。<救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である>」。神の契約と人の誓いとは根本的に異なる。救いの契約とは神自らがキリストを通して備えた「いのちの喜び」の約束でもある。多くの交わりと出会いの中で、救い主キリストは、いのちの喜びをわたしたちに贈ってくださった。これこそ、復活の出来事に包まれ、神の愛の力を注がれたペトロの、見違えるような使徒としての働きの原体験ではなかったか。今朝の箇所はわたしたちの高慢さ、あるいは人を裁いたり攻撃するような言動を打ち砕く神の言葉でもある。今朝は神学校日礼拝を行った。常に養いの中にあるわたしたち。この物語を深くふかく受けとめたい。


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2018年10月7日日曜日

2018年10月7日(日) 説教「イエス・キリストの沈黙」稲山聖修牧師

2018年10月7日
「イエス・キリストの沈黙」
マルコによる福音書14章53節~61節
稲山聖修牧師

不当に拘束された上でのイエス・キリストの裁判。この裁判そのものは、果たして正当であったのか。裁判はエルサレムの神殿では行われない。時は夜である。この二つの事柄だけでも裁判の胡散臭さが漂う。『マルコによる福音書』はこの点を見逃さない。「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まってきた」。衆目を前に憚らない者が夜密かに集まる。これこそがこの裁判のおかしさだ。しかし主イエスの弟子は、恐怖に駆られ徒に逃れてしまった。ペトロはこの場では裁判の不当性の指摘もできず、さりとて関係を断ち切ることもできずという、煮えきらない態度とともに佇んでいる。「遠く離れてイエスに従う」。主イエスの仲間だと指さされるのは恐ろしい。さりとてキリストを見捨てるわけにも行かない。少なくともその仕草からは実に中途半端なペトロを見て取れる。
 この惨めな姿を描いた後、物語の書き手は「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と記す。裁判は不当だったのである。最高法院(サンヘドリン)は全員一致の採決を認めない。人による全会一致は必ず過ちを含むというイスラエルの歴史に学んだ伝統が活かされるからだ。その伝統が蔑ろにされるならば、この裁判は不当なのである。偽証は数を集めるほど証言が食い違う。誹謗中傷や心ない言葉を恐れる必要は無い、ということを、囚われの身のイエス・キリストは自ら証しする。
 大祭司は業を煮やし直々に尋問する。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。主イエスは黙ったままだ。イエス・キリストは恫喝に応じない。不正な裁判という同じ土俵には決して立とうとはしないのがキリストの沈黙であり、沈黙という仕方での「戦い」なのだ。「イエスは黙り続けて何もお答えにはならなかった。そこで、大祭司は尋ね<お前はほむべき方の子、メシアなのかと言った>」。イエス・キリストは沈黙を通して、大祭司からも思いがけない信仰告白の言葉を引出す。主導権はイエス・キリストの手中にある。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章17節で異邦人キリスト者に語る。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接木され、根から豊かに養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。今朝の福音書の箇所は、キリストに向けたあらゆる不利な証言が全て裏目に出るという大祭司の目論見の失敗、真理を前にした世の力の無力さを通して、イエス・キリストのいのちの光が際立つ場面でもある。「古代ユダヤ教の権力者」というオリーブが接木のために折り取られた瞬間だ。本日は世界聖餐日・世界宣教日礼拝である。あらゆる不正の中で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しに励む教会があり、働き人がいる。教会の交わりは個人的な交わりを育むだけのものではなくて、キリストを頭にした、世界中に広がる、国境や文化をも超えたネットワークを作りあげる枝である。そのことを忘れずに、数多の自然災害の只中にありながら、なおも真理の証しであるキリストの姿に頭をあげたいと強く願う。

今回の写真は、礼拝堂の他、こひつじ保育園の花壇のお花、保育園児が育てた稲穂、保育園のワタの花(種は福島県から預かったもの)、そして、台風対策で剪定をしたユーカリの木です。



 

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