説教「後ろをふりかえらずにあゆむ道」
ルカによる福音書9章57節~62節
稲山聖修牧師
ところで、貧しさが極まると人は正常な判断ができなくなる。これは快適さの頂点にいても言えるようだ。繁栄の極みにあったソドム。都市の滅びを告げる御使いの言葉に、ロトの家族の対応は決して毅然としたものではない。ロトの伴侶は逃避行の最中、御使いの言葉に反して後ろを振り返り落命する。結局のところ、二人の娘の他には、ロトは家族を失うこととなる。決してハッピーエンドを迎えない、苦味を伴う物語には、神のとの関わりの中で展開するリアリズムがある。
主イエス・キリストも福音書の書き手も、この物語を知っていたはずだ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。主イエスの今朝の言葉である。けれどもそれは、御使いがロトに求めた決断とは、やや異なるだろう。キリストに従う道は、単なる破滅からの逃避行とは必ずしも一致しないからである。
「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従ってまいります」と語る人にキリストは応える。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」。キリストに従う道とは、世の交わりの只中で、世の眼差しとは異なる視点を授かることだ。同時にこれは、世の様々な中傷を恐れないことでもある。彼にその勇気はあっただろうか。
また「わたしに従いなさい」と呼びかけられた別の人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と返す。もし弔いが本当ならば、この人はこの場に居合わせてはいないはずだ。問題は、弔いを引き合いに出して招きを断ろうとしたところにある。さらに他の人が言うには、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人はキリストに従う上で、何か失うものがありはしないかとの恐れから逃れられずにいる。家族との関わりと、イエス・キリストとの関わりを別個に考えている。心定まらず家族に依存してしまっている。主に全幅の信頼をおけない悲しみがある。わたしたちにも決して他人事ではない。