2025年3月6日木曜日

2025年 3月9日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。

 本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。

 この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。

 分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。

2025年2月28日金曜日

2025年 3月2日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  木枯らしや春の嵐は、わたしたちの暮らす地域にも訪れます。都市部では「風が強かったなあ、季節が変わるなあ」と思わず呟くのですが、世界でトップクラスの積雪量の日本の山岳地帯では山は極めて危険なシーズンを迎えます。春山では雪崩が頻発し、夏の登山ルートはちょうどこの雪崩のコースになるからです。天候も不順であり、吹雪に見舞われればホワイトアウト、時雨の場合には低体温症を警戒します。何よりも滑落がもっとも恐ろしいところです。登山装備が絶えず改良される一方で、技術が追いつかず事故が多発するのも事実です。

  弟子達が夕刻から深夜、そして明け方に舟でわたるガリラヤ湖はその東西を高地に挟まれているため強烈な風が湖に吹きつけてまいります。そのような中、なぜ弟子は人の子イエスとともにではなく、無理矢理乗り込ませられなくてはならなかったのか合点がいかなかったことでしょう。漁師の身でありましたから、風の吹きつける夜の湖の危うさは代々語り草になっていたはずです。それにも拘わらず、人の子イエスは舟には乗らず、弟子はただただ荒波に揉まれてどこに流れ着くのか恐怖の坩堝にいたことでしょう。辺りには手掛かりとなる人里の灯りも見えず、たとえ見えたとしてもそこへたどり着くまで舟を漕ぎ続ける力もありません。舟が転覆しないように重心を低くするのがやっとです。そしてこれが舟を象徴とする初代教会を囲む危うい状況でした。

  『信徒の友』2025年2月号には少々ショッキングな特集が組まれていました。それは「専従牧師がいない」という事案であり、牧師のいない教会、または牧師を招聘するのが困難な教会が増加しており、代務や兼務の教会が増えているとのことです。わたしが若かりし時にお世話になった鳳教会も前年度は無牧であり、その中で新しい会堂の建築を決断し、そのわざを成し遂げていきました。その圧力を教会活動の追い風とするためには交わりの絆を強め、かつ間口を広めたものとなるよう努め、絶えず祈らずにはおれませんでした。しかしこのような事態は、人の子イエス不在のまま夜間に舟を漕がねばならなかった初代教会・原始キリスト教の時代にすでに象徴的に描かれているのです。

  狼狽する弟子が危機の中で忘れていたのは何か。それは一人山に登られたイエス・キリストの姿です。つまりどのような混沌とした舟の中にいても、人の子イエスと弟子の乗る舟はキリスト自らの祈りによってより強く結ばれています。登山者や漁師は様々なロープワークを知っています。イエス・キリストと荒波に揉まれる舟もまた危機に直面するほどに祈りというロープに結ばれてまいります。ただ、今はそれが弟子には隠されているだけなのです。

  前途の見えない、荒れ狂う湖水に象徴される「世」を進んでこられた人の子イエスを幽霊と見間違えたとて、イエス・キリストは「すぐ彼らに話しかけられた」とあります。「幽霊だ」と脅え、恐怖のあまり叫ぶ弟子。その姿は決して人前にはさらしたくない体裁です。しかしイエス・キリストはそのような実にみっともない弟子に向けて「安かれ」「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と説かれます。

  その声は教会組織に留まらず、その交わりに連なる一人ひとりに向けられています。半信半疑のペトロはそこにいる人影が人の子イエスかどうかを試そうとして「そちらに行かせてください」と語ります。強風は決してやむことはありません。ペトロは夜明けの朝日に照らされる湖面を見つめて怖くなったのではありません。湖面を波立たせる風に気をとられてイエス・キリストから目をそらしかけました。眼差しの大切さは、自動車の安全運転には欠かせないことだと免許をお持ちの方はご存じでしょう。何かにつけて散漫になり、目の焦点が定まらずに泳いでしまう。これもまたわたしたちの現実です。しかしその恐怖にあってはじめてペトロは目覚め、イエス・キリストは、沈みゆくその手を力強く握りしめられました。

  教会の姿がどのように変容していくのか。それはすでにコロナ禍の時期に激しく問われた課題でした。その結果、リモート礼拝というかたちが生まれました。さらに専従牧師不足という状況で、却って諸教会がお互いに支えあう仕組みが生まれるのではないかと、新たな可能性を前向きに語る人もいます。イエス・キリストの山での祈りは、弟子たちの瑞々しい礼拝をもたらしました。わたしたちの目指す岸辺、ゲネサレトには肥沃な平原が拡がり、羊が群れをなしています。教会の祈りが問われる時、そこにはすでにキリストの恵みが臨んでいます。

2025年2月20日木曜日

2025年 2月23日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。

  突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。

  しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。

  人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。

  神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。

  わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。

2025年2月15日土曜日

2025年 2月16日(日) 礼拝 説教

     ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「混沌とした時代にこそ輝く光」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新共同訳 新約7頁)

讃美= 
21-518(361).124.
   21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 わたしたちは『新約聖書』にはよく目を通し、そのことばを味わうのですが、『旧約聖書』となりますといささか日々の暮らしからは縁遠いような気がいたします。しかし『マタイによる福音書』で人の子イエスが度々引用する以上は、わたしたちは決して『旧約聖書』を疎かにするわけにはまいりません。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と本日の箇所では記されます。このような文章の中での『律法』は613の条文に分けられる一つひとつの掟というよりも、『創世記』から『申命記』にいたるまでの、かつては「モーセ五書」と呼ばれた書物、そして『預言者』とはヘブライ人の国王や民が神の備えた道から外れていくとき、王や人々を諫め、戦い、そして虐げられた人々を癒し力づけたところの、神のことばを預かった人々の物語の集合体を示しています。かたや『トーラー』と呼ばれ、かたや『ネビイーム』と呼ばれるこの書物は、人の子イエスの時代の古代ユダヤ教のファリサイ派や律法学者には正典とされ、その教えの拠り所とされていました。洗礼者ヨハネが関わっていた、荒れ野で水をもって身を清めながら『聖書』の学びに励むエッセネ派にも大切な教えが書き記されていました。

 それではこの『律法』と呼ばれる『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の誡めを含んだ物語、そして『預言者』と呼ばれる書物の内容とはどのようなものだったのでしょうか。

 その内容は、まずは天地の創造主なる神がこの宇宙といのちを六日間にわたって創造され、その後の一日に休まれたという記事が記されます。その後に女性も男性も神にかたどって創造されたはずの人間(アダーム)が神との約束を破り、楽園を追放されていきます。そしてその息子たちにいたっては神への献げものをめぐって兄が弟を殺害し、そしてその後に「慰め」という意味をもつノアの作った箱舟の物語、さらにはバベルの町の物語が続き、アブラハムの物語へと受け継がれてまいります。その後に描かれるのは、予測不可能な人生であるにも拘わらず、主なる神は自らの約束を破った後にも人間に「死んではならない」と絶えず語りかけ、弱い立場にある者の悩み、また奴隷の叫びに耳を傾け、その苦しみから解放しようとする神の姿が描かれます。この物語を読んでまいりますと「あなたは神を信じますか」という問いに違和感を覚えるようになります。それはこどもたちに対して目の前にいるお家の人やご家族、あるいは保育者に対して「あなたはお母さんを信じますか」と言っているようなもので、その問いかけそのものが信頼関係に水を差しかねない、愚問だとしか言い様がないのです。信頼関係を損ねるような問いを、寡婦や難民や孤児、社会から廃除された人々を救う神に向けるのはお門違いというものです。

 そしてこの箇所で人の子イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と語ったときに明らかにしたのは、人の子イエスもまた『律法』と『預言者』という、わたしたちが手にしている『旧約聖書』を丹念に読んだ上で、名前すらもつけられない人々やこどもたち、今でいう障碍をもった人々や感染症に罹患した人々に神の愛を具体的に証ししていったということです。これはまことに重要な人の子イエスの決意と態度を示しています。それは混沌とした世にあって、力を振るいそれこそが正義であると思い込んでいる人々、あるいはまずは競争に勝った者が正義を語りうると錯覚している人々に対して「否」を突きつける態度です。これは預言者としての態度です。そして使徒の集りとしての教会の壁を越えて、神の愛のわざをこの世へと押し広げ、尊ぶべき世俗として人々を愛し続けるという政治的な側面を否定しない統治者としての態度、そして今なお苦しみの中にある人々の痛みを癒し、いのちに希望の光を灯し祈り続けるという祭司としての態度です。『旧約聖書』を軽んじるという態度が万が一わたしたちにあるならば、それは『新約聖書』を単なる道徳の教科書に格下げしてしまうことになってしまいます。世の中は決して単純ではありません。渡る世間は鬼ばかりという現実もあります。しかしそのような現実は、そのものとしては決して絶対的なものではないのです。イエス・キリストはすでに世に勝っています。混沌とした世界に向けて神は「光りあれ」と仰せになりました。

 悲しみに心が塞ぎ込み、身動きがとれなくなったとき『旧約聖書』を開いてみてください。『詩編』には神を呪う言葉さえ記され、預言者には死を願う者さえ登場します。しかしその呪いや死を望む呟きはイエス・キリストを通して神に届いています。呪いは呪う者のいのちへの祝福へと、死を願う者には生きよとの声が響きます。

2025年2月7日金曜日

2025年 2月9日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「いのちに響く言葉を尊ぶイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章10~16節
(新共同訳 新約24頁)

讃美= 
21-403(Ⅰ.453). 
533. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 本日は弟子たちによる「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」との問いかけへの人の子イエスの答えが軸となるメッセージとなります。弟子と人の子イエスとの語らいのテーマとなるのは「たとえ」すなわちイエス・キリストの語る「ことば」の秘密です。

 本日引用された『イザヤ書』に先んじて、『旧約聖書』で「ことば」が主題となる物語があります。それは『創世記』11章にある「バベルの町」の物語です。「バベルの塔」と見出しがつけられますが、要は「塔のある町」ですので「バベルの町」といたします。

 『創世記』物語の大筋は次のようになります。世界中が同じ言葉を用いて同じように話していた時代、東の方からやってきた民が、シンアルの地に平野を見つけてそこに住みつきます。民は「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合います。それまでのれんがは、粘土に麦わらをすき込んで泥のような具合のときに踏みつけ、型に入れて日の光に干すもので、今日で言えば極めて環境に優しい素材なのですが、壁土と同じように水に弱く、また高層建築で用いるにも重さに堪えられません。しかし焼きれんがとなれば話は別で、技術者の思い通りに形を整え、また強度も飛躍的に上昇することから、数十メートル規模の大規模な高層建築も可能となります。古代エジプト文明の場合は切り出した石が用いられましたが、それに劣らず強度があり、しかも思い通りのかたちに焼き上げられます。さらに「しっくいの代わりにアスファルト」を用いたところから、乾燥した石灰よりも防水性が高まるという特質も加わり、おそらく古代メソポタミア地方を舞台にして人類史上例を見ないほどの画期的な科学技術の大躍進だったと言えるでしょう。

 しかしこの都市は大きな問題が秘められていました。それはこの都市の建築の動機です。それはこの町のシンボルである塔に込められています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。全地に散らされないように」との一節です。「天」とはまさしく主なる神のいるところ。そこに届く塔を建てる動機も「有名になろう」というのですから、この町に隠された人間の高ぶりというものが塔には象徴されています。しかし本来ならば天にいるところの主なる神はわざわざこの町に出向き「この人々は一つの民で一つのことばを話しているからこのようなわざに手をつけた。このままでは民が何を企てても妨げられない。人々のことばを混乱させ、互いのことばを聞き分けられなくなるようにしてしまおう」と民を全地に散らされ、都市の建設は中断され、ことばが「混乱(バラル)」したことから町の名はバベルとなったとの物語です。わたしたちはこの箇所で多くの言語が生まれたとの誤解を抱いていますが、意思疎通が不可能になるのは、自分が正しいと思い込んだとき、相手の話に耳を貸さなくなったときで、この一週間のあゆみでもどこかでやらかしてしまった覚えがあるのではないでしょうか。同じことばであっても、奢りや高ぶりがあったときには、いのちの響きどころか記憶にも残りません。

 それでは人の子イエスはどのようなことばを用いたというのでしょうか。それは「たとえ」という表現です。人の子イエスと寝食をともにしている弟子であればともかく、集まる人々の多くは文字の読み書きはできません。しかし各々のかけがえのない暮らしに根ざしたことばは用いているはずです。その暮らしを、愛情をもって受け容れながら、そのときに出会う人々の用いることばを紡いだときに、イエス・キリストの教えは人々のいのちに響いたことでしょう。今日でいう「刺さることば」として忘れられない教えとして記憶されていきました。

  ファリサイ派の律法学者の言葉は一定の知識の基礎を前提としますが、イエス・キリストの教えはそのような前提がなくても、暮らしの中にこだましたことでしょう。そして「バベルの町」の物語を超越して、新しい交わりを育んでいったに違いありません。一つの民でもなく、一つの言語でもなく、一つの文化でもなく、あらゆる人々、世界に交わりを育んでいったのです。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」から、確かに「見えず、聞かず、分からずとも」イエス・キリストが示した神の愛は、そのような限界を通して人々を包んでまいります。分からなければ尋ねればよいのです。イエス・キリストはその問いかけを歓迎します。

 互いに耳を傾けあう交わり。それがイエス・キリストを頭とした教会の交わりの原点です。『聖書』のことばはそのとき分からなくても、後になるほどと膝をつき、目から鱗が落ちるときがやってきます。その瞬間を楽しみにしていましょう。それがイエス・キリストの教えに触れる醍醐味というものです。


2025年1月31日金曜日

2025年 2月2日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「決して譲れないいのちの大原則」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』21 章12~17 節
(新共同訳 新約40頁)

讃美= 
21-494(Ⅰ.228). 
121. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を向けるなら、左の頬をも向けなさい」。人の子イエスが説いた非暴力の教えとされる言葉。先月の1月15日はマーティン・ルーサー・キングJr.の誕生日でした。マハトマ・ガンディーの影響のもと、人の子イエスの教えを「非暴力・不服従」として公民権運動を展開、39歳で暗殺されるまでの働きは、56年を経た今もなお多くの人びとの心に刻まれています。中でも”I have a Dream”のメッセージは、現在の中学生の英語の教科書に掲載され、暗唱させる場合も数あると聞きました。

 しかし本日の箇所、エルサレムの神殿の境内での人の子イエスの振る舞いは、一見するとこのような「非暴力・不服従」の教えから遠いところにあるように思えます。つまり人の子イエスが自ら語った教えと矛盾した狼藉に及んでいるように思えます。しかし、確かにそのように見えても、そこには人の子イエスの熟慮されたメッセージが隠されています。まず、「追い出す」と訳される言葉は英語ではdrive out ですが、Bad money drives out good, drive out evil thought,「悪貨は良貨を駆逐する」、「邪念を追い払う」というように用いられるのが主な用法で、そこで人が暴力によって追い出されるかどうかという疑問については文脈で判断する他ありません。ですからキング牧師が白人専用のレストランに入店し、学生たちとともに座席に座るという行為もまた人種差別という邪念へのdrive out としての表現も可能です。要はそのように人の子イエスが神殿の境内で売り買いをする人の居場所を失くした、との状況として理解できます。なぜそのような人々の居場所を失くしたかと問えば、そこは本来祈りを求める人々の居場所だったからです。「強盗」という言葉は、その意味での強い非難が込められています。

 すでに人の子イエスの世には、貨幣を中心に回る経済がローマ帝国での暮らしには充分なほど浸透していました。「両替人」とは、ローマ帝国の皇帝の顔が刻み込んである当時の通貨がエルサレムの神殿での境内では使用できないため、とりわけ貧しい人のための献金用に両替されていたことを示します。しかしその両替には手数料が商人の言い値で決められます。郵便局やATMの手数料以上に、貧しいながらもエルサレムの神殿で祈りを献げたいという人々は、経済的に閉め出されてしまうという周到な仕組みが完成されていました。「鳩」もまた「山鳩ひとつがい」として貧しい者の献げものにされていましたが、それすらも充分なお金なしには祭司を伴うところの礼拝にすら加われないありさまです。何度も触れておりますが、人の子イエスの時代のエルサレムの神殿は、あのヘロデ大王がローマ帝国の認可を得て建てたものであり、その意味では極めて政治色が強く、結果としてまことに祈りや癒しを必要としている人々が、祈りの場に日常的には立入ることの実に困難な具合をしておりました。だからこそ人の子イエスは『旧約聖書』を引用して語ります。その結果、目の見えない人や足の不自由な、その時代では遠ざけられていた貧困と孤独の中に放置されていた人々が、上辺では暴力的に見えるイエスのもとへ近寄ってまいります。イエスは本日の箇所での振る舞いにより、そのような人々のための「祈りの家」を再建されたのです。その神への誠実さを見抜いたのは怒りに震える律法学者や祭司長たちには許しがたい「ダビデの子にホサナ」つまり「万歳、やった、ダビデの子!」と叫んだこどもたちでした。このわざにより、人の子イエスはまさにキリストとしてエルサレムの神殿の中心でも歓迎されたのです。

  しかしわたしたちはこのような「祈りの家」を日常から遠ざけているかもしれないと反省します。それはこの礼拝堂がウィークデイにはこども園の施設になる、不思議な教会だという呟きとは全く異なります。パウロは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章19節で、わたしたちの身体をして「知らないのですか。あなたがたの身体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と記す通りです。礼拝堂のもつ他の設備との決定的な違いは、主の愛がそそがれるこの礼拝において、どのような人、どのようないのちをも問わず、その人自らが神の愛の力、すなわち聖霊の宿る神の神殿であり、その神殿を整えてくださるのがイエス・キリストだ、という事実なのです。ヘロデ大王とその息子らを含んだローマ帝国の支配のもとでは、もっとも開かれ、大切にされるべきこの祈りが疎んじられました。だからこそイエス・キリストは両替商や鳩を売る者をも含めて、暮らしの中心はまさしく祈りの家たる神殿であり、各々の身体もまたそのようになるために手入れをされます。究極の癒しは、そのような祈りに満ちた日々のわざと心得る月の始まりです。

2025年1月25日土曜日

2025年 1月26日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 洗礼者ヨハネが捕らわれたとの知らせ。その理由は、直接にはヘロデ大王の息子アンティパスが、自ら恋仲になったヘロディアと結婚したという「兄弟の妻と結婚の禁止」を破った態度を激しく批判したとされていますが、いよいよ権力による口封じがガリラヤにも及び、人々が口を閉ざすようになった沈黙の時の訪れを暗示してもいます。もはや町の料理屋でも市場でも誰かが目を光らせ、うかつには物事を語れなくなったその時代。イエスは一度ガリラヤを離れ、異邦人の土地カファルナウムに働きの根を下ろします。しかし宣教活動としては逆境でもあるこの圧制下を福音書の書き手集団は「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ」と書き記すのです。先日は大統領に就任したトランプ氏を前に異邦の民の権利の擁護を語りかけた聖公会のバッディ主教が注目されましたが、自由にものを語れなくなったはずのこの土地で、なぜ「光が射し込んだ」と書き記し得たのでしょうか。注目するべきは「ゼブルンの地とナフタリの地」と表現される土地が具体的にはどのような意味を『旧約聖書』では持っていたのかという点です。

 問題は「ゼブルンの地」も「ナフタリの地」も『新約聖書』の時代には概してそのようには呼ばれてはいなかったところにあります。かつてはイスラエルの12人の兄弟にそのルーツを訪ねられた、ゼブルンとナフタリという二つの部族は、すでに人の子イエスの時代にいたるまでに、アッシリア大帝国によって滅ぼされてしまいました。そればかりかアッシリアとの争いに敗北したことによって、民を陵辱されるという仕方で消滅させられ、本日の物語の舞台ではガリラヤとサマリアの文化の折り重なる場所となっていました。つまりエルサレムに暮らす人々からすると、神殿での礼拝から離れ、アッシリア人の血筋が混ざり込んだがゆえに穢れた民であるとのレッテルを貼られた人々が多く行き交いまた暮らす土地とされていたとの状況に落ち着きます。言い換えれば福音書の書き手集団は洗礼者ヨハネの逮捕という悲劇的な出来事を悲劇には留まらせるのではなく、その先にはこのヨハネの後を継ぐようにして人の子イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」との、世に暮らす人々への神の国の訪れを説き始めたという時の訪れにフォーカスを当てるのです。神の国の訪れ、神の愛による統治の訪れを説く役割が洗礼者ヨハネから人の子イエスへと移ったと高らかに宣言いたします。

 洗礼者ヨハネの逮捕はおそらくその人に救いを求めてきた人々には衝撃的であったに違いありません。特に暮らしの中で多くの苦しみを抱えてその拠り所を明らかにしたいと願う人々には水による「清めの洗礼」は意味あるわざでした。またその口から出る現状への堂々たる批判も人々の頷くところではありました。しかし洗礼者ヨハネも自覚していたように、決定的にそこに不足していたのは神の国の訪れが善悪を明確にするという意味での審判を越えて、多くの破れをもつ人々の痛みを癒すばかりか、対立関係として分裂しがちなわたしたちのあり方を和解に導き平和をもたらすところにあります。だからこそ洗礼者ヨハネが人の子イエスに洗礼を授けた際に、神の愛である聖霊が鳩のように降ってきたと記されていると考えられます。もはや混沌とした時は終わりを告げ、人々にはいよいよ不安と恐怖から解放される時がまいりました。洗礼者ヨハネの逮捕の悲しみと心細さはもはや乗り越えられつつあるのです。洗礼者ヨハネの語る「世の終わり」では異邦人はどのような扱いとなっていたのでしょうか。またユダヤの民に代々遠ざけられていたサマリアの人々はどのように扱われていたのでしょうか。そのあたりについては興味が尽きませんが、少なくとも『旧約聖書』の預言者、そして洗礼者ヨハネを通して示されてきた神の愛が、イエス・キリストの宣教と証しにあって大河のように流れ込み、獄中の洗礼者ヨハネをもいずれ安らぎに導き、サマリアの人々にまで及び、そしてその流れはいつしかローマ帝国全体をも覆い尽くし、今日においてはわたしたち極東に暮らす者までも包み込んでいるように思えてなりません。イエス・キリストに示された神の希望と癒しはそこまでに深く現代のわたしたちにまで及んでいるのです。
 だからこそ分断を叫ぶ声がそこまで来ているように思えても、何も恐れる必要はありません。人々を困窮へと追いやる声は必ず絶えます。それよりも、わたしたちはこの混乱の時代にあってなおも働く神の愛の力に目を注ぎましょう。難しくはありません。イエス・キリストがおられるならば、何をどのように語り、誰を癒すのかと祈りの中で思い描けばよいだけなのです。誰にでもない、キリストの姿を胸に焼きつけましょう。

2025年1月17日金曜日

2025年 1月19日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節 第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)

讃美= 
21-495,(310). 
21‐306(1.2.4.5.), 
21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 冷たい風が吹く中での礼拝となりますが、オホーツク海やベーリング海でカニ漁に従事する漁師たちはいったいどのような環境に置かれているのかと考えますと背筋が凍りつきます。カニを捕まえる罠であるコンテナを定置網のように荒海に投げ込んでいき、他の漁場からの帰りに回収していきます。三角波が漁船を翻弄し、海に落ちれば誰にも助けられません。甲板に押し寄せた海水はたちまち凍結します。その氷を割りながらの作業はわずか三時間の睡眠と僅かな食事ばかりの中で行われます。賞金稼ぎと同じスリルなのかもしれませんが、反対に言えばこの仕事は常に死と隣り合わせだとしか言いようがありません。事故がなくても身体は確実に蝕まれます。

 福音書の世界に漁船を見ることのできたガリラヤ湖、本日の箇所ではゲネサレト地方から眺めたためゲネサレト湖として呼ばれます。ただその漁獲は漁師の暮らしには充分ではなかったでしょう。作業の時は夜。湖に漕ぎ出し、煌々とかがり火を焚いて魚を呼び寄せて網を投じます。しかし今とは異なり湖の上で目印となる明かりは地上には僅か、月や星も雲に隠れてしまえば行く手は闇につつまれ、いのちの危機に晒されます。そのような時を経て疲れ果てた漁師。一晩眠ることもなく徒労の中で網を繕うより他はありません。

 そのような漁師に響く声があります。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。眠気と気怠さの中であれこれと願い事をしてきたその声は、それまでとは異なる響きとともに迫ります。「漁をするのか、しないのか」との決断。漁師はからかい半分に答えるしかありません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しました。しかし、何も獲れませんでした」。しかし続いたのは「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」。魚が獲れなければこの男も諦めるだろうし離れていくだろうとの気持ちもなかったわけではありません。しかしその通りにしたところ確かに昼日中にはち切れんばかりの魚が獲れました。

 実はこの魚には初代教会の信仰告白の頭文字がギリシア語で略され、隠されています。船を『旧約聖書』のノアの箱舟に重ねて救いの場としての教会に重ねる人々もいます。網に示される教会同士の絆が破れそうになったからこそ互いの繋がりが強められ、助け合う間柄となる様子がダイナミックに描かれているという人もいます。しかし、そのような解き明かしだけでは、なぜシモン・ペトロが漁の後にイエスの足下にひれ伏したのかが分からないのです。魚が獲れたのであれば喜べばよいし、教会の教勢が増せば素直に感謝すればよいのです。しかし、シモン・ペトロも他の漁師もそのようには振舞いませんでした。いや、振舞えませんでした。

 『ルカによる福音書』は紀元後80~85年に成立した福音書だと言われています。つまり人の子イエスが十字架につけられ、死して葬られた後に復活したとの出来事、そしてその後の教会の働きを物語として継承するために記された物語です。最後の晩餐を囲んだ時にペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語りますが「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と語る人の子イエスの言葉が理解できません。嗚咽しながら納得できるのは、イエスが自ら身柄を拘束されて夜半に大祭司の家に拉致されていくその折に鶏が時を告げたその時に、自らが人の子イエスを恐怖に駆られて見捨てたまさにその時でした。だからこそすべてに挫折し希望を失い、もとの生業に戻ったそのときに、復活のイエス・キリストに出会ったのであれば、誰もが同じように地にひれ伏すのではないでしょうか。その現実を充分に知りながら、イエス・キリストは語りかけます。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。世のただ中へ漕ぎ出して、あらん限りの交わりを世に投じてみなさい。その交わりはあなたのものではなく、わたしのものなのだから、やり直せるのだと。

 わたしたちは日曜日に礼拝を献げるためにこの場へと招かれます。いったいなんのために毎週日曜日教会に行くのかとご家族に問われた方もおられることでしょう。町内会のわざを覚えながらもこの場に集う方もいれば、こども園の働きの備えの中でこの場におられる方もいるでしょう。しかしこの主なる神から授かった尊いルーティンの中で、わたしたちは過酷な暮らしの中で全てを捨てて人の子イエスに従った弟子の歩みを追体験いたします。この追体験の中でわたしたちは単なる成果への喜び、あるいは出来・不出来の一喜一憂の軛から解き放たれ、イエス・キリストに祝福され、愛されていることに気づかされます。憎しみの渦巻きや不安の渦巻きにではなく、どうにもできない世の渦巻きから神の力の渦により引揚げられてまいります。だからこそ教会では礼拝が何よりも大切にされました。破れに満ちた、しかしその破れ以上に祝福されたその網に身を委ね希望を授かりましょう。

2025年1月10日金曜日

2025年 1月12日(日) 礼拝 説教

―降誕節 第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 


説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)

讃美= 21-268(97). 21‐474,
   21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 先ほど讃美した讃美歌21‐268番。1954年訳のⅠ編97番にあたりますが、今年度はクリスマスの期間には選びませんでした。それはかつて喜ばれたこの讃美歌の歌詞が多くの議論を招いた場面に由来します。例えば1節の「この世の悟りも空しきもの」は旧版では「愚かなる人は来たり学べ」、3節の「憂いある人は来たり告げよ」は「高きも低きもきたりいわえ」となっています。わたし個人としては文語体の表現も捨てがたいのです。なぜなら讃美歌は何らかの人生の記憶と直接結びついているからです。その記憶は決して否定されてはなりません。また牧師自らを省みるに決して賢い者だともこの格差社会の上部構造に属してもいません。けれども旧讃美歌の歌詞を無条件に前提としてしまった結果、クリスマスの讃美に「ひっかかり」を覚えてしまう人が跡を絶えなかった事実を受けて歌詞が改変されるに及んだとされます。現場の奏楽者の葛藤は見逃せません。その経緯を経て現在のところ、先ほど讃えた讃美歌が教会やキリスト教主義学校では一般化しています。
 ただしこのお話は讃美歌Ⅰ編を貶めるためではありません。『聖書』でも概ね30年に一度、翻訳の改訂版が出版されます。その上で手を入れる箇所には作業がなされます。それは30年の月日の中で、わたしたちの暮らし、また用いる言葉が変化するからです。『岩波文庫』の言葉もまた場合によって脚注がつけられます。また教科書の日本語も音楽の教科書に収録される合唱曲も変わります。言葉も音楽同様、川の流れのように絶えず動いていきます。そしてその流れ、則ち文脈を踏まえなくてはその理解は思わぬ誤解をもたらします。若者は年配者の言葉、年配者は若者の言葉を理解できないもどかしさから「最近の若者は」との愚痴が生まれます。古代文明に遺された落書きからも、中高年の溜息混じりの言葉と同じものが発見されます。イエス・キリストに立った上で、この変化を見渡さずには時代に媚びず、されど時代に響くキリスト教教育や伝道は難しいところです。
 本日の箇所では、そのような流れに表される世にあって、ヨルダン川で人々に悔い改めを叫び、「清めのための洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネのもとに人の子イエスがやって来たところから始まります。洗礼者ヨハネは救い主との出会いの中では、預言者以上の預言者だと言われます。『旧約聖書』で神の言葉を委託され、腐敗した政治の中で書物としての『聖書』を忘れた民衆へ生き方を変えるように呼びかけ、癒し励ますのが預言者です。中でも移ろう世にあって直々に人の子イエスと出会うのが洗礼者ヨハネです。しかし本日の箇所でヨハネは人の子イエスを抱擁いたしません。さりとて人の子イエスに「来るべき方はあなたですか」と問いかけもしません。ヨハネは、人の子イエスに「清めのための洗礼」を授かることを思いとどまらせようとします。すでに救い主は人の子の姿をとって世に現れました。洗礼者ヨハネにはこれで充分なのです。「わたしこそ、あなたから〈清めの〉洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、人の子イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。人の子イエスは、ヨハネが行うこの世、移り変わりつつ、清らかさと濁りの双方で混沌とした世にあって、まさしく清めを必要とする人と友になるためにヨハネから水による洗礼を授かりました。これはわたしたちの世界で行われる禊ぎとは全く逆で、汚れを身にまとい、無理解を身にまとい、思うままにならない流れに浸かり、敢えて人々の勝手な期待にその身を縛られるためでもあります。そのような場にわが身を置くことで、イエス・キリストの救い主としての働きは人々を解き放ち、神のあふれる祝福のもと、わたしたちとともにあるとの宣言にいたります。
 わたしたちは福音を「これしかない」と固定したり、縛ったりしたあり方に押し留めてはいないでしょうか。そのような理解は概ね30年で想い出へと過ぎ去っていきます。わたしたちが根を下ろすべきは、老若を問わず、時の流れにある『聖書』の言葉に示されたイエス・キリストです。イエス・キリストは歴史上紛れもなくユダヤ人です。しかしその姿はわたしたちには、ヨーロッパの伝統的な聖画に記されたイエス・キリストの姿になったり、人口が流動的な中東に住んでいたりという理由からアフロアフリカンのイエス・キリストの姿として、またはこの教会で描かれる東洋的な姿として多様に描かれる場合もあります。しかしイエス・キリストの性格や、その顔つきについて書き残した文章は福音書も含めて今日には遺されていません。大切なのはまさしく人の子イエスがキリストとして大地にたち、大いなる救いのわざを始めた事実。その歩みはどのような誹りにあっても紛れもなく神に祝福されたとのメッセージです。いかなる世代にも神の祝福は及んでいる事実を受け容れましょう。