時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)
讃美= 21-268(97). 21‐474,
聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)
讃美= 21-268(97). 21‐474,
21-24 (539). 先ほど讃美した讃美歌21‐268番。1954年訳のⅠ編97番にあたりますが、今年度はクリスマスの期間には選びませんでした。それはかつて喜ばれたこの讃美歌の歌詞が多くの議論を招いた場面に由来します。例えば1節の「この世の悟りも空しきもの」は旧版では「愚かなる人は来たり学べ」、3節の「憂いある人は来たり告げよ」は「高きも低きもきたりいわえ」となっています。わたし個人としては文語体の表現も捨てがたいのです。なぜなら讃美歌は何らかの人生の記憶と直接結びついているからです。その記憶は決して否定されてはなりません。また牧師自らを省みるに決して賢い者だともこの格差社会の上部構造に属してもいません。けれども旧讃美歌の歌詞を無条件に前提としてしまった結果、クリスマスの讃美に「ひっかかり」を覚えてしまう人が跡を絶えなかった事実を受けて歌詞が改変されるに及んだとされます。現場の奏楽者の葛藤は見逃せません。その経緯を経て現在のところ、先ほど讃えた讃美歌が教会やキリスト教主義学校では一般化しています。
ただしこのお話は讃美歌Ⅰ編を貶めるためではありません。『聖書』でも概ね30年に一度、翻訳の改訂版が出版されます。その上で手を入れる箇所には作業がなされます。それは30年の月日の中で、わたしたちの暮らし、また用いる言葉が変化するからです。『岩波文庫』の言葉もまた場合によって脚注がつけられます。また教科書の日本語も音楽の教科書に収録される合唱曲も変わります。言葉も音楽同様、川の流れのように絶えず動いていきます。そしてその流れ、則ち文脈を踏まえなくてはその理解は思わぬ誤解をもたらします。若者は年配者の言葉、年配者は若者の言葉を理解できないもどかしさから「最近の若者は」との愚痴が生まれます。古代文明に遺された落書きからも、中高年の溜息混じりの言葉と同じものが発見されます。イエス・キリストに立った上で、この変化を見渡さずには時代に媚びず、されど時代に響くキリスト教教育や伝道は難しいところです。
本日の箇所では、そのような流れに表される世にあって、ヨルダン川で人々に悔い改めを叫び、「清めのための洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネのもとに人の子イエスがやって来たところから始まります。洗礼者ヨハネは救い主との出会いの中では、預言者以上の預言者だと言われます。『旧約聖書』で神の言葉を委託され、腐敗した政治の中で書物としての『聖書』を忘れた民衆へ生き方を変えるように呼びかけ、癒し励ますのが預言者です。中でも移ろう世にあって直々に人の子イエスと出会うのが洗礼者ヨハネです。しかし本日の箇所でヨハネは人の子イエスを抱擁いたしません。さりとて人の子イエスに「来るべき方はあなたですか」と問いかけもしません。ヨハネは、人の子イエスに「清めのための洗礼」を授かることを思いとどまらせようとします。すでに救い主は人の子の姿をとって世に現れました。洗礼者ヨハネにはこれで充分なのです。「わたしこそ、あなたから〈清めの〉洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、人の子イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。人の子イエスは、ヨハネが行うこの世、移り変わりつつ、清らかさと濁りの双方で混沌とした世にあって、まさしく清めを必要とする人と友になるためにヨハネから水による洗礼を授かりました。これはわたしたちの世界で行われる禊ぎとは全く逆で、汚れを身にまとい、無理解を身にまとい、思うままにならない流れに浸かり、敢えて人々の勝手な期待にその身を縛られるためでもあります。そのような場にわが身を置くことで、イエス・キリストの救い主としての働きは人々を解き放ち、神のあふれる祝福のもと、わたしたちとともにあるとの宣言にいたります。
わたしたちは福音を「これしかない」と固定したり、縛ったりしたあり方に押し留めてはいないでしょうか。そのような理解は概ね30年で想い出へと過ぎ去っていきます。わたしたちが根を下ろすべきは、老若を問わず、時の流れにある『聖書』の言葉に示されたイエス・キリストです。イエス・キリストは歴史上紛れもなくユダヤ人です。しかしその姿はわたしたちには、ヨーロッパの伝統的な聖画に記されたイエス・キリストの姿になったり、人口が流動的な中東に住んでいたりという理由からアフロアフリカンのイエス・キリストの姿として、またはこの教会で描かれる東洋的な姿として多様に描かれる場合もあります。しかしイエス・キリストの性格や、その顔つきについて書き残した文章は福音書も含めて今日には遺されていません。大切なのはまさしく人の子イエスがキリストとして大地にたち、大いなる救いのわざを始めた事実。その歩みはどのような誹りにあっても紛れもなく神に祝福されたとのメッセージです。いかなる世代にも神の祝福は及んでいる事実を受け容れましょう。
ただしこのお話は讃美歌Ⅰ編を貶めるためではありません。『聖書』でも概ね30年に一度、翻訳の改訂版が出版されます。その上で手を入れる箇所には作業がなされます。それは30年の月日の中で、わたしたちの暮らし、また用いる言葉が変化するからです。『岩波文庫』の言葉もまた場合によって脚注がつけられます。また教科書の日本語も音楽の教科書に収録される合唱曲も変わります。言葉も音楽同様、川の流れのように絶えず動いていきます。そしてその流れ、則ち文脈を踏まえなくてはその理解は思わぬ誤解をもたらします。若者は年配者の言葉、年配者は若者の言葉を理解できないもどかしさから「最近の若者は」との愚痴が生まれます。古代文明に遺された落書きからも、中高年の溜息混じりの言葉と同じものが発見されます。イエス・キリストに立った上で、この変化を見渡さずには時代に媚びず、されど時代に響くキリスト教教育や伝道は難しいところです。
本日の箇所では、そのような流れに表される世にあって、ヨルダン川で人々に悔い改めを叫び、「清めのための洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネのもとに人の子イエスがやって来たところから始まります。洗礼者ヨハネは救い主との出会いの中では、預言者以上の預言者だと言われます。『旧約聖書』で神の言葉を委託され、腐敗した政治の中で書物としての『聖書』を忘れた民衆へ生き方を変えるように呼びかけ、癒し励ますのが預言者です。中でも移ろう世にあって直々に人の子イエスと出会うのが洗礼者ヨハネです。しかし本日の箇所でヨハネは人の子イエスを抱擁いたしません。さりとて人の子イエスに「来るべき方はあなたですか」と問いかけもしません。ヨハネは、人の子イエスに「清めのための洗礼」を授かることを思いとどまらせようとします。すでに救い主は人の子の姿をとって世に現れました。洗礼者ヨハネにはこれで充分なのです。「わたしこそ、あなたから〈清めの〉洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、人の子イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。人の子イエスは、ヨハネが行うこの世、移り変わりつつ、清らかさと濁りの双方で混沌とした世にあって、まさしく清めを必要とする人と友になるためにヨハネから水による洗礼を授かりました。これはわたしたちの世界で行われる禊ぎとは全く逆で、汚れを身にまとい、無理解を身にまとい、思うままにならない流れに浸かり、敢えて人々の勝手な期待にその身を縛られるためでもあります。そのような場にわが身を置くことで、イエス・キリストの救い主としての働きは人々を解き放ち、神のあふれる祝福のもと、わたしたちとともにあるとの宣言にいたります。
わたしたちは福音を「これしかない」と固定したり、縛ったりしたあり方に押し留めてはいないでしょうか。そのような理解は概ね30年で想い出へと過ぎ去っていきます。わたしたちが根を下ろすべきは、老若を問わず、時の流れにある『聖書』の言葉に示されたイエス・キリストです。イエス・キリストは歴史上紛れもなくユダヤ人です。しかしその姿はわたしたちには、ヨーロッパの伝統的な聖画に記されたイエス・キリストの姿になったり、人口が流動的な中東に住んでいたりという理由からアフロアフリカンのイエス・キリストの姿として、またはこの教会で描かれる東洋的な姿として多様に描かれる場合もあります。しかしイエス・キリストの性格や、その顔つきについて書き残した文章は福音書も含めて今日には遺されていません。大切なのはまさしく人の子イエスがキリストとして大地にたち、大いなる救いのわざを始めた事実。その歩みはどのような誹りにあっても紛れもなく神に祝福されたとのメッセージです。いかなる世代にも神の祝福は及んでいる事実を受け容れましょう。