「黄昏は彼方の朝焼け」
ヨハネによる福音書11章17節~27節
稲山聖修牧師
何かを描くとき、わたしたちは線をもちいて素描する。しかし実際にはそのような線は存在しない。光と影が織りなす世界を「線」として受けとめはするものの、実は光の反射の度合いに応じて色彩として認識している。身近で親しい々が逝去された場合でも同じようなことがいえる。逝去された方々は、異なる世界へと逝ってしまったかのような悲しみに暮れ、自分でも予想だにしなかった、こみあげる嗚咽に当惑しさえもする。けれども聖書はその悲しみに留まるばかりの生き死にの理解には立たない。
聖書を突き詰めれば、逝去された方々が主のみもとへ召される場であるところの「天の国」が、実はわたしたちと線引きされた世にあるのではなくて、天国のほうがわたしたちの現実の世の只中に突入してくるという地平が開かれる。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と、『ヨハネの黙示録』21章3~4節に表現されている世界。いのちの光に包まれる中で「逝去された方々の復活」の出来事が理解され、救い主の復活の姿に結晶していく。
『ヨハネによる福音書』では「いのちの光」が強調される。そのみずみずしい描写が本日の「ラザロの復活」の物語にある。ラザロの病は誰の目から見ても癒しがたいものであった。姉妹たちは、イエスのもとに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」とのメッセージを伝える。治療が難しいありさまは、イエス・キリストが示す。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。言葉尻を捉えれば、この病は死に至る病であると主イエスは家族に宣告しているようなものだ。しかし立ちはだかる死の壁が決して絶対ではないことも同時に語る。主の招きに応え、イエス・キリストを通して永遠のいのちに立ち入ることが、わたしたちには開かれている。かくてラザロはその地上の生涯を悲しみの中で終える。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。その場には、時にキリストを呪い、石を投げようとさえしたユダヤ人の人々もラザロを悼みにきているのだ。敵対関係にある人々が、ラザロの痛みを通し、いのちにいたる深い交わりをともに授かっている。新しいいのちの兆しが暗示されている。それは主イエスが、ラザロの死に悲しむマルタに語る通りだ。「<イエスが、あなたの兄弟は復活する>」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活のときに復活するすることは存じております」といった。マルタも死者の復活を知ってはいるが、それは彼方の出来事に留まったままだ。主イエスはそんなマルタに迫る。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは生と死の線引きは、わたしたちの受けとめ方と代わらないのであり、実はその境界線を超えていくキリストが、立ちはだかる死の壁を突破していくとの希望が語られる。いのちの終わりは誰もが避けられない。しかしそれは此方の黄昏と彼方の日の出の「あいだ」に過ぎない、暫定的なものだ。
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。もしこのパウロの言葉が、すでに眠りについた「永眠者」として刻まれる人々にも向けられていたとするならば。神のいのちの力に導き出されていく歴史として鼓動しながら、イエス・キリストを通してともにおられる逝去者の方々もまた、この礼拝にわたしたちと一緒におられることとなる。「永眠者」の方々は、わたしたちが神の愛に包まれ、喜びの中で生きる「根」となってくださった方々でもある。その根の最もふかいところにはイエス・キリストがおられる。このいのちのつながりを、永眠者記念礼拝の中で、わたしたちは静かに確かめる。