2018年11月18日日曜日

2018年11月18日(日) 説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」稲山聖修牧師

2018年11月18日
説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」
ルカによる福音書9章57節~62節

稲山聖修牧師

都市国家ソドム滅亡の物語は、旧約聖書の中でもよく知られている。物語の軸は族長アブラムと甥のロト。家畜が殖えすぎた結果生じた親族間の紛争を避けるため、アブラムはロトに自分の望む道を選ばせる。族長としての権利の一時的な留保である。そして甥ロトとは異なるあゆみを、アブラムは選んだ。この知恵によって、辛うじて骨肉の争いは避けられた。ロトが選んだ道はヨルダン川流域の低地一帯の肥沃な土地。ロトの道は、かの都市国家に通じていた。他方、アブラムは別段ライフスタイルを変えることなく天幕に暮し続けた。
 ところで、貧しさが極まると人は正常な判断ができなくなる。これは快適さの頂点にいても言えるようだ。繁栄の極みにあったソドム。都市の滅びを告げる御使いの言葉に、ロトの家族の対応は決して毅然としたものではない。ロトの伴侶は逃避行の最中、御使いの言葉に反して後ろを振り返り落命する。結局のところ、二人の娘の他には、ロトは家族を失うこととなる。決してハッピーエンドを迎えない、苦味を伴う物語には、神のとの関わりの中で展開するリアリズムがある。

 主イエス・キリストも福音書の書き手も、この物語を知っていたはずだ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。主イエスの今朝の言葉である。けれどもそれは、御使いがロトに求めた決断とは、やや異なるだろう。キリストに従う道は、単なる破滅からの逃避行とは必ずしも一致しないからである。
 「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従ってまいります」と語る人にキリストは応える。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」。キリストに従う道とは、世の交わりの只中で、世の眼差しとは異なる視点を授かることだ。同時にこれは、世の様々な中傷を恐れないことでもある。彼にその勇気はあっただろうか。
 また「わたしに従いなさい」と呼びかけられた別の人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と返す。もし弔いが本当ならば、この人はこの場に居合わせてはいないはずだ。問題は、弔いを引き合いに出して招きを断ろうとしたところにある。さらに他の人が言うには、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人はキリストに従う上で、何か失うものがありはしないかとの恐れから逃れられずにいる。家族との関わりと、イエス・キリストとの関わりを別個に考えている。心定まらず家族に依存してしまっている。主に全幅の信頼をおけない悲しみがある。わたしたちにも決して他人事ではない。


 イエス・キリストに従う道。劇的な変化を直ちにもたらすかと問われれば、必ずしもそうではない場合もある。けれども、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に心がけるべきです」との『ローマの信徒への手紙』のパウロの言葉には、キリストを中心とした交わりの中では、単に「足るを知る」だけに留まらず、分かち合いの喜びがあると伝えようとしているメッセージがある。「隣人」という言葉には、血縁・地縁・文化・言語・国籍・世代・性別を超える寛容さが示されている。そこには神から授けられたいのちの鼓動が響く。この交わりこそが「神の国の写し」なのではないだろうか。後ろを振り返らず、キリストを仰ぎながら、感謝の喜びの中で、主にある交わりを広げていきたい。