2018年11月25日日曜日

2018年11月25日(日) 説教「就労時間を問わない雇い主の譬え」 稲山聖修牧師 

2018年11月25日
説教「就労時間を問わない雇い主の譬え」

マタイによる福音書20章23節~29節
稲山聖修牧師

 人が汗水を流して働くという現実は今も昔も変わりない。「ぶどう園の労働者の譬え」では次のような話がある。堅実な雇用者でもある主人が、ぶどう園の労働者を雇うため朝早く出かけていった。手当ては日給制。一日1デナリオン。概ね8,000円から10,000円に相当する。この賃金から見れば、ぶどう園の主人は雇用した労働者を疎かには扱っていないと分かる。夜明け、朝の9時ごろ、12時と3時ごろに主人は募集を行い、幸いにも人集めができた。

 物語が読者の常識とは異なる展開を見せるのは夕方の5時ごろという、今でいえば夜のシフトに入るような時間帯に募集した人々をめぐる話。この時代は24時間制のシフトでの仕事は奴隷か羊飼い、あるいは兵士という仕事であり、一般の労働者は遅くまで汗を流さない。ぶどう園の主人は尋ねる。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。彼らは「誰も雇ってくれないのです」と言った。何かの事情があったのか。諸事情から意欲に欠ける人々だったのか。主人は「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と語りかける。日没とともに業務が終わる。主人は現場監督に声をかける。「労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」という、働き手には待ちに待ったその時。夕方の5時頃という、長く見積もって二時間弱しか勤務しなかった被雇用者には1デナリオンずつ支払われる。早朝から雇用された人々はもっと支払額があるはずだと思ったところ、これまた1デナリオン。ぶどう園のある地域。概ね空気は乾燥し、日射しも強い。当然ながら不平が出る。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。一見すれば、現代の高校生からしても奇天烈だ。この雇用者は何を考えているのだろうかという話にさえなるだろう。話のおかしさは、ぶどう畑の主人自らが赴いて、本来は奴隷あるいは農奴の仕事でさえあった労働のため、金銭の支払いを前提にした人集めをし、主人自らが手配師を通さず雇用するまでに及ぶ。主人自らが日雇い労働者のたむろする場に出かけて声かけすること自体、非常識だ。さらには不平を述べる非正規雇用者に主人が「友よ」と呼びかけているところも分からない。日雇い労働者にそのような声かけをする雇用者など現代ではまずあり得ない。実は見落としがちなのは、この話が『マタイによる福音書』の天の国、つまり神の国の譬えというところなのだ。

「ぶどう園」とは、生きるにあたってただちに安らぎに包まれるパラダイスではなく、徹頭徹尾わたしたちが暮らすこの世である。けれども、世にあって与えられている仕事とはぶどう園での仕事、つまり、『ヨハネによる福音書』では「わたしはまことのぶどうの木」と記されるように、何らかの仕方でイエス・キリストにつながる働きである。ぶどう園の労働者はその実りを集める働きを託されたのである。そして問題とされる就労時間についてであるが、これはわたしたちの「いのちの長さ」を示していると受けとめるのも可能だ。
親しい人を天に送る。自然災害は年齢を問わずに、いのちを奪う。現代では20代から30代の死因の最たるものは自死。若者には夢があり活力があふれるとは言えない時代を迎えて久しい。さらには、病院の小児病棟に関わっていたお仕事やご家族のみが知る世界、いや、話を煮詰めれば、直接には陽の目を見るような仕方で生涯を全うできなかった小さないのちすらある。しかし聖書が伝える神の国では、いのちの長短を問わず、一人ひとりに、一日働いた証しである1デナリオンが祝福のしるしとして与えられる。いのちはその長さによって祝福を受けるのではなく、生を受けたという事実そのものにより祝福に包まれる。資格や能力などは問われない。

それではぶどう園の主人とは誰のことか。それこそ主なる神である。神がイエス・キリストを通して備え給う祝福は、わたしたちの暮しの中では最も軽んじているところから臨む。それが神の眼差しの中で、豊かな実りを備えられていく秘義である。生涯の長さを問わず、いのちが豊かに祝福される中で、人は人生の収穫を授かり、十全な祝福を受ける。その喜びを分かち合うのが、託された「1デナリオンの働き」ではないだろうか。