2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
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2025年5月30日金曜日

2025年 6月1日(日) 礼拝 説教

―復活節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「キリストに祝福される世界」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)

讃美=158,21-530(403),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。

 この「天に召される」という表現と、イエス・キリストの昇天とは全く異なる次元に立ちます。イエス・キリストの場合は、自ら世に遣わされ、救い主として人となり、地上の生涯を十字架で苦しみの極地のなかで終えられ、葬られた後に復活されて、そして自ら天に昇るという意味で「天に召される」のではなく「天に昇る」と唯一無二の仕方で書き記されます。しかし『ルカによる福音書』また『使徒言行録』に記されるキリストの昇天の様子を視覚的にそのまま表現したところで、却ってその書き手集団が伝えようとしているところが何であるのか、却って見失うような気がしてなりません。

 まずわたしたちは、世に遺された弟子たちの立場にあわせて「キリストの昇天」の出来事に思いを馳せてみましょう。イエス・キリストは、魂だけではなく心身ともに併せて復活されました。それは本日の箇所の直前に「わたしは亡霊ではない」と弟子に語りかけながら、復活を喜ぶ弟子たちから差し出された焼き魚を食べたとの記事から分かります。この箇所での焼き魚とは、ガリラヤ出身の人々が長旅をする折に携行していたお弁当であり、もっとリアルな言い方をすれば旅人が食する目刺しのようなものです。つまりイエス・キリストが正真正銘弟子のもとに帰ってきた証しとなるわざをいたします。さてその次にイエス・キリストは自らが『旧約聖書』に記されたメシアであると宣言します。このときに弟子の心の眼が開きます。これまで弟子を慄かせていた「救い主の受難と十字架での死、そして復活の告知」はようやく喜びのメッセージ、すなわち福音となります。そしてあえて弟子をエルサレムの都へと留まらせ、神の国が訪れるその行く末にいたる伝道の豊かな可能性を述べます。そしてベタニアのあたりまで行かれ、手を上げて表向きには弟子を祝福しながら天に昇るという流れになります。

 わたしがなぜ「表向きには」と申したかと言うと、この時点でイエス・キリストによる祝福は、弟子の器を溢れて全世界に及んでいるものだと受けとめたからです。確かにイエス・キリストの姿は、もはやかつての人の子イエスのように地上にはありません。一見すれば「人の子イエスはいなくなってしまった」という深い挫折さえあってよさそうなものですが、弟子はみな神殿の境内に戻り、神をほめたたえていた、とあります。それは、すでにイエス・キリストとの深い関わりが定められているところから来る安心感ではないでしょうか。

 これまで弟子は人の子イエスの言葉の意味も、その行う癒しのわざの真意も分からないまま、十字架への道にいたってはほぼ全員がイエスのもとを離れるという無様な姿を晒しました。その遺体をひきとったのはファリサイ派の議員でイエス擁護の立場にいたアリマタヤのヨセフであり、弟子ではありませんでした。その胸に深く刺さるような痛みと後悔のもとにのみ弟子が留まっていたのであれば、『使徒言行録』に記されるところの世界宣教、そして今日まで続くそのわざは起きるはずがありませんでした。

 イエス・キリストが世から人の手の及ばなくなるところに行かれるところで授けられた祝福。それはこの争いに満ち、悲しみに満ちた世界への祝福となります。本来は祝福に値するところではないはずのところに及ぶイエス・キリストの祝福はすべての疑いを打ち破ります。そして残虐な衝動、人格を認めない歪みから人を解き放ちます。その意味で申しますならば、福音とは絶えず世にある囚われから解き放たれて、キリストの祝福を週ごとに、日毎に自覚するところから始まるのではないでしょうか。神の愛の深い関わりがそこにはあります。

 人は変わり、世は移ろい、教会もまたその姿を少しずつ変えてまいります。そのようなわたしたちが天を仰いで見つめるなかで感じるのは、かつて弟子達もまた同じ姿で頭を上げたという、その追体験です。イエス・キリストの姿が地上より失われてから、弟子はその存在を感じつつ、やがて起きる聖霊降臨の出来事へとその舞台を移します。時にそれは亀裂に満ちている乾ききった大地に潤いの雨が降り、豊かな川の流れとなります。時によってそれは激流によって流された橋に代わって天には虹がかかり、必ず主の平和が訪れるとの約束を示します。沈黙を余儀なくされていた人と人との間に、豊かな語らいが再び芽生えてまいります。誰も好き好んで人を傷つけ殺めるなどの行為はできないものとして神は人を創造されています。その神の良心の種を、主イエスは今も撒いておられます。人の手の及ばぬところへの祝福は、聖霊の働きとして今もなお関わり続けているのです。

2025年5月23日金曜日

2025年 5月25日(日) 礼拝 説教

―復活節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「人の子イエスの祈り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章5~15 節
(新約132頁)

讃美=308,21-512(326),21-29.
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【説教要旨】
   加持祈祷によって手に負えなくなった病を癒そうとする。また心病んだ人の具合を癒すためにまじないを行う。いずれも日本社会では今も残るところの、しかし表立っては姿を見定めがたい民間療法にも似た振る舞いがあります。いずれにいたしましても医療技術が今日のようにではなく、また医療技術からは排除され追い詰められた人々が群がる場所が今でもあります。

  そのような人々にとって今日「神」という言葉がどれほどの響きをもつというのでしょうか。もちろん戦争によって多くの犠牲のうちに前途の展望を絶たれ、焼け跡に佇む人々には「大丈夫、神さまがいてくれる」との言葉は格別の響きをもったことでしょう。しかし現代のわたしたちの身近に暮らす人々にその声はどれほどの力をもって迫るというのでしょうか。年齢を問わず部屋にひきこもる人々にその言葉は通じるというのでしょうか。

  人の子イエスが群衆と弟子に教えられた祈りとは、その時代におきましても、現代におきましても、そのあり方を根底からひっくり返すわざでした。6章の5節では、それまでの教えを踏襲して、他人の承認を拒むところの祈りです。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。承認欲求を満たすために限られた祈り。当時でいうところの「偽善者」とは形式化された祈祷書をもとにして祈りを献げるサドカイ派を始めとした祭司階級の人々に見られがちな祈りでした。かつてモーセとアロン、また預言者たちがイスラエルの民のために血肉を振り絞るように献げた祈りとは異なる、生活や暮らしの流れとは全く関わりのない祈祷は呪文と同じ。人々に畏怖の念を与えこそすれ、神との関わりにいのちを吹き込み、その関わりを活きいきとさせるわざにはなりづらいところがあります。せいぜい何かの合図といったところではないでしょうか。反対に人の子イエスが伝えようとした祈りとは他人の目には触れないところの祈りです。本来であればエルサレムの神殿にも大祭司しか立ち入れない至聖所という場所があり、そこで聖職者が祈りを献げるわざが尊ばれていたのですが、本日の聖書箇所からするとエルサレムの神殿の至聖所もその機能が十分には果たせていなかった可能性もあります。さらに人の子イエスの祈りは、神に人の願いを叶えてもらおうとして献げるものでもなさそうです。神が人を救うのであって、願いを叶える便利な神を人が作ったわけではないからです。

  イエス・キリストが伝えた祈り。それが本日の箇所、「主の祈り」の雛形ともなる教えの内容となります。この箇所で人の子イエスは、一度も「神」という言葉を用いません。あまりにも祈祷文の中で書き記された言葉は、人々の生活文脈に適さないどころか、理解適わず、暮らしに全く響かなくなっていたとも申せます。その代わりに用いられたのが「父」という言葉。現代からすれば種々の批判に晒されそうな文言でも、その時代に立てばなるほどと膝を叩ける言葉です。本当のところ、言葉のニュアンスは「お父ちゃん・おとん」。現代に較べてはるかに肉体を酷使した時代、治安の悪かった時代。公私ともに父親が家族のために犠牲となる場面は今以上にあったと思われます。またローマ帝国の軍隊では、キリストが十字架を担ぐ際にキレネ人シモンを徴用したように、旅に出た父親が問答無用で拉致される事件も多かったことでしょう。現代以上に母と子だけの家庭が多かった世にあって「父」とはいかなる存在だったか。そう言えば人の子イエスの父ヨセフも静かに福音書の表舞台から姿を消していきます。「父ちゃん」という言葉から、心から希望を必要とする人々と『旧約聖書』に記されたアブラハムの神との関係の再構築が行われます。もはや祈祷文ではなく、人々の暮らしそのものが祈りとして祝福され、そのままの姿で聖化されていきます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」との一文はさらに決定的です。他人から受けた痛みや苦しみを「神なるお父ちゃん」に棚上げするならば、日々の暮らしの中で深く負い目を抱えていながらもお父ちゃんである神は憎しみから解き放ち、前を向かせ、抱きしめてくださるとの理解に繋がります。そうなのです。本日の箇所で描かれた「お父ちゃん」である神とは『ルカによる福音書』15章に描かれる「放蕩息子の譬え」で描かれる父親としての神でもあります。さまざまな事柄に挑戦しながらも失敗を重ね、物乞い同然の姿で家に戻ってきた息子を、誡め通りのあゆみをたどった兄とともに、兄弟同士のわだかまりを温かく宥めながら豊かな交わりをともにする父親なのです。そのような「父なる神」を人の子イエスは示しました。ひきこもりの襖を開けてその懐にとびこんでいきましょう。

2025年5月15日木曜日

2025年 5月18日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「悩みごとをうけとめるには」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章1~9 節
(新約132頁)

讃美=21-466(404),520,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 悩みごとを抱えて夜も眠れないという方が本日の礼拝にはおられるかもしれません。また中継動画をご視聴の方にもおられるかもしれません。親の行く末、子の行く末、わが身の行く末などを案じればきりが無いと言われる人もいるかもしれません。ただし事実ここしばらくのゴールデンウィーク明けと申しますのは、心療内科クリニックがフル稼働せずにはおれない時を迎えています。『牧師閉鎖病棟に入る』『街の牧師 祈りといのち』『弱音を吐く練習』と連続してベストセラーをものしている王子北教会の沼田和也牧師は自ら心を病みながらもそれまで社会はおろか教会の会衆席にも座る場所のなかった人々に光をあて、悩みをめぐって言葉を紡いています。
沼田牧師の選んだ道とは「悩んではいけない」と単純に思い悩みや心の病を否定するところからは始まりません。むしろ悩みを抱え続けているその態度に主なる神から託された価値を見出そうとします。弱音もこぼれましょうし、周囲も巻きこむことでしょうが、それでも思い悩みを否定するのではなく、また『聖書』にそう書いてあるからと悩むわざそのものを否定はされません。むしろ自ら抱え込むほかなかった悩みを、イエス・キリストを通して神に棚あげするというあり方も考えられるというのです。

 精神医学者の野田正彰さんは青少年犯罪者の生育環境の共通点として、仏壇や神棚など手を合わせる場所が屋内にないと指摘されますが、沼田和也牧師のお考えは野田さんの逆を行きます。わたしなりの理解に留まりますが、神棚に献げられるのは榊やお札、盛塩などでしょうが、そのように神棚に「清らかなもの」を献げるのではなく、「思い悩み」「思い煩い」という実に重たい、くさい臭いがしようがベトベト汚かろうが背負わされたどす黒い塊を委ねてしまえというのです。そして後は敢えてそのまま放置するのも一つの道であると語っているように思います。

 悩みごとをうけとめる人が自らを客観視するため良心的な精神科医と対話するのはよくあることですが、ただの対話ではなかなか客観視は難しいところ。その苦しみは『聖書』の世界では「悪霊に憑かれた」と表現されるのでしょうが、「苦しみを分かちあう」という道筋を示してくださったのが他ならぬイエス・キリストです。

 本日の『聖書』の箇所の続きには、「わたしが父の内にあり、父がわたしの内におられることを信じないのか」との言葉が続きます。わたしたちの思い悩みをイエス・キリストがうけとめ、キリストの苦しみをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が受けいれられるという、イエス・キリストとわたしたち、そして父なる神がお互いに苦しみを担い、いつか善きものに変えてくださるとの約束が記されています。
どのようにわたしたちを苦しめる者や原因があったとしても、そのような苦しみや悲しみもまた主なる神の知るところです。いわんやそれが神罰だというような理解は『聖書』には描かれてまいりません。だからこそ刑務所に服役されている人も、重い借金を抱えている人も、入院されている人も、そのただなかで、時には世代を経て主なる神に向けて顔をあげる時を備えられます。今解決できない案件を急いで解決しようと悶えなくてもよいのです。

 思えばイエス・キリストの癒しの物語や譬え話に登場する人々は、さまざまな人間的な破れを抱えています。徴税人であり、もともとは相応の財産をもってはいたものの、度重なる診察費で貧困生活を強いられるようになった流血の停まらない女性、仕事の効率からすれば放置した方がよいのにも拘わらずひたすら迷い出た一匹の羊を追い求める羊飼い、銀貨を無くした女性、大勢の金持ちが献金をこれ見よがしにする中で銅貨一枚を献げる女性、重い皮膚病に罹患し事実上の隔離を余儀なくされている人々、悪霊に憑かれたと言われ長らく墓場で暮らしていた人々。中風を患い仲間に戸板で運ばれてきた人、視力を失い、聴覚を失い、言葉を失った人々。誰もが救いの絵をギリシア人の感覚で美しく描こうとするならば、みな不要であると排除されていった人々です。しかしそのような人々の痛みや苦しみをわがこととしてお引き受けになったのがイエス・キリストです。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。『イザヤ書』53章の「苦難の僕」の詩です。眠れられない夜が続くならば、服薬も大切ですが、祈りの中イエス・キリストに課題を棚上げするのはいかがでしょうか。それこそ「委ねる」あり方と表裏一体のわざです。悩みを恐れず、病を恐れず、あゆみを重ねてまいりましょう。

2025年5月8日木曜日

2025年 5月11日(日) 父母の日礼拝 ライブ中継

―復活節 第4主日礼拝―

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
演奏とメッセージ
オカリナ演奏:佐々木一真先生 
マリンバ演奏:可児 麗子先生 

メッセージ=「森の詩(うた)からの調べ」

聖書=『ルカによる福音書』12 章 22~25 節
(新約132頁)

讃美= 312.こどもさんびか132,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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2025年5月2日金曜日

2025年 5月4日(日) 礼拝 説教

―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『旧約聖書』の記事には、少なからず都市、時には世界が滅亡するという物語が描かれます。現代人からすれば現象からすれば自然災害であったり戦争の結果に破壊されたりという理解へとつながるのかもしれませんが『旧約聖書』の書き手はそのように出来事を年表形式で淡淡と書き記すのではなくて、主なる神からの何らかのメッセージが込められているとして描かれます。もとよりその滅亡の出来事が他人事であれば感情移入のない記録文も可能でしょうが『旧約聖書』ではすべてが当事者の目線で描かれているという点では読み手や聴き手を引き込む力をもっています。「天地創造」を含む物語では「ノアの箱舟」、「族長物語」では「ソドムの滅亡」、預言者の物語では「イスラエル王国」「ユダ王国」の滅亡、さらには「エルサレム」の滅亡までが極めて精緻に描かれます。いずれにしても「滅び」とは神の備えた道からその判断や生き方が次第に逸れていく人々の行着くところとしても描かれているとの一面があります。

 しかしそのような物語が続く『旧約聖書』で極めて異彩を放つのが『ヨナ書』です。『ヨナ書』に細かく立入って語りかける人の子イエスがこの書物に言及するのは、イエスもまた『旧約聖書』に通じていたところを証明する記事でもあります。『ヨナ書』とはアッシリア帝国の都ニネベを救えとの主なる神の言葉を聴きながらもその命令に抗い逃げようとする預言者ヨナの味わう旅とその体験を描いています。わずか四頁ほどの物語ですがその中には『新約聖書』に流れ込む神の愛が記されています。神が救えと命じた都ニネベは、かつてアッシリアがヘブライ人の王国を滅ぼした際、実に残虐に振舞った人々の住まう街として知られていました。成年男子は全身の生皮を剥がされ城壁に貼られ、女性は辱めを受けます。その結果生じたのがサマリアの人々だとされました。ですから預言者ヨナからすれば万死に値する街、滅びに値する街として憎悪の的でしかなかったはずです。しかしヨナが嵐の海で舟の外に放り投げられ、大魚に呑まれて三日目に到着したその都を回りながら悔い改めると、ニネベの街の人々は悔い改め、王もまた救いを求めて生き直そうとします。その姿を見て神はニネベの街を滅びから救うのですが、預言者ヨナには合点がいかず、神と激しく議論するという内容です。

 おそらくはバビロン捕囚以降、ことごとく強大な異邦の民の支配のもとにあって、いつの間にか歪んだ選民意識に捕らわれ始めた古代ユダヤ教の一部の人々と、『旧約聖書』に記されるように、神は自らに似せて創造された「人」をあまねく救われるとの葛藤が人の子イエスの舞台にいたっても続いていたことでしょう。その中での問答として「先生、しるしを見せてください」との言葉が律法学者やファリサイ派の人々から出たに違いありません。しかし人の子イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるし以外にはしるしのほかにはしるしは与えられない」と語ります。そして自らの弔いの時と魚に呑まれたヨナの時を重ねて、神の国の訪れの時にはニネベの人々もまた「よこしまで神に背いた時代の者たち」を罪に定めると述べるのです。「悔い改め」という言葉は誤解を招く場合もありますのでわたしは本日「生き直す」と言い換えてみます。この「生き直し」というチャンスがある限り、わたしたちはいのちの儚さや虚しさに溜息をつく必要は全くないのです。「誤った道をたどったわたしたちが悪い」のではなくて「誤った道をたどったからこそ、今のわたしたちには生き直すチャンスが豊かに備えられている」との喜びが生まれてきます。その「生き直し」の喜びを示してくださるのがイエス・キリストであり、ソロモンの知恵を尋ねに遠く旅してきたシェバ(エチオピア地方)の女王はユダヤ教徒ではない「諸国の民・異邦の民」でありましたが、だからこそそこにもまた神の祝福が豊かに臨んでいるとのメッセージをイエス・キリストは喜びにあふれて語ります。人の子イエスの語る神の愛はあらゆる境を越えてどんなに愚かだといわれようとも、そのようなわたしたちに恵みに満ちた生き直しのチャンスを与えてくださります。
人々を安全・安心な暮らしに導くはずの法律やコンプライアンスが厳密になるほどに、わたしたちの日常はどこか窮屈になるような印象も覚えます。また過去に罪をおかした人が安定した職業に就き社会復帰を果たすわざも決して簡単ではありません。身体も弱り前途に否定的になり、パニックや悪循環に捕らわれもするわたしたちです。けれどもそのようなときに「誰かを愛するために生き直す」「神に愛されているから生き直す」というチャンスを授かる実に豊かな時が備えられているとの『聖書』の言葉に確信をもって新しい週を迎えましょう。

2025年4月25日金曜日

2025年 4月27日(日) 礼拝 説教

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325(148),21-326(154),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 人の子イエスの埋葬された墓に封印をして厳重な警戒にあたったものの、イエス・キリストの復活の出来事にすべてを台無しにされ「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」番兵たちの姿がありました。喜びではなく絶えず恐怖によって支配されたその判断力は主体性を失い、新たな命令を求めてエルサレムに戻ります。イエス・キリストに出会った女性たちが弟子のもとに到着するより先にエルサレムに戻ったとされるのも、番兵の狼狽ぶりを表わしています。祭司長も長老もその圧倒的な出来事を前にして即答できず、多額の金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、寝ている間に死体を盗んで行った』と言え。総督の耳に入ってもうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と兵士を買収した上で虚偽報告の命令を重ねます。予想もしない出来事を前に言葉を失った名もない、いつでも斬り捨てられる番兵を人間扱いしていない、神の愛とは対極の姿が描かれているようにも映ります。

 実際にこのような虚偽報告や虚偽申告を強要される犯罪は、巧妙な詐欺が身近なところにある以上わたしたちとも無関係だとは断定できません。つい相手を信用したことで人生を棒に振ってしまった人々をわたしたちは直接ないし間接的に知っています。そしてそこには物事を多角的に検証する余裕のないところまでに追い詰められてしまった悲しみを観るのです。イスカリオテのユダでさえ無実の人の子イエスが十字架で処刑される不条理さに耐えきれず銀貨三十枚を手放しました。しかし他方で番兵は金を受け取り虚偽の噂を流すこととなりました。この人々は物事の判断の根を神以外に求めた態度ゆえに自由に語り、動き、仕える充実さと喜びを失いました。とは言えローマの兵士やエルサレムの警護にあたった番兵とはこのような者ばかりだったのでしょうか。

 ひと口に兵士と言ってもそこには個々人の織りなす多様な姿を福音書は描き出します。その描写は決して一様ではありません。人の子イエスが十字架で叫びをあげ息を引き取ったその折、処刑の現場監督でもあった百人隊長、そして見張りを担当した者はその姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と呟きます。『マルコによる福音書』では百人隊長ひとりとなりますが、この言葉には地上の生涯にあったイエスに「あなたはメシアです」と答えたペトロとは根本的に異なる態度が示されます。古代ユダヤ教でのメシアは手に架けられて十字架刑で処刑・殺害されるなどあってはなりません。処刑の場に弟子の姿が描かれないのもそのような理由あってかと考えます。しかしかの百人隊長は十字架で息をひきとった救い主の姿を前にして「本当にこの人は神の子だった」と呟くのです。多くの罪人の処刑に立ち会ってきたこの下級将校である百人隊長の言葉の重みは別格です。

 また本日の福音書の8章では別の百人隊長が自らの僕の癒しを人の子イエスに懇願します。その真摯な態度に感心したイエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と語ります。イエス・キリストの愛はすでに支配者と圧政を受けている者の末端で苦しむ者双方に及んでいるのです。『使徒言行録』では言わずもがな、キリスト者となるローマ帝国の兵士や将校は後を絶ちません。

 もしもこの番兵たちがその後ピラトから復活したイエス・キリストを追跡するか、さもなければ失われたイエスの亡骸を捜せとの命令を受けたとするならば物語はどのような展開を見せるでしょうか。厳重に封をした墓が弟子に暴かれたのであればそれは番兵の失態でしょうし、極刑に処せられた者の遺体であれば監視者自身が処分されてもおかしくありません。もし番兵が復活したイエスの姿を追い求めていくとするならば、それはいつの間にか祭司長や長老たちの買収への囚われから離れて、イエス・キリストに従うわざへとそのあゆみは変えられ、清められていくものと確信します。もはや番兵たちの判断の尺度は買収の時に受け取った僅かな金子にではなく、出会った人々の語る復活したイエス・キリストの物語に根ざしてまいります。

 最近では若い世代で将来に「お金持ちになりたい」との夢を抱く人々が少なくないといわれるようになりました。金融関係や証券取引、仮想通貨も流行しています。しかしタブレットほどの大きさの金塊を見たとしても、わたしたちの心はそれほど動くでしょうか。それを私物化したいと思うでしょうか。『使徒言行録』でペトロは語ります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。きらびやかな財宝よりも強靭な力をわたしたちはイエス・キリストから授けられています。「ディール」という語が独り歩きしがちな世界をイエス・キリストの復活の出来事は揺り動かします。

2025年4月17日木曜日

2025年 4月20日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第1主日礼拝―

―イースター礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「復活の挨拶は『おはよう』」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章1~10 節

讃美=146.21- 575. 
讃美ファイル3番「主の食卓を囲み」.
21- 24(Ⅰ539).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 イエス・キリストの復活の物語ほど、それぞれの福音書の個性が浮き彫りにされる箇所はないと言えます。『マルコによる福音書』の最古の写本では復活のイエス・キリストの姿は直接描かれず、扉の破られた墓を舞台に白い長い衣を着た若者の証言が記されます。『ルカによる福音書』ではエマオという村への途上、復活したイエス・キリストはそうとは知らない弟子と対話しながら旅路をともにし、そのあゆみはやがて『使徒言行録』へと引き継がれます。『ヨハネによる福音書』では墓の外に立ち涙を流すマグダラのマリアに姿を現わします。それぞれの信仰共同体のイエス・キリストの決定的な出来事が露わにされます。それでは本日の『マタイによる福音書』の物語はどこに特徴があるというのでしょうか。

 それは人の子イエスの墓が総督ピラトの合意のもと祭司長の命令により番兵に厳重に封印された墓である、という前置きです。『マタイによる福音書』ではヘロデ王という暴君のもとで救い主の誕生をなきものとするために多くの幼子たちが虐殺された記事があり、絶えずヨセフとマリア、幼子イエスは世の圧政に苦しむ人々と道筋をともにします。そして十字架での死の後に葬られるその最中にも世の圧政は未だに滅びることなく、表向きにはローマ帝国を味方につけた暴君が勝利したかのように映ります。

 しかしその闇に満ち、失意に満ちた静寂は、どのような世の権力でも抗えない力によって打ち破られます。安息日が終り朝日の光に明け初めるころ、大地震が起きたと記されます。その時代には地震とは天地の主なる神のみ可能なわざであると考えられていました。いわば天地もその時代には当然とされていた為政者による圧政も覆されたのです。それが「主の天使」が「天から降って近寄り」「石をわきへ転がした」と今まさに起きている事態として記され墓を封じる蓋が開きます。圧政と権力による封印もこの場面では無力です。これまで『マタイによる福音書』で天使が登場する場面とはクリスマス物語での人の子イエスの父ヨセフの夢の中、そして荒れ野での誘惑を退けた後に仕えるという仕方で描かれましたが、この箇所では「白い長い衣を着た若者」ではなく「天から降ってきた天使」の姿が描かれます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とは、かつて人の子イエスが山の上で誡めの授与者モーセ、そして神の言葉を預かる預言者エリヤと語らった際に表現される「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記事が重なります。反対に番兵たちは恐怖のあまり震えあがり「死人のようになった」とあります。キリストの復活を前にして世の圧政が完全に無力化された事態が示されます。そしてその場にいたマグダラのマリアと恐らくはイエスの母マリアにこの天使は復活の出来事を語りかけ、弟子に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と、イエス・キリストと弟子の出会いの原点となった場所へと導きます。そして「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と他の福音書にはない言葉が続きます。復活の謎や畏怖について語る福音書の箇所は多いのですが、喜びを語る場面は本日の箇所に絞られます。人の子イエスが葬られた墓は女性たちには過ぎ去りました。このようなあまりにも非日常の出来事が次々と描かれるなかで、この二人の女性の前に復活したイエス、イエス・キリストがその行く手に立ち「おはよう」と至極日常的な、おそらくは十字架で殺害される前にはいつもそうだったように交わした挨拶とともに語りかけるのです。女性たちも弟子もガリラヤへ赴き、イエス・キリストと語らいます。復活の出来事を前にして無力になった兵士たちは、相も変わらずエルサレムで祭司長から買収され、虚偽申告を強要されます。その姿こそが死に体も同然というものです。神の愛の力はこのように圧政に甘んじる者たちを裸同然にしてまいります。総督ピラトもヘロデ大王もその例外ではありません。

 この復活の出来事の証言があるからこそ、出来事そのものから50年ほど経た福音書の書き手の時代の教会に関わる人々は、あまたの迫害にありながらも、この圧政はやがて終わりを告げるとの希望を抱くにいたります。わたしたちもまた、個人の力では如何ともしがたい暴力を伴う政治や不公正な世にあってなおも活きいきとした希望に包まれているものと確信できます。さまざまな身体的な限界を覚えながらも、なおも神の愛の証しを立てることができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と復活したイエス・キリストはわたしたちに今も語りかけます。絶えずガリラヤの原点に立ち返り、日々いつもともにいる復活のキリストに背中を押されて、主なる神を讃美し、この日を祝いましょう。

2025年4月16日水曜日

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 説教

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番

礼拝当日、午後7時より
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【説教要旨】
 人の子イエスは社会のどん底で苦しむ人々を癒し、その苦しみが当然だと諦めるほかなかった人々を励まし、傷みを分かちあい、満たされる喜びをともにし、ユダヤ教徒・異邦の民の垣根を越えて主なる神の愛を、全身をもって証しされました。そしてその称賛の声が広まるほど世の力ある者たちはそのわざを危険視し、濡れ衣を着せて殺害を試み、そしてその計画は表向き成功を収めます。つまりイエス・キリストは一人の犯罪人として処理され、十字架で殺害されます。今宵の受難日礼拝はその抜き差しならぬ苦しみと痛みが誰のためであったのかを確かめるために執り行われます。

 苦難の頂点の象徴でもある十字架での死と、いのちの輝きに満ちた救い主としての復活の出来事。しかしわたしたちはこの十字架での死と復活の光の間には葬りのわざがあるのだとの福音書の記事を忘れがちです。この弔いにあたって福音書の書き手は初めて「アリマタヤのヨセフ」という人物を描きます。この人は『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員」、『マタイによる福音書』では「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ、イエスの弟子」、『ルカによる福音書』では「議員であり、善良な正しい人、同僚の決議や行動には同意しなかった」、『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と様々に解説されますが、いずれにせよ人の子イエスと親しい、その時代の相応の地位にいた人物だといえます。イエスの時代に近づく福音書の物語ほど、このヨセフの誠実な態度が描かれます。

 とくに本日の箇所では「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるだけでなく、「勇気を出してピラトのところへ行き」「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と記されています。この様子をわたしたちは祈りの中で思い浮かべたいところです。

 人の子イエスの亡骸は、荊の冠を被せられ、幾度も鞭打たれただけではなく手足を釘打たれて打撲と内臓の機能不全、全身から出血したままで放置されていました。しかも槍を身体に刺されてその死が確認されたことから、ほぼ身体は原型を留めていなかった可能性すらあります。人から言われなければこの人がイエスと分からないほど痛めつけられた遺体です。十字架刑は国家転覆罪をはじめ極めて悪質な死刑囚にのみ用いられるところから、もしアリマタヤのヨセフがファリサイ派の律法学者であれば自ら死刑囚イエスとの関係を公言しているようなもので、自らの立場だけでなく、仲間の律法学者からも「あの男の仲間」として訴追される恐れがあります。現代でも死刑を経た遺体が家族や身内からも異なる墓に葬られるのを常とされるのが当然です。

 さらには人の子イエスの処刑はローマ帝国の名の下で執行され、本来なら晒されるところです。ですから遺体の引き取りは総督ピラトのもとへ直々に願い出なければ不可能です。十二弟子はもはや姿を消しました。ファリサイ派の律法学者アリマタヤのヨセフだけが恐らくは兵卒や下役とともにイエスの亡骸を十字架から引き剥がし、手足に打たれた釘を抜き、亜麻布を巻いて遺体の姿を整えて、準備させた墓へと納めたのかもしれません。救い主がこのようなありさまになろうとは、当時のユダヤ教徒には到底考えられませんでした。だからこそアリマタヤのヨセフには社会的地位もいのちの危機もこの亡骸を前にしてはもはやどうでもよいものだと映っていたのかもしれません。ヨセフはイエス・キリストにすべてを賭けました。洗礼者ヨハネがそうであったように、この人こそ救い主であるとの確信あればこそ、です。

 さてイエス・キリストが葬られているあいだを「使徒信条」ではどのように表現しているでしょうか。それは「陰府にくだり」とあります。死後の世界について『旧約聖書』は神の国の訪れまで死者の亡骸は地の底で眠りについたままです。ギリシア語で描かれた世界には死後には死者の世界、天国には天の国があります。この陰府がわたしたちの文化でいう地獄であったらいかがでしょう。欧米文化でいう煉獄や氷で閉ざされた地獄であればどうでしょう。復活の出来事にいたるまでの三日の間、イエス・キリストは本来ならわたしたちが赴くべき阿鼻叫喚の場へと、まさしくその場に相応しい傷ついた身体とともに降られたこととなります。本来ならばわたしたちが永遠の炎によって焼かれるはずの場へとイエス・キリストは赴かれ、そして復活の備えをされます。イエスの両脇で十字架に架けられた強盗たちも、この場で救いに与るはずです。あらゆる絶望の闇を打ち破った神の愛の勝利がヨセフの行動を裏づけています。かの時の人々とともに祈りつつ復活の時をわたしたちも待ちましょう。

2025年4月10日木曜日

2025年 4月13日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「自分を救わなかった人の子イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』27章32~44節
(新共同訳聖書 57ページ)

讃美=21-306.(Ⅱ177)
Ⅱ.-182.21-24(Ⅰ539).

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 地中海に面した北アフリカ、現在はリビアの領内の一部を指すキレネ。現在ではキレナイカという名で知られています。地中海を北上すればギリシアやイタリア半島がありますが、多くの遺跡がありこの時代としてはかなり栄えた町であったかもしれません。この地域出身のユダヤ人シモンは海路・陸路を伝ってようやく念願かなってエルサレムへと過越祭を詣でに来たはずです。しかしキレネ人シモンが神殿へと続く沿道で目のあたりにしたのは、意味も訳も皆目分からずこれから十字の杭に打ちつけられて処刑されるところの、「ユダヤ人の王」と刻んだ板で罪状を告げられている人の子イエスでした。沿道には鞭打たれ傷だらけになったその人を囃したてる人々が人垣を作って口々に罵っています。旅人シモンにはこの様子は全く異様に映りますが、沿道の人々は体のよい見世物とばかりに囃し立てるばかりです。そして恐ろしいことにその様尋常ではない人々を制していたローマの兵士は、茫然とするシモンにイエスの背負う杭を「ともに背負うように」とばかりに無理やり担がせます。人の子イエスの十字架刑ほど不条理なものはないと感じるのですが、このシモンはそれ以上に驚愕と絶望を憶えたことでしょう。イエスの弟子はみな逃げました。見知らぬ傷だらけで無力な、それこそ苦しみのあまり悪態をつくなど一切ない死刑囚とあゆむこととなったのです。シモンのあゆみはエルサレムの神殿とは正反対の処刑場に到着し、そこでようやく解放されるのです。シモンにも立ち入れない一線がその先にはあります。

 それではその後にキレネ人シモンの五感に飛びこんできたのは何だったのでしょうか。それは見るも無惨な人の子イエスの姿とその体臭です。掲げられた罪状書を見なければその顔の表情すら分かりません。荒い呼吸のなか何も言わずに血と汗にまみれた木材を担いで運んでいるのです。幾度もいくども躓く姿にシモンは心痛を憶えずにはおれなかったことでしょう。それだけではありません。「ゴルゴダ:髑髏」と呼ばれる刑場に到着するや本来は苦痛を麻痺させる薬草を溶かし込んだ薬を服用させられます。しかし人の子イエスはそれを拒否します。訳も分からず処刑用の木材を担がされた出来事こそ、キレネ人シモンとイエス・キリストとの出会いでした。
それは人の子イエスよりも先に一人は右の、もう一人は左の十字架につけられた強盗の言動でした。両隣にはゼベダイの息子ではなく強盗がいたのですが、この二人が人の子イエスの両隣から罵るには「神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い」との声でした。そしてこの強盗の声と人の子イエスを罵る祭司長や律法学者、神殿の長老の声がともにイエスを侮辱していたのです。キレネ人シモンにはこれも衝撃的な出来事でした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りてこい」。シモンには、悪人とは明らかに異なるこの人の子に、強盗の罵りと同じ言葉を、本来ならば尊敬に値するべき祭司長や律法学者、それに神殿の長老たちが浴びせている光景に衝撃を憶えたことでしょう。決してこのような場面は過越の祭を祝いに来たキレネ人シモンには出くわしたくない出来事でした。このように罵りや罵声の中に置かれながらシモンの人生はイエス・キリストの苦難の渦巻きへと、その深淵へと巻きこまれます。

 キレネ人シモンがその後どうなったのか、『マタイによる福音書』は記しません。しかし本日はこの箇所に紡ぎたい無名の人が記した詩を味わいたく存じます。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさをあるいていた。暗い夜空に、これまでの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が遺されていた。ひとつはわたしの足跡、もうひとつは主の足跡だった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしはあの足跡に目を留めた。そこにはひとつの足跡しかなかった。わたしが人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがわたしのこころを乱していたので、わたしはその悩みを主にお尋ねした。『主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道とともにあゆみ、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばん辛いとき、ひとり分の足跡しかなかったのはなぜですか。いちばんあなたを必要としていたときに、あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしには分かりません』。主は囁かれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに、足跡がひとつだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ』」。キレネ人シモンはこのようにして人の子イエスの苦難を分かちあい、やがて復活の報せを耳にして喜んだことでしょう。キレネ人シモンはこの出会いに不平を洩らさず沈黙を守ります。イエス・キリストが自らを救わなかったように。

2025年4月4日金曜日

2025年 4月6日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57(Ⅲ.5).
   21-463(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 大阪市の学校給食を見てみますと、コッペパンが異様に大きく、トングひとつまみの酢の物のようなおかずに汁物、フルーツと牛乳という具合で、その少なさに驚かされるところがあります。牛乳と汁物を除く惣菜は耐熱プラスチック製のプレートに配膳されており、アルマイトのお椀に入れられていた時代からするとお代わりしづらい作りとなっています。もともと学校給食は欠食児童、つまり事情で昼食を摂れない児童のために当初はララ物資に始まり、後には公共の福祉という観点に基づいて児童の充分な発育に資する滋養の提供という動機に始まったはずですが、何事につけて民営化という行政の方針から21世紀に強まり、心配を要する時代となりました。脱脂粉乳や鯨肉がまずかったという時代は逆に豊かだったかも知れないとの逆説が生まれつつあります。

 公教育でさえそのようなありさまです。親御さんが「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」に惹かれたとしても無理からぬところがあるかもしれません。手っ取り早く成果をあげたいとの気持ちはあるでしょうが、その気持ちが焦るほどにこどもたちは友人や家族の絆をじっくり育むことが難しくなります。

 本日の『マタイによる福音書』の箇所ではゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、息子と一緒にイエスのところに来て願い事をしたとあります。12人の弟子の中でも特別の顧みを、との願いです。そしてその内容は神の愛による統治の際に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れると仰ってください」というものでした。救い主に向けられた「神の統治の密約」とでもいうべきものかもしれません。しかしこの母は知りません。イエスは古代ユダヤ教で待ち焦がれた単なる一民族の解放者ではなく、すべての民を神の愛で包まれる方であり、そのためには十字架での死という苦い杯を呑まねばならないということを。ヤコブとヨハネの母が申し出たのは、神の国の私物化であり、人の手にその行く手を委ねられた「民営化された神の国」であり、その国で優劣をつけ、采配を振るうための競争が果てしなく続くという競争社会の延長でしかありません。けれども、わたしたちが自分の承認願望を満たすよりも先に、主なる神がわたしたちをお認めくださっているのですから、俄然事情はこの申し出とは異なってまいります。

 イエス・キリストのあゆみはそれまでのユダヤ教のメシアのイメージを根本から覆していきました。先だっては「山上での変容」の物語をみなさまとともにしましたが、カール・ヤスパースという精神医学者であり哲学者でもあり、かつその時代のドイツの全体主義政権を鋭く批判し続けた人物は、『旧約聖書』の預言者をして「聖なる統合失調症の罹患者」という表現をしました。多くの人びとからその主張が受け容れられなくても託された神の言葉を語り続け、停滞した雰囲気を読まず神の息を人々に吹き込もうとしたのが預言者でした。イエス・キリストはその時代の虐げられた人や心身ともに病み、まさしく重度の病に罹患した人とその孤独を十字架への道をたどりつつ癒していったのです。なにがしかの人の力や能力に依存するありかたは、結局は何者かを敵に仕立て上げなくては共同体を維持できません。もともと人類の共同体は飢えなり災害なり自らを脅かす事柄から身を守るために共同生活を始めたこともあり、これは避けられないことなのかもしれません。イエス・キリストは自ら排除されるその役を引き受けて「支配者への命令による服従」ではなく「仕えることの喜び」を、不穏な雰囲気に包まれた弟子の間に分かちあおうとされました。「大勢の群衆がイエスに従った」とある通りです。

 端的に申しあげれば「命令」とは人を一定の型や枠にはめ込もうとする試みであり、その枠や型にはめられない者は排除されていきます。病人、とりわけ心を病んだり知的な特性を否定的に見なされたりした人が、一般的な社会から遠ざけられていく悲劇は過去も現在も問いません。必ず誰かにしわ寄せが向かうように作られているのが命令のみに基づいた組織の特徴です。

 しかし「奉仕」には自発性があります。そしてお互いの特性を喜ぶ交わりがあります。祈りのうちにある吟味の中で、譬えその人が病に伏していても、その病を経なくては分からない世界をともにし、人を大切にする交わりが生まれます。その交わりを根底から支えてくださっているのがイエス・キリストです。イエス・キリストが人の子であったとき、誰からも理解されず仲間はずれにされていきました。恐るべき孤独の中で一人献げた「ゲツセマネの園での祈り」には、その場から逃げるか、主なる神に全てを委ねるかの極みがありました。その中で、イエス・キリストは苦い杯をお引き受けになったとの物語を尊びたいと願います。たがいに支えあうために。

2025年3月28日金曜日

2025年 3月30日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
ヨーロッパの絵画やステンドグラスでもよく知られる「山上の変容」。わたしたちも聖日礼拝説教のテキストとして幾度もとりあげてまいりました。人の子イエスが弟子のペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて「高い山」に登られた、と記されます。この「高い山」とはユダヤの地域においてはヘルモン山ではないかと言われております。ヘルモン山は標高2814メートル、富士山のようにそびえる山というよりも、滋賀県の比良山のような尾根が連なるような姿。凹凸の続く山頂には雪が積もりその姿は日本アルプスの尾根のようでした。
 但し標高3000メートル近い山並みは遠くから観れば絶景なのですが、実際に登るとなるとかなり険しい山道ではなかったかと考えられます。遠くから観れば美しい連山も、実際に登ろうとするならば立入る者を拒むような場所も多かったと考えられます。
 そのような危うい場所に人の子イエスは立入ってまいります。弟子達はそこで異様な出来事を目のあたりにします。それは則ち、モーセとエリヤが現れ、太陽のように顔が輝き、衣が光のように白くなったイエス・キリストと語らっているという場面です。山に登った弟子が過労によってそのような幻を観たとは福音書は記しません。むしろ次のような解き明かしが可能です。モーセは『旧約聖書』の『律法(トーラー)』を体現し、そしてエリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を代表する預言者であり、律法の完成と預言の実現を救い主イエス・キリストに見るという理解です。しかし果たしてそのような説明に終って充分なのでしょうか。
 思えばモーセもエリヤも神のいる山と深く関わった人物でした。モーセとエリヤは二人とも神の山ホレブとの関わりで結ばれています。モーセはその尾根でエジプトに苦しむ奴隷の解放のメッセージを託されました。その招きは圧倒的であり、モーセ自らの五回の拒絶を徹頭徹尾拒むものでした。イスラエルの民が奴隷解放のわざに不平を公言したとき、モーセは再びホレブの山で十戒を授かったとの物語が記されます。さらに預言者エリヤは神の誡めを忘れたアハブ王と妃イゼベルの追っ手から逃れるためにホレブ山へとたどり着きながら、疲れのために自らの死まで願ったものの、ホレブで御使いの養いと神の語りかけによって、イスラエルの民を神の御旨に気づかせるために新たに目覚め、力を授かります。モーセの物語もエリヤの物語も、恐らく『新約聖書』の舞台では伝説と化していたかもしれません。実のところモーセやエリヤが最も苦しんだのはイスラエルの民全体の神への猜疑心であり、鼻で息をする者しか見えなくなった人々の欲望でした。アハブ王もまたイスラエルの王でした。
 人の子イエスの弟子はこのような経緯を受けとめるにはあまりにも素朴な人々でもありました。それは人の子イエスの変容に驚愕したペトロが、この三人を奉るための小屋を建てようとする言動からも透けて見えます。「これはわたしの愛する子」と響く声はバプテスマのヨハネによる洗礼の折とは異なる畏れにあふれていました。さらにイエスは改めて自らの死と復活を語った上で、時を遠く経た時代にはモーセやエリヤが英雄化されるものの、実際のところイスラエルの民はこの二人を畏れ敬うどころか軽んじて好きなようにあしらったと語ります。この「好きなようにあしらう」との言葉は「なぶり者にする」「陵辱する」という、一切の尊厳を認めなかったとするまことに強い意味をもつ言葉です。
 『旧約聖書』に描かれる人間像を、もし神の愛なしに読み込もうとした場合、おそらくそこにはわたしたちがこれまで味わったことのないグロテスクな人間像が描かれていることでしょう。イエス・キリストはその道筋を神とともにあゆみ、隠された神の愛を人々に示すだけでなく、自らの苦難を通してその光で世を照らした救い主でした。初代教会がまずキリストの十字架への苦難と死、そして復活の出来事をクリスマス物語よりも先に置いたわけがそこにあるように感じられてなりません。顧みてわたしたちの交わりはいかがでしょうか。教会の交わり、もっと言えばキリスト教の世界にありながらグロテスクな人間像に辟易された方々はいないでしょうか。もしも行き詰まりを感じるならば、人の姿に理想を求めるのではなく、イエス・キリストがどのようなあゆみをたどられたかを繰り返し思い起こす祈りが求められます。その祈りは救い主が世に遣わされる前から、『旧約聖書』の時から一貫して流れる神の愛によるものです。この祈りに目覚める者は決して多くはありません。しかしその多くはない人々はイエス・キリストを通してやがて「地の塩・世の光」として「我知らずして」神の愛と出会い、豊かに用いられ、その途上で出会う人々を苦難から解放するのです。わたしたちもその群れに数えられています。


2025年3月21日金曜日

2025年 3月23日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  福音書の場合、カイザリアと呼ばれる地域には、概してローマ帝国の軍隊の駐屯地、ならびにその駐屯地を中心にして栄えるユダヤ教徒ではない者たちが集い、繁栄する地域があちこちにありました。とりわけこの町に暮らすユダヤ教徒は絶えずローマ帝国からの圧制を肌身に感じずにはおれなかったことでしょうし、またその圧制に対するところの屈折した生き方や思いも様々であったことでしょう。ユダヤ教徒の暮らす集落には分断と裂け目がいたるところにあったと考えられます。

  そのような呻きの響く地域にあって人の子イエスは各々の弟子に住民の噂を問い尋ねます。噂とは一般には根拠のないもので別段気にする必要もないのですが、むしろその噂のなかに人々の置かれた事情を問い尋ねようとする真摯な向き合いを人の子イエスの姿に見出せるというものです。弟子たちは口々に申します。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。いずれもその時代に人々が求めた『旧約聖書』に記される預言者であり、人の子イエスとの深い関わりにあった「最後の預言者」と称された人々です。共通するのは主の御旨に沿わずに進む道を誤った民衆や、権力を誤って用い、重要な判断を違おうとする王や指導者層に対して諫言を発し、他方で虐げられた人々に神の国の訪れや癒しのわざを行った、「神の言葉」を預かるとして描かれた者でした。いわばその時代のユダヤ教徒には英雄視されていた人々の名が列をなし、その姿が人の子イエスに重ねられていたのも無理はなかったと申せましょう。

  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。カイザリアの地域の人々の具合を踏まえて、あなたがたはどのように思うのかという、極めて内面に立入った問いかけを人の子イエスは弟子各々に突如として向けます。これまで従ってきた弟子には何を今さらという思いを抱いた者もいたかもしれませんが、そのようなざわめきを『マタイによる福音書』の書き手は第一には記しません。むしろシモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という初代教会の信仰告白に連なるペトロの理解を引き出しながら、「あなたは幸いだ」と祝福した上で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国での鍵を授ける」との、まことに力強い宣言です。ローマ・カトリック教会ではこの箇所をして初代の教皇がペトロであると主張し、他の教会教派への優越を説きます。

  しかしそれではこのペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との理解は主なる神の御旨に適ったものだったのでしょうか。なるほど言葉としてはその通りでしょうが、この後よりイエスは自分が必ずエルサレムへ行き、長老・祭司長・律法学者から多くの苦しみを受けて殺害され、三日目に復活すると話し始めます。残念なことにペトロは人の子イエスのこの発言が理解できません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。そのようなペトロにイエスは振り向いて「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく戒められます。片やペトロは幸いだと祝福され、片やペトロは「サタン、引き下がれ」と戒められる、極めて揺れの激しい弟子であるとともに、わたしたちは初代の教皇というよりも、日々の自らの姿をペトロに重ねます。ペトロのメシア理解は誤っていたのであり、鼻で息をする者しか目に入らない者の、実に曖昧な思い込みでしかなかったとも申せます。

  思えば人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家の中庭に連れてこられたとき、ペトロは鶏の鳴く前に三度イエス・キリストとの関わりを否定しました。しかしイエス・キリストはペトロとの関わりを否定するどころか、その態度に自らの預言の成就を見るだけでなく「わたしは決してあなたがたを見捨てることはない」との神の愛の証しを貫かれました。それは十字架の上で槍に刺し貫かれるよりも強い絆であり、歴史上の教会の分断の危機、交わりの分裂の危機を幾度もいくたびも救うという出来事に示されています。教会もまた、動揺するペトロのようにその態度を貫くことのできない、破れに満ちた交わりという一面ももっています。しかしだからこそわたしたちは、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎながら、「この人こそが救い主イエス・キリストなのだ」との確信を抱くのです。信仰とは個々人の思いや拠り所に留まらない、イエス・キリストとの関わりです。その関わりはいかなる試練のなかにあっても絶たれるどころか、却って強められる神の愛を示しています。

2025年3月14日金曜日

2025年 3月16日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 視覚を失い、話すこともできず、そしてその症状から察するに聴覚も奪われたと思われる人物が本日の箇所には描かれてまいります。その人は自分の目指すところへ自力でたどり着けません。支える者に連れてこられ、人の子イエスのもとへと身を寄せます。人の子イエスとの出会いのもとで、その人の目は開かれ、そして恐らくは耳も聞こえるようになり、話ができるようになったとの出来事が記されます。見えない、聞こえない、話せないという閉ざされた状態から、人々との交わりの中へと押し出されたこの人の姿は、あたかもヘレン・ケラーとアニー・サリバンとの出会いと重なるようです。しかし全く異なるのは、この素晴しい出会いに横槍を入れる者がいるというところで、ヘレン・ケラーの伝記とは異なった筋立てとなってまいります。

 その時代の正統派ユダヤ教徒、もっといえばその時代精神を司る自負にあふれた古代ユダヤ教の指導者の群れであるファリサイ派の人々はこの癒しの出来事を認めません。おそらくは自分たちの知る癒し人やその時代の医者がことごとくその治療に失敗したか、あるいは現在よりもさらに輪をかけて心身の壮健さが追求された時代です。癒された人は「見えず、話せない」という特性だけで、もはやすでになにがしかの呪われた者や穢れた者として扱われたことでしょう。それは次の言葉に凝縮されています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。騒ぎ立てるファリサイ派の者たちは、この音のなく、光もないままに放置されてきた人を助けもせずにやかましく騒ぎ立てるばかり。そして振りかざすのは、荒れ野で人の子イエスを試みた悪魔と同類の悪霊の頭ベルゼブル、俗には巨大なハエとして描かれる暗黒の存在であり、強い力が弱い力を排除するという道筋でしかイエス・キリストの癒しのわざを理解できません。その態度に向けてイエス・キリストはどのように反論するのでしょうか。

 それは一見すると実に世俗的な譬えから始まります。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成立っていくだろうか」。人の子イエスが指摘するのは、力の論理と排除の論理では癒しの出来事は決して生じないところにあります。イエス自らによれば、窃盗団は力尽くで人の家に押し入ります。しかし結局はその動機が「奪い合いと陥れ」にあります。ですからついには盗品の奪い合いとなり、集団そのものが瓦解していく状況にも似ています。そのうえで、人の子イエスは次のように語ります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」。イエス・キリストは横槍を入れてきたファリサイ派を決して否定しません。それはファリサイ派の言葉とは、全く異なる次元から発せられている教えだからではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。

 東日本大震災が様々な問題を残しているだけでなく、パンデミックの時代を経て、食糧不足と世界大戦の危機という、わたしたちの尺度の通じない「グレートリセット」と呼ばれる時代。その今でも、イエス・キリストの愛は世の分断を乗り越えます。だからその幾度も、何十編も、何百編もそれが裏切られ、苦しみに遭おうとも、なおその愛はわたしたちを包もうとしてやみません。荒波を乗り越える度ごとに、わたしたちはイエス・キリストの愛の証し人として立たされています。そう、見えず、聞こえず、話せない三重苦に苦しんできたこの人を、イエス・キリストのもとに連れてきた、文章が受け身の文体で描かれているがゆえに、その存在すらおぼろげな、これまた無名の人のように、です。分断の叫びの中に、わたしたちは神の愛による一致を先取りしています。

2025年3月6日木曜日

2025年 3月9日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。

 本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。

 この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。

 分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。

2025年2月28日金曜日

2025年 3月2日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
  木枯らしや春の嵐は、わたしたちの暮らす地域にも訪れます。都市部では「風が強かったなあ、季節が変わるなあ」と思わず呟くのですが、世界でトップクラスの積雪量の日本の山岳地帯では山は極めて危険なシーズンを迎えます。春山では雪崩が頻発し、夏の登山ルートはちょうどこの雪崩のコースになるからです。天候も不順であり、吹雪に見舞われればホワイトアウト、時雨の場合には低体温症を警戒します。何よりも滑落がもっとも恐ろしいところです。登山装備が絶えず改良される一方で、技術が追いつかず事故が多発するのも事実です。

  弟子達が夕刻から深夜、そして明け方に舟でわたるガリラヤ湖はその東西を高地に挟まれているため強烈な風が湖に吹きつけてまいります。そのような中、なぜ弟子は人の子イエスとともにではなく、無理矢理乗り込ませられなくてはならなかったのか合点がいかなかったことでしょう。漁師の身でありましたから、風の吹きつける夜の湖の危うさは代々語り草になっていたはずです。それにも拘わらず、人の子イエスは舟には乗らず、弟子はただただ荒波に揉まれてどこに流れ着くのか恐怖の坩堝にいたことでしょう。辺りには手掛かりとなる人里の灯りも見えず、たとえ見えたとしてもそこへたどり着くまで舟を漕ぎ続ける力もありません。舟が転覆しないように重心を低くするのがやっとです。そしてこれが舟を象徴とする初代教会を囲む危うい状況でした。

  『信徒の友』2025年2月号には少々ショッキングな特集が組まれていました。それは「専従牧師がいない」という事案であり、牧師のいない教会、または牧師を招聘するのが困難な教会が増加しており、代務や兼務の教会が増えているとのことです。わたしが若かりし時にお世話になった鳳教会も前年度は無牧であり、その中で新しい会堂の建築を決断し、そのわざを成し遂げていきました。その圧力を教会活動の追い風とするためには交わりの絆を強め、かつ間口を広めたものとなるよう努め、絶えず祈らずにはおれませんでした。しかしこのような事態は、人の子イエス不在のまま夜間に舟を漕がねばならなかった初代教会・原始キリスト教の時代にすでに象徴的に描かれているのです。

  狼狽する弟子が危機の中で忘れていたのは何か。それは一人山に登られたイエス・キリストの姿です。つまりどのような混沌とした舟の中にいても、人の子イエスと弟子の乗る舟はキリスト自らの祈りによってより強く結ばれています。登山者や漁師は様々なロープワークを知っています。イエス・キリストと荒波に揉まれる舟もまた危機に直面するほどに祈りというロープに結ばれてまいります。ただ、今はそれが弟子には隠されているだけなのです。

  前途の見えない、荒れ狂う湖水に象徴される「世」を進んでこられた人の子イエスを幽霊と見間違えたとて、イエス・キリストは「すぐ彼らに話しかけられた」とあります。「幽霊だ」と脅え、恐怖のあまり叫ぶ弟子。その姿は決して人前にはさらしたくない体裁です。しかしイエス・キリストはそのような実にみっともない弟子に向けて「安かれ」「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と説かれます。

  その声は教会組織に留まらず、その交わりに連なる一人ひとりに向けられています。半信半疑のペトロはそこにいる人影が人の子イエスかどうかを試そうとして「そちらに行かせてください」と語ります。強風は決してやむことはありません。ペトロは夜明けの朝日に照らされる湖面を見つめて怖くなったのではありません。湖面を波立たせる風に気をとられてイエス・キリストから目をそらしかけました。眼差しの大切さは、自動車の安全運転には欠かせないことだと免許をお持ちの方はご存じでしょう。何かにつけて散漫になり、目の焦点が定まらずに泳いでしまう。これもまたわたしたちの現実です。しかしその恐怖にあってはじめてペトロは目覚め、イエス・キリストは、沈みゆくその手を力強く握りしめられました。

  教会の姿がどのように変容していくのか。それはすでにコロナ禍の時期に激しく問われた課題でした。その結果、リモート礼拝というかたちが生まれました。さらに専従牧師不足という状況で、却って諸教会がお互いに支えあう仕組みが生まれるのではないかと、新たな可能性を前向きに語る人もいます。イエス・キリストの山での祈りは、弟子たちの瑞々しい礼拝をもたらしました。わたしたちの目指す岸辺、ゲネサレトには肥沃な平原が拡がり、羊が群れをなしています。教会の祈りが問われる時、そこにはすでにキリストの恵みが臨んでいます。

2025年2月20日木曜日

2025年 2月23日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。

  突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。

  しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。

  人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。

  神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。

  わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。