2018年10月7日日曜日

2018年10月7日(日) 説教「イエス・キリストの沈黙」稲山聖修牧師

2018年10月7日
「イエス・キリストの沈黙」
マルコによる福音書14章53節~61節
稲山聖修牧師

不当に拘束された上でのイエス・キリストの裁判。この裁判そのものは、果たして正当であったのか。裁判はエルサレムの神殿では行われない。時は夜である。この二つの事柄だけでも裁判の胡散臭さが漂う。『マルコによる福音書』はこの点を見逃さない。「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まってきた」。衆目を前に憚らない者が夜密かに集まる。これこそがこの裁判のおかしさだ。しかし主イエスの弟子は、恐怖に駆られ徒に逃れてしまった。ペトロはこの場では裁判の不当性の指摘もできず、さりとて関係を断ち切ることもできずという、煮えきらない態度とともに佇んでいる。「遠く離れてイエスに従う」。主イエスの仲間だと指さされるのは恐ろしい。さりとてキリストを見捨てるわけにも行かない。少なくともその仕草からは実に中途半端なペトロを見て取れる。
 この惨めな姿を描いた後、物語の書き手は「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と記す。裁判は不当だったのである。最高法院(サンヘドリン)は全員一致の採決を認めない。人による全会一致は必ず過ちを含むというイスラエルの歴史に学んだ伝統が活かされるからだ。その伝統が蔑ろにされるならば、この裁判は不当なのである。偽証は数を集めるほど証言が食い違う。誹謗中傷や心ない言葉を恐れる必要は無い、ということを、囚われの身のイエス・キリストは自ら証しする。
 大祭司は業を煮やし直々に尋問する。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。主イエスは黙ったままだ。イエス・キリストは恫喝に応じない。不正な裁判という同じ土俵には決して立とうとはしないのがキリストの沈黙であり、沈黙という仕方での「戦い」なのだ。「イエスは黙り続けて何もお答えにはならなかった。そこで、大祭司は尋ね<お前はほむべき方の子、メシアなのかと言った>」。イエス・キリストは沈黙を通して、大祭司からも思いがけない信仰告白の言葉を引出す。主導権はイエス・キリストの手中にある。パウロは『ローマの信徒への手紙』11章17節で異邦人キリスト者に語る。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接木され、根から豊かに養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。今朝の福音書の箇所は、キリストに向けたあらゆる不利な証言が全て裏目に出るという大祭司の目論見の失敗、真理を前にした世の力の無力さを通して、イエス・キリストのいのちの光が際立つ場面でもある。「古代ユダヤ教の権力者」というオリーブが接木のために折り取られた瞬間だ。本日は世界聖餐日・世界宣教日礼拝である。あらゆる不正の中で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しに励む教会があり、働き人がいる。教会の交わりは個人的な交わりを育むだけのものではなくて、キリストを頭にした、世界中に広がる、国境や文化をも超えたネットワークを作りあげる枝である。そのことを忘れずに、数多の自然災害の只中にありながら、なおも真理の証しであるキリストの姿に頭をあげたいと強く願う。

今回の写真は、礼拝堂の他、こひつじ保育園の花壇のお花、保育園児が育てた稲穂、保育園のワタの花(種は福島県から預かったもの)、そして、台風対策で剪定をしたユーカリの木です。



 

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