「開かれた神の恵みのとびら」
ルカによる福音書2章8節~17節
説教:稲山聖修牧師
羊飼いが誰からも顧みられなかった様子は、マリアと直接関わりのないこの人々に主の天使が臨むというところからも伝わる。羊飼いは自由意志を抱けず、経済構造の中に絡め取られた奴隷のあり方を強いられていた。しかし、主の天使が臨んだときにに、羊飼いは主のしもべとしての居場所を授かる。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。その様子は実に劇的だ。
続く言葉は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。「民全体」とは、ローマ帝国の住民登録の対象となった人々よりも一層の広がりがある。それはこの羊飼いたちであり、後に主イエスの宣教の中で出会った人々であり、異邦人やユダヤ人を問わずイエス・キリストに対して十字架への道をこしらえた人々をも含む。そしてクリスマス物語に戻れば、異邦の地から訪れた三博士にも及ぶ。「今日ダビデの町で、あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。この宣言の後、羊飼いたちに主イエスの誕生を告げた天使は、実は天の大軍の導き手でもあったことが記される。天の大軍による神讃美がこだまする。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。神の栄光がたたられる場所では、必ず平和が備えられるとの宣言だ。戦争の間にある脆い平和ではなく、主の平安であるシャロームが臨む。羊飼いは、目に見える状況そのものは何ら変わらないのにも拘わらず、そして「夜通し羊の番をする」という過酷な仕事の中で恐らくは疲れきっていたのにも拘わらず、実に活動的なあり方へと変容させられる。この変容をもたらすのは、イエス・キリストとの絆以外の何ものでもない。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主がお知られくださったその出来事を見ようではないか」。土地に束縛された羊飼い。その軛から解放されて赴く先には、マリアとヨセフ、そして乳飲み子がいた。三人の博士たちでさえ、ともすればヘロデ王という世俗の権力に問い尋ねなくてはならなかった険しい道を、誰にも問わず見事に踏破する羊飼い。
御子イエス・キリストの誕生によって励まされ、力を授かることが、これほどまでに自分のあり方を諦めていた人々を奮い立たせるとは、その時代の誰が想像したことだろうか。これもまた処女降誕の出来事と並び、人の目にはあり得ない出来事に違いない。けれども人には不可能なことが、神にはおできになるのだ。
そしてついに羊飼いは、マリアとヨセフ、そして飼葉桶に寝かせてある乳飲み子について天使が知らせてくれたことを人々に伝える。決して雄弁ではない羊飼いが、人々に御子イエス・キリストの誕生を告げ知らせるという出来事もまた、奇跡として記憶されるべき出来事だ。名もない人々である羊飼いは、もはや地上の何者をも恐れる必要はない。なぜなら彼らもまた、天の大軍に護られている御子イエス・キリストとの深い関わりに置かれているからだ。神の恵みのとびらは、こうして開かれる。御子イエス・キリストの降誕を心からお祝いしよう。メリークリスマス!