―降誕節第9主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)
讃美= 21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)
讃美= 21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。
突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。
しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。
人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。
神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。
わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。