―降誕節 第4主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)
讃美= 21-495,(310).
聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)
讃美= 21-495,(310).
21‐306(1.2.4.5.),
21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
冷たい風が吹く中での礼拝となりますが、オホーツク海やベーリング海でカニ漁に従事する漁師たちはいったいどのような環境に置かれているのかと考えますと背筋が凍りつきます。カニを捕まえる罠であるコンテナを定置網のように荒海に投げ込んでいき、他の漁場からの帰りに回収していきます。三角波が漁船を翻弄し、海に落ちれば誰にも助けられません。甲板に押し寄せた海水はたちまち凍結します。その氷を割りながらの作業はわずか三時間の睡眠と僅かな食事ばかりの中で行われます。賞金稼ぎと同じスリルなのかもしれませんが、反対に言えばこの仕事は常に死と隣り合わせだとしか言いようがありません。事故がなくても身体は確実に蝕まれます。
福音書の世界に漁船を見ることのできたガリラヤ湖、本日の箇所ではゲネサレト地方から眺めたためゲネサレト湖として呼ばれます。ただその漁獲は漁師の暮らしには充分ではなかったでしょう。作業の時は夜。湖に漕ぎ出し、煌々とかがり火を焚いて魚を呼び寄せて網を投じます。しかし今とは異なり湖の上で目印となる明かりは地上には僅か、月や星も雲に隠れてしまえば行く手は闇につつまれ、いのちの危機に晒されます。そのような時を経て疲れ果てた漁師。一晩眠ることもなく徒労の中で網を繕うより他はありません。
そのような漁師に響く声があります。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。眠気と気怠さの中であれこれと願い事をしてきたその声は、それまでとは異なる響きとともに迫ります。「漁をするのか、しないのか」との決断。漁師はからかい半分に答えるしかありません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しました。しかし、何も獲れませんでした」。しかし続いたのは「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」。魚が獲れなければこの男も諦めるだろうし離れていくだろうとの気持ちもなかったわけではありません。しかしその通りにしたところ確かに昼日中にはち切れんばかりの魚が獲れました。
実はこの魚には初代教会の信仰告白の頭文字がギリシア語で略され、隠されています。船を『旧約聖書』のノアの箱舟に重ねて救いの場としての教会に重ねる人々もいます。網に示される教会同士の絆が破れそうになったからこそ互いの繋がりが強められ、助け合う間柄となる様子がダイナミックに描かれているという人もいます。しかし、そのような解き明かしだけでは、なぜシモン・ペトロが漁の後にイエスの足下にひれ伏したのかが分からないのです。魚が獲れたのであれば喜べばよいし、教会の教勢が増せば素直に感謝すればよいのです。しかし、シモン・ペトロも他の漁師もそのようには振舞いませんでした。いや、振舞えませんでした。
『ルカによる福音書』は紀元後80~85年に成立した福音書だと言われています。つまり人の子イエスが十字架につけられ、死して葬られた後に復活したとの出来事、そしてその後の教会の働きを物語として継承するために記された物語です。最後の晩餐を囲んだ時にペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語りますが「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と語る人の子イエスの言葉が理解できません。嗚咽しながら納得できるのは、イエスが自ら身柄を拘束されて夜半に大祭司の家に拉致されていくその折に鶏が時を告げたその時に、自らが人の子イエスを恐怖に駆られて見捨てたまさにその時でした。だからこそすべてに挫折し希望を失い、もとの生業に戻ったそのときに、復活のイエス・キリストに出会ったのであれば、誰もが同じように地にひれ伏すのではないでしょうか。その現実を充分に知りながら、イエス・キリストは語りかけます。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。世のただ中へ漕ぎ出して、あらん限りの交わりを世に投じてみなさい。その交わりはあなたのものではなく、わたしのものなのだから、やり直せるのだと。
わたしたちは日曜日に礼拝を献げるためにこの場へと招かれます。いったいなんのために毎週日曜日教会に行くのかとご家族に問われた方もおられることでしょう。町内会のわざを覚えながらもこの場に集う方もいれば、こども園の働きの備えの中でこの場におられる方もいるでしょう。しかしこの主なる神から授かった尊いルーティンの中で、わたしたちは過酷な暮らしの中で全てを捨てて人の子イエスに従った弟子の歩みを追体験いたします。この追体験の中でわたしたちは単なる成果への喜び、あるいは出来・不出来の一喜一憂の軛から解き放たれ、イエス・キリストに祝福され、愛されていることに気づかされます。憎しみの渦巻きや不安の渦巻きにではなく、どうにもできない世の渦巻きから神の力の渦により引揚げられてまいります。だからこそ教会では礼拝が何よりも大切にされました。破れに満ちた、しかしその破れ以上に祝福されたその網に身を委ね希望を授かりましょう。