2018年12月2日日曜日

2018年12月2日(日)  説教「主はわたしたちの救い」 稲山聖修牧師

2018年12月2日
「主はわたしたちの救い」
エレミヤ書33章14節~16節
説教:稲山聖修牧師

 預言者エレミヤの活動した時代は、イスラエルの民が平和に暮らせる世ではなかった。繁栄を極めたソロモン王の治世のその実は、今でいう所得の格差が身分によって固定される問題を伴っていた。ソロモン王の没後、国は分裂する。北部はサマリアと都とするイスラエル王国、南はエルサレムを都と定めたユダ王国。経済的に繁栄を極めたイスラエル王国では、その後アッシリア帝国という覇権国家に呑み込まれ、移住したイスラエル12部族のうち10部族は姿を消す。残るは南のユダ王国だけだ。ユダ族とベニヤミン族のみが生き残った。


 問題はアッシリアの牙だけではない。ユダ王国の隣にはエジプト王国。北からはアッシリア帝国の勢力圏から、新たにバビロニア王国という新興国が現れる。かつてソロモン王が妃を迎えていたエジプト王国を、ユダ王国の歴代の王は頼るようになるが、人の力や軍事力に頼って国土を守ろうとする人々を諫める預言者が現れる。エレミヤがその人だった。「エジプトに頼るな」と説くエレミヤは語る。「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃墟となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に70年の間仕える」(エレミヤ書25章8~11節)。バビロニアに降伏して、マイナスから始めなくてはならないと説くエレミヤ。その言葉は決して受け入れられはしなかった。王から遠ざけられ、民からは裏切り者呼ばわりされ、言葉礫や石礫を浴びせられ、いのちすら狙われ、身柄を拘束される。むしろ国の未来の安全神話を説く偽預言者が歓迎される始末だ。


 けれどもエレミヤは同時に語るのは、バビロンに捕虜として連行され、長らくそこに奴隷として暮らす屈辱が人々に何をもたらすのかという話。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。バビロン捕囚の苦難の先にはいったい何が待ち受けているのか。預言者エレミヤは、メシアの到来を語る。バビロン捕囚の後、幾度もイスラエルの残りの民には困難が待ち受けていた。ペルシアに解放されエルサレムに帰還した後も、そこには荒れ果てた廃墟を遺すのみ。新たに神殿を再建した後も、異邦人の支配の下で、更に神殿は無残にも破壊される。果てにはローマ帝国の支配に置かれ、政治的に利用されるばかりの神殿となる。けれども、それこそローマ皇帝の命令の中で右往左往するほかない、マリアの身体に宿された救い主を遙かに仰ぎ見るかのように、エレミヤは「主は正義の若枝を生え出でさせる」との希望を語る。樹が倒されても、そこから若枝が芽吹くように、深く根を下ろしたイスラエルの民の歴史を基にして、民の垣根を越えていく新たな交わりが、神の国の訪れの中で生まれるに違いないとの確信をエレミヤは語った。この祈りの中で、御子イエス・キリストが救い主として世に遣わされるのだとのメッセージをわたしたちは聴く。


 わたしたちは常に聖書を開く度に、必ずしも「ありのままでよい」と耳障りよく響くばかりではない声を聞く。「主なる神に立ち返れ!」と聖書は常に語りかける。同時にわたしたちは、その言葉に根を下ろしていれば、万事休するという事態に遭っても、必ず逃れの道が備えられると知っている。いのちを授かった女性の旅は、今でもその危うさから憚られるというものだ。けれどもその道筋はあらゆる禍いから護られ、全うされていったのだと聖書はわたしたちに知らせる。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と『ヨハネによる福音書』にはある。バビロン捕囚への道は、いつの日か救い主イエス・キリストにいたる道へと変容する。クリスマスの出来事へのあゆみは、今、始まったばかりだ。