「神にできないことは何ひとつない」
ルカによる福音書1章26節~38節
説教:稲山聖修牧師
福音書が語ろうとした主イエスの母マリアは、ルネサンス期の欧州の絵画に見られるような王妃のような姿であったかどうかは分からない。それでも今朝の箇所で驚かされるのは、マリアがどのような姿であったにせよ、天使ガブリエルとの出会いについては、平然として物怖じしないところである。マリアの戸惑いはむしろガブリエルのメッセージに向けられていた。「『おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる』。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。その言葉はあまりにも唐突で、前代未聞の出来事に読者をも巻き込む。続くメッセージは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」というものだ。「恐れることはない」と語るメッセージの中身が、実はローマ帝国の支配をも超える、この世の政治的な面だけでなく絶対的な支配にまで及ぶ。平常心でおれるはずのないメッセージ。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるのが精一杯。とは言え『ルカによる福音書』は、受胎告知を喜びの出来事として見事に描く。それにしても、いわゆる処女降誕という出来事は何を示しているのだろうか。
第一には、「人にはできないことを神は必ず成し遂げる」という、神の秘義とメシアの秘密について語るところ。あり得ないはず出来事の前に、人はただ無力であるばかりか、その出来事によってのみ、わたしたちはいのちのかけがえのなさを、限られた人生に見出すことができる。身体の特性やこの世の英達を問わず、誰もが喜びに包まれる出来事は、イエス・キリストなしには起こりえない。その出来事は救い主を宿したマリア自らも新たにする。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。マリアの人生は、マリア自身の手から離れている。近代社会が追及した「わたし」を中心にしたあり方が、ここに見事に打ち砕かれる。マリアは一人の女性として、主の僕であると告白するが、実はこの言葉には主なる神への深い信頼が隠されている。
第二には、そのような神のわざは始まったばかりだということだ。天使ガブリエルの祝福をただちに証明するのは、マリア自身には不可能だ。しかし、月が満ちて嬰児が飼葉桶に生まれたときに、全ての恐れは喜びに変わる。人々が全ての恐れから解き放たれるという、世にあっては不可能な出来事でも神には可能だということがあらわにされる。「啓示」とはこのことだ。ヨセフの不安は勇気に、マリアの不安は喜びに変わる。
そして今朝語るべき肝心な事柄としては、人々の解放とは、果たしてどのようなものだったかという問いへの応えだ。『ヨハネによる福音書』では、神の子となる資格として「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」と記す。処女懐胎である以上、それはイエス・キリストを中心にした交わりが、人々を縛る血縁に基づく支配原理、現代でいえば血統、性別、人種という神話から解放するということ、そして、世のさまざまな常識や倣いというものは、これまでのようにいのちを奪う力にはなり得ないということ、欲望もまた然りだということ、さらには束縛の言葉を、もはや恐れることはないということが明らかにされる。人々を縛りつける枷を打ち砕きながら、人々が連帯する交わりへと切り結ぶ出来事がここに起きるのだと言える。
古代社会で力を振るっていたさまざまな支配原理は、優生思想、DNA神話、固定化される経済格差の神話というように、かたちを変えて今なおわたしたちを脅かす。近代社会のもたらした迷信をも、御子を宿したマリアの喜びは打ち砕き、人々を解放する。マリアの不安と喜びは、期せずして『ヨハネによる福音書』16章33節にあるキリストの言葉を証しする。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。わたしたちも、この言葉を証ししていく者となることを究極の喜びとしたい。クリスマスは間近に迫っている。