2025年1月25日土曜日

2025年 1月26日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 洗礼者ヨハネが捕らわれたとの知らせ。その理由は、直接にはヘロデ大王の息子アンティパスが、自ら恋仲になったヘロディアと結婚したという「兄弟の妻と結婚の禁止」を破った態度を激しく批判したとされていますが、いよいよ権力による口封じがガリラヤにも及び、人々が口を閉ざすようになった沈黙の時の訪れを暗示してもいます。もはや町の料理屋でも市場でも誰かが目を光らせ、うかつには物事を語れなくなったその時代。イエスは一度ガリラヤを離れ、異邦人の土地カファルナウムに働きの根を下ろします。しかし宣教活動としては逆境でもあるこの圧制下を福音書の書き手集団は「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ」と書き記すのです。先日は大統領に就任したトランプ氏を前に異邦の民の権利の擁護を語りかけた聖公会のバッディ主教が注目されましたが、自由にものを語れなくなったはずのこの土地で、なぜ「光が射し込んだ」と書き記し得たのでしょうか。注目するべきは「ゼブルンの地とナフタリの地」と表現される土地が具体的にはどのような意味を『旧約聖書』では持っていたのかという点です。

 問題は「ゼブルンの地」も「ナフタリの地」も『新約聖書』の時代には概してそのようには呼ばれてはいなかったところにあります。かつてはイスラエルの12人の兄弟にそのルーツを訪ねられた、ゼブルンとナフタリという二つの部族は、すでに人の子イエスの時代にいたるまでに、アッシリア大帝国によって滅ぼされてしまいました。そればかりかアッシリアとの争いに敗北したことによって、民を陵辱されるという仕方で消滅させられ、本日の物語の舞台ではガリラヤとサマリアの文化の折り重なる場所となっていました。つまりエルサレムに暮らす人々からすると、神殿での礼拝から離れ、アッシリア人の血筋が混ざり込んだがゆえに穢れた民であるとのレッテルを貼られた人々が多く行き交いまた暮らす土地とされていたとの状況に落ち着きます。言い換えれば福音書の書き手集団は洗礼者ヨハネの逮捕という悲劇的な出来事を悲劇には留まらせるのではなく、その先にはこのヨハネの後を継ぐようにして人の子イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」との、世に暮らす人々への神の国の訪れを説き始めたという時の訪れにフォーカスを当てるのです。神の国の訪れ、神の愛による統治の訪れを説く役割が洗礼者ヨハネから人の子イエスへと移ったと高らかに宣言いたします。

 洗礼者ヨハネの逮捕はおそらくその人に救いを求めてきた人々には衝撃的であったに違いありません。特に暮らしの中で多くの苦しみを抱えてその拠り所を明らかにしたいと願う人々には水による「清めの洗礼」は意味あるわざでした。またその口から出る現状への堂々たる批判も人々の頷くところではありました。しかし洗礼者ヨハネも自覚していたように、決定的にそこに不足していたのは神の国の訪れが善悪を明確にするという意味での審判を越えて、多くの破れをもつ人々の痛みを癒すばかりか、対立関係として分裂しがちなわたしたちのあり方を和解に導き平和をもたらすところにあります。だからこそ洗礼者ヨハネが人の子イエスに洗礼を授けた際に、神の愛である聖霊が鳩のように降ってきたと記されていると考えられます。もはや混沌とした時は終わりを告げ、人々にはいよいよ不安と恐怖から解放される時がまいりました。洗礼者ヨハネの逮捕の悲しみと心細さはもはや乗り越えられつつあるのです。洗礼者ヨハネの語る「世の終わり」では異邦人はどのような扱いとなっていたのでしょうか。またユダヤの民に代々遠ざけられていたサマリアの人々はどのように扱われていたのでしょうか。そのあたりについては興味が尽きませんが、少なくとも『旧約聖書』の預言者、そして洗礼者ヨハネを通して示されてきた神の愛が、イエス・キリストの宣教と証しにあって大河のように流れ込み、獄中の洗礼者ヨハネをもいずれ安らぎに導き、サマリアの人々にまで及び、そしてその流れはいつしかローマ帝国全体をも覆い尽くし、今日においてはわたしたち極東に暮らす者までも包み込んでいるように思えてなりません。イエス・キリストに示された神の希望と癒しはそこまでに深く現代のわたしたちにまで及んでいるのです。
 だからこそ分断を叫ぶ声がそこまで来ているように思えても、何も恐れる必要はありません。人々を困窮へと追いやる声は必ず絶えます。それよりも、わたしたちはこの混乱の時代にあってなおも働く神の愛の力に目を注ぎましょう。難しくはありません。イエス・キリストがおられるならば、何をどのように語り、誰を癒すのかと祈りの中で思い描けばよいだけなのです。誰にでもない、キリストの姿を胸に焼きつけましょう。