聖書箇所:マタイによる福音書6章1~15節
主イエスの世、祈りの言葉はエルサレムの祭司階級に独占されていた。民衆から尊敬されていたはずのファリサイ派も、庶民と近い距離にあって常に祈りを献げていたとは言い難い。ルカによる福音書は18章9節以降でファリサイ派の祈りと徴税人の祈りを語る。「ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈った」。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った」。ファリサイ派の祈りは交わりの中での態度表明ではないばかりか、その実は他者との比較の上に成り立つ事実上の業績報告だ。一方で徴税人はそのものとしては祈りとは表記されず「言った」と記され、胸を打つという言外の動作を伴う。それは「罪人の私を憐れんでください」との言葉に厳粛な響きをもたらす。
本日の箇所では主の祈りの原型が記される。利己的な願いと祈りの分別がつかなくなる私たちには主の祈りはいわば命綱。病床。不条理な苦しみ。疲労。嘆き。その渦中で父なる神との関係を確かめられる祈りだ。さらに祈りとはその究極的な前提として隠されており、それは隠れたところにおられる神に向けられている。本来は人に聴かせるものではなく、見せびらかすものでもない。注目すべきは、主イエスが人々に伝えた祈りには「神」との言葉が登場しないところ。徴税人、あるいはその徴税人のようにあえて孤立を選び、名誉よりも誹謗や中傷の言葉を選ぶ弟子たち、あるいは困窮にあって分別すら忘れた人々のためにも、主イエスは神を、あえて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。求められるのは、痛みを御手に包んでくださる天の父に全幅の信頼を委ね讃美することだ。讃美されるのは人ではない。天の父だ。次なるは天の父の国の訪れを求める祈りであり、天の父の思いとはかけ離れていく世においてこそ、その思いが実現するようにとの願いである。神の御心の実現には幾世代が必要か。けれどもそれは必ず完成するとの約束に立つのが主の祈りだ。
この祈りの後、切迫した暮しをめぐる祈りが記される。必要な糧を今すぐ、直ちに。この切実な乞い願いは、貨幣経済が世に生まれる前から献げられてきた。また、天の父への讃美の後に初めて献げられる祈りでもある。荒れ野での誘惑の場面で悪魔が真っ先に主イエスに働きかけたのは食を巡る誘いであった。だからこそ私たちは天の父への讃美から祈りを始める。
第四には赦しが祈りに数えられる。誰かとの関わりにある私たち。天の父との間に破れを抱え、負い目を覚えている以上、大切な人との交わりにあってなお私たちは破れを傷みとともに思い起こさざるを得ない。負い目を赦してくださいとの祈りがある以上、赦しが生やさしいわざではないと分る。けれどもわたしたちは赦せるように願い続けなければならない。憎しみは何も生まないからだ。第五には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。マタイによる福音書の場合、主の祈りはこの祈りが最後に献げられる。それは12節までの祈りが絶えず献げられるならば、誘惑や悪は自ずと遠ざかるからだ。そして最後、15節には今一度赦しが言及される。赦しは困難だ。けれども時を重ねてでも赦さなければ、私たちは平和を築きあげることができない。
全き人の子・ナザレのイエスは血縁ある父との関わりが希薄だ。その孤独を知るがゆえに、父のイメージを神に重ねて呼びかけ、救いの訪れをより確かなものとして伝えようとした。ナザレのイエスが救い主・キリストであるとの宣言に包まれるとき、私たちは父なる神に招かれていることを知る。どのような人も。これこそ私たちが依るべき唯一の尺度だ。この尺度に立つならば、私たちはどんなときでもその喜びを忘れない。