2017年5月14日日曜日

2017年5月14日父母の日礼拝「共に生きる恵み―親子であること、親子となることー」大阪キリスト教短期大学 森田美芽教授

聖書箇所:ローマの信徒への手紙 12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

本日の主題は3つあります。第一に親であることの問題、第二に、子どもたちの置かれている現状と子を受け入れるということ、第三に、その関係性をいかによりよいものにしていくか、ということです。まず親であること。私たちはみな、未熟な親です。親であることは、たとえば保育士さんなどとは違い、1年365日継続する関係性であり、もともと容易なことではありません。にもかかわらず、私たちは親となることを許されているのです。足りない者であっても、親となり、親であることを神さまからいただいた者として、その恵みを分かち合える者です。
 親が親であろうとするとき、私たちはしばしば、自分の親との間に解決されていない葛藤を持っています。 私たちが親子であるとき、忘れてならないことは、子どもは親の願望を代理で実現する道具ではなく、ましてかわいがるだけのペットではなく、私から独立した一人の人格であり、神が与えられた尊い一人の人間であり、やがて私たちにとっては、人生の最もよき友となり得る存在である、ということです。私たちは、親としてどうかだけでなく、人としてどうかが問われています。私たちは子どもの姿を通して、愛することのできない自分に気づきます。そこで私たちは、実は傷ついて助けを欲している自分自身に気づきます。私たちがその傷に気づき、癒しを願うとき、真の神であられる方の癒しと救いが自分のものになります。イエス・キリストは、私たちの弱さを理解できないような無慈悲な方ではありません。
さて、子どもたちの現状で、注目されるのがいじめの問題です。いじめは軽い冗談の延長から、仲間同士の結束のため、特定の人物を対象にいじめ行為を行う場合や、さらにエスカレートすると、犯罪性を帯びることもあります。なぜいじめるのかといえば、結局仲間同士で盛り上がり、いじめることで痛快さや優越性を感じるから、というのが最も大きいようです。なぜ親や教師が気づかいかと言えば、被害者である子ども自身が、親や教師に知られることを何よりも嫌がる傾向にあるからです。子どもにとっていじめられるということは自尊心に関わり、自分がいじめられるような存在であることは、自分の自尊感情をひどく傷つけるものだからです。このいじめにあわないために、仲間たちの「目につく」ことを避けようとする傾向があります。それが「空気を読む」「同調し、個性を出さない」ことにつながります。このいじめに対抗するためには、幼少期から、自分が愛され、尊重されていると感じること、家庭の中では少なくとも、人格として尊ばれ、自分が何も言わなくても受け入れられていると感じることが力のもととなっています。
 第三に、これからの関係性について、何よりも「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」と言う関係は、親子というかけがえのない絆の中で生まれるものです。子が親を人として尊敬し、親は子を一人の人間として尊重する、互いに相手の成長と人格の完成を喜ぶ、聖書に描かれた家族への戒めが具体的なものとして意味を持ってくるのだと思います。