―降誕節第7主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
本日は弟子たちによる「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」との問いかけへの人の子イエスの答えが軸となるメッセージとなります。弟子と人の子イエスとの語らいのテーマとなるのは「たとえ」すなわちイエス・キリストの語る「ことば」の秘密です。
本日引用された『イザヤ書』に先んじて、『旧約聖書』で「ことば」が主題となる物語があります。それは『創世記』11章にある「バベルの町」の物語です。「バベルの塔」と見出しがつけられますが、要は「塔のある町」ですので「バベルの町」といたします。
『創世記』物語の大筋は次のようになります。世界中が同じ言葉を用いて同じように話していた時代、東の方からやってきた民が、シンアルの地に平野を見つけてそこに住みつきます。民は「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合います。それまでのれんがは、粘土に麦わらをすき込んで泥のような具合のときに踏みつけ、型に入れて日の光に干すもので、今日で言えば極めて環境に優しい素材なのですが、壁土と同じように水に弱く、また高層建築で用いるにも重さに堪えられません。しかし焼きれんがとなれば話は別で、技術者の思い通りに形を整え、また強度も飛躍的に上昇することから、数十メートル規模の大規模な高層建築も可能となります。古代エジプト文明の場合は切り出した石が用いられましたが、それに劣らず強度があり、しかも思い通りのかたちに焼き上げられます。さらに「しっくいの代わりにアスファルト」を用いたところから、乾燥した石灰よりも防水性が高まるという特質も加わり、おそらく古代メソポタミア地方を舞台にして人類史上例を見ないほどの画期的な科学技術の大躍進だったと言えるでしょう。
しかしこの都市は大きな問題が秘められていました。それはこの都市の建築の動機です。それはこの町のシンボルである塔に込められています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。全地に散らされないように」との一節です。「天」とはまさしく主なる神のいるところ。そこに届く塔を建てる動機も「有名になろう」というのですから、この町に隠された人間の高ぶりというものが塔には象徴されています。しかし本来ならば天にいるところの主なる神はわざわざこの町に出向き「この人々は一つの民で一つのことばを話しているからこのようなわざに手をつけた。このままでは民が何を企てても妨げられない。人々のことばを混乱させ、互いのことばを聞き分けられなくなるようにしてしまおう」と民を全地に散らされ、都市の建設は中断され、ことばが「混乱(バラル)」したことから町の名はバベルとなったとの物語です。わたしたちはこの箇所で多くの言語が生まれたとの誤解を抱いていますが、意思疎通が不可能になるのは、自分が正しいと思い込んだとき、相手の話に耳を貸さなくなったときで、この一週間のあゆみでもどこかでやらかしてしまった覚えがあるのではないでしょうか。同じことばであっても、奢りや高ぶりがあったときには、いのちの響きどころか記憶にも残りません。
それでは人の子イエスはどのようなことばを用いたというのでしょうか。それは「たとえ」という表現です。人の子イエスと寝食をともにしている弟子であればともかく、集まる人々の多くは文字の読み書きはできません。しかし各々のかけがえのない暮らしに根ざしたことばは用いているはずです。その暮らしを、愛情をもって受け容れながら、そのときに出会う人々の用いることばを紡いだときに、イエス・キリストの教えは人々のいのちに響いたことでしょう。今日でいう「刺さることば」として忘れられない教えとして記憶されていきました。
ファリサイ派の律法学者の言葉は一定の知識の基礎を前提としますが、イエス・キリストの教えはそのような前提がなくても、暮らしの中にこだましたことでしょう。そして「バベルの町」の物語を超越して、新しい交わりを育んでいったに違いありません。一つの民でもなく、一つの言語でもなく、一つの文化でもなく、あらゆる人々、世界に交わりを育んでいったのです。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」から、確かに「見えず、聞かず、分からずとも」イエス・キリストが示した神の愛は、そのような限界を通して人々を包んでまいります。分からなければ尋ねればよいのです。イエス・キリストはその問いかけを歓迎します。
互いに耳を傾けあう交わり。それがイエス・キリストを頭とした教会の交わりの原点です。『聖書』のことばはそのとき分からなくても、後になるほどと膝をつき、目から鱗が落ちるときがやってきます。その瞬間を楽しみにしていましょう。それがイエス・キリストの教えに触れる醍醐味というものです。