―降誕節第8主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
わたしたちは『新約聖書』にはよく目を通し、そのことばを味わうのですが、『旧約聖書』となりますといささか日々の暮らしからは縁遠いような気がいたします。しかし『マタイによる福音書』で人の子イエスが度々引用する以上は、わたしたちは決して『旧約聖書』を疎かにするわけにはまいりません。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と本日の箇所では記されます。このような文章の中での『律法』は613の条文に分けられる一つひとつの掟というよりも、『創世記』から『申命記』にいたるまでの、かつては「モーセ五書」と呼ばれた書物、そして『預言者』とはヘブライ人の国王や民が神の備えた道から外れていくとき、王や人々を諫め、戦い、そして虐げられた人々を癒し力づけたところの、神のことばを預かった人々の物語の集合体を示しています。かたや『トーラー』と呼ばれ、かたや『ネビイーム』と呼ばれるこの書物は、人の子イエスの時代の古代ユダヤ教のファリサイ派や律法学者には正典とされ、その教えの拠り所とされていました。洗礼者ヨハネが関わっていた、荒れ野で水をもって身を清めながら『聖書』の学びに励むエッセネ派にも大切な教えが書き記されていました。
それではこの『律法』と呼ばれる『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の誡めを含んだ物語、そして『預言者』と呼ばれる書物の内容とはどのようなものだったのでしょうか。
その内容は、まずは天地の創造主なる神がこの宇宙といのちを六日間にわたって創造され、その後の一日に休まれたという記事が記されます。その後に女性も男性も神にかたどって創造されたはずの人間(アダーム)が神との約束を破り、楽園を追放されていきます。そしてその息子たちにいたっては神への献げものをめぐって兄が弟を殺害し、そしてその後に「慰め」という意味をもつノアの作った箱舟の物語、さらにはバベルの町の物語が続き、アブラハムの物語へと受け継がれてまいります。その後に描かれるのは、予測不可能な人生であるにも拘わらず、主なる神は自らの約束を破った後にも人間に「死んではならない」と絶えず語りかけ、弱い立場にある者の悩み、また奴隷の叫びに耳を傾け、その苦しみから解放しようとする神の姿が描かれます。この物語を読んでまいりますと「あなたは神を信じますか」という問いに違和感を覚えるようになります。それはこどもたちに対して目の前にいるお家の人やご家族、あるいは保育者に対して「あなたはお母さんを信じますか」と言っているようなもので、その問いかけそのものが信頼関係に水を差しかねない、愚問だとしか言い様がないのです。信頼関係を損ねるような問いを、寡婦や難民や孤児、社会から廃除された人々を救う神に向けるのはお門違いというものです。
そしてこの箇所で人の子イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と語ったときに明らかにしたのは、人の子イエスもまた『律法』と『預言者』という、わたしたちが手にしている『旧約聖書』を丹念に読んだ上で、名前すらもつけられない人々やこどもたち、今でいう障碍をもった人々や感染症に罹患した人々に神の愛を具体的に証ししていったということです。これはまことに重要な人の子イエスの決意と態度を示しています。それは混沌とした世にあって、力を振るいそれこそが正義であると思い込んでいる人々、あるいはまずは競争に勝った者が正義を語りうると錯覚している人々に対して「否」を突きつける態度です。これは預言者としての態度です。そして使徒の集りとしての教会の壁を越えて、神の愛のわざをこの世へと押し広げ、尊ぶべき世俗として人々を愛し続けるという政治的な側面を否定しない統治者としての態度、そして今なお苦しみの中にある人々の痛みを癒し、いのちに希望の光を灯し祈り続けるという祭司としての態度です。『旧約聖書』を軽んじるという態度が万が一わたしたちにあるならば、それは『新約聖書』を単なる道徳の教科書に格下げしてしまうことになってしまいます。世の中は決して単純ではありません。渡る世間は鬼ばかりという現実もあります。しかしそのような現実は、そのものとしては決して絶対的なものではないのです。イエス・キリストはすでに世に勝っています。混沌とした世界に向けて神は「光りあれ」と仰せになりました。
悲しみに心が塞ぎ込み、身動きがとれなくなったとき『旧約聖書』を開いてみてください。『詩編』には神を呪う言葉さえ記され、預言者には死を願う者さえ登場します。しかしその呪いや死を望む呟きはイエス・キリストを通して神に届いています。呪いは呪う者のいのちへの祝福へと、死を願う者には生きよとの声が響きます。