2025年11月20日木曜日

2025年 11月23日(日) 礼拝 説教

―降誕前第5主日礼拝―

―収穫感謝日・謝恩日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「刈り入れを分かちあい、ともに喜ぶ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章17~22節
(新約81頁)

讃美=503.21‐566.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「はたらけどはたらけど なおわがくらし楽にならざるなり ぢっと手を見る」。明治時代、石川啄木が絶望の淵で詠んだ短歌。歌集『一握の砂』に納められています。本名石川一(はじめ)。1886年2月20日、岩手県盛岡市に曹洞宗の僧侶の息子として生まれた啄木は、結核により東京文京区小石川で26歳にて没するまで生来の虚弱体質と困窮のなか多くの歌を世にもたらしました。その中でもこの歌は19の言語に翻訳されています。
 啄木の詠んだ歌がこれほどまでに共感を生むのは、この「ぢっと手を見る」との言葉。なぜなら「手」には人の人生が凝縮され表わされているからではないでしょうか。
 例えばこの寒さの中水洗いをした母親の手。肉体労働に従事する人のもつ指にたこのできた分厚い手。鋤や鍬をもって田畑を耕す人の手。漁師のゴツゴツした手。今の時代にはそのような手の人は少なくなったとお考えでしょうが、熊の出没ニュースとともに知らされるのは、老いた農夫だけでなく若者もまた酪農や農業に回帰しつつあるなかで見せるその手です。
 また一年の間でごく数日しか休むことの出来ない飲食店勤務の主人や従業員の火傷とあかぎれのある手。手からはその人となりが分かるというものです。
無名の人々が連れてきたこどもたちを祝福した後、人の子イエスはとある人物に出会います。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人物に向けてイエスは「『殺すな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟、すなわち十戒をあなたは知っているはずだ」と語りかけます。ムキになって「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」と答えるこの人。人の子イエスはこの人を見つめつつ慈しみながら「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と結ばれます。
この人の手にはいったい何が刻まれていたというのでしょうか。人生の年輪でしょうか。長年にわたって机に向かった結果授かったペンだこでしょうか。インク滓にまみれた爪でしょうか。本当は何もなかったのかもしれません。
それは走り寄って人の子イエスにひざまずくという態度、そして「たくさんの財産を持っていた」との解説に示されます。古代社会の富裕層は労働を身近なところから遠ざけようとしていました。労働とは奴隷階級または身分の低い人々が従事するのであって、イエス・キリストと哲学的な対話に興じようとする人には縁遠いわざでした。
この金持ちの男と出会う前、人の子イエスは無名の人々が連れてきたこどもたちを一人ひとり抱きあげて祝福されました。どのような匂いがしたことでしょう。わたしたちにはおそらく直ちに「お風呂に入りなさい」という他ない体臭であったと思います。けれどもそのようなこどもたちをイエス・キリストは「神の国はこのような者たちのもの」だと断言します。金持ちの男の人生には選択肢があります。しかしこどもたちには人生の選択肢はありません。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。それは単なる施しや「天に宝を積む」との意味ばかりを示しているのではありません。それはこの富める人物がイエス・キリスト自らが祝福した人々と交わりを深めるようにとの促しの言葉です。その言葉を行いに映し出すわざは、そのままイエス・キリストに従う道を示しています。だが悲しいかなこの富裕層の人物がこの言葉の真意を知るには今少しの時が必要でした。それは、イエス・キリストの十字架の報せにより、富への執着から解放される時です。キリストに「売り払いなさい」と言われてこの人は初めていかに多くのものを享受してきたのかを知ったのでしょう。
本日は収穫感謝日礼拝です。秋の実りを主なる神に深い感謝を込めて献げる礼拝を執り行っています。肥料も電力も燃料も労働者も少なくなっている中、物価高の中で収穫された尊い実りです。時によっては金銭よりも重要になる実りです。イエス・キリストが仲立ちをしてくださり始めてわたしたちはこの恵みを授かります。
主なる神に祝福されたこの実りが神の愛に満ちた交わりにあって用いられるようにと祈ります。そして何よりも泉北ニュータウン教会の伝道の働きが、神を忘れた、神を知らない公権力の流す情報、役所や政府の流すガバメントスピーチに挫かれることなく、釜ヶ崎を始めとした住まいを失った人々との交わりの象徴としても用いられるように祈ります。わたしたちの手は、果たして何を語るのでしょうか。手を合わせて祈りを献げてまいりたいと願います。

2025年11月14日金曜日

2025年 11月16日(日) 礼拝 説教

―降誕前第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「とりこし苦労からの解放」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13 章5~13節
(新約88頁)

讃美=Ⅱ80.21‐474.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 「わたしの時代はこうだった」「わたしはこれだけやってきた」。誰でも人は経験則に則して常識を考えがちですが、そのような言葉がいつの間にかよかれと思って相手を傷つける「マウンティング」にしかならない場合があります。「マウンティング」とは本来ならば動物行動学で使われる言葉で、ある群れで自分が相手よりも優れている意志を示しながらも争いを避けるために編み出された本能に根ざす行為であると言われます。一般にこのマウンティングが溢れる場所は次第に新しい人が遠ざかり、孤立した集落から限界集落へと転じると言われます。しかしマウントをとる側の気持ちも分からないわけでもありません。明らかに時代の流れが変わっているのにも拘わらずどうすれば分からない場合、相手に自ら背負ってきた常識を超えて何かを伝えるのは至難のわざです。卑屈にならず、相手に媚びずに会話や立ち振る舞いの周波数を合わせたり理解を示したりする場合、相当な工夫や努力を必要とします。

 神の国の訪れ。神の愛による世の揺るぎない統治。これを『聖書』は夢物語や死後の世界の話としてではなく、「神自らが約束した、世にあってすでに訪れてはいるものの、まだ始まったばかりの時と場所を問わない救いの訪れ」として書き記します。しかしこの時代のユダヤの民の理解では、ローマ帝国の支配への抵抗意識から、それまでの社会秩序が崩壊し、自分たちだけが神の栄光を授かるとの考えに走る者もおりました。また歪んだ選民思想がその考えに入り込むとの問題もありました。言ってみれば神の救いを前にしての異邦の民に対するマウンティングです。人の子イエスの弟子たちもまたこのような勇み足を踏んでいたと考えます。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。すべての経験則を破壊された人々は必ず新しい権威や拠り所を求めて混乱状態に陥り、次から次へと現れる偽の救い主に惑わされるだろうとの話です。畿内の県知事選挙に関してSNSを用い悪質なデマを流していた一部の人にはカリスマ的な人物が先日逮捕されましたが、その人物への支持者に共通するのは「ウィークネスフォビア」「弱者への憎しみ」という点です。日本社会でいうところの「同調圧力」だと言えるかもしれませんが異なるのは少数者や弱者、異質な者に対するバッシングを通して自分はそうではないとの陶酔に酔ったり荒唐無稽な証明を試みたりするところにあります。しかしイエス・キリストは自らがそのような激しいバッシングの相手となり苦しみを受けられました。「人に惑わされるな」との声は今も響きます。

 「戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。この箇所に人の子イエスの冷静かつ現実的な視点を窺えます。「そういうことは起こるに決まっている。まだ世の終わりではない」。そしてこの混乱に「産みの苦しみ」という意味づけをします。女性の出産の苦しみを重ねます。つまり神の国を前に新しい時代が始まるときにはこのような混乱は起こるに決まっているというのです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。今朝の福音書は人の子イエスの十字架と復活の出来事から40年を経て成立したと言われます。書き手集団が見つめてきたのはその次の世代と自分たちの世代、つまり「使徒の時代」の人々が味わった苦難です。なぜこのような苦難を味わうのでしょうか。気づけば皇帝も含めて人に惑わされない少数者となっていたからではないでしょうか。しかしそれでも神の愛による統治は全うされません。

 その理由とは「すべての民にイエス・キリストの喜びの報せ」が宣べ伝えられてはいないからです。様々な苦難を経てなおわたしたちは主イエスにあるところの喜びを語り、証しできます。12節にある阿鼻叫喚の世界も、もはや現実に起きている事案です。また、混乱の姿を呈してはいないというただそれだけの理由で憎しみの対象となるのも「人に惑わされてはいない」あり方の裏返しとして十分にあり得ます。「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。様々な世の混乱にあって動じなかった人々は、譬えその身が滅ぼされようとも救われるとあります。10年の間、告別式の折に体験してきたのは他でもない、まさにこの厳粛な出来事です。1945年4月にフロッセンビュルク強制収容所で殺害されたD.ボンヘッファーは不当な処刑の際に及んで次のように語りました。“It is the end, for me the beginning of Life.” 先々の不安に苦しむよりも、いつも人生は素晴しいと語り、互いに祈りあう者になりたいと願います。

2025年11月7日金曜日

2025年 11月9日(日) 礼拝 説教

   ―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神のこどもたちに気づかされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27節
(新約86頁)

讃美=467.461.21‐26.
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【説教要旨】
 「係累に縛られる」または「係累を絶つ」との言葉があります。土地や親戚・親族との関わりの中で曰く言いがたい困難を抱えた人が、家を捨てて、または故郷を捨てて都会に出て仕事に就きます。暫く家族への仕送りを続けたものの、そのつながりを絶ったほうが生きやすさを感じた人々もいました。都会に出れば氏素性を問われず、実力で職場や社会で認めてもらえる、または認めてもらいたいとの願いから家族から疎遠になっていったその果てに、生死も含めて孤独にまつわる課題が問われます。家族を失うとはどういうことなのか。孤独死だけでなく孤独に由来するさまざまな疾病、アルコール中毒や薬物流布の温床となります。そして当の本人は何をどうすればよいのか知識を得られずに衰弱してまいります。日本の都市設計は決してすべての年齢や世代の人々には開かれてはおりません。あくまでも消費の源となる人々に絞り込まれてまいります。

 もちろん福音書の世界には現代の消費社会を可能とするような人口も経済構造もありません。けれども『旧約聖書』成立の時代から一貫して流れていたのは「神の祝福」とは「子を多く授かるか」に懸かっていたという、男女の社会的役割が頑なに固定されていたという状況でした。もしも現代で伴侶の同意なく多くの出産がなされたという場合、状況によればそれは夫から伴侶に対する家庭内暴力だと解釈されます。そのような深刻な状況を、ただ人の子イエスを陥れるための詭弁として用いるところにサドカイ派の人々の大きな過ちがあります。こどもを授かれなかった家庭、なかんずく当時の女性が被った社会での偏見はわたしたちの想像を絶するところがあったことでしょう。そして譬え多くの出産を経験したところで女性の被る身体へのダメージを充分に癒すところもなく、授かったこどもたちのもつすべての特性が社会で許容されていたわけでもありません。そのような受け皿を失った社会の無責任さを放置したまま、本日の箇所で祭司職に属するサドカイ派の人々は相続の話を通して人の子イエスを試みます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にはその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか」。確かにこのような品のない議論を吹っかけてきたサドカイ派には酌量の余地があります。それはサドカイ派の拠り所となる『聖書』のテキストとは『律法』のみであり、そこには死者の復活の出来事がそのものとしては記されてはいません。各々の物語は登場人物が世にある生を全うし墓に葬られ節目を迎えます。しかしだからと言って、家族や人間の生死に関わる問題を軽々に扱ってよいとの話にはならないのです。

 この態度に対してイエス・キリストは次のように答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者ではなく、生きている者の神なのだ」。アブラハムが埋葬されて数百年の後とされる『出エジプト記』の物語で、なおも神はアブラハムの神であり続けています。アブラハム自ら「大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」との約束にも拘わらず授かったのはイサクとイシュマエル、それもイシュマエルは追放の憂き目に遭っています。さらに人の子イエスは父ヨセフとの血の繋がりはありません。係累からは外れているとの見方もできます。しかしアブラハムの神はモーセには奴隷解放の神として、わたしたちには救い主イエス・キリストを遣わした愛の神として今なお現臨されておられます。その意味でアブラハムもイサクもヤコブも弔いを経ながらも弔いを超えています。『聖書』を土台とした復活の出来事への理解はこのような面からも可能なのです。

 DVなどの事情なしに家族を自らの足枷としてのみ考える人がいるならば、今一度その足枷が、行く道を違わないためのキリストに課せられた軛として受けとめる必要があります。松本清張の小説『砂の器』のような、自らの夢の実現のために家族を犠牲にしたところで何も得られません。わたしたちの目の前には何よりの宝である幼子が神の祝福を授かるために招かれました。この場を覚えて祈る方々すべてにとって、この子たちは何よりの希望、何よりの喜びです。22世紀にいたる生涯を歩むお子さんらに、そしてご家族に、主のますますの祝福を祈ります。

2025年10月31日金曜日

2025年 11月2日(日) 礼拝 説教

    ―永眠者記念礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)

讃美=520.519.21‐26.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 足かけ15年続いたアジア・太平洋戦争に破れ80年が経ちました。和暦で数えれば今年は昭和100年となります。みなさまのお手元には112名にわたるところの天に召された兄弟姉妹のお名前が記されています。このなかには戦時中に天に召された方々、戦中・戦後の混乱期を生き抜かれて生涯を全うされた方々、高度経済成長期に生まれ、懐古すれば社会が前向きに発展していたと思われる時代に生を授かりながら、社会矛盾や家族間で葛藤を覚えつつ天に召された方々、さまざまな激務に追われるなかで、心ならずも生涯を全うせずにはおれなかった方々の名が記されています。然るに泉北ニュータウン教会の礼拝では、とある教会員の生きざまを経て、礼拝を締めくくり世に派遣される折に献げられる祝福と派遣の言葉に「あなたのみもとに召された兄弟姉妹のうえに」との一節を添えるにいたりました。これにより毎週の聖日礼拝には世にあるわたしたちだけではなく、主のみもとに召された兄弟姉妹もともに礼拝を献げているとの確信をより一層深く分かちあうようになりました。

 在来の仏教では初七日、四十九日、一周忌、三回忌、さらに三十三回忌~五十回忌の弔いあげと節目をつけて法事が営まれます。おそらくはこのリズムで故人を見送ったご遺族・近親者の方々のグリーフワーク、ご心痛の緩和ケアーも兼ねてのわざとして行われるのかもしれませんが、場合によれば召された方々を在来仏教で言う浄土や涅槃、別の言い方をすれば記憶から遠ざける作業のようにも思えます。辛いことも悲しいことも水に流すという言葉が時に癒しとして意味づけられていく文化。なぜそのような倣いが求められるのかと問えば、一重に死の意味づけが「汚れ」とされるからだと思うのです。葬儀用のホールに行けば、エレベーターの扉のわきには必ず清め塩が備えられています。塩を身体に撒いてもらい、気分を切り換えようとする姿勢を、わたしたちの社会は暗黙のうちに求めます。その果てには墓石を積み上げた、痛ましい「墓終しまいの姿」があります。

 しかしながら「もうくよくよするのはやめよう。昔のことだからいろいろ言っても仕方が無い」との道筋で大切な方々の記憶を封じてしまうのは実にもったいなく感じます。教会では少なくとも週に一度は必ず礼拝を献げます。かつて新型コロナ禍の最中にあっても様々な工夫を凝らしてこの礼拝を続けようとわたしたちは苦闘いたしました。それは何よりもわたしたちにはある人が天に召された事実とは、決して忘れてはいけないかけがえのない歴史であり、一人ひとりが紡いできたいのちのバトンのリレーに他ならないからです。結婚式も告別式も、主なる神を讃える礼拝には変わりません。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。

 翻って考えれば、天に召された方々は、その道筋には数あれども、主のもとでとこしえの平安を得ているところにはそのような汚れはありません。福音書に記された「死後の世界」とは、古代ギリシアの考えとともに持ち込まれたものであって、人の子イエスもその教えを身に刻んでいた『旧約聖書』の世界では、さしたるものとしては考えられてはおりませんでした。むしろ人々はわたしたちの暮らしと同じようにさまざまな過ちを犯し、苦悩しながら齢を重ねて新しいライフステージを迎えるように、死もまた荘厳な新たな人生の始まりとしての意味づけがなされます。なぜでしょうか。そこには復活という死を限界づける新しいいのちの始まりが神の愛による確信のもとで書き記されているからです。「死は終わりではない」。世にある責任を果たしながら、その光のなかで、わたしたちは死を恐れながらも絶望には足りないと確信します。そしてその確信のなかでわたしたちは互いに助け合いながら、今わたしたちの目の前にあるところの肖像をイエス・キリストの十字架に重ねて、輝くいのちの希望を授かりたく願います。天に召された方々は、崇拝の対象にこそなりませんが、お一人おひとりが主の御使いとしてわたしたちの傍らに立っています。わたしたちの胸に刻まれたその生涯の刻印は決して消え去りはいたしません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストを通して、召された方々が切り拓かれた道から、またそのお姿から、励ましの力をいただいて、新しい一週間を始めることができるのです。世にある交わりと、主なる神のもとにある交わりとは、イエス・キリストを通していつまでも堅く結ばれています。

2025年10月25日土曜日

2025年 10月26日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= 187.Ⅱ-167.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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【説教要旨】
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。

 しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。

 そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。

 そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。

 そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。

 教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。

2025年10月15日水曜日

2025年 10月19日(日) 特別伝道礼拝 説教

―聖霊降臨節第20主日礼拝―

――特別伝道礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死からいのちへ」
高木総平牧師

聖書=
『マルコによる福音書』4 章35 節
(新約68 頁)
『ヨハネの手紙Ⅰ』3 章14 節
(新約444 頁)

讃美= 21-57.21-575.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 盟友、渡辺君が牧した教会でこうして奉仕できますことをうれしく思います。
 まずマルコの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけは、私たち一人一人への呼びかけ、教会への呼びかけとして受け止めたいと思います。ではなぜイエスはお命じになったのでしょうか。向こう岸に苦しんでいる人たちがいたからです。この人は墓場を住まいとしていました。墓場に住むというのは、生きながら死んだ人のように扱われていたと言えるのです。
かつて友人がフィリピンの教会に宣教師として派遣されたこともあり、最初は教会の青年や牧師たちに呼びかけて、学校に行ってからは生徒や学生、教員に呼びかけて何度もスタディツアーを行いました。ある時、フィリピン合同教会の礼拝に出た後、長老さんたちが支援をしている家族のところへ一緒に行こうということで出かけました。そこはお墓の中にあるスラムの一軒でした。このマルコの記事と同じ世界です。このお墓以外にもスラムに住まざるを得ない貧しい人たちが多くいます。生徒や学生にはよく言いました。決してその環境に屈しているのではなく、いのちのために戦っている人も忘れてはならないと。九州教区ではそれまでの欧米志向を反省しアジアに目を向けようということで始まりました。ここでいう向こう岸でありました。その中で生き生きと目が輝いている子どもたちから大切なものを教えられました。
 また同時に臨床心理士として子どもや青年、時に大人の苦しみ、悩みにかかわることからも、豊かさや便利さを追求してきたこの社会の病める部分を強く感じるようになりました。そのような価値観の中で、この言葉でいうといろいろな「向こう岸」を作ってきたのではないかと思います。特にマイナスと思えることです。死や老い、病気や障害、特に悩むこと苦しむこと、失敗することなどです。宗教も多くの人にとってそうかもしれません。不登校生の高校生が「うちには宗教がない」と叫んだそうです。今のこの社会への大きな問いです。またこの日本の子どもたちの自尊感が他の国々より低いという調査もあります。
 自殺ということではどうでしょうか。私は自死と言った方がいいと思います。この国は先進国の中では自殺者が多いのです。特に気になるのが19歳以下の自殺者の多さには心が痛みます。人は追い込まれたり、いろいろ不幸なことが重なると死を考えるものです。その根底にはこの私など価値がないのだという思いがあることも考えられます。
 マイナスと思える苦難の極致である十字架の向こうに大きな救いがあるということがキリスト教の根本です。この社会は死を避ける文化だと恩師は言いました。少しは変わりつつありますが、まだまだです。死は決して決して暗い恐ろしいものではない、これが十字架の死から復活へと進まれたイエスが明確に強く示してくださったのです。死者も私たちも大きな御手の中にあります。天に帰った渡辺君は今も語り続けています。
 そのいのちを創りだされた神が、いのちに生きることを望んでおられる。それはマイナスと思えること、失敗すること、悩み苦しむこと、病むこと、障がいを持つこと、老いること、そして死ぬこと、それらに向き合うこと、社会の問題に向き合うこと、向こう岸にわたること、そこにいのちに至る道があると教えられます。

2025年10月11日土曜日

2025年 10月12日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第19主日礼拝―

――神学校日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「汗水流して働く者はみな仲間」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20 章1~16 節
(新約38頁) 

讃美= 21-521(344),504,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 21世紀も四半世紀を過ぎた現在の就労環境は20世紀とは大きく異なり、社員一人ひとりの机は大抵がブースで仕切られています。会議をする場合には相応の部屋へ移動いたしますが通常は目の前にPCがあり、入社時に出勤を記録するタブレットを押して担当の机に座ります。職場環境はほぼ無音で隣に座る人との会話さえメールで行われます。その理由はハラスメント防止で、直接会話をすることすら憚れるところもあるそうです。会社勤務の人々が時に心を深く病むという場合、背景としてそのような設定もあるのかと考えます。

 さてさような状況とは逆に、本日の聖書箇所で描かれますのは汗を流して働くぶどう園の労働者の物語です。現在のような電算処理化などされておりませんから、本日の譬え話で描かれた世界には様々な臭いが立ちこめています。町行く人々の声、砂を巻きあげる風。乾燥した空気。照りつける太陽。描かれるのは正規雇用の人々ではなく日雇いの労働者です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出ていった。主人は一日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」。まず注目するのはぶどう園の経営者自ら労働者を集めるためにその場に出かけていく場面です。学生時分に釜ヶ崎に暮らしたわたしには、労働者を集めるのは手配師と呼ばれる人の役目であり、経営者自らがその場に赴くなどとは考えられません。その意味でも譬え話に登場するぶどう園の経営者は不思議な人物です。この経営者は9時ごろにも人々がたむろする広場にやってきます。この時間に広場に立っている人はその日の仕事にあぶれたといってよい者です。この人たちに経営者は「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と呼びかけます。これが正午と午後3時、そして午後5時と続きます。職を得られず「立ちんぼ」するしかない労働者に経営者が尋ねると「誰もやとってくれないのです」との呻きにも似た声をあげます。午後5時の労働者は完全に世の中から見捨てられた様子が分かります。

 しかしながらぶどう園の労働は決して楽ではありません。ぶどうがたわわに実る環境とは適度に乾燥しなおかつ日当たりの良い場所でなくてはなりません。存分に蔓が伸びるためには広大な土地が必要で、収穫物はぶどうの実だけでなく食用に適う葉、細工物に使用する蔓など見極める必要があります。雑草抜きや畝作りもあります。そのような農場に大した計画性もなく連れてこられるのが本日の日雇い労働者です。確かに夜明けに連れてこられた働き手は懸命に働いたことでしょう。ひょっとしたら次から次へと労働者をスカウトしたのは、過酷な農場での働きにローテーションを加えるためだったのかもしれません。しかしその憶測は一人の労働者の言葉によって打ち破られます。則ち「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」との不平です。しかしこの一風変わった経営者は次のように答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」。このように答えるとは、あまりにも不思議です。この箇所をして「ベーシック・インカム」の雛形だと捉える人もおられますが、わたしはもう一歩立入って考えてみたいところがあります。それはこのぶどう園の経営者の真意とは、働いた成果に関心を寄せていたのではなく、この働きに関わる人の存在そのものが、それが誰であろうと、どのような特性をもっていようとも1デナリオンの値打ちを備えていたのではないかとの考えです。

 私事で恐縮ですが、わたしは15年余り前に天に召された母親を想い起こします。何度か申しあげましたが、母は1942年に現在の長春で生まれています。引揚げて後に結核性のカリエスを患いました。下に三人の弟たちがおりましたが、母の嫁いだ先は養鶏場。決して安定した職場ではなく、終には自宅を売り払って実家に移るという次第でした。しかし母が祖母の世話を献身的にしている間、経済的に苦しんだという経験は一度もありませんでしたし、そのような姿を見せることはありませんでした。弱さを抱える母とわたしたちを母方の兄弟が養っていたのです。しかし祖母が召され、母もわたしの実弟の弟とともに沖縄へ転居しましたところ状況は一変し、仲が良かったはずの母の兄弟は相続をめぐって争い、兄は61歳、次兄は58歳で召されました。表向きには役には立たない母のもつ弱さが家族を結びつける鍵となってはいなかったか。1デナリオンの重さを考える朝です。

2025年10月3日金曜日

2025年 10月5日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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【説教要旨】
 わたしたちは『聖書』の言葉を気持ちに併せて断片的に受けとめたり引用したりしがちですが、実は各々の段落がその連なりの中で新たに輝き始めもいたします。そういたしますとこれまで分かりきっていたかのように思えた言葉の響きに一層の深さを感じるにいたります。今朝の『聖書』では祝福を求めて集まってきた人々が弟子に叱られたところイエス・キリストが「こどもたちを来させなさい。わたしのところ来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と諫める箇所が描かれ、続いて「金持ちの青年」の物語が描かれます。金持ちの青年が人の子イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いますと、その時代のユダヤ教徒であればこどものころから暗唱する「十戒」が論じられ「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えます。対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と応じますが、青年はその声を聞いて悲しみながらその場を去る、つまりその時には人の子イエスからは直ちには祝福を授かれずに終ったというお話が描かれます。

 弟子たちに叱られたところのこどもを連れた人々と、豊かな資産をもった青年。実はこの物語はイエス・キリストを軸にして対比されているとも読みとれます。人の子イエスのもとに近づいてきた人々にしっかり手を結ばれたこどもたち。この大人たちとこどもたちとの関わりがどのようなものであったか、福音書ははっきりとは記しません。親子であったかもしれず、逆に血のつながりはなかったのかもしれません。しかし文章からすると弟子が歓迎せずに去らせようとしたところから極度に貧しいところに置かれたこどもたちだった線も色濃く考えられます。貧困層のこどもたちのいのちは、飢餓状態に置かれており明日をも知れません。中には栄養不足に由来する病に虫の息のこどもたちもいたかもしれません。事態はそこまで窮迫していたからこそ、人々は人の子イエスにこどもたちの癒しを求めてきたとも考えられます。

 他方で富める青年はこれまで十全な教育を受け、裕福な暮らしの中で学びを深めてきたからこそ「先生(ラビ)」と礼儀正しく呼びかけ人の子イエスに問いかけたと思われます。しかしイエスは問答や対話という仕方で青年に答えを授けようとはしません。むしろ全生活に及ぶ態度による応答を求めます。それは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」というあり方です。つまり人の子イエスの左側には裕福な育ちをしてきた青年がおり、その右側には群衆出身の弟子でさえ退けようとした名も無き人々とこどもたちがいます。文章全体の構成から申しますと、イエス・キリストは富める青年に貧しいこどもたちへの富の再分配を促しているように思えます。現代の言葉で言い換えればキリスト自ら手を広げて神の「ノーブレス・オーブリッジ」、裕福な者は貧しい者に対して責任を担うというあり方を青年に求めているとは言えないでしょうか。現代では裕福な立場の者は何らかの財団を設立して収益の一部を社会貢献に用いて始めて「富める者」としての信頼を授かります。反対に富める者は貧しい人々に仕え交わるわざにより視野を広げ、その実りとして社会にその富と暮らしに必要な糧が行き渡ります。
 ただしイエス・キリストのこの求めはより深いところから湧き出ているようです。それは『旧約聖書』の『ヨブ記』に明らかです。義しい人ヨブは理不尽な苦難に遭う中、さらに息子達を自然災害で失います。その報せを聞いてヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とあります。『ヨナ書』と異なるあり方も、神の前に立つ人の姿として記されます。

 穀物の高騰が止まない現在、ときにわたしの家でも政府の支援米に伴侶が工夫して季節感を出そうとサツマイモやジャガイモを入れて併せ炊きする場合があります。すると戦争経験者の言葉とは反対に、栄養的にはバランスの取れたご飯が炊けてしまいます。食べる量こそ少なくなりましたが、ひもじさを覚えてはいません。その意味では自ら食するものを貧しい人々に差し出したかつての伝道者や闇米を拒み餓死した判事には及びません。しかし本日の聖書箇所をそのように読みますと、「児孫に美田を残さず」にも繋がる考え、則ち食前の祈りにおいて、わたしたちは世界中で困窮しているこどもたちと無縁ではないどころか深く関わっていることを思い出します。財産に執着する生き方もある一方で、貧しさを分かちあう生き方もあると今朝の御言葉から気づかされます。

2025年9月24日水曜日

2025年 9月28日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

【説教要旨】
本日の説教題、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。


2025年9月18日木曜日

2025年 9月21日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26
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【説教要旨】
 先日来阪した実弟家族と食卓を囲む機会を与えられました。弟夫妻が授かった一番歳下の女の子は小学校五年生、次男は中学生、そして長男は中学卒業後高校には進まずひたすら読書と武道に明け暮れる暮らしです。昭和の学校制度の枠組みが大きく変わる中で、思えば弟もわたしも集団行動が苦手であったと思い起こしながらの懇親の時でした。『聖書』の中で「羊」という言葉が用いられますとわたしたちはただ群れなす家畜であるかのようなイメージを抱きがちですが、人の子イエスの譬えに登場する羊の場合、現代でいうところの去勢がされてはいない羊が飼育されていたとの話も聞きます。そのような事情を踏まえますと、この時代の羊飼いという仕事は並大抵ではなかったようにも思います。羊飼いたちはわたしたちがいうところの「読み書きそろばん」を殆どの場合体得してはいません。しかし羊飼いは羊一匹いっぴきの性別や体格差、振舞いの特徴や表情を見抜いて名をつけ、その名を呼び、羊の群れを牧羊犬とともに統率していました。しかしその飼育が順調だったかどうかは分かりません。牧場の経営者と羊飼いの考え方の対立も否定できませんし、経営者は単に羊一匹を大事に扱うというより業務上の効率を求めていたと考える方が現実的です。

 そのような事情を知りながらも人の子イエスは次のような譬えを語ります。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。もしこの場で羊を追いかける役目が経営者自らであれば、譬えこの一匹が迷い出たとしても、全体の損益を考えて迷い出た羊を放棄し、危険は冒さないとの判断を下すかも知れません。経営者には羊はあくまでも資源であり、全体におよぶリスク管理の観点からすれば九十九匹を残すとの判断を下したとしてもおかしくはありません。しかしわたしにはこの人の子イエスがこの譬え話で用いた「ある人」とは間違いなく羊飼いであったと映ります。その理由は、その動機が決して合理性では割り切れないところにあるからです。きっと様々な特性のある羊がいることでしょう。中には羊同士の衝突により群れから弾き飛ばされた生体もいたと考えられます。しかしこの場で描かれる羊飼いは合理的な計算ができない代わりに、迷い出た羊を追いかけてやまないのです。そして同時に見落としてはならないのは、その背中を九十九匹の羊たちもまた見つめているところにあります。この羊飼いの必死な姿を見て他の多くの羊たちも「人と家畜」という関係性を超えて、この羊飼いならば大丈夫だとの深い信頼と安心感を授かったのではないでしょうか。

 家畜を飼育しながらの暮らしは実に厳しい選択を強いられる場面に遭遇します。養鶏場を経営していたわたしの父方一族の場合、もし鶏舎に1羽でも病気に罹患した鶏が出たならば、その鶏舎すべての鶏を処分しなければなりません。しかもこれが一度ならず十年に一度のペースで起きる算段もしなくてはなりません。その都度経営者は保険や雇用など重要な判断を下します。そのような苦労を重ねた父親は精神のバランスを崩し虚言癖・失踪癖に走り、そして年老いた今は施設に入所しています。思えば十数年前鳥インフルエンザが流行したときに西日本大手の養鶏場経営者は自死、息子である社長がその責任を民事訴訟にて求められる事態となりました。迷い出た羊を追いかけるわざも過酷です。しかし「神に出来ないことはない」、とイエス・キリストは語ります。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、わたしたちの天の父の御心ではない」とイエス・キリストが伝えようとする神の愛とは、自らあらゆる危険をわが身に担い、苦しみや痛みを負いながら多数の羊を活かすためにも一匹の羊を決して見殺しにはしない羊飼いの姿に重ねられてまいります。その姿は時として愚かであり、経営失格だとの烙印を世間や地域から押されるのかもしれません。しかし一匹の羊のために傷ついた足をひきずり歩くその姿に、わたしたちはただただ感謝の涙を流すほかはないのです。そのようにイエス・キリストは『聖書』を通してわたしたちに問いかけています。「わたしたちは羊の群れ」と『イザヤ書』53章6節を引用するならば、今は様々な毛や性格の羊がおり、溢れる数多の特性の羊が同じ草原に暮らしています。そのような羊一匹いっぴきの特性を見抜き、とかく争いや問題を起こしがちな交わりを平和に導きながら、キリストは更に広い草原へと導きます。わたしたちの置かれた牧場は決して狭く、居場所に窮してはいません。遠くの山の端から射す光に照らされ、わたしたちは羊飼いのもつ杖に導かれて歩みを重ねていきます。主の平安をともに祈りましょう。

2025年9月11日木曜日

2025年 9月14日(日) 礼拝 説教

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)

讃美=
517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26
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【説教要旨】
 大和川から南をおもな範囲とする日本キリスト教団南海地区。個性的な教会が軒を連ねます。そのなかでもわたくしどもの教会と交流が活発なのは日本キリスト教団いずみ教会。いずみ教会の創立に関わる物語としてはその設立に携わった人々が被差別部落とその関係者による奉仕が知られています。2025年度からは吉澤和海牧師が主任として招聘され地域伝道に励まれております。その就任式に際して贈られたのは真珠がついたしおりでした。牧師の就任式に随分と高級なものをと驚いたのですが、実はそれは地域で生まれた「人工真珠」というものでした。

 和泉市の特産品となった人工真珠は、当初は小さなガラス玉に太刀魚の皮を貼り付けて製造した、本物の真珠に庶民の手が届かなかった時代に製造された真珠をいいます。この仕事は手作業で行われるのが殆どでしたが、風雨に負けず仕事を続けられる特徴から皮革業や屋外の作業が中心だった被差別部落の人びとが、天候に左右されない稀な職種でもありました。化学塗料や溶剤の臭いこそあれ、身体にかかる負担は大幅に軽減され、文化活動や社会活動に献げる時間、もっといえば礼拝に献げる時間を勝ち取っていったと申します。

 本日の『マタイによる福音書』には次のように記されます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。畑に隠されている宝、一粒の高価な真珠。このようなものは探そうとしても見つけられるものではなく、たまたまそこにあったものを見つけられるか、絶えず注意を払っているのか、いずれにしても世にいうリサーチの結果見つけられるというものではなく、二度と繰り返すことのできない出会いの機会、チャンスをものにできるかどうかという一点に懸かっています。その意味では文字通り一度きり与えられるものとして始めてその意味をなすものだと言えるでしょう。

 その意味で本日のたとえ話の結びとなる箇所は辛辣です。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」。それから先には世の終わりのさまが記されますが、世の終わりの描写の直前にその時代の人々の暮らしが細かく描かれているのが興味深いところです。集められた「いろいろな魚」のうち、人々はその網を岸に上げて良い物と悪い物、則ち食用になるものとそうでないものとを仕分けするというのです。あえて深読みすれば、「魚」とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とのギリシア語の頭文字を集めての略語でもありますから、教会に連なる人々がこのように仕分けされると記されるのですが、いったいどこにその基準があるのかは分かりません。そうなのです。この箇所で記される終末のあり方とは「全世界に福音が宣べ伝えられた」その後の出来事であって、わたしたちには知る由もありません。けれども天の国、則ち神の国の先取りとしての地に隠された宝、一粒のよい真珠という小さなかけらを尊ぶ仕方に気づくや否やという問いにつながってくるかと存じます。その道筋とは、祈りを軽んじず、イエス・キリストとの関わりを片時も離さないという点にあります。

 一粒のガラス玉に魚の皮を張り付け、樹脂でコーティングした人工真珠。その真珠が人々の暮らしを支えるだけでなく、事実上はカルシウムの塊である真珠というまことにデリケートかつ富裕層にのみ身につけることを赦されていた宝物がタフな姿で一気に民衆のお洒落になっていくという様子。工業用にも用いることができるという、本来の真珠では不可能な領域をも開拓していく道筋が拓けてまいります。貴重なまことの真珠をお持ちの方はその宝を大切にしてくださればと願います。そして手作業によって暮らしを成立たせた、日々差別を被るところの人々がもたらした人工真珠もまた、貧困層に属する人々の暮らしを底あげしました。その意味では富の分かちあいを通して神の国のモデルとなる交わりをもたらしたと言えるでしょう。神の輝く真珠がそこにあります。

 本日は「長寿感謝祝福式」を行います。様々な時の経過とあゆみの中で、神の国のかけらを見出してこられた兄弟がこの祝福に加えられます。イエス・キリストを通してこの祝福は、わたしたちにも注がれています。齢を重ねるのはまことに尊いわざです。これまででなくこれからもその賜物を用いてくださればと願います。

2025年9月4日木曜日

2025年 9月7日(日) 礼拝 説教

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 9月を迎えました。昼間は強い日差しで辟易する日々が続きますが、暦は立秋をとうに過ぎています。夜半には虫の音が響き、懸命にいのちを繋ごうとする声が響いているようです。

 そのような虫のうち、バッタの仲間が好むのがイネ科の植物。農家には邪魔者ですが、反面、信州や上州、奥州でイナゴは民衆には貴重なタンパク源でもありました。洗礼者ヨハネの食べ物もイナゴであったと記されます。

 しかしそのイネ科の植物には暮らしに好ましくないものもありました。それが今朝の人の子イエスの教えに描かれる「毒麦」と呼ばれる植物です。毒麦とは栽培されるイネ科の植物の擬態雑草で、麦類の植物と同じペースで伸びやがて実をつけるのですが、その実には多量に摂取すると神経を冒すアルカロイド系の物質が含まれています。空腹のあまり危険を知らずに大食いすると嘔吐や下痢、場合には錯乱にまでいたるという植物です。身近なところでは山菜に含まれる「苦み」もその毒によるものだと言われていますが、よほどの目利きでない限り小麦などとは見極めがたいとされます。

 本日の箇所で人の子イエスは「毒麦の譬え」と呼ばれる話を語ります。詳しくは『マタイによる福音書』を繰り返し読めば明らかですが、キリストとの関わりを試みたり邪魔をしたり、あるいは教会の交わりに分裂をもたらしたりする者を「毒麦」、日の光を一身に受けてすくすくとキリストへと向けて育まれ、豊かな実りを結ぶあり方を「良い種」として扱っている模様です。同じ畑に蒔かれた毒麦を他の麦と見分けるのは至難のわざですが、僕たちはめざとく毒麦に気づき「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」と主人に問いかけます。主人は「敵の仕業だ」と呟きます。農業が日々の生活のみならず、いざという時には兵糧にもつながる場合、このように敵対者が畑に塩をすき込む、または毒草の種を蒔くのは茶飯事でした。当然の事ながら目利きの僕は「では行って抜き集めておきましょうか」と迫るのですが、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのとき、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と語ります。

 わたしたちは暮らしの中で「必要悪」という言葉を聞きます。豊かな成果を得るには少数の犠牲もやむを得ないとする考え方です。しかしこの物語では、そのような必要悪といったものを畑の主人は認めようとはしません。むしろ毒麦ならば毒麦の、よい麦の種であればその麦の実りが、誰の目にも明らかになるまで一定の猶予の期間を設けます。この「神のモラトリアム」のなかで、誰が神の前で誠実であり、誰がそうではなかったかという態度がはっきりするというのです。

 日本人にもよく知られたアメリカ合衆国第16代大統領としてエイブラハム・リンカーンという人物がいます。合衆国南北戦争の時代に北部23州の合衆国大統領として奴隷解放の立場を打ち出し、また日本の児童向けの偉人伝にもよく登場するこの人物。わたしたち大人には時に厳しい言葉をも投げかけます。それは「40歳を過ぎたのであれば、大人は自らの顔に責任をもて」とのメッセージです。何もその人の顔の美醜を問うているのではありません。その人が幾度人に裏切られてもなおも人を信頼し、誠実に歩んできたかがその人の顔に表れるという意味です。この朝、聖日礼拝の会衆席にリンカーンがいて、正面きってそのように問われたのであれば、わたしは自信をもってその問いに答えられるかは疑問です。

 しかしイエス・キリストを中心としたこの交わりに、その理由はどうであれ集う方々は、主なる神から一定の赦しの時を備えられています。「わたしには信仰がありません。主よお助けください」と呼ばわる方々の顔こそが、その人が知らないままでリンカーンの語るところの「顔」をもってイエス・キリストを仰いでいるのではないでしょうか。世の倣いに則するならば、もっといえば通俗的な道徳に則するならば、人生の裏街道を目のあたりにしなければならなかった人こそが、さまざまな苦難や汚れを糧として、よい実りとして主なる神に献げられるに違いありません。ところで「毒麦」に含まれる毒成分は、現代の医療では薬用として用いられる分には貴重であるとされ、偏頭痛の治療や向精神薬にも用いられるとのことです。主が創造し給う被造物には一点の無駄も差別もありません。恵みに満ちた主の祝福を心から讃美し、深く感謝しつつ始める月といたしましょう。

2025年8月28日木曜日

2025年 8月31日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『旧約聖書』を読み進めてまいりますと時折実に凄惨な合戦の場面に出会います。とくに『ヨシュア記』や『士師記』は残酷さを極めます。例えば『ヨシュア記』10章29~30節には「ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣をもって町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。リブナの王に対してもエリコの王と同じようにした」とあります。これは「聖絶」という理解で語り継がれてきた話であり、戦争中の日本の教会もまた聖日礼拝説教で扱った箇所だとも言われています。しかしこのような無差別な殺戮を現代のわたしたちが認めてよいはずがありません。それではわたしたちはどのように読み解けばよいのかという疑問の中で、あらためて『創世記』4~12章を開きます。するとそこには、イスラエルの歴史の中で手に掛けられた人々も含めて全ての民がアダムとエバから出たとの記事があります。これは何を示しているかと申しますと、歴史の歩みのただ中でイスラエルの民の歪んだ選民思想への牽制として、彼らの敵対する民もまた血の繋がりがあるとのメッセージを聴くことができます。則ち、原初に起きた殺人行為が兄カインによる弟アベルの殺害であったとの兄弟殺しが繰り返されてきたとの理解によって、一見するとイスラエルの民の勝ち戦に見える戦いでさえ、それはまことに罪深い人の営みであるとの認識にも立ちうるとの解釈です。日本でも戦国時代に大名同士が姻戚関係に立ち、和睦の証しとしたように、古代ヘブライ人にとっては血縁による繋がりが平和への道であるとの一縷の希望がありました。

 しかし本日の『新約聖書』の箇所で、人の子イエスは奇異なわざに出ているようにも思われます。それは「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「ご覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と記されます。同様の記事を『マルコによる福音書』は「周りに座っていた人々」と記します。人の子イエスは弟子たちとともに旅を続けながら教えを宣べ伝え、癒しのわざを行っています。その行方は家族にも分からないという場合も出てまいります。ですから人の子イエスの係累、血族からいたしますと本日の箇所とは実につれない立ち振る舞いに映っても何らおかしくはありません。おそらく母親も含めて家族は返されたその言葉に深く肩を落としたことでしょう。

 しかし反対に、人の子イエスの話に耳を傾けていた弟子や群衆にはどうであったかと考えますと、必ずしも肩を落としたとは言えません。弟子も関わる「群衆」には、確かにそこに集まっているけれども、横の繋がりが一切ない人々が示されます。そこに集まっているだけの人々に対して、イエス・キリストは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と呼びかけます。血の繋がりなど一切関わりのない人々が、そこでは「わたしの兄弟、姉妹、また母である」と呼びかけられたときに覚える喜びはいかなるものであったでしょうか。このように本日のイエス・キリストの言葉は、観る角度によってその意味が正反対の切れ味を帯びる場合もあります。

 それでは本当のところ、人の子イエスはわたしたちが社会一般でいう家族のつながりを疎かにしていたのかと言えば、決してそうではなかったとも言えるでしょう。何しろ、弟子たちがすべて逃れていったとき、十字架で息絶えたわが息子の姿を凝視し続けたのは母マリアであり、それゆえに後世には「ピエタ」という十字架で処刑されたイエス・キリストの亡骸を抱きしめる母の姿が描かれるほどであるからです。あの彫刻の描写には確かに作り手の解釈もありますが、ではなぜその彫刻を前にしてわたしたちは涙を流すほど感動するのでしょうか。

 確かに『旧約聖書』『創世記』2章では、家族の最小限の単位は血縁のない「夫婦」だとされています。しかし他方でわたしたちは新しいいのちを授っていくという賜物を主なる神から備えられます。こどもたちはやがて育ち、出会いを経て異なる人と結ばれて、いつしか親離れをしてまいります。だからこそわたしたちにとっては血のつながりを超えた「神の家族」という言葉によって表わされる交わりを大事にし、頼る先を増やしながら、自らの孤独を飼い慣らすことができるのです。エスニシティ(民族や文化、習俗)による差別がまかり通る今、わたしたちが軸に据えるべきはイエス・キリストを基とした交わりです。その交わりが神の平和を築きあげます。

2025年8月22日金曜日

2025年 8月24日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 福音書の成立には、人の子イエスとその弟子が語り伝えた神の愛による世の統治が、その時代の人々の思う通りには訪れてはこなかったという事情があります。神の計画とは人の思いを超えて実現していくさまを、わたしたちは断片的であるにせよ体験しているからこそ、本日の礼拝に招かれておりますが、わたしたちはむしろそのような体験を賜った神に深く感謝を献げるところです。教会の交わりに頑なだった家族がその生涯を全うする直前に洗礼を授かる場面に、わたしは牧師として幾たびも立ち会いました。

 しかし福音書の世にありましては、そのような日々の平安にさえ遠いなかでただただ神の愛による統治を願わずにはならないのっぴきならない、そして現在のわたしたちとは程遠い事情がありました。それは、まずは人の子イエスを救い主と仰ぐ人々の交わりを敵視する古代ユダヤ教からの暴力を伴う排除、次いで貧しく、さらには仮に人身売買される奴隷の身の上にあったとしても時のローマ皇帝を決して神として跪かなかったがゆえに叛逆罪に問われ、見世物のように殺害されていった日常です。遠藤周作の小説『沈黙』よりも厳しい排除と差別が続くなかで、人々は「アーメン、わが主よ、来たりませ」とイエス・キリストの再臨を待ち望んでいました。
しかし『旧約聖書』の種々の物語にもあるように、神の約束とは思いもよらない仕方で、しかも数世代を経て実現するとの性格を帯びる場合もあります。わたしたちが神を利用するのではなくて、神の導きにわたしたちが身をゆだねた時に初めて拓かれる道があります。

 そのような困難な世にあって授けられた希望の道を、人の子イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」との言葉で示します。「蛇」という言葉からわたしたちは好き嫌いの分かれる不気味な生き物を連想しがちですが、『聖書』では「知恵」や「癒し」を与える象徴としても用いられています。わたしたちは「天地創造物語」で描かれるところの、エバとアダムを誘惑し、神との信頼関係を破壊する機会をもたらす存在として理解しがちですが、逆に言えばあの「蛇」という言葉には、古代ヘブライ人が味わった、想像を絶するような高度な文明に動揺する人々の様を看て取れます。そのような人々、とくにヘブライ人を虜囚としたバビロニア王国の人々が暗に「蛇」だと呼ばれた可能性もあります。確かにその生態は今も人間を驚かせるところから、それが知恵の象徴だと言われるのも無理はないと考えます。

 しかしそのような知恵を「福音書」ではあくまでもイエス・キリストの語るところの知恵だとします。そしてその知恵とは「鳩」のような素直さとともにあって初めてその本来の力を発揮するというのです。一見対照的に映るがゆえに『聖書』にはダブルスタンダードが記されているかのように誤解しがちなわたしたちですが、この箇所で記されているのは困難に満ちた世に活かされるためには、イエス・キリストを核とした喜びに満ちた交わりが不可分であると示します。洗礼者ヨハネのもとで救い主としての働きを始めるにあたり、人の子イエスに神の霊が「鳩」のように降って来るのを見たと申します。『旧約聖書』「天地創造物語」にさかのぼれば「洪水物語」で箱舟にその災いの終わりを告げる「神の平和」の象徴としても用いられます。この素直さと繊細さあればこそ、時に捕食関係にあるとして理解されがちなこれら被造物は、神への素直さに根ざした知恵として世にある真贋を見抜き、密かに響く神の声を聴き分ける力を弱さの中から汲みだす象徴として深く結びつくのです。

 報道では充分な知識のないまま身ごもった未成年の女性が、授かったばかりのいのちを認められずに殺害し、公園に埋めていくという凄惨な事件を聞きました。身代金目当ての誘拐事件に代わって、相談口があれば十分防げたはずの事件が後を絶ちません。かつて道端で呻く傷だらけのホームレスを敢えて無視して大学のキャンパスへと通学しなくてはならなかったいたたまれなさ、自分は「よきサマリア人」にはなれないとの悔しさに身を震わせた時代、今は早朝の大衆食堂で水商売の仕事明けに騒ぐ若い男女から勧められた好意としての一皿の食事を断りながら、同じ世代の集う教会やこども園、大学に身を置く者として、やはりこれもまた自らが虐げられている立場にあることすら気づかない、その若者たちの目を塞ぐ様々な構造や差別に対して憤りを覚えてよいのだとの声を聞く日々です。問題はその怒りをどのようにして人を支えるエネルギーに変えていくのか。その道筋を祈り求めてもいます。自分の身を守ることで精いっぱいだったはずの初代教会の人々が、愛のわざに励み続けた知恵と素直さを尊びたいと願います。神の国の訪れを、福音を賜物に応じて証ししながらともに待ち望みましょう。

2025年8月16日土曜日

2025年 8月17日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 酷暑が続きます。みなさまにはお具合いかがでしょうか。牧師は14日(木)には釜ヶ崎で内科医として献身的に働き、そして殺害された高崎南教会員矢島祥子さんに関するチラシ配布を西成区鶴見橋商店街で行いました。その折、目の前をナツアカネ(赤とんぼ)がすっと飛んでいくさまを見ました。暑さと豪雨の繰り返しで天気予報には気をつけなくてはなりませんが、それでも少しずつ季節は移ろっているのだなと実感いたしました。

 今や下町の商店街には様々な国籍の方々が往来されています。受け取ってくださるかどうかは別として相手の目を見てにこやかに挨拶をすれば日本人以上にレスポンスを返してくださるのはありがたいところです。

 本日の『マタイによる福音書』では人の子イエスが弟子を招き、汚れた霊を追い出す権能を授ける様子を描きます。集められたのはペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダの名があがります。イスカリオテのユダもまたこの箇所に記されているという点では、イエス・キリストのたどった苦難の道でのその振舞いが、ユダだけの責任に帰して問われているのではなく、十二弟子全体のありかたを問いかける徴として描かれています。

 そしてその後の十二弟子に対する人の子イエスの言葉は次のように記されます。「異邦人の道に入ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた家の失われた羊のところへ行きなさい」。この箇所に触れて『聖書』をお読みの方は首を傾げるかもしれません。この福音書より10~20年ほど早くまとめられた『マルコによる福音書』では「まずこどもたちに十分食べさせなくてはならない」と語る人の子イエスに、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと願うギリシア人の女性が食いさがり、その結果福音書でいう悪霊が去る、則ち病が癒されるという物語が記されているからです。それでは諸国の民の間にある垣根を設けるようあえてイエスの命令として記さなければならない理由とはどこにあったのでしょうか。

 『マタイによる福音書』ではこの垣根を越えていく神の愛のわざを決して軽々しくは扱いません。それは世にある人としてのイエスを知る弟子のなかに、ある人物の名が欠けているところからも明らかです。則ち、初代教会の立役者となった使徒パウロの名です。パウロは人の子としてのイエスとの面識はなく、イエスが昇天された後、聖霊降臨の出来事のなかで使徒となった弟子の口から救い主の生きざまと復活の出来事を知ったと伝わります。むしろこの人が律法学者サウロと称していた時代のほうが字義どおりにこの命令を受け入れやすかったことでしょう。それほどこの壁を破るために初代教会は深い痛みを経験しました。その象徴がユダの裏切りを経ての救い主の処刑です。同時にそれは十二弟子の離反をも示していました。しかしギリシア語で「パラドゥーナイ」とされるこのわざは「裏切る」というよりも「引き渡す」「委ねる」との訳が適切だと申します。そうしますと現代人の目からすればイスカリオテのユダよりも、使徒パウロのほうがより罪深く考えられます。そのパウロの働きを通して、広く異邦人にもサマリア人にも福音が宣べ伝えられ、神の深い愛がイエス・キリストの福音の核として伝えられました。ちなみに本日の箇所では、まだ弟子たちは救い主の苦難に満ちた歩みと十字架での死、そして復活の出来事の告知を人の子イエスからは受けていません。そこには素朴に人の子イエスに従おうとする人々の群れが描かれます。やがて神の国の訪れを前にして諸国の民の壁が打ち払われ、その時代すでにあったところの貨幣経済による貧富の格差も打ち破られていきます。だからあえて旅支度をせず「平和があるように」と挨拶を交しなさい、とあります。脆さも含めて弟子は派遣されます。争いや差別ではなく「主の平和」です。

 どの旅の備えでも金銭は確かに重要です。ただ福音書のメッセージでは社会を循環し、分かちあうところのツールとして相対化され、そのものとしては神から授かったいのちを値づけしません。もちろんそれは礼拝の対象にもなりませんが、困難の中で金銀に目を奪われていく教会も多かったことでしょう。ユダはその躓きの徴として、他の弟子の破れとともに数えられます。他方でパウロを軸として異邦人とともに歩む教会は、復活したイエス・キリストとともに新たないのちの息吹を注がれてまいります。この二つの流れは、神の愛によってひとつにされ、今のわたしたちに流れ込んでまいります。主にある多様性の基には、いのちの尊厳への目覚めが、どのような人にも敬意を払える態度とともにあります。戦争の過ちを繰り返さないために他者への尊厳を求め祈ります。

2025年8月8日金曜日

2025年 8月10日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 お互いに甚大な被害を与える現代の戦争には勝者はおりません。しかしそれでも勝利を収めたと自認する国ではその戦争で負傷したり病に罹患した復員兵を迎える家族に何らかの補償をいたします。負傷や生命の代償として当事者には名誉の勲章が授けられる場合もあります。

 しかし最も過酷なのは敗戦後に帰る家も焼け家族もちりぢりとなり、深い傷跡を顔や手足に残し、または風土病に罹患しすっかり病気がちとなった人々があげられます。もちろん戦災孤児は言うに及びませんが、かつて英雄として奉られた特別攻撃隊の生き残りの暮らしは「特攻崩れ」として荒み、酒浸りになり、薬物に溺れて身を持ち崩す人も多かったと聞きます。戦闘で顔面を失った人々が日々の賄を得た手段とは「見世物小屋」での「化け物小屋」で働く人もいました。かつては人々に旗を振られて送られて、今は人々から恐怖と侮蔑の目で見られます。それは戦後の高度経済成長期にも深くて長い影を落とすものでした。

 本日の聖書の個所ではおそらくはガリラヤに戻った人の子イエスが通りがかりに収税所に座っている徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と声をかけ弟子とするところから始まります。『マタイによる福音書』の書き手集団とは別の人物ですがそれでも何らかの関係を想像するには十分な名前です。その後イエス・キリストはマタイの家で食事をいたします。そこには徴税人や罪人も大勢つどい人の子イエスや弟子たちと同席したのです。

 この「徴税人や罪人も大勢やって来て」というくだりなのですが、徴税人はまだしも「大勢の罪人」と呼ばれる各々の姿が思い浮かばずにみなさまは苦しむところではないでしょうか。ただしイエスの弟子を批判するファリサイ派の人々による「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」との言葉から、おぼろにではあるにせよその姿が浮びあがってまいります。すなわちその社会規範からは遠くかけ離れ、絶えず遠ざけられた人々が律法に厳格なファリサイ派からすれば許容これ能わずといった具合だったのでしょう。

 昨日は長崎の原爆忌でしたが、広島と長崎に共通するのは路面電車が走っているというところです。つい20年ほど前までは手足や首に原爆固有の火傷を負った人がごく普通に電車に乗り降りしていたとのことでしたし、銭湯に行けば人皆傷だらけの身体を晒して湯船に浸かっていたと聞きます。しかしその理由を尋ねる者はだれもいなかったと申します。その人自らが何か悪さをしたという意味に限られず、人々に負の記憶を連想させるために社会から見放されていった人々もまた「罪人」として疎外されてしまっていたのではないでしょうか。

 その裏づけとしてはファリサイ派の問いとも批判ともつかない言葉に対して向けたイエス・キリストの言葉に明らかです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との言葉には、人の子イエスのもとに集っていた「罪人」とは「病人」との意味も併せ持っていたという点です。ファリサイ派の求めるのは義人、すなわち「健康な人」であって、その集いへの参加を人は誇ることができます。しかし徴税人マタイの家には何の取り柄もない病人が集うのであり、その集いを人前で決して誇ることはできません。しかしその交わりの中で罪人とも呼ばれる「病人」、何も誇れない人々にこそ主なる神の祝福に満ちた交わりの回復と慈しみ深い安らぎが臨むのではないでしょうか。

 戦争が終ってから少なくとも20年間、場合によれば高度経済成長期の恩恵の及ばぬ影で、人知れず差別に堪える他なかった人々がいました。広島や長崎出身というだけで就職面接や結婚を断られた人々がいました。また、両親を失い上野駅の地下で心ならずも盗みを働かなくては生きていけなかったこどもたちは、大人になり結婚相手にすら老いてなお身の上を語れない方々もいます。さらには戦後なおも残る機雷や不発弾でいのちを失った方々も数知れません。『エゼキエル書』37章に記された「枯れた骨」として今なお放置されている遺骨となった身内を忘れられない人々がいます。広く世間では「心の病」の源として扱われてきたそのような辛い経験を、イエス・キリストが見逃すはずがないのです。戦後は決して終りません。キリストに連なる教会もまた、今なお続く傷や病を癒す場なのだとわたしたちは確かめます。イエス・キリストは平和の主であり、多くの傷に苦しむ人々、空腹の友と一緒に宴を囲まれます。その交わりこそがわたしたちの出発点であり、神の愛につつまれる統治の先取りであると確信しましょう。天に召された方々ともわたしたちはこの礼拝で交わり続けるのです。

2025年8月1日金曜日

2025年 8月3日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「平和を実現するイエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』8 章5~13節
(新約13頁)
讃美=21-561(420),531,
「主の食卓を囲み」(讃美ファイル3),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 本日は日本基督教団の教会暦に定められている平和聖日です。とりわけ満洲事変から数えますと15年間続いたアジア・太平洋戦争が事実上の日本の敗北で終り80年を数えます。幼い日に戦火の中を逃げまどった「戦争体験者」は今なおお健やかであったとしても、実際に従軍経験のある方々はまことに少なくなった時代となりました。実体験ぬきで戦争を語りますと安売りロマン主義の虜となり、やれ英霊だのやれ雄壮だのという話となります。しかしながら歴史上の記録だけはごまかせません。先の一五年戦争で「戦死」扱いされた兵士では餓死者・戦病死者が7割にも昇ります。前線の将校や看護兵の手に負えぬとして自決した兵士もきっといたでしょう。

 平和聖日で取りあげる聖書箇所はあくまで日本基督教団の教会暦に則しておりますので牧師が恣意的に選んだ箇所ではありません。けれども百人隊長という、いざとなれば最前線に立つ下級将校の立場にあって、支配地の紛争が絶えないこの時代に自らの部下を思いやるとの働きはなかなかできません。言ってみればローマの軍隊にあってカファルナウム含めてパレスチナはローマと地続きとは言え乾燥した外地にあたります。その時代には百人隊長のほうが人の子イエスよりも立場が上なのが当然です。けれども百人隊長は語るのです。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます」。一般に中風とは脳梗塞や脳溢血を含めた疾患を指しますが、この僕の病の原因は何だったのでしょうか。水分や栄養を十分に摂取できず、南方の密林の風土病であるマラリアのような病が原因だったのかも知れません。百人隊長は派遣先の地元民の一人に過ぎない人の子イエスに「主よ」と呼びかけ、助けを乞います。戦争末期の日本軍の将校にこのようなわざができたでしょうか。

 人の子イエスはそのような乞い願いを決して無碍に扱いません。「わたしが行って癒してあげよう」と語りかけます。しかし百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」。百人隊長は知っています。絶えざる戦時下とは言え、どれほどの外地の人々を手にかけてきたことか。個人としての葛藤はともかく、多くの人を手にかけ、ローマ帝国の旗の下で田畑に塩をすき込み、女性やこどもたちを飢えさせてきたかを。そして少なからず部下を戦死させてこその今の地位があることを。そのような深い葛藤がイエス・キリストを前に一気にほとばしり出てまいります。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。この「ひと言」への絶大なる信頼が人の子イエスの胸に響くのです。その信頼は一度命令が下れば譬え死地であっても赴く覚悟とその覚悟をともにする兵士の挙動に示されています。

 人の子イエスはこれを聞き深く感じ入ったと申します。この場面での人の子イエスのローマ軍の下級将校への向き合い方は、言うまでもなく敵味方の垣根を越えています。そして本来は占領軍にあたり、ユダヤの民に較べれば世にある立場も上であったろうこの将校の振舞いを示し「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」。思えば『旧約聖書』の預言者の物語に描かれたのは神に選ばれたはずのイスラエルの民による神への冒涜と不信仰の歩みでありました。それでも「死んではいけない」と語る主なる導きは変わらずユダヤの民に注がれていたはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。言い換えれば「これほどの世に遣わされたメシアへの信頼をユダヤの民には見なかった」との言葉です。神の愛とイエス・キリストの恵みは名も知らない百人隊長の僕、軍人ではなく軍属であったかも知れないその人に臨んでまいります。「東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。だが御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりすることだろう」。未だに神への承認欲求に凝り固まり、砕かれ新たにされる出来事を恐れる者は、たとえ「御国の子ら」と呼ばれようとも宴席から退けられるとの言葉。わたしたちには、そしてパレスチナで民間人を銃撃する人々には、そして根拠なく教会に連なる者を「左翼」呼ばわりする人々にはどのように響くことでしょうか。神の愛への信頼に基づく平和とは、決して世にある境界線を問わないのです。

 思えば『マルコによる福音書』で十字架での人の子イエスの最期を見届けた、本日の人物とは異なるところの百人隊長は、その場で「本当に、この人は神の子だった」と呟きます。イエス・キリストの愛とは、分け隔てなく人々の痛みや苦しみを分かちあい癒してまいります。その慈しみといのちへの愛に満ちた平和にわたしたちは今一度目覚め、80年目の八月を迎えたいと強く願います。