2025年10月3日金曜日

2025年 10月5日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 わたしたちは『聖書』の言葉を気持ちに併せて断片的に受けとめたり引用したりしがちですが、実は各々の段落がその連なりの中で新たに輝き始めもいたします。そういたしますとこれまで分かりきっていたかのように思えた言葉の響きに一層の深さを感じるにいたります。今朝の『聖書』では祝福を求めて集まってきた人々が弟子に叱られたところイエス・キリストが「こどもたちを来させなさい。わたしのところ来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と諫める箇所が描かれ、続いて「金持ちの青年」の物語が描かれます。金持ちの青年が人の子イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いますと、その時代のユダヤ教徒であればこどものころから暗唱する「十戒」が論じられ「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えます。対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と応じますが、青年はその声を聞いて悲しみながらその場を去る、つまりその時には人の子イエスからは直ちには祝福を授かれずに終ったというお話が描かれます。

 弟子たちに叱られたところのこどもを連れた人々と、豊かな資産をもった青年。実はこの物語はイエス・キリストを軸にして対比されているとも読みとれます。人の子イエスのもとに近づいてきた人々にしっかり手を結ばれたこどもたち。この大人たちとこどもたちとの関わりがどのようなものであったか、福音書ははっきりとは記しません。親子であったかもしれず、逆に血のつながりはなかったのかもしれません。しかし文章からすると弟子が歓迎せずに去らせようとしたところから極度に貧しいところに置かれたこどもたちだった線も色濃く考えられます。貧困層のこどもたちのいのちは、飢餓状態に置かれており明日をも知れません。中には栄養不足に由来する病に虫の息のこどもたちもいたかもしれません。事態はそこまで窮迫していたからこそ、人々は人の子イエスにこどもたちの癒しを求めてきたとも考えられます。

 他方で富める青年はこれまで十全な教育を受け、裕福な暮らしの中で学びを深めてきたからこそ「先生(ラビ)」と礼儀正しく呼びかけ人の子イエスに問いかけたと思われます。しかしイエスは問答や対話という仕方で青年に答えを授けようとはしません。むしろ全生活に及ぶ態度による応答を求めます。それは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」というあり方です。つまり人の子イエスの左側には裕福な育ちをしてきた青年がおり、その右側には群衆出身の弟子でさえ退けようとした名も無き人々とこどもたちがいます。文章全体の構成から申しますと、イエス・キリストは富める青年に貧しいこどもたちへの富の再分配を促しているように思えます。現代の言葉で言い換えればキリスト自ら手を広げて神の「ノーブレス・オーブリッジ」、裕福な者は貧しい者に対して責任を担うというあり方を青年に求めているとは言えないでしょうか。現代では裕福な立場の者は何らかの財団を設立して収益の一部を社会貢献に用いて始めて「富める者」としての信頼を授かります。反対に富める者は貧しい人々に仕え交わるわざにより視野を広げ、その実りとして社会にその富と暮らしに必要な糧が行き渡ります。
 ただしイエス・キリストのこの求めはより深いところから湧き出ているようです。それは『旧約聖書』の『ヨブ記』に明らかです。義しい人ヨブは理不尽な苦難に遭う中、さらに息子達を自然災害で失います。その報せを聞いてヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とあります。『ヨナ書』と異なるあり方も、神の前に立つ人の姿として記されます。

 穀物の高騰が止まない現在、ときにわたしの家でも政府の支援米に伴侶が工夫して季節感を出そうとサツマイモやジャガイモを入れて併せ炊きする場合があります。すると戦争経験者の言葉とは反対に、栄養的にはバランスの取れたご飯が炊けてしまいます。食べる量こそ少なくなりましたが、ひもじさを覚えてはいません。その意味では自ら食するものを貧しい人々に差し出したかつての伝道者や闇米を拒み餓死した判事には及びません。しかし本日の聖書箇所をそのように読みますと、「児孫に美田を残さず」にも繋がる考え、則ち食前の祈りにおいて、わたしたちは世界中で困窮しているこどもたちと無縁ではないどころか深く関わっていることを思い出します。財産に執着する生き方もある一方で、貧しさを分かちあう生き方もあると今朝の御言葉から気づかされます。

2025年9月24日水曜日

2025年 9月28日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

【説教要旨】
本日の説教題、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。


2025年9月18日木曜日

2025年 9月21日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 先日来阪した実弟家族と食卓を囲む機会を与えられました。弟夫妻が授かった一番歳下の女の子は小学校五年生、次男は中学生、そして長男は中学卒業後高校には進まずひたすら読書と武道に明け暮れる暮らしです。昭和の学校制度の枠組みが大きく変わる中で、思えば弟もわたしも集団行動が苦手であったと思い起こしながらの懇親の時でした。『聖書』の中で「羊」という言葉が用いられますとわたしたちはただ群れなす家畜であるかのようなイメージを抱きがちですが、人の子イエスの譬えに登場する羊の場合、現代でいうところの去勢がされてはいない羊が飼育されていたとの話も聞きます。そのような事情を踏まえますと、この時代の羊飼いという仕事は並大抵ではなかったようにも思います。羊飼いたちはわたしたちがいうところの「読み書きそろばん」を殆どの場合体得してはいません。しかし羊飼いは羊一匹いっぴきの性別や体格差、振舞いの特徴や表情を見抜いて名をつけ、その名を呼び、羊の群れを牧羊犬とともに統率していました。しかしその飼育が順調だったかどうかは分かりません。牧場の経営者と羊飼いの考え方の対立も否定できませんし、経営者は単に羊一匹を大事に扱うというより業務上の効率を求めていたと考える方が現実的です。

 そのような事情を知りながらも人の子イエスは次のような譬えを語ります。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。もしこの場で羊を追いかける役目が経営者自らであれば、譬えこの一匹が迷い出たとしても、全体の損益を考えて迷い出た羊を放棄し、危険は冒さないとの判断を下すかも知れません。経営者には羊はあくまでも資源であり、全体におよぶリスク管理の観点からすれば九十九匹を残すとの判断を下したとしてもおかしくはありません。しかしわたしにはこの人の子イエスがこの譬え話で用いた「ある人」とは間違いなく羊飼いであったと映ります。その理由は、その動機が決して合理性では割り切れないところにあるからです。きっと様々な特性のある羊がいることでしょう。中には羊同士の衝突により群れから弾き飛ばされた生体もいたと考えられます。しかしこの場で描かれる羊飼いは合理的な計算ができない代わりに、迷い出た羊を追いかけてやまないのです。そして同時に見落としてはならないのは、その背中を九十九匹の羊たちもまた見つめているところにあります。この羊飼いの必死な姿を見て他の多くの羊たちも「人と家畜」という関係性を超えて、この羊飼いならば大丈夫だとの深い信頼と安心感を授かったのではないでしょうか。

 家畜を飼育しながらの暮らしは実に厳しい選択を強いられる場面に遭遇します。養鶏場を経営していたわたしの父方一族の場合、もし鶏舎に1羽でも病気に罹患した鶏が出たならば、その鶏舎すべての鶏を処分しなければなりません。しかもこれが一度ならず十年に一度のペースで起きる算段もしなくてはなりません。その都度経営者は保険や雇用など重要な判断を下します。そのような苦労を重ねた父親は精神のバランスを崩し虚言癖・失踪癖に走り、そして年老いた今は施設に入所しています。思えば十数年前鳥インフルエンザが流行したときに西日本大手の養鶏場経営者は自死、息子である社長がその責任を民事訴訟にて求められる事態となりました。迷い出た羊を追いかけるわざも過酷です。しかし「神に出来ないことはない」、とイエス・キリストは語ります。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、わたしたちの天の父の御心ではない」とイエス・キリストが伝えようとする神の愛とは、自らあらゆる危険をわが身に担い、苦しみや痛みを負いながら多数の羊を活かすためにも一匹の羊を決して見殺しにはしない羊飼いの姿に重ねられてまいります。その姿は時として愚かであり、経営失格だとの烙印を世間や地域から押されるのかもしれません。しかし一匹の羊のために傷ついた足をひきずり歩くその姿に、わたしたちはただただ感謝の涙を流すほかはないのです。そのようにイエス・キリストは『聖書』を通してわたしたちに問いかけています。「わたしたちは羊の群れ」と『イザヤ書』53章6節を引用するならば、今は様々な毛や性格の羊がおり、溢れる数多の特性の羊が同じ草原に暮らしています。そのような羊一匹いっぴきの特性を見抜き、とかく争いや問題を起こしがちな交わりを平和に導きながら、キリストは更に広い草原へと導きます。わたしたちの置かれた牧場は決して狭く、居場所に窮してはいません。遠くの山の端から射す光に照らされ、わたしたちは羊飼いのもつ杖に導かれて歩みを重ねていきます。主の平安をともに祈りましょう。

2025年9月11日木曜日

2025年 9月14日(日) 礼拝 説教

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)

讃美=
517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大和川から南をおもな範囲とする日本キリスト教団南海地区。個性的な教会が軒を連ねます。そのなかでもわたくしどもの教会と交流が活発なのは日本キリスト教団いずみ教会。いずみ教会の創立に関わる物語としてはその設立に携わった人々が被差別部落とその関係者による奉仕が知られています。2025年度からは吉澤和海牧師が主任として招聘され地域伝道に励まれております。その就任式に際して贈られたのは真珠がついたしおりでした。牧師の就任式に随分と高級なものをと驚いたのですが、実はそれは地域で生まれた「人工真珠」というものでした。

 和泉市の特産品となった人工真珠は、当初は小さなガラス玉に太刀魚の皮を貼り付けて製造した、本物の真珠に庶民の手が届かなかった時代に製造された真珠をいいます。この仕事は手作業で行われるのが殆どでしたが、風雨に負けず仕事を続けられる特徴から皮革業や屋外の作業が中心だった被差別部落の人びとが、天候に左右されない稀な職種でもありました。化学塗料や溶剤の臭いこそあれ、身体にかかる負担は大幅に軽減され、文化活動や社会活動に献げる時間、もっといえば礼拝に献げる時間を勝ち取っていったと申します。

 本日の『マタイによる福音書』には次のように記されます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。畑に隠されている宝、一粒の高価な真珠。このようなものは探そうとしても見つけられるものではなく、たまたまそこにあったものを見つけられるか、絶えず注意を払っているのか、いずれにしても世にいうリサーチの結果見つけられるというものではなく、二度と繰り返すことのできない出会いの機会、チャンスをものにできるかどうかという一点に懸かっています。その意味では文字通り一度きり与えられるものとして始めてその意味をなすものだと言えるでしょう。

 その意味で本日のたとえ話の結びとなる箇所は辛辣です。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」。それから先には世の終わりのさまが記されますが、世の終わりの描写の直前にその時代の人々の暮らしが細かく描かれているのが興味深いところです。集められた「いろいろな魚」のうち、人々はその網を岸に上げて良い物と悪い物、則ち食用になるものとそうでないものとを仕分けするというのです。あえて深読みすれば、「魚」とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とのギリシア語の頭文字を集めての略語でもありますから、教会に連なる人々がこのように仕分けされると記されるのですが、いったいどこにその基準があるのかは分かりません。そうなのです。この箇所で記される終末のあり方とは「全世界に福音が宣べ伝えられた」その後の出来事であって、わたしたちには知る由もありません。けれども天の国、則ち神の国の先取りとしての地に隠された宝、一粒のよい真珠という小さなかけらを尊ぶ仕方に気づくや否やという問いにつながってくるかと存じます。その道筋とは、祈りを軽んじず、イエス・キリストとの関わりを片時も離さないという点にあります。

 一粒のガラス玉に魚の皮を張り付け、樹脂でコーティングした人工真珠。その真珠が人々の暮らしを支えるだけでなく、事実上はカルシウムの塊である真珠というまことにデリケートかつ富裕層にのみ身につけることを赦されていた宝物がタフな姿で一気に民衆のお洒落になっていくという様子。工業用にも用いることができるという、本来の真珠では不可能な領域をも開拓していく道筋が拓けてまいります。貴重なまことの真珠をお持ちの方はその宝を大切にしてくださればと願います。そして手作業によって暮らしを成立たせた、日々差別を被るところの人々がもたらした人工真珠もまた、貧困層に属する人々の暮らしを底あげしました。その意味では富の分かちあいを通して神の国のモデルとなる交わりをもたらしたと言えるでしょう。神の輝く真珠がそこにあります。

 本日は「長寿感謝祝福式」を行います。様々な時の経過とあゆみの中で、神の国のかけらを見出してこられた兄弟がこの祝福に加えられます。イエス・キリストを通してこの祝福は、わたしたちにも注がれています。齢を重ねるのはまことに尊いわざです。これまででなくこれからもその賜物を用いてくださればと願います。

2025年9月4日木曜日

2025年 9月7日(日) 礼拝 説教

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 9月を迎えました。昼間は強い日差しで辟易する日々が続きますが、暦は立秋をとうに過ぎています。夜半には虫の音が響き、懸命にいのちを繋ごうとする声が響いているようです。

 そのような虫のうち、バッタの仲間が好むのがイネ科の植物。農家には邪魔者ですが、反面、信州や上州、奥州でイナゴは民衆には貴重なタンパク源でもありました。洗礼者ヨハネの食べ物もイナゴであったと記されます。

 しかしそのイネ科の植物には暮らしに好ましくないものもありました。それが今朝の人の子イエスの教えに描かれる「毒麦」と呼ばれる植物です。毒麦とは栽培されるイネ科の植物の擬態雑草で、麦類の植物と同じペースで伸びやがて実をつけるのですが、その実には多量に摂取すると神経を冒すアルカロイド系の物質が含まれています。空腹のあまり危険を知らずに大食いすると嘔吐や下痢、場合には錯乱にまでいたるという植物です。身近なところでは山菜に含まれる「苦み」もその毒によるものだと言われていますが、よほどの目利きでない限り小麦などとは見極めがたいとされます。

 本日の箇所で人の子イエスは「毒麦の譬え」と呼ばれる話を語ります。詳しくは『マタイによる福音書』を繰り返し読めば明らかですが、キリストとの関わりを試みたり邪魔をしたり、あるいは教会の交わりに分裂をもたらしたりする者を「毒麦」、日の光を一身に受けてすくすくとキリストへと向けて育まれ、豊かな実りを結ぶあり方を「良い種」として扱っている模様です。同じ畑に蒔かれた毒麦を他の麦と見分けるのは至難のわざですが、僕たちはめざとく毒麦に気づき「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」と主人に問いかけます。主人は「敵の仕業だ」と呟きます。農業が日々の生活のみならず、いざという時には兵糧にもつながる場合、このように敵対者が畑に塩をすき込む、または毒草の種を蒔くのは茶飯事でした。当然の事ながら目利きの僕は「では行って抜き集めておきましょうか」と迫るのですが、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのとき、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と語ります。

 わたしたちは暮らしの中で「必要悪」という言葉を聞きます。豊かな成果を得るには少数の犠牲もやむを得ないとする考え方です。しかしこの物語では、そのような必要悪といったものを畑の主人は認めようとはしません。むしろ毒麦ならば毒麦の、よい麦の種であればその麦の実りが、誰の目にも明らかになるまで一定の猶予の期間を設けます。この「神のモラトリアム」のなかで、誰が神の前で誠実であり、誰がそうではなかったかという態度がはっきりするというのです。

 日本人にもよく知られたアメリカ合衆国第16代大統領としてエイブラハム・リンカーンという人物がいます。合衆国南北戦争の時代に北部23州の合衆国大統領として奴隷解放の立場を打ち出し、また日本の児童向けの偉人伝にもよく登場するこの人物。わたしたち大人には時に厳しい言葉をも投げかけます。それは「40歳を過ぎたのであれば、大人は自らの顔に責任をもて」とのメッセージです。何もその人の顔の美醜を問うているのではありません。その人が幾度人に裏切られてもなおも人を信頼し、誠実に歩んできたかがその人の顔に表れるという意味です。この朝、聖日礼拝の会衆席にリンカーンがいて、正面きってそのように問われたのであれば、わたしは自信をもってその問いに答えられるかは疑問です。

 しかしイエス・キリストを中心としたこの交わりに、その理由はどうであれ集う方々は、主なる神から一定の赦しの時を備えられています。「わたしには信仰がありません。主よお助けください」と呼ばわる方々の顔こそが、その人が知らないままでリンカーンの語るところの「顔」をもってイエス・キリストを仰いでいるのではないでしょうか。世の倣いに則するならば、もっといえば通俗的な道徳に則するならば、人生の裏街道を目のあたりにしなければならなかった人こそが、さまざまな苦難や汚れを糧として、よい実りとして主なる神に献げられるに違いありません。ところで「毒麦」に含まれる毒成分は、現代の医療では薬用として用いられる分には貴重であるとされ、偏頭痛の治療や向精神薬にも用いられるとのことです。主が創造し給う被造物には一点の無駄も差別もありません。恵みに満ちた主の祝福を心から讃美し、深く感謝しつつ始める月といたしましょう。

2025年8月28日木曜日

2025年 8月31日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『旧約聖書』を読み進めてまいりますと時折実に凄惨な合戦の場面に出会います。とくに『ヨシュア記』や『士師記』は残酷さを極めます。例えば『ヨシュア記』10章29~30節には「ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣をもって町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。リブナの王に対してもエリコの王と同じようにした」とあります。これは「聖絶」という理解で語り継がれてきた話であり、戦争中の日本の教会もまた聖日礼拝説教で扱った箇所だとも言われています。しかしこのような無差別な殺戮を現代のわたしたちが認めてよいはずがありません。それではわたしたちはどのように読み解けばよいのかという疑問の中で、あらためて『創世記』4~12章を開きます。するとそこには、イスラエルの歴史の中で手に掛けられた人々も含めて全ての民がアダムとエバから出たとの記事があります。これは何を示しているかと申しますと、歴史の歩みのただ中でイスラエルの民の歪んだ選民思想への牽制として、彼らの敵対する民もまた血の繋がりがあるとのメッセージを聴くことができます。則ち、原初に起きた殺人行為が兄カインによる弟アベルの殺害であったとの兄弟殺しが繰り返されてきたとの理解によって、一見するとイスラエルの民の勝ち戦に見える戦いでさえ、それはまことに罪深い人の営みであるとの認識にも立ちうるとの解釈です。日本でも戦国時代に大名同士が姻戚関係に立ち、和睦の証しとしたように、古代ヘブライ人にとっては血縁による繋がりが平和への道であるとの一縷の希望がありました。

 しかし本日の『新約聖書』の箇所で、人の子イエスは奇異なわざに出ているようにも思われます。それは「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「ご覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と記されます。同様の記事を『マルコによる福音書』は「周りに座っていた人々」と記します。人の子イエスは弟子たちとともに旅を続けながら教えを宣べ伝え、癒しのわざを行っています。その行方は家族にも分からないという場合も出てまいります。ですから人の子イエスの係累、血族からいたしますと本日の箇所とは実につれない立ち振る舞いに映っても何らおかしくはありません。おそらく母親も含めて家族は返されたその言葉に深く肩を落としたことでしょう。

 しかし反対に、人の子イエスの話に耳を傾けていた弟子や群衆にはどうであったかと考えますと、必ずしも肩を落としたとは言えません。弟子も関わる「群衆」には、確かにそこに集まっているけれども、横の繋がりが一切ない人々が示されます。そこに集まっているだけの人々に対して、イエス・キリストは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と呼びかけます。血の繋がりなど一切関わりのない人々が、そこでは「わたしの兄弟、姉妹、また母である」と呼びかけられたときに覚える喜びはいかなるものであったでしょうか。このように本日のイエス・キリストの言葉は、観る角度によってその意味が正反対の切れ味を帯びる場合もあります。

 それでは本当のところ、人の子イエスはわたしたちが社会一般でいう家族のつながりを疎かにしていたのかと言えば、決してそうではなかったとも言えるでしょう。何しろ、弟子たちがすべて逃れていったとき、十字架で息絶えたわが息子の姿を凝視し続けたのは母マリアであり、それゆえに後世には「ピエタ」という十字架で処刑されたイエス・キリストの亡骸を抱きしめる母の姿が描かれるほどであるからです。あの彫刻の描写には確かに作り手の解釈もありますが、ではなぜその彫刻を前にしてわたしたちは涙を流すほど感動するのでしょうか。

 確かに『旧約聖書』『創世記』2章では、家族の最小限の単位は血縁のない「夫婦」だとされています。しかし他方でわたしたちは新しいいのちを授っていくという賜物を主なる神から備えられます。こどもたちはやがて育ち、出会いを経て異なる人と結ばれて、いつしか親離れをしてまいります。だからこそわたしたちにとっては血のつながりを超えた「神の家族」という言葉によって表わされる交わりを大事にし、頼る先を増やしながら、自らの孤独を飼い慣らすことができるのです。エスニシティ(民族や文化、習俗)による差別がまかり通る今、わたしたちが軸に据えるべきはイエス・キリストを基とした交わりです。その交わりが神の平和を築きあげます。

2025年8月22日金曜日

2025年 8月24日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 福音書の成立には、人の子イエスとその弟子が語り伝えた神の愛による世の統治が、その時代の人々の思う通りには訪れてはこなかったという事情があります。神の計画とは人の思いを超えて実現していくさまを、わたしたちは断片的であるにせよ体験しているからこそ、本日の礼拝に招かれておりますが、わたしたちはむしろそのような体験を賜った神に深く感謝を献げるところです。教会の交わりに頑なだった家族がその生涯を全うする直前に洗礼を授かる場面に、わたしは牧師として幾たびも立ち会いました。

 しかし福音書の世にありましては、そのような日々の平安にさえ遠いなかでただただ神の愛による統治を願わずにはならないのっぴきならない、そして現在のわたしたちとは程遠い事情がありました。それは、まずは人の子イエスを救い主と仰ぐ人々の交わりを敵視する古代ユダヤ教からの暴力を伴う排除、次いで貧しく、さらには仮に人身売買される奴隷の身の上にあったとしても時のローマ皇帝を決して神として跪かなかったがゆえに叛逆罪に問われ、見世物のように殺害されていった日常です。遠藤周作の小説『沈黙』よりも厳しい排除と差別が続くなかで、人々は「アーメン、わが主よ、来たりませ」とイエス・キリストの再臨を待ち望んでいました。
しかし『旧約聖書』の種々の物語にもあるように、神の約束とは思いもよらない仕方で、しかも数世代を経て実現するとの性格を帯びる場合もあります。わたしたちが神を利用するのではなくて、神の導きにわたしたちが身をゆだねた時に初めて拓かれる道があります。

 そのような困難な世にあって授けられた希望の道を、人の子イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」との言葉で示します。「蛇」という言葉からわたしたちは好き嫌いの分かれる不気味な生き物を連想しがちですが、『聖書』では「知恵」や「癒し」を与える象徴としても用いられています。わたしたちは「天地創造物語」で描かれるところの、エバとアダムを誘惑し、神との信頼関係を破壊する機会をもたらす存在として理解しがちですが、逆に言えばあの「蛇」という言葉には、古代ヘブライ人が味わった、想像を絶するような高度な文明に動揺する人々の様を看て取れます。そのような人々、とくにヘブライ人を虜囚としたバビロニア王国の人々が暗に「蛇」だと呼ばれた可能性もあります。確かにその生態は今も人間を驚かせるところから、それが知恵の象徴だと言われるのも無理はないと考えます。

 しかしそのような知恵を「福音書」ではあくまでもイエス・キリストの語るところの知恵だとします。そしてその知恵とは「鳩」のような素直さとともにあって初めてその本来の力を発揮するというのです。一見対照的に映るがゆえに『聖書』にはダブルスタンダードが記されているかのように誤解しがちなわたしたちですが、この箇所で記されているのは困難に満ちた世に活かされるためには、イエス・キリストを核とした喜びに満ちた交わりが不可分であると示します。洗礼者ヨハネのもとで救い主としての働きを始めるにあたり、人の子イエスに神の霊が「鳩」のように降って来るのを見たと申します。『旧約聖書』「天地創造物語」にさかのぼれば「洪水物語」で箱舟にその災いの終わりを告げる「神の平和」の象徴としても用いられます。この素直さと繊細さあればこそ、時に捕食関係にあるとして理解されがちなこれら被造物は、神への素直さに根ざした知恵として世にある真贋を見抜き、密かに響く神の声を聴き分ける力を弱さの中から汲みだす象徴として深く結びつくのです。

 報道では充分な知識のないまま身ごもった未成年の女性が、授かったばかりのいのちを認められずに殺害し、公園に埋めていくという凄惨な事件を聞きました。身代金目当ての誘拐事件に代わって、相談口があれば十分防げたはずの事件が後を絶ちません。かつて道端で呻く傷だらけのホームレスを敢えて無視して大学のキャンパスへと通学しなくてはならなかったいたたまれなさ、自分は「よきサマリア人」にはなれないとの悔しさに身を震わせた時代、今は早朝の大衆食堂で水商売の仕事明けに騒ぐ若い男女から勧められた好意としての一皿の食事を断りながら、同じ世代の集う教会やこども園、大学に身を置く者として、やはりこれもまた自らが虐げられている立場にあることすら気づかない、その若者たちの目を塞ぐ様々な構造や差別に対して憤りを覚えてよいのだとの声を聞く日々です。問題はその怒りをどのようにして人を支えるエネルギーに変えていくのか。その道筋を祈り求めてもいます。自分の身を守ることで精いっぱいだったはずの初代教会の人々が、愛のわざに励み続けた知恵と素直さを尊びたいと願います。神の国の訪れを、福音を賜物に応じて証ししながらともに待ち望みましょう。

2025年8月16日土曜日

2025年 8月17日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 酷暑が続きます。みなさまにはお具合いかがでしょうか。牧師は14日(木)には釜ヶ崎で内科医として献身的に働き、そして殺害された高崎南教会員矢島祥子さんに関するチラシ配布を西成区鶴見橋商店街で行いました。その折、目の前をナツアカネ(赤とんぼ)がすっと飛んでいくさまを見ました。暑さと豪雨の繰り返しで天気予報には気をつけなくてはなりませんが、それでも少しずつ季節は移ろっているのだなと実感いたしました。

 今や下町の商店街には様々な国籍の方々が往来されています。受け取ってくださるかどうかは別として相手の目を見てにこやかに挨拶をすれば日本人以上にレスポンスを返してくださるのはありがたいところです。

 本日の『マタイによる福音書』では人の子イエスが弟子を招き、汚れた霊を追い出す権能を授ける様子を描きます。集められたのはペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダの名があがります。イスカリオテのユダもまたこの箇所に記されているという点では、イエス・キリストのたどった苦難の道でのその振舞いが、ユダだけの責任に帰して問われているのではなく、十二弟子全体のありかたを問いかける徴として描かれています。

 そしてその後の十二弟子に対する人の子イエスの言葉は次のように記されます。「異邦人の道に入ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた家の失われた羊のところへ行きなさい」。この箇所に触れて『聖書』をお読みの方は首を傾げるかもしれません。この福音書より10~20年ほど早くまとめられた『マルコによる福音書』では「まずこどもたちに十分食べさせなくてはならない」と語る人の子イエスに、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと願うギリシア人の女性が食いさがり、その結果福音書でいう悪霊が去る、則ち病が癒されるという物語が記されているからです。それでは諸国の民の間にある垣根を設けるようあえてイエスの命令として記さなければならない理由とはどこにあったのでしょうか。

 『マタイによる福音書』ではこの垣根を越えていく神の愛のわざを決して軽々しくは扱いません。それは世にある人としてのイエスを知る弟子のなかに、ある人物の名が欠けているところからも明らかです。則ち、初代教会の立役者となった使徒パウロの名です。パウロは人の子としてのイエスとの面識はなく、イエスが昇天された後、聖霊降臨の出来事のなかで使徒となった弟子の口から救い主の生きざまと復活の出来事を知ったと伝わります。むしろこの人が律法学者サウロと称していた時代のほうが字義どおりにこの命令を受け入れやすかったことでしょう。それほどこの壁を破るために初代教会は深い痛みを経験しました。その象徴がユダの裏切りを経ての救い主の処刑です。同時にそれは十二弟子の離反をも示していました。しかしギリシア語で「パラドゥーナイ」とされるこのわざは「裏切る」というよりも「引き渡す」「委ねる」との訳が適切だと申します。そうしますと現代人の目からすればイスカリオテのユダよりも、使徒パウロのほうがより罪深く考えられます。そのパウロの働きを通して、広く異邦人にもサマリア人にも福音が宣べ伝えられ、神の深い愛がイエス・キリストの福音の核として伝えられました。ちなみに本日の箇所では、まだ弟子たちは救い主の苦難に満ちた歩みと十字架での死、そして復活の出来事の告知を人の子イエスからは受けていません。そこには素朴に人の子イエスに従おうとする人々の群れが描かれます。やがて神の国の訪れを前にして諸国の民の壁が打ち払われ、その時代すでにあったところの貨幣経済による貧富の格差も打ち破られていきます。だからあえて旅支度をせず「平和があるように」と挨拶を交しなさい、とあります。脆さも含めて弟子は派遣されます。争いや差別ではなく「主の平和」です。

 どの旅の備えでも金銭は確かに重要です。ただ福音書のメッセージでは社会を循環し、分かちあうところのツールとして相対化され、そのものとしては神から授かったいのちを値づけしません。もちろんそれは礼拝の対象にもなりませんが、困難の中で金銀に目を奪われていく教会も多かったことでしょう。ユダはその躓きの徴として、他の弟子の破れとともに数えられます。他方でパウロを軸として異邦人とともに歩む教会は、復活したイエス・キリストとともに新たないのちの息吹を注がれてまいります。この二つの流れは、神の愛によってひとつにされ、今のわたしたちに流れ込んでまいります。主にある多様性の基には、いのちの尊厳への目覚めが、どのような人にも敬意を払える態度とともにあります。戦争の過ちを繰り返さないために他者への尊厳を求め祈ります。

2025年8月8日金曜日

2025年 8月10日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 お互いに甚大な被害を与える現代の戦争には勝者はおりません。しかしそれでも勝利を収めたと自認する国ではその戦争で負傷したり病に罹患した復員兵を迎える家族に何らかの補償をいたします。負傷や生命の代償として当事者には名誉の勲章が授けられる場合もあります。

 しかし最も過酷なのは敗戦後に帰る家も焼け家族もちりぢりとなり、深い傷跡を顔や手足に残し、または風土病に罹患しすっかり病気がちとなった人々があげられます。もちろん戦災孤児は言うに及びませんが、かつて英雄として奉られた特別攻撃隊の生き残りの暮らしは「特攻崩れ」として荒み、酒浸りになり、薬物に溺れて身を持ち崩す人も多かったと聞きます。戦闘で顔面を失った人々が日々の賄を得た手段とは「見世物小屋」での「化け物小屋」で働く人もいました。かつては人々に旗を振られて送られて、今は人々から恐怖と侮蔑の目で見られます。それは戦後の高度経済成長期にも深くて長い影を落とすものでした。

 本日の聖書の個所ではおそらくはガリラヤに戻った人の子イエスが通りがかりに収税所に座っている徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と声をかけ弟子とするところから始まります。『マタイによる福音書』の書き手集団とは別の人物ですがそれでも何らかの関係を想像するには十分な名前です。その後イエス・キリストはマタイの家で食事をいたします。そこには徴税人や罪人も大勢つどい人の子イエスや弟子たちと同席したのです。

 この「徴税人や罪人も大勢やって来て」というくだりなのですが、徴税人はまだしも「大勢の罪人」と呼ばれる各々の姿が思い浮かばずにみなさまは苦しむところではないでしょうか。ただしイエスの弟子を批判するファリサイ派の人々による「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」との言葉から、おぼろにではあるにせよその姿が浮びあがってまいります。すなわちその社会規範からは遠くかけ離れ、絶えず遠ざけられた人々が律法に厳格なファリサイ派からすれば許容これ能わずといった具合だったのでしょう。

 昨日は長崎の原爆忌でしたが、広島と長崎に共通するのは路面電車が走っているというところです。つい20年ほど前までは手足や首に原爆固有の火傷を負った人がごく普通に電車に乗り降りしていたとのことでしたし、銭湯に行けば人皆傷だらけの身体を晒して湯船に浸かっていたと聞きます。しかしその理由を尋ねる者はだれもいなかったと申します。その人自らが何か悪さをしたという意味に限られず、人々に負の記憶を連想させるために社会から見放されていった人々もまた「罪人」として疎外されてしまっていたのではないでしょうか。

 その裏づけとしてはファリサイ派の問いとも批判ともつかない言葉に対して向けたイエス・キリストの言葉に明らかです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との言葉には、人の子イエスのもとに集っていた「罪人」とは「病人」との意味も併せ持っていたという点です。ファリサイ派の求めるのは義人、すなわち「健康な人」であって、その集いへの参加を人は誇ることができます。しかし徴税人マタイの家には何の取り柄もない病人が集うのであり、その集いを人前で決して誇ることはできません。しかしその交わりの中で罪人とも呼ばれる「病人」、何も誇れない人々にこそ主なる神の祝福に満ちた交わりの回復と慈しみ深い安らぎが臨むのではないでしょうか。

 戦争が終ってから少なくとも20年間、場合によれば高度経済成長期の恩恵の及ばぬ影で、人知れず差別に堪える他なかった人々がいました。広島や長崎出身というだけで就職面接や結婚を断られた人々がいました。また、両親を失い上野駅の地下で心ならずも盗みを働かなくては生きていけなかったこどもたちは、大人になり結婚相手にすら老いてなお身の上を語れない方々もいます。さらには戦後なおも残る機雷や不発弾でいのちを失った方々も数知れません。『エゼキエル書』37章に記された「枯れた骨」として今なお放置されている遺骨となった身内を忘れられない人々がいます。広く世間では「心の病」の源として扱われてきたそのような辛い経験を、イエス・キリストが見逃すはずがないのです。戦後は決して終りません。キリストに連なる教会もまた、今なお続く傷や病を癒す場なのだとわたしたちは確かめます。イエス・キリストは平和の主であり、多くの傷に苦しむ人々、空腹の友と一緒に宴を囲まれます。その交わりこそがわたしたちの出発点であり、神の愛につつまれる統治の先取りであると確信しましょう。天に召された方々ともわたしたちはこの礼拝で交わり続けるのです。

2025年8月1日金曜日

2025年 8月3日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「平和を実現するイエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』8 章5~13節
(新約13頁)
讃美=21-561(420),531,
「主の食卓を囲み」(讃美ファイル3),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 本日は日本基督教団の教会暦に定められている平和聖日です。とりわけ満洲事変から数えますと15年間続いたアジア・太平洋戦争が事実上の日本の敗北で終り80年を数えます。幼い日に戦火の中を逃げまどった「戦争体験者」は今なおお健やかであったとしても、実際に従軍経験のある方々はまことに少なくなった時代となりました。実体験ぬきで戦争を語りますと安売りロマン主義の虜となり、やれ英霊だのやれ雄壮だのという話となります。しかしながら歴史上の記録だけはごまかせません。先の一五年戦争で「戦死」扱いされた兵士では餓死者・戦病死者が7割にも昇ります。前線の将校や看護兵の手に負えぬとして自決した兵士もきっといたでしょう。

 平和聖日で取りあげる聖書箇所はあくまで日本基督教団の教会暦に則しておりますので牧師が恣意的に選んだ箇所ではありません。けれども百人隊長という、いざとなれば最前線に立つ下級将校の立場にあって、支配地の紛争が絶えないこの時代に自らの部下を思いやるとの働きはなかなかできません。言ってみればローマの軍隊にあってカファルナウム含めてパレスチナはローマと地続きとは言え乾燥した外地にあたります。その時代には百人隊長のほうが人の子イエスよりも立場が上なのが当然です。けれども百人隊長は語るのです。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます」。一般に中風とは脳梗塞や脳溢血を含めた疾患を指しますが、この僕の病の原因は何だったのでしょうか。水分や栄養を十分に摂取できず、南方の密林の風土病であるマラリアのような病が原因だったのかも知れません。百人隊長は派遣先の地元民の一人に過ぎない人の子イエスに「主よ」と呼びかけ、助けを乞います。戦争末期の日本軍の将校にこのようなわざができたでしょうか。

 人の子イエスはそのような乞い願いを決して無碍に扱いません。「わたしが行って癒してあげよう」と語りかけます。しかし百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」。百人隊長は知っています。絶えざる戦時下とは言え、どれほどの外地の人々を手にかけてきたことか。個人としての葛藤はともかく、多くの人を手にかけ、ローマ帝国の旗の下で田畑に塩をすき込み、女性やこどもたちを飢えさせてきたかを。そして少なからず部下を戦死させてこその今の地位があることを。そのような深い葛藤がイエス・キリストを前に一気にほとばしり出てまいります。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。この「ひと言」への絶大なる信頼が人の子イエスの胸に響くのです。その信頼は一度命令が下れば譬え死地であっても赴く覚悟とその覚悟をともにする兵士の挙動に示されています。

 人の子イエスはこれを聞き深く感じ入ったと申します。この場面での人の子イエスのローマ軍の下級将校への向き合い方は、言うまでもなく敵味方の垣根を越えています。そして本来は占領軍にあたり、ユダヤの民に較べれば世にある立場も上であったろうこの将校の振舞いを示し「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」。思えば『旧約聖書』の預言者の物語に描かれたのは神に選ばれたはずのイスラエルの民による神への冒涜と不信仰の歩みでありました。それでも「死んではいけない」と語る主なる導きは変わらずユダヤの民に注がれていたはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。言い換えれば「これほどの世に遣わされたメシアへの信頼をユダヤの民には見なかった」との言葉です。神の愛とイエス・キリストの恵みは名も知らない百人隊長の僕、軍人ではなく軍属であったかも知れないその人に臨んでまいります。「東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。だが御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりすることだろう」。未だに神への承認欲求に凝り固まり、砕かれ新たにされる出来事を恐れる者は、たとえ「御国の子ら」と呼ばれようとも宴席から退けられるとの言葉。わたしたちには、そしてパレスチナで民間人を銃撃する人々には、そして根拠なく教会に連なる者を「左翼」呼ばわりする人々にはどのように響くことでしょうか。神の愛への信頼に基づく平和とは、決して世にある境界線を問わないのです。

 思えば『マルコによる福音書』で十字架での人の子イエスの最期を見届けた、本日の人物とは異なるところの百人隊長は、その場で「本当に、この人は神の子だった」と呟きます。イエス・キリストの愛とは、分け隔てなく人々の痛みや苦しみを分かちあい癒してまいります。その慈しみといのちへの愛に満ちた平和にわたしたちは今一度目覚め、80年目の八月を迎えたいと強く願います。

2025年7月26日土曜日

2025年 7月27日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「あなたがたの土台はどこにあるのか」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)

讃美=21-514(449),21-458(270),Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 国政選挙が終りました。わたしたちの暮らしにまことに大きく影響する結果だとのことで、さまざまな意見が渦巻いています。しかしわたしたちはその渦巻きから引き出されてこの礼拝に集い得たことを主なる神に心より感謝します。それは決して世の現実から逃れるのでも目をつむるのでもなく、わたしたちの立つところが『聖書』に記されるところの御言葉にあるとの確信に基づいています。いつの世にもあたかも時代の寵児であるかのような人物が現れて人々の心をつかむ「キャッチーな言葉」で扇動しますが、わたしはそのような時に『イザヤ書』30章15節を思い出します。それは「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある』と」。『イザヤ書』の構成は三部から四部に及ぶと言われます。この平安の中での信頼こそが神の愛の力をもたらすのであり、だから恐れるなとの静かに語る声を聞くのです。世にある言葉は風のようにすべて過ぎ去ります。その風に吹き飛ばされないようにわたしたちは主なる神からともにあるための軛をすでに授かっています。

 ところで本日の箇所では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。「かの日」とは『新約聖書』の表現では神の愛による統治が全うされる世の終りを指しております。とりわけ福音書の書き手は、その「終末」を強く意識して救い主のあゆみと教えを書き記しています。それでは救い主イエスが世にあって信頼する父なる神に祈りを献げるときに端的にどうすればよいのかが記されています。それは(『ルカによる福音書』18章9節にある)ファリサイ派と徴税人の祈りの対比です。「ファリサイ派は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしたちはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。反対に徴税人は神殿から遠くに立ち天を仰ごうともせず胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った、とあります。過ぎていった一週間を思い出して、わたしたちは主なる神の御前で、あたかも業績を誇るかのような高揚感に包まれるでしょうか。それとも涙に暮れる夜もあったと思い出し、か細い声で「信仰のない者を憐れんでください」と胸の奥をさらけ出すのでしょうか。

 「主よ、主よ、わたしたちは」で始まる言葉は、明らかに自らの業績を無理矢理神に認めさせようとする醜悪さが潜んでいます。先ほどのファリサイ派の祈りと表裏一体をなしています。預言も悪霊の追い出しのわざも奇跡も、そこではまったく本来の役割を果たしてはおりません。それが驕り昂ぶりに繋がるならば、預言や癒しのわざや奇跡すらも一切の意味を失うという畏怖すべき教えが記されていると気づかずにはおれません。「あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ!」とのイエスの声が響きます。
その後にあるのが岩の上に家の土台を建てた者と砂上に建てた者との対比です。キリストに根を降ろすとは、要はこのようなあり方を示します。雨降り川あふれ暴風が襲うなかで立つ家。どれほど小さな家だとしても、基礎を岩盤に下ろしてさえいえば家そのものの造りよりもその岩が家屋を逃さずつなぎ止めます。これこそがわたしたちの養いとするべき『聖書』の言葉であり、祈りです。世の移ろいに棹さし立つ家は、見かけは立派であったとしても先が知れています。今現在の暮らしに不安を覚えるあまり、誰もが飛びつく「甘い言葉」にすがったところで、それは渇きのあまり海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが増すにいたります。

 『イザヤ書』2章に戻るならば、わたしたちは次の言葉を見出します。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。わたしたちが根を降ろし、土台とするべきはイエス・キリストです。わたしたちの想像をはるかに超える困難を幾つも超えて、教会の交わりは育まれ今に至っています。
心身にわたる困難がわたしたちを襲うほどに、業績という名の傲慢さが川の水に流されるほどに、わたしたちの立つ土台が問われます。だからこそ、パウロの語るとおり、弱さ、侮辱、窮乏、生きづらさ、行き詰まりの状態にあっても、わたしたちは弱いときにこそ強いと臆せず、居直りでもなく、主なる神との深い関わりに平安を授かる日々を過ごせます。主の前に立つため、少しだけ、勇気を出しましょう。イエスは世に勝っています。

2025年7月18日金曜日

2025年 7月20日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

 
説教=「求めは分かちあいにより満たされる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章 7~12 節
(新約11頁)

讃美=217,21-459(354),Ⅱ-171. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 2025年『信徒の友』8月号が出版されました。この冊子には「日毎の糧」という欄があり、日本基督教団に連なる諸教会の名前と各々の祈りの課題、そして『聖書』の箇所が掲載されます。8月号では南海地区の教会がとりあげられ「生きづらさをかかえる方々の祈りを主なる神がお聞き届けになり、イエス・キリストの豊かな祝福と深い癒しが臨みますようお祈りください」との文章を寄せました。今の時代の痛みを抱える教会内外の関係者を覚えていただきたいとの考えから文章を送信しました。期せずしてタイミングは80年目の広島原爆忌。但し、わたしは当日の担当者の聖書講解の言葉には考え込みました。「イエスさまは、わたしたちが神さまに従うには、犠牲をはらう必要があることを教えられました」。浮かんだのは、自らに従うには犠牲が必要だという条件を本当にイエス・キリストは語ったのか、という問いなのです。

 本日の『聖書』箇所では「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあります。何を探すのか、何のために門を叩くのかと言えば、「神の国と神の義」を求めて、です。そうすれば「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い煩うことはないとの、名も無い人々へ向けたメッセージが鮮やかになります。その内容はすでに空腹であり、すでに渇いており、すでに身なりすら衛生的に整えられなかった人々へ向けた喜びであり「身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」との聖句の断片的な解釈とはわけが違ってまいります。人の子イエスのもとにやってきたのは、すでに犠牲に献げるものすら持てないと失望と悲しみに暮れるほかなかった人々であり、求められるとするならば、自らのすべてを献げるほか道がなかった人々です。だからこそ本日の『聖書』箇所は次のように続きます。「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分のこどもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」。パンも魚も福音書では、その日を暮らす必要最低限の食事として描かれます。思えば『出エジプト記』で記される奴隷でさえ、魚の干物を食事として無料で支給されていたと記載されます。人の子イエスの教えの聴き手の置かれた暮らしが推し量られるというものです。

 おそらくこの場で人の子イエスが群衆、そして群衆と深い間柄にあった弟子のすべてが、その時代には律法学者を始めとしたごく一部のユダヤ教の指導者層とは異なり、文字の読み書きに際しては、恐らくは不可能か日常生活での最低限の識字能力しか持たなかった人々が大半だったことでしょう。しかしそれでも人の子イエスは「十戒」を始めとする『旧約聖書』の誡めが全うされると伝えます。それが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との言葉です。『律法』と『預言者』とはその時代の『聖書』、すなわち、わたしたちのいう『旧約聖書』に該当する書名です。その誡めが日々の暮らしの中で実現するのは「わたしに従いなさい」と呼びかける救い主の声にたどたどしくも応える瞬間です。

 本日は国政選挙の投票日です。気がかりなのは小学生の給食メニューを案じる声よりも、多様性を否定し誰かを圧し除けて心を満たそうとする声が強まっているという現状です。わたしたちはそのような憎しみをぶつけられ苦悶している仲間に何らかの犠牲を払えなどと人の子イエスが伝えたとは考えられません。そうではなくて、あの五千人の人々が五つのパンと二匹の魚を祝福して分かちあうイエス・キリストの姿を見て、自らも手ずから持っていた粗末な食事を分かちあう群れが生まれた出来事を思い起こしたいのです。何の飾りもない、その素朴なわざには「神の国と神の義」が先取りされていたと言わずにはおれません。また略奪者に襲われ虫の息の旅人を支えたのは、同族の祭司やレビ人ではなく、時には憎しみの対象にすらなっていたサマリア人の旅人だったと思い起こしたいのです。かのサマリア人は虫の息の旅人に必要なその時代の緊急措置を施し宿屋に連れて介抱するだけでなく、2デナリオンを主人に渡してその後の治療を依頼しました。さてサマリア人は費やした時間や費用や薬品(油とぶどう酒)を犠牲だと思ったのでしょうか。そんなわけがないのです。略奪者に襲われた旅人がまた歩けるようになれば、やはりそれはサマリア人にも実に喜ばしい知らせです。イエス・キリストに従う道筋をその人の人生一代のみで全うするのは困難だとしても、必ず誰かの道備えとして用いられ、分かちあわれてまいります。神の国はそうした小さな、しかし決して消されない神の愛の交わりから始まると確信し、主は自らを犠牲とされた事実を胸に刻んでまいりましょう。

2025年7月11日金曜日

2025年 7月13日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 汗水流して働く代りに、様々な投資信託のコマーシャルが次から次へと起きては消えてまいります。50歳を超えて気づいたのは「老後」という言葉が巷にいかに多いかというところです。コマーシャルでは年金を投資に回した結果不労所得が増えたという話ばかり。若者も額に汗する仕事ではなく投資で儲ける暮らしがスマートであると言わんばかりです。確かにお金は大切です。労働対価としても費用対効果としても見逃すわけはまいりません。それは社会を血液のようにめぐっていき、ある人の消費を喚起します。そしてそれはある人の所得となります。『新約聖書』の舞台もまた貨幣経済が主流をなす時代。そのような中で人の子イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と語り、その後には表向き実に牧歌的な「野の花・空の鳥」の教えを語ります。単純化しますと「世にあるすべての富を捨てて自然に帰ろう」という意味として受けとめがちではあります。しかしこの教えはわたしたちが考えるほどそれほど安直ではありません(近代文学の白樺派はその典型かもしれません)。6章24節にある「富」とは富や財産が偶像化された神「マモーン」を意味します。『旧約聖書』では「金の子牛」や「バアルの神」といった仕方で人々の目を眩ませてきたその神と、『旧約聖書』以来いのちを愛してやまなかった主なる神を人の子イエスは対置するのです。

 ただ悲しいかな、人は貧しくなるほど、いや、時にはどれほど富裕層に属していようともこの「マモーン」に心を奪われてしまいます。決して世の全てが富を尺度であるわけではないにも拘わらず、あたかもその数字が全てであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。マモーンに憑依されたあまり、目に見えぬいのちの豊かさに気をとられ、そのときその瞬間でしか味わえない神の恵みに無頓着になってしまいます。

 ボンヘッファーという牧師がいました。この人は世がこぞってマモーンに惑わされ、弱い者が蝋燭の光になびく虫のように権力にすり寄るその時代に、富を「究極以前のもの」と見定めました。それは人間にとって実に大切ではありますが、それによって人命が損なわれたり戦争を始める口実になったりしてはいけないというのです。富が富本来の価値を授かるのは、究極的なお方である神に仕えてこそだ、とはっきり断言します。それによって富はマモーンとしての力を失う代わりに、富のもつ本来の役割を再発見されるというのです。その証しとして人の子イエスは実に麗しい「野の花・空の鳥」の物語を語ります。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。わたしたちは目の前に金貨を積まれたところで、その金貨がただちに食べ物になるなどとは考えられません。また食糧難の世には「たけのこ生活」といって上等な着物を農村で食べ物に換えてもらうという事態すら生まれました。「栄華を誇ったソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着かざってはいなかった」とあります。ダビデの息子のソロモン王は確かに統一王国を繁栄に導きましたが、それでも美しさは野の花一輪にも及ばないと語ります。日照りの中、暴風雨の中、散ってしまいそうな花びらが、やがて陽の光とともに、滴にきらめく様子をわたしたちは知っています。そこには底知れぬ感動があります。

 今わたしたちの周りでは参議院選に向けて街宣車が走り回っています。あるマイクでは給付金、あるマイクでは減税を叫ぶ声が聞こえます。しかしその背後には、生活保護や医療費をめぐる外国人差別があたかも当たり前であるかのように叫ばれ、暮らしの不安を抱える人々は石を投げつけるかのような言葉をまき散らしています。

 わたしたちはこのような実に危うそうに見える社会にあって、そのような憎しみに駆られそうな人々がイエス・キリストに示された神の恵みに注がれるよう、身も心も神の愛に満ちあふれてまいりたいと願います。イエス・キリストは「人々の噂に惑わされないようにしなさい」と世の終わりに何が起こるか気が気でない弟子たちを冷静に諫めました。「あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか」と人の子イエスが語るのは、いのちの序列を論じているのではなくて、女性であれ男性であれ、様々な多様性をもつ人々であれ、民であれ、こどもであれおとなであれ、特性をもつ人であれすべての人は老若を問わず神の似姿として創造されており、だからこそ主の御前に生きとし生けるものへの連帯責任を無条件に授かるがゆえに尊いとの証しです。マモーンへの囚われは他者への比較と見下し、またはその逆転現象としての妬みや不平しかもたらしませんが、主なる神へと眼差しを向けたとき、人の作った社会の中に暮らしながらも、その社会の枠組みを大きく超えるいのちの広がりに気づかされるのです。わたしたちはイエス・キリストに根を下ろしています。豊かな花と実りを授かりましょう。

2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。

2025年6月27日金曜日

2025年 6月29日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 食塩と申しますと、(株)日本たばこ産業塩事業センターの規定では「食塩」とは塩化ナトリウムが99パーセント以上の商品を指します。ただしこれは精製の結果生じた物質を基準にして定めた数値。1997年以降、塩の販売が自由化に踏み切ってから様々な塩が販売されています。抗がん剤や透析で腎臓を患っている方には勿論厳禁ですが、他方では「塩分控え目」の調味料には添加物が含まれます。これも決して安全な食品とは言えません。天日製塩や釜焚製塩は海水を素朴な仕方で乾燥したり煮詰めたりしますので天候に左右され生産量も安定しません。だからこそ、塩=塩化ナトリウムではなく、様々な天然ミネラルも含んでの結晶こそがはじめて「塩」だと言えます。

 さて『新約聖書』の舞台では塩はどのような用途で用いられ、この塩を真っ先に手にしたのは誰でしょうか。初期の共和制ローマの中産階級や無産市民の場合、手当てとして塩があてがわれていました。貴重品でもあり、持ち運びが可能でしたのでそのように用いられていたと申します。『新約聖書』成立の時代には貨幣が流通しますが、それでも現金のない場合には塩も併せて用いられたと申します。ヨルダン川が流れ込むところには「死海」があり、そこには天然塩の塊がいたるところにありましたから、天然資源の採掘場として死海周辺はローマ帝国には貴重な場所だと言えます。逆に言えば、土地の人々は鉱山奴隷の犠牲のもと天然資源を収奪されていました。

 それでは地域の人々はどのようにして塩を手に入れたというのでしょうか。もちろんそのような事情ですから金銀の代わりにというよりは鶴嘴や鍬をもって地面から懸命に掘り出したことでしょう。木陰は涼しい土地ですが陽射しは強く身体の水分は汗としてすぐに失われてしまいます。猛暑の中身体を動かした方であればシャツに汗が含む塩分が白く残る様を御覧になったかと申します。ですから肉体労働に従事する人々にはとりわけ健康を維持するためには水だけでなく岩塩に含まれるミネラルが不可欠だったに違いありません。畑を耕しながら舐める塩の味は散漫な注意力を引き締めてくれますし、ぼんやりとした気持ちに活を入れてくれます。

 また防腐効果についても人々は経験則から学んでいたに違いありません。あらゆる保存食に必要とされたのは塩分、そしてその塩気です。山羊や羊などの家畜も健康を保つためか好んで塩を舐めようとします。どうして人の子イエスは、塩になぞらえて神のわざを伝えようとしたかと言えば、粗製な塩しか入手できない暮らしを前提とした人々がいればこそであったのではないでしょうか。神の愛のわざは人々の交わりのなかに反映されます。そのような反映がなければ、例えば『ヤコブの手紙』が指摘するように、教会の交わりの中にこの世の尺度が安易に持ち込まれ、教会ならではの味つけが失われてしまう事態を招きます。『マタイによる福音書』が成立した背景の教会の危機でもありました。わたしたちの教会では?と各々問いかけられている思いがいたします。

 さらに「ともしび」と申しますといかにも煌々と闇夜を照らすかのイメージがありますが、福音書の世界で用いられる「ともしび」の場合、今でいう蝋燭のような灯りは用いられません。皿に入れた植物油に布の切れ端を浸してつけるような辛うじて暗がりを照らすぼんやりとした灯りに過ぎませんでした。しかしだからこそ部屋の中の燭台において、その光が暗がりのなかで何とか最大の光量となるように人々は工夫したことでしょう。隙間風が吹けばすぐ消えてしまいそうになる灯り。しかしそのような灯りがあるお陰で、わたしたちは不安や恐れから解放されてまいります。さらに『マタイによる福音書』は6章22節で語ります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」。「ともしび」には、照明器具としての役割だけでなく、神の力に活かされているわたしたちの喜びが重ねられます。「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。わたしたち現代人はあまりにも人工的な濃い味、宇宙空間からも見える富める国の輪郭を照らすほどの強い光に縛られて、そのありがたみが分からなくなっているようです。

 イエス・キリストが語りかけたのは、その時代には決して裕福な暮らしを過ごしてはいない人々でした。そのような人々にこそイエス・キリストは「わたしを見つめていなさい」と語りかけたのだと強く思います。

 外見上どのように見えたとしても、あるいは自らの可能性を決めつけたとしても、主なる神はわたしたちの頑なさを砕いてくださいます。そしてわたしたちにある「よき塩」を掘り出し、また「ともしび」が消えないよう絶えず手をかざしてくださいます。イエス・キリストとわたしたちの絆とはそれほどまでに堅いのです。

2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。