2025年5月2日金曜日

2025年 5月4日(日) 礼拝 説教

―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『旧約聖書』の記事には、少なからず都市、時には世界が滅亡するという物語が描かれます。現代人からすれば現象からすれば自然災害であったり戦争の結果に破壊されたりという理解へとつながるのかもしれませんが『旧約聖書』の書き手はそのように出来事を年表形式で淡淡と書き記すのではなくて、主なる神からの何らかのメッセージが込められているとして描かれます。もとよりその滅亡の出来事が他人事であれば感情移入のない記録文も可能でしょうが『旧約聖書』ではすべてが当事者の目線で描かれているという点では読み手や聴き手を引き込む力をもっています。「天地創造」を含む物語では「ノアの箱舟」、「族長物語」では「ソドムの滅亡」、預言者の物語では「イスラエル王国」「ユダ王国」の滅亡、さらには「エルサレム」の滅亡までが極めて精緻に描かれます。いずれにしても「滅び」とは神の備えた道からその判断や生き方が次第に逸れていく人々の行着くところとしても描かれているとの一面があります。

 しかしそのような物語が続く『旧約聖書』で極めて異彩を放つのが『ヨナ書』です。『ヨナ書』に細かく立入って語りかける人の子イエスがこの書物に言及するのは、イエスもまた『旧約聖書』に通じていたところを証明する記事でもあります。『ヨナ書』とはアッシリア帝国の都ニネベを救えとの主なる神の言葉を聴きながらもその命令に抗い逃げようとする預言者ヨナの味わう旅とその体験を描いています。わずか四頁ほどの物語ですがその中には『新約聖書』に流れ込む神の愛が記されています。神が救えと命じた都ニネベは、かつてアッシリアがヘブライ人の王国を滅ぼした際、実に残虐に振舞った人々の住まう街として知られていました。成年男子は全身の生皮を剥がされ城壁に貼られ、女性は辱めを受けます。その結果生じたのがサマリアの人々だとされました。ですから預言者ヨナからすれば万死に値する街、滅びに値する街として憎悪の的でしかなかったはずです。しかしヨナが嵐の海で舟の外に放り投げられ、大魚に呑まれて三日目に到着したその都を回りながら悔い改めると、ニネベの街の人々は悔い改め、王もまた救いを求めて生き直そうとします。その姿を見て神はニネベの街を滅びから救うのですが、預言者ヨナには合点がいかず、神と激しく議論するという内容です。

 おそらくはバビロン捕囚以降、ことごとく強大な異邦の民の支配のもとにあって、いつの間にか歪んだ選民意識に捕らわれ始めた古代ユダヤ教の一部の人々と、『旧約聖書』に記されるように、神は自らに似せて創造された「人」をあまねく救われるとの葛藤が人の子イエスの舞台にいたっても続いていたことでしょう。その中での問答として「先生、しるしを見せてください」との言葉が律法学者やファリサイ派の人々から出たに違いありません。しかし人の子イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるし以外にはしるしのほかにはしるしは与えられない」と語ります。そして自らの弔いの時と魚に呑まれたヨナの時を重ねて、神の国の訪れの時にはニネベの人々もまた「よこしまで神に背いた時代の者たち」を罪に定めると述べるのです。「悔い改め」という言葉は誤解を招く場合もありますのでわたしは本日「生き直す」と言い換えてみます。この「生き直し」というチャンスがある限り、わたしたちはいのちの儚さや虚しさに溜息をつく必要は全くないのです。「誤った道をたどったわたしたちが悪い」のではなくて「誤った道をたどったからこそ、今のわたしたちには生き直すチャンスが豊かに備えられている」との喜びが生まれてきます。その「生き直し」の喜びを示してくださるのがイエス・キリストであり、ソロモンの知恵を尋ねに遠く旅してきたシェバ(エチオピア地方)の女王はユダヤ教徒ではない「諸国の民・異邦の民」でありましたが、だからこそそこにもまた神の祝福が豊かに臨んでいるとのメッセージをイエス・キリストは喜びにあふれて語ります。人の子イエスの語る神の愛はあらゆる境を越えてどんなに愚かだといわれようとも、そのようなわたしたちに恵みに満ちた生き直しのチャンスを与えてくださります。
人々を安全・安心な暮らしに導くはずの法律やコンプライアンスが厳密になるほどに、わたしたちの日常はどこか窮屈になるような印象も覚えます。また過去に罪をおかした人が安定した職業に就き社会復帰を果たすわざも決して簡単ではありません。身体も弱り前途に否定的になり、パニックや悪循環に捕らわれもするわたしたちです。けれどもそのようなときに「誰かを愛するために生き直す」「神に愛されているから生き直す」というチャンスを授かる実に豊かな時が備えられているとの『聖書』の言葉に確信をもって新しい週を迎えましょう。

2025年4月25日金曜日

2025年 4月27日(日) 礼拝 説教

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325(148),21-326(154),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスの埋葬された墓に封印をして厳重な警戒にあたったものの、イエス・キリストの復活の出来事にすべてを台無しにされ「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」番兵たちの姿がありました。喜びではなく絶えず恐怖によって支配されたその判断力は主体性を失い、新たな命令を求めてエルサレムに戻ります。イエス・キリストに出会った女性たちが弟子のもとに到着するより先にエルサレムに戻ったとされるのも、番兵の狼狽ぶりを表わしています。祭司長も長老もその圧倒的な出来事を前にして即答できず、多額の金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、寝ている間に死体を盗んで行った』と言え。総督の耳に入ってもうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と兵士を買収した上で虚偽報告の命令を重ねます。予想もしない出来事を前に言葉を失った名もない、いつでも斬り捨てられる番兵を人間扱いしていない、神の愛とは対極の姿が描かれているようにも映ります。

 実際にこのような虚偽報告や虚偽申告を強要される犯罪は、巧妙な詐欺が身近なところにある以上わたしたちとも無関係だとは断定できません。つい相手を信用したことで人生を棒に振ってしまった人々をわたしたちは直接ないし間接的に知っています。そしてそこには物事を多角的に検証する余裕のないところまでに追い詰められてしまった悲しみを観るのです。イスカリオテのユダでさえ無実の人の子イエスが十字架で処刑される不条理さに耐えきれず銀貨三十枚を手放しました。しかし他方で番兵は金を受け取り虚偽の噂を流すこととなりました。この人々は物事の判断の根を神以外に求めた態度ゆえに自由に語り、動き、仕える充実さと喜びを失いました。とは言えローマの兵士やエルサレムの警護にあたった番兵とはこのような者ばかりだったのでしょうか。

 ひと口に兵士と言ってもそこには個々人の織りなす多様な姿を福音書は描き出します。その描写は決して一様ではありません。人の子イエスが十字架で叫びをあげ息を引き取ったその折、処刑の現場監督でもあった百人隊長、そして見張りを担当した者はその姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と呟きます。『マルコによる福音書』では百人隊長ひとりとなりますが、この言葉には地上の生涯にあったイエスに「あなたはメシアです」と答えたペトロとは根本的に異なる態度が示されます。古代ユダヤ教でのメシアは手に架けられて十字架刑で処刑・殺害されるなどあってはなりません。処刑の場に弟子の姿が描かれないのもそのような理由あってかと考えます。しかしかの百人隊長は十字架で息をひきとった救い主の姿を前にして「本当にこの人は神の子だった」と呟くのです。多くの罪人の処刑に立ち会ってきたこの下級将校である百人隊長の言葉の重みは別格です。

 また本日の福音書の8章では別の百人隊長が自らの僕の癒しを人の子イエスに懇願します。その真摯な態度に感心したイエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と語ります。イエス・キリストの愛はすでに支配者と圧政を受けている者の末端で苦しむ者双方に及んでいるのです。『使徒言行録』では言わずもがな、キリスト者となるローマ帝国の兵士や将校は後を絶ちません。

 もしもこの番兵たちがその後ピラトから復活したイエス・キリストを追跡するか、さもなければ失われたイエスの亡骸を捜せとの命令を受けたとするならば物語はどのような展開を見せるでしょうか。厳重に封をした墓が弟子に暴かれたのであればそれは番兵の失態でしょうし、極刑に処せられた者の遺体であれば監視者自身が処分されてもおかしくありません。もし番兵が復活したイエスの姿を追い求めていくとするならば、それはいつの間にか祭司長や長老たちの買収への囚われから離れて、イエス・キリストに従うわざへとそのあゆみは変えられ、清められていくものと確信します。もはや番兵たちの判断の尺度は買収の時に受け取った僅かな金子にではなく、出会った人々の語る復活したイエス・キリストの物語に根ざしてまいります。

 最近では若い世代で将来に「お金持ちになりたい」との夢を抱く人々が少なくないといわれるようになりました。金融関係や証券取引、仮想通貨も流行しています。しかしタブレットほどの大きさの金塊を見たとしても、わたしたちの心はそれほど動くでしょうか。それを私物化したいと思うでしょうか。『使徒言行録』でペトロは語ります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。きらびやかな財宝よりも強靭な力をわたしたちはイエス・キリストから授けられています。「ディール」という語が独り歩きしがちな世界をイエス・キリストの復活の出来事は揺り動かします。

2025年4月17日木曜日

2025年 4月20日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第1主日礼拝―

―イースター礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「復活の挨拶は『おはよう』」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章1~10 節

讃美=146.21- 575. 
讃美ファイル3番「主の食卓を囲み」.
21- 24(Ⅰ539).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 イエス・キリストの復活の物語ほど、それぞれの福音書の個性が浮き彫りにされる箇所はないと言えます。『マルコによる福音書』の最古の写本では復活のイエス・キリストの姿は直接描かれず、扉の破られた墓を舞台に白い長い衣を着た若者の証言が記されます。『ルカによる福音書』ではエマオという村への途上、復活したイエス・キリストはそうとは知らない弟子と対話しながら旅路をともにし、そのあゆみはやがて『使徒言行録』へと引き継がれます。『ヨハネによる福音書』では墓の外に立ち涙を流すマグダラのマリアに姿を現わします。それぞれの信仰共同体のイエス・キリストの決定的な出来事が露わにされます。それでは本日の『マタイによる福音書』の物語はどこに特徴があるというのでしょうか。

 それは人の子イエスの墓が総督ピラトの合意のもと祭司長の命令により番兵に厳重に封印された墓である、という前置きです。『マタイによる福音書』ではヘロデ王という暴君のもとで救い主の誕生をなきものとするために多くの幼子たちが虐殺された記事があり、絶えずヨセフとマリア、幼子イエスは世の圧政に苦しむ人々と道筋をともにします。そして十字架での死の後に葬られるその最中にも世の圧政は未だに滅びることなく、表向きにはローマ帝国を味方につけた暴君が勝利したかのように映ります。

 しかしその闇に満ち、失意に満ちた静寂は、どのような世の権力でも抗えない力によって打ち破られます。安息日が終り朝日の光に明け初めるころ、大地震が起きたと記されます。その時代には地震とは天地の主なる神のみ可能なわざであると考えられていました。いわば天地もその時代には当然とされていた為政者による圧政も覆されたのです。それが「主の天使」が「天から降って近寄り」「石をわきへ転がした」と今まさに起きている事態として記され墓を封じる蓋が開きます。圧政と権力による封印もこの場面では無力です。これまで『マタイによる福音書』で天使が登場する場面とはクリスマス物語での人の子イエスの父ヨセフの夢の中、そして荒れ野での誘惑を退けた後に仕えるという仕方で描かれましたが、この箇所では「白い長い衣を着た若者」ではなく「天から降ってきた天使」の姿が描かれます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とは、かつて人の子イエスが山の上で誡めの授与者モーセ、そして神の言葉を預かる預言者エリヤと語らった際に表現される「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記事が重なります。反対に番兵たちは恐怖のあまり震えあがり「死人のようになった」とあります。キリストの復活を前にして世の圧政が完全に無力化された事態が示されます。そしてその場にいたマグダラのマリアと恐らくはイエスの母マリアにこの天使は復活の出来事を語りかけ、弟子に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と、イエス・キリストと弟子の出会いの原点となった場所へと導きます。そして「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と他の福音書にはない言葉が続きます。復活の謎や畏怖について語る福音書の箇所は多いのですが、喜びを語る場面は本日の箇所に絞られます。人の子イエスが葬られた墓は女性たちには過ぎ去りました。このようなあまりにも非日常の出来事が次々と描かれるなかで、この二人の女性の前に復活したイエス、イエス・キリストがその行く手に立ち「おはよう」と至極日常的な、おそらくは十字架で殺害される前にはいつもそうだったように交わした挨拶とともに語りかけるのです。女性たちも弟子もガリラヤへ赴き、イエス・キリストと語らいます。復活の出来事を前にして無力になった兵士たちは、相も変わらずエルサレムで祭司長から買収され、虚偽申告を強要されます。その姿こそが死に体も同然というものです。神の愛の力はこのように圧政に甘んじる者たちを裸同然にしてまいります。総督ピラトもヘロデ大王もその例外ではありません。

 この復活の出来事の証言があるからこそ、出来事そのものから50年ほど経た福音書の書き手の時代の教会に関わる人々は、あまたの迫害にありながらも、この圧政はやがて終わりを告げるとの希望を抱くにいたります。わたしたちもまた、個人の力では如何ともしがたい暴力を伴う政治や不公正な世にあってなおも活きいきとした希望に包まれているものと確信できます。さまざまな身体的な限界を覚えながらも、なおも神の愛の証しを立てることができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と復活したイエス・キリストはわたしたちに今も語りかけます。絶えずガリラヤの原点に立ち返り、日々いつもともにいる復活のキリストに背中を押されて、主なる神を讃美し、この日を祝いましょう。

2025年4月16日水曜日

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 説教

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番

礼拝当日、午後7時より
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【説教要旨】
 人の子イエスは社会のどん底で苦しむ人々を癒し、その苦しみが当然だと諦めるほかなかった人々を励まし、傷みを分かちあい、満たされる喜びをともにし、ユダヤ教徒・異邦の民の垣根を越えて主なる神の愛を、全身をもって証しされました。そしてその称賛の声が広まるほど世の力ある者たちはそのわざを危険視し、濡れ衣を着せて殺害を試み、そしてその計画は表向き成功を収めます。つまりイエス・キリストは一人の犯罪人として処理され、十字架で殺害されます。今宵の受難日礼拝はその抜き差しならぬ苦しみと痛みが誰のためであったのかを確かめるために執り行われます。

 苦難の頂点の象徴でもある十字架での死と、いのちの輝きに満ちた救い主としての復活の出来事。しかしわたしたちはこの十字架での死と復活の光の間には葬りのわざがあるのだとの福音書の記事を忘れがちです。この弔いにあたって福音書の書き手は初めて「アリマタヤのヨセフ」という人物を描きます。この人は『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員」、『マタイによる福音書』では「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ、イエスの弟子」、『ルカによる福音書』では「議員であり、善良な正しい人、同僚の決議や行動には同意しなかった」、『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と様々に解説されますが、いずれにせよ人の子イエスと親しい、その時代の相応の地位にいた人物だといえます。イエスの時代に近づく福音書の物語ほど、このヨセフの誠実な態度が描かれます。

 とくに本日の箇所では「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるだけでなく、「勇気を出してピラトのところへ行き」「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と記されています。この様子をわたしたちは祈りの中で思い浮かべたいところです。

 人の子イエスの亡骸は、荊の冠を被せられ、幾度も鞭打たれただけではなく手足を釘打たれて打撲と内臓の機能不全、全身から出血したままで放置されていました。しかも槍を身体に刺されてその死が確認されたことから、ほぼ身体は原型を留めていなかった可能性すらあります。人から言われなければこの人がイエスと分からないほど痛めつけられた遺体です。十字架刑は国家転覆罪をはじめ極めて悪質な死刑囚にのみ用いられるところから、もしアリマタヤのヨセフがファリサイ派の律法学者であれば自ら死刑囚イエスとの関係を公言しているようなもので、自らの立場だけでなく、仲間の律法学者からも「あの男の仲間」として訴追される恐れがあります。現代でも死刑を経た遺体が家族や身内からも異なる墓に葬られるのを常とされるのが当然です。

 さらには人の子イエスの処刑はローマ帝国の名の下で執行され、本来なら晒されるところです。ですから遺体の引き取りは総督ピラトのもとへ直々に願い出なければ不可能です。十二弟子はもはや姿を消しました。ファリサイ派の律法学者アリマタヤのヨセフだけが恐らくは兵卒や下役とともにイエスの亡骸を十字架から引き剥がし、手足に打たれた釘を抜き、亜麻布を巻いて遺体の姿を整えて、準備させた墓へと納めたのかもしれません。救い主がこのようなありさまになろうとは、当時のユダヤ教徒には到底考えられませんでした。だからこそアリマタヤのヨセフには社会的地位もいのちの危機もこの亡骸を前にしてはもはやどうでもよいものだと映っていたのかもしれません。ヨセフはイエス・キリストにすべてを賭けました。洗礼者ヨハネがそうであったように、この人こそ救い主であるとの確信あればこそ、です。

 さてイエス・キリストが葬られているあいだを「使徒信条」ではどのように表現しているでしょうか。それは「陰府にくだり」とあります。死後の世界について『旧約聖書』は神の国の訪れまで死者の亡骸は地の底で眠りについたままです。ギリシア語で描かれた世界には死後には死者の世界、天国には天の国があります。この陰府がわたしたちの文化でいう地獄であったらいかがでしょう。欧米文化でいう煉獄や氷で閉ざされた地獄であればどうでしょう。復活の出来事にいたるまでの三日の間、イエス・キリストは本来ならわたしたちが赴くべき阿鼻叫喚の場へと、まさしくその場に相応しい傷ついた身体とともに降られたこととなります。本来ならばわたしたちが永遠の炎によって焼かれるはずの場へとイエス・キリストは赴かれ、そして復活の備えをされます。イエスの両脇で十字架に架けられた強盗たちも、この場で救いに与るはずです。あらゆる絶望の闇を打ち破った神の愛の勝利がヨセフの行動を裏づけています。かの時の人々とともに祈りつつ復活の時をわたしたちも待ちましょう。

2025年4月10日木曜日

2025年 4月13日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「自分を救わなかった人の子イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』27章32~44節
(新共同訳聖書 57ページ)

讃美=21-306.(Ⅱ177)
Ⅱ.-182.21-24(Ⅰ539).

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【説教要旨】
 地中海に面した北アフリカ、現在はリビアの領内の一部を指すキレネ。現在ではキレナイカという名で知られています。地中海を北上すればギリシアやイタリア半島がありますが、多くの遺跡がありこの時代としてはかなり栄えた町であったかもしれません。この地域出身のユダヤ人シモンは海路・陸路を伝ってようやく念願かなってエルサレムへと過越祭を詣でに来たはずです。しかしキレネ人シモンが神殿へと続く沿道で目のあたりにしたのは、意味も訳も皆目分からずこれから十字の杭に打ちつけられて処刑されるところの、「ユダヤ人の王」と刻んだ板で罪状を告げられている人の子イエスでした。沿道には鞭打たれ傷だらけになったその人を囃したてる人々が人垣を作って口々に罵っています。旅人シモンにはこの様子は全く異様に映りますが、沿道の人々は体のよい見世物とばかりに囃し立てるばかりです。そして恐ろしいことにその様尋常ではない人々を制していたローマの兵士は、茫然とするシモンにイエスの背負う杭を「ともに背負うように」とばかりに無理やり担がせます。人の子イエスの十字架刑ほど不条理なものはないと感じるのですが、このシモンはそれ以上に驚愕と絶望を憶えたことでしょう。イエスの弟子はみな逃げました。見知らぬ傷だらけで無力な、それこそ苦しみのあまり悪態をつくなど一切ない死刑囚とあゆむこととなったのです。シモンのあゆみはエルサレムの神殿とは正反対の処刑場に到着し、そこでようやく解放されるのです。シモンにも立ち入れない一線がその先にはあります。

 それではその後にキレネ人シモンの五感に飛びこんできたのは何だったのでしょうか。それは見るも無惨な人の子イエスの姿とその体臭です。掲げられた罪状書を見なければその顔の表情すら分かりません。荒い呼吸のなか何も言わずに血と汗にまみれた木材を担いで運んでいるのです。幾度もいくども躓く姿にシモンは心痛を憶えずにはおれなかったことでしょう。それだけではありません。「ゴルゴダ:髑髏」と呼ばれる刑場に到着するや本来は苦痛を麻痺させる薬草を溶かし込んだ薬を服用させられます。しかし人の子イエスはそれを拒否します。訳も分からず処刑用の木材を担がされた出来事こそ、キレネ人シモンとイエス・キリストとの出会いでした。
それは人の子イエスよりも先に一人は右の、もう一人は左の十字架につけられた強盗の言動でした。両隣にはゼベダイの息子ではなく強盗がいたのですが、この二人が人の子イエスの両隣から罵るには「神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い」との声でした。そしてこの強盗の声と人の子イエスを罵る祭司長や律法学者、神殿の長老の声がともにイエスを侮辱していたのです。キレネ人シモンにはこれも衝撃的な出来事でした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りてこい」。シモンには、悪人とは明らかに異なるこの人の子に、強盗の罵りと同じ言葉を、本来ならば尊敬に値するべき祭司長や律法学者、それに神殿の長老たちが浴びせている光景に衝撃を憶えたことでしょう。決してこのような場面は過越の祭を祝いに来たキレネ人シモンには出くわしたくない出来事でした。このように罵りや罵声の中に置かれながらシモンの人生はイエス・キリストの苦難の渦巻きへと、その深淵へと巻きこまれます。

 キレネ人シモンがその後どうなったのか、『マタイによる福音書』は記しません。しかし本日はこの箇所に紡ぎたい無名の人が記した詩を味わいたく存じます。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさをあるいていた。暗い夜空に、これまでの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が遺されていた。ひとつはわたしの足跡、もうひとつは主の足跡だった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしはあの足跡に目を留めた。そこにはひとつの足跡しかなかった。わたしが人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがわたしのこころを乱していたので、わたしはその悩みを主にお尋ねした。『主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道とともにあゆみ、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばん辛いとき、ひとり分の足跡しかなかったのはなぜですか。いちばんあなたを必要としていたときに、あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしには分かりません』。主は囁かれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに、足跡がひとつだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ』」。キレネ人シモンはこのようにして人の子イエスの苦難を分かちあい、やがて復活の報せを耳にして喜んだことでしょう。キレネ人シモンはこの出会いに不平を洩らさず沈黙を守ります。イエス・キリストが自らを救わなかったように。

2025年4月4日金曜日

2025年 4月6日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57(Ⅲ.5).
   21-463(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 大阪市の学校給食を見てみますと、コッペパンが異様に大きく、トングひとつまみの酢の物のようなおかずに汁物、フルーツと牛乳という具合で、その少なさに驚かされるところがあります。牛乳と汁物を除く惣菜は耐熱プラスチック製のプレートに配膳されており、アルマイトのお椀に入れられていた時代からするとお代わりしづらい作りとなっています。もともと学校給食は欠食児童、つまり事情で昼食を摂れない児童のために当初はララ物資に始まり、後には公共の福祉という観点に基づいて児童の充分な発育に資する滋養の提供という動機に始まったはずですが、何事につけて民営化という行政の方針から21世紀に強まり、心配を要する時代となりました。脱脂粉乳や鯨肉がまずかったという時代は逆に豊かだったかも知れないとの逆説が生まれつつあります。

 公教育でさえそのようなありさまです。親御さんが「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」に惹かれたとしても無理からぬところがあるかもしれません。手っ取り早く成果をあげたいとの気持ちはあるでしょうが、その気持ちが焦るほどにこどもたちは友人や家族の絆をじっくり育むことが難しくなります。

 本日の『マタイによる福音書』の箇所ではゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、息子と一緒にイエスのところに来て願い事をしたとあります。12人の弟子の中でも特別の顧みを、との願いです。そしてその内容は神の愛による統治の際に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れると仰ってください」というものでした。救い主に向けられた「神の統治の密約」とでもいうべきものかもしれません。しかしこの母は知りません。イエスは古代ユダヤ教で待ち焦がれた単なる一民族の解放者ではなく、すべての民を神の愛で包まれる方であり、そのためには十字架での死という苦い杯を呑まねばならないということを。ヤコブとヨハネの母が申し出たのは、神の国の私物化であり、人の手にその行く手を委ねられた「民営化された神の国」であり、その国で優劣をつけ、采配を振るうための競争が果てしなく続くという競争社会の延長でしかありません。けれども、わたしたちが自分の承認願望を満たすよりも先に、主なる神がわたしたちをお認めくださっているのですから、俄然事情はこの申し出とは異なってまいります。

 イエス・キリストのあゆみはそれまでのユダヤ教のメシアのイメージを根本から覆していきました。先だっては「山上での変容」の物語をみなさまとともにしましたが、カール・ヤスパースという精神医学者であり哲学者でもあり、かつその時代のドイツの全体主義政権を鋭く批判し続けた人物は、『旧約聖書』の預言者をして「聖なる統合失調症の罹患者」という表現をしました。多くの人びとからその主張が受け容れられなくても託された神の言葉を語り続け、停滞した雰囲気を読まず神の息を人々に吹き込もうとしたのが預言者でした。イエス・キリストはその時代の虐げられた人や心身ともに病み、まさしく重度の病に罹患した人とその孤独を十字架への道をたどりつつ癒していったのです。なにがしかの人の力や能力に依存するありかたは、結局は何者かを敵に仕立て上げなくては共同体を維持できません。もともと人類の共同体は飢えなり災害なり自らを脅かす事柄から身を守るために共同生活を始めたこともあり、これは避けられないことなのかもしれません。イエス・キリストは自ら排除されるその役を引き受けて「支配者への命令による服従」ではなく「仕えることの喜び」を、不穏な雰囲気に包まれた弟子の間に分かちあおうとされました。「大勢の群衆がイエスに従った」とある通りです。

 端的に申しあげれば「命令」とは人を一定の型や枠にはめ込もうとする試みであり、その枠や型にはめられない者は排除されていきます。病人、とりわけ心を病んだり知的な特性を否定的に見なされたりした人が、一般的な社会から遠ざけられていく悲劇は過去も現在も問いません。必ず誰かにしわ寄せが向かうように作られているのが命令のみに基づいた組織の特徴です。

 しかし「奉仕」には自発性があります。そしてお互いの特性を喜ぶ交わりがあります。祈りのうちにある吟味の中で、譬えその人が病に伏していても、その病を経なくては分からない世界をともにし、人を大切にする交わりが生まれます。その交わりを根底から支えてくださっているのがイエス・キリストです。イエス・キリストが人の子であったとき、誰からも理解されず仲間はずれにされていきました。恐るべき孤独の中で一人献げた「ゲツセマネの園での祈り」には、その場から逃げるか、主なる神に全てを委ねるかの極みがありました。その中で、イエス・キリストは苦い杯をお引き受けになったとの物語を尊びたいと願います。たがいに支えあうために。

2025年3月28日金曜日

2025年 3月30日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
ヨーロッパの絵画やステンドグラスでもよく知られる「山上の変容」。わたしたちも聖日礼拝説教のテキストとして幾度もとりあげてまいりました。人の子イエスが弟子のペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて「高い山」に登られた、と記されます。この「高い山」とはユダヤの地域においてはヘルモン山ではないかと言われております。ヘルモン山は標高2814メートル、富士山のようにそびえる山というよりも、滋賀県の比良山のような尾根が連なるような姿。凹凸の続く山頂には雪が積もりその姿は日本アルプスの尾根のようでした。
 但し標高3000メートル近い山並みは遠くから観れば絶景なのですが、実際に登るとなるとかなり険しい山道ではなかったかと考えられます。遠くから観れば美しい連山も、実際に登ろうとするならば立入る者を拒むような場所も多かったと考えられます。
 そのような危うい場所に人の子イエスは立入ってまいります。弟子達はそこで異様な出来事を目のあたりにします。それは則ち、モーセとエリヤが現れ、太陽のように顔が輝き、衣が光のように白くなったイエス・キリストと語らっているという場面です。山に登った弟子が過労によってそのような幻を観たとは福音書は記しません。むしろ次のような解き明かしが可能です。モーセは『旧約聖書』の『律法(トーラー)』を体現し、そしてエリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を代表する預言者であり、律法の完成と預言の実現を救い主イエス・キリストに見るという理解です。しかし果たしてそのような説明に終って充分なのでしょうか。
 思えばモーセもエリヤも神のいる山と深く関わった人物でした。モーセとエリヤは二人とも神の山ホレブとの関わりで結ばれています。モーセはその尾根でエジプトに苦しむ奴隷の解放のメッセージを託されました。その招きは圧倒的であり、モーセ自らの五回の拒絶を徹頭徹尾拒むものでした。イスラエルの民が奴隷解放のわざに不平を公言したとき、モーセは再びホレブの山で十戒を授かったとの物語が記されます。さらに預言者エリヤは神の誡めを忘れたアハブ王と妃イゼベルの追っ手から逃れるためにホレブ山へとたどり着きながら、疲れのために自らの死まで願ったものの、ホレブで御使いの養いと神の語りかけによって、イスラエルの民を神の御旨に気づかせるために新たに目覚め、力を授かります。モーセの物語もエリヤの物語も、恐らく『新約聖書』の舞台では伝説と化していたかもしれません。実のところモーセやエリヤが最も苦しんだのはイスラエルの民全体の神への猜疑心であり、鼻で息をする者しか見えなくなった人々の欲望でした。アハブ王もまたイスラエルの王でした。
 人の子イエスの弟子はこのような経緯を受けとめるにはあまりにも素朴な人々でもありました。それは人の子イエスの変容に驚愕したペトロが、この三人を奉るための小屋を建てようとする言動からも透けて見えます。「これはわたしの愛する子」と響く声はバプテスマのヨハネによる洗礼の折とは異なる畏れにあふれていました。さらにイエスは改めて自らの死と復活を語った上で、時を遠く経た時代にはモーセやエリヤが英雄化されるものの、実際のところイスラエルの民はこの二人を畏れ敬うどころか軽んじて好きなようにあしらったと語ります。この「好きなようにあしらう」との言葉は「なぶり者にする」「陵辱する」という、一切の尊厳を認めなかったとするまことに強い意味をもつ言葉です。
 『旧約聖書』に描かれる人間像を、もし神の愛なしに読み込もうとした場合、おそらくそこにはわたしたちがこれまで味わったことのないグロテスクな人間像が描かれていることでしょう。イエス・キリストはその道筋を神とともにあゆみ、隠された神の愛を人々に示すだけでなく、自らの苦難を通してその光で世を照らした救い主でした。初代教会がまずキリストの十字架への苦難と死、そして復活の出来事をクリスマス物語よりも先に置いたわけがそこにあるように感じられてなりません。顧みてわたしたちの交わりはいかがでしょうか。教会の交わり、もっと言えばキリスト教の世界にありながらグロテスクな人間像に辟易された方々はいないでしょうか。もしも行き詰まりを感じるならば、人の姿に理想を求めるのではなく、イエス・キリストがどのようなあゆみをたどられたかを繰り返し思い起こす祈りが求められます。その祈りは救い主が世に遣わされる前から、『旧約聖書』の時から一貫して流れる神の愛によるものです。この祈りに目覚める者は決して多くはありません。しかしその多くはない人々はイエス・キリストを通してやがて「地の塩・世の光」として「我知らずして」神の愛と出会い、豊かに用いられ、その途上で出会う人々を苦難から解放するのです。わたしたちもその群れに数えられています。


2025年3月21日金曜日

2025年 3月23日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  福音書の場合、カイザリアと呼ばれる地域には、概してローマ帝国の軍隊の駐屯地、ならびにその駐屯地を中心にして栄えるユダヤ教徒ではない者たちが集い、繁栄する地域があちこちにありました。とりわけこの町に暮らすユダヤ教徒は絶えずローマ帝国からの圧制を肌身に感じずにはおれなかったことでしょうし、またその圧制に対するところの屈折した生き方や思いも様々であったことでしょう。ユダヤ教徒の暮らす集落には分断と裂け目がいたるところにあったと考えられます。

  そのような呻きの響く地域にあって人の子イエスは各々の弟子に住民の噂を問い尋ねます。噂とは一般には根拠のないもので別段気にする必要もないのですが、むしろその噂のなかに人々の置かれた事情を問い尋ねようとする真摯な向き合いを人の子イエスの姿に見出せるというものです。弟子たちは口々に申します。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。いずれもその時代に人々が求めた『旧約聖書』に記される預言者であり、人の子イエスとの深い関わりにあった「最後の預言者」と称された人々です。共通するのは主の御旨に沿わずに進む道を誤った民衆や、権力を誤って用い、重要な判断を違おうとする王や指導者層に対して諫言を発し、他方で虐げられた人々に神の国の訪れや癒しのわざを行った、「神の言葉」を預かるとして描かれた者でした。いわばその時代のユダヤ教徒には英雄視されていた人々の名が列をなし、その姿が人の子イエスに重ねられていたのも無理はなかったと申せましょう。

  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。カイザリアの地域の人々の具合を踏まえて、あなたがたはどのように思うのかという、極めて内面に立入った問いかけを人の子イエスは弟子各々に突如として向けます。これまで従ってきた弟子には何を今さらという思いを抱いた者もいたかもしれませんが、そのようなざわめきを『マタイによる福音書』の書き手は第一には記しません。むしろシモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という初代教会の信仰告白に連なるペトロの理解を引き出しながら、「あなたは幸いだ」と祝福した上で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国での鍵を授ける」との、まことに力強い宣言です。ローマ・カトリック教会ではこの箇所をして初代の教皇がペトロであると主張し、他の教会教派への優越を説きます。

  しかしそれではこのペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との理解は主なる神の御旨に適ったものだったのでしょうか。なるほど言葉としてはその通りでしょうが、この後よりイエスは自分が必ずエルサレムへ行き、長老・祭司長・律法学者から多くの苦しみを受けて殺害され、三日目に復活すると話し始めます。残念なことにペトロは人の子イエスのこの発言が理解できません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。そのようなペトロにイエスは振り向いて「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく戒められます。片やペトロは幸いだと祝福され、片やペトロは「サタン、引き下がれ」と戒められる、極めて揺れの激しい弟子であるとともに、わたしたちは初代の教皇というよりも、日々の自らの姿をペトロに重ねます。ペトロのメシア理解は誤っていたのであり、鼻で息をする者しか目に入らない者の、実に曖昧な思い込みでしかなかったとも申せます。

  思えば人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家の中庭に連れてこられたとき、ペトロは鶏の鳴く前に三度イエス・キリストとの関わりを否定しました。しかしイエス・キリストはペトロとの関わりを否定するどころか、その態度に自らの預言の成就を見るだけでなく「わたしは決してあなたがたを見捨てることはない」との神の愛の証しを貫かれました。それは十字架の上で槍に刺し貫かれるよりも強い絆であり、歴史上の教会の分断の危機、交わりの分裂の危機を幾度もいくたびも救うという出来事に示されています。教会もまた、動揺するペトロのようにその態度を貫くことのできない、破れに満ちた交わりという一面ももっています。しかしだからこそわたしたちは、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎながら、「この人こそが救い主イエス・キリストなのだ」との確信を抱くのです。信仰とは個々人の思いや拠り所に留まらない、イエス・キリストとの関わりです。その関わりはいかなる試練のなかにあっても絶たれるどころか、却って強められる神の愛を示しています。

2025年3月14日金曜日

2025年 3月16日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 
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【説教要旨】
 視覚を失い、話すこともできず、そしてその症状から察するに聴覚も奪われたと思われる人物が本日の箇所には描かれてまいります。その人は自分の目指すところへ自力でたどり着けません。支える者に連れてこられ、人の子イエスのもとへと身を寄せます。人の子イエスとの出会いのもとで、その人の目は開かれ、そして恐らくは耳も聞こえるようになり、話ができるようになったとの出来事が記されます。見えない、聞こえない、話せないという閉ざされた状態から、人々との交わりの中へと押し出されたこの人の姿は、あたかもヘレン・ケラーとアニー・サリバンとの出会いと重なるようです。しかし全く異なるのは、この素晴しい出会いに横槍を入れる者がいるというところで、ヘレン・ケラーの伝記とは異なった筋立てとなってまいります。

 その時代の正統派ユダヤ教徒、もっといえばその時代精神を司る自負にあふれた古代ユダヤ教の指導者の群れであるファリサイ派の人々はこの癒しの出来事を認めません。おそらくは自分たちの知る癒し人やその時代の医者がことごとくその治療に失敗したか、あるいは現在よりもさらに輪をかけて心身の壮健さが追求された時代です。癒された人は「見えず、話せない」という特性だけで、もはやすでになにがしかの呪われた者や穢れた者として扱われたことでしょう。それは次の言葉に凝縮されています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。騒ぎ立てるファリサイ派の者たちは、この音のなく、光もないままに放置されてきた人を助けもせずにやかましく騒ぎ立てるばかり。そして振りかざすのは、荒れ野で人の子イエスを試みた悪魔と同類の悪霊の頭ベルゼブル、俗には巨大なハエとして描かれる暗黒の存在であり、強い力が弱い力を排除するという道筋でしかイエス・キリストの癒しのわざを理解できません。その態度に向けてイエス・キリストはどのように反論するのでしょうか。

 それは一見すると実に世俗的な譬えから始まります。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成立っていくだろうか」。人の子イエスが指摘するのは、力の論理と排除の論理では癒しの出来事は決して生じないところにあります。イエス自らによれば、窃盗団は力尽くで人の家に押し入ります。しかし結局はその動機が「奪い合いと陥れ」にあります。ですからついには盗品の奪い合いとなり、集団そのものが瓦解していく状況にも似ています。そのうえで、人の子イエスは次のように語ります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」。イエス・キリストは横槍を入れてきたファリサイ派を決して否定しません。それはファリサイ派の言葉とは、全く異なる次元から発せられている教えだからではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。

 東日本大震災が様々な問題を残しているだけでなく、パンデミックの時代を経て、食糧不足と世界大戦の危機という、わたしたちの尺度の通じない「グレートリセット」と呼ばれる時代。その今でも、イエス・キリストの愛は世の分断を乗り越えます。だからその幾度も、何十編も、何百編もそれが裏切られ、苦しみに遭おうとも、なおその愛はわたしたちを包もうとしてやみません。荒波を乗り越える度ごとに、わたしたちはイエス・キリストの愛の証し人として立たされています。そう、見えず、聞こえず、話せない三重苦に苦しんできたこの人を、イエス・キリストのもとに連れてきた、文章が受け身の文体で描かれているがゆえに、その存在すらおぼろげな、これまた無名の人のように、です。分断の叫びの中に、わたしたちは神の愛による一致を先取りしています。

2025年3月6日木曜日

2025年 3月9日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
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【説教要旨】
 大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。

 本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。

 この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。

 分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。

2025年2月28日金曜日

2025年 3月2日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
  木枯らしや春の嵐は、わたしたちの暮らす地域にも訪れます。都市部では「風が強かったなあ、季節が変わるなあ」と思わず呟くのですが、世界でトップクラスの積雪量の日本の山岳地帯では山は極めて危険なシーズンを迎えます。春山では雪崩が頻発し、夏の登山ルートはちょうどこの雪崩のコースになるからです。天候も不順であり、吹雪に見舞われればホワイトアウト、時雨の場合には低体温症を警戒します。何よりも滑落がもっとも恐ろしいところです。登山装備が絶えず改良される一方で、技術が追いつかず事故が多発するのも事実です。

  弟子達が夕刻から深夜、そして明け方に舟でわたるガリラヤ湖はその東西を高地に挟まれているため強烈な風が湖に吹きつけてまいります。そのような中、なぜ弟子は人の子イエスとともにではなく、無理矢理乗り込ませられなくてはならなかったのか合点がいかなかったことでしょう。漁師の身でありましたから、風の吹きつける夜の湖の危うさは代々語り草になっていたはずです。それにも拘わらず、人の子イエスは舟には乗らず、弟子はただただ荒波に揉まれてどこに流れ着くのか恐怖の坩堝にいたことでしょう。辺りには手掛かりとなる人里の灯りも見えず、たとえ見えたとしてもそこへたどり着くまで舟を漕ぎ続ける力もありません。舟が転覆しないように重心を低くするのがやっとです。そしてこれが舟を象徴とする初代教会を囲む危うい状況でした。

  『信徒の友』2025年2月号には少々ショッキングな特集が組まれていました。それは「専従牧師がいない」という事案であり、牧師のいない教会、または牧師を招聘するのが困難な教会が増加しており、代務や兼務の教会が増えているとのことです。わたしが若かりし時にお世話になった鳳教会も前年度は無牧であり、その中で新しい会堂の建築を決断し、そのわざを成し遂げていきました。その圧力を教会活動の追い風とするためには交わりの絆を強め、かつ間口を広めたものとなるよう努め、絶えず祈らずにはおれませんでした。しかしこのような事態は、人の子イエス不在のまま夜間に舟を漕がねばならなかった初代教会・原始キリスト教の時代にすでに象徴的に描かれているのです。

  狼狽する弟子が危機の中で忘れていたのは何か。それは一人山に登られたイエス・キリストの姿です。つまりどのような混沌とした舟の中にいても、人の子イエスと弟子の乗る舟はキリスト自らの祈りによってより強く結ばれています。登山者や漁師は様々なロープワークを知っています。イエス・キリストと荒波に揉まれる舟もまた危機に直面するほどに祈りというロープに結ばれてまいります。ただ、今はそれが弟子には隠されているだけなのです。

  前途の見えない、荒れ狂う湖水に象徴される「世」を進んでこられた人の子イエスを幽霊と見間違えたとて、イエス・キリストは「すぐ彼らに話しかけられた」とあります。「幽霊だ」と脅え、恐怖のあまり叫ぶ弟子。その姿は決して人前にはさらしたくない体裁です。しかしイエス・キリストはそのような実にみっともない弟子に向けて「安かれ」「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と説かれます。

  その声は教会組織に留まらず、その交わりに連なる一人ひとりに向けられています。半信半疑のペトロはそこにいる人影が人の子イエスかどうかを試そうとして「そちらに行かせてください」と語ります。強風は決してやむことはありません。ペトロは夜明けの朝日に照らされる湖面を見つめて怖くなったのではありません。湖面を波立たせる風に気をとられてイエス・キリストから目をそらしかけました。眼差しの大切さは、自動車の安全運転には欠かせないことだと免許をお持ちの方はご存じでしょう。何かにつけて散漫になり、目の焦点が定まらずに泳いでしまう。これもまたわたしたちの現実です。しかしその恐怖にあってはじめてペトロは目覚め、イエス・キリストは、沈みゆくその手を力強く握りしめられました。

  教会の姿がどのように変容していくのか。それはすでにコロナ禍の時期に激しく問われた課題でした。その結果、リモート礼拝というかたちが生まれました。さらに専従牧師不足という状況で、却って諸教会がお互いに支えあう仕組みが生まれるのではないかと、新たな可能性を前向きに語る人もいます。イエス・キリストの山での祈りは、弟子たちの瑞々しい礼拝をもたらしました。わたしたちの目指す岸辺、ゲネサレトには肥沃な平原が拡がり、羊が群れをなしています。教会の祈りが問われる時、そこにはすでにキリストの恵みが臨んでいます。

2025年2月20日木曜日

2025年 2月23日(日) 礼拝 説教

      ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女性が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」、と本日の『聖書』のテキストは始まります。「そこ」とはガリラヤ湖の西側にある平原地帯を指しますので、ガリラヤとティルス近辺の道のりは40キロを少し超えるほどとなります。マラソンで走れる距離といえばそれまでですが、当時のことですから道にも起伏があり、直線距離だけでは測れず、歩き詰めでもなかったことでしょうから、徒歩で14時間以上はかかる道のりだったでしょう。福音書の物語の世界には、ユダヤ人のコミュニティよりもそれ以外の人々も多く暮らしておりました。さらには地中海沿いの地域であるティルスとシドンの地方には港町を玄関にしてパレスチナに暮らす人々やギリシアの人々もおりましたので、わたしたちが考える以上に文化や言語のサラダボール状態であったに違いありません。その中で見たこともない女性が、娘の救いを求めて人の子イエスと弟子の群れを一人追いかけてまいります。名前は分かりません。その姿も弟子には異様です。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と弟子は人の子イエスに願います。よほど突然の事態であり、弟子もその見かけに戸惑ったのでしょう。助けを求めるその必死さは分かるが、その気持ちには巻きこまれたくないという弟子の心情をくみ取れる箇所ではあります。そしてまだ人の子イエスは黙っています。

  突然助けを呼ぶ声。わたしは職業上スマホ依存症と申しましょうか、いつも手の届く範囲内にスマートフォンを置いており、睡眠時も同じようにしております。突然の連絡を想定してではありますが、だからと言って非通知設定の電話が深夜にかかる時には戸惑いもあります。けれどもこのような突然助けを求める声というよりも「話を聴いて欲しい」という場合が殆どですので、会話の中で先方も少しずつ安心していく具合が分かれば「おやすみなさい」と通話ボタンを切ることもできます。相手がどこにいるのかを尋ねると言葉を濁されるのがいかんとも歯がゆいのですが、それもやむを得ないのかもしれません。

  しかしこのテキストで弟子は文字通り思いもよらない出会いを経験しました。それも強盗や暴徒ではなく助けを求める女性に直面したのです。混乱の中で弟子は「追い払ってくれ」と人の子イエスに申し出ます。弟子は女性に何を見ていたのでしょうか。その異様な姿にだけ気をとられていたのでしょうか。それともその切実な救いを求める声に怖じ気づいたのでしょうか。いずれにせよ弟子の混乱ぶりにはわたしたちの抱える無様さが重なります。それでは人の子イエスはその場で何を観ていたというのでしょうか。

  人の子イエスにはその女性の外見上の姿もその叫び自体も関心外でした。焦点はその内容にあります。ただしイエスもまたこの場で新たにされていきます。「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」とその言葉にはありますが、繰り返し申しますとこの「小犬」とは決してかわいらしい動物を指しているのではなくて、女性に対してあまりにも酷い侮蔑の言葉として響きます。穢れた動物、または伝染病を媒介する野犬のようなイメージです。「犬ころ」といってもよいでしょう。弟子を含めユダヤの民に与えなくてはならない救いはまだ充分ではないとの言葉が向けられます。けれどもカナンの女性は答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」、つまりこのカナンの女性は娘を癒してもらうために、自分もまたイエス・キリストの足下で、その恵みに深く関わっていると発言するのです。女性も、その娘の病もこの箇所では救われたとあります。恐らくはイエスもまた人の子イエスとしての救いの広がり、神の愛のスケールの途方もない大きさを実感されたことでしょう。福音書の中でイエス・キリストは、人としては始めから完成されたメシアとしてではなく、神の導きの中で耕されていく人の子としても描かれています。それだけにわたしたちはキリストに従う励ましを備えられます。

  神の愛はカナンの女性とその娘だけでなく、人の子イエスとその弟子をも癒すにいたりました。乾ききった世を歩んできた弟子もまた、この場を目のあたりにして大いに潤わされたに違いありません。

  わたしたちは思いも寄らない出会いの中で助けを求める声を聴いたとき、燃える思いに駆られるというよりは逃げ去ってしまいたい気持ちに襲われもします。生き残った被災者や被爆者はその罪悪感に長く苦しまれます。けれどもわたしたちもその思いが分かるからこそ、新たに支えの手を伸ばし、恵みを備えられると確信します。

2025年2月15日土曜日

2025年 2月16日(日) 礼拝 説教

     ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「混沌とした時代にこそ輝く光」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新共同訳 新約7頁)

讃美= 
21-518(361).124.
   21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 わたしたちは『新約聖書』にはよく目を通し、そのことばを味わうのですが、『旧約聖書』となりますといささか日々の暮らしからは縁遠いような気がいたします。しかし『マタイによる福音書』で人の子イエスが度々引用する以上は、わたしたちは決して『旧約聖書』を疎かにするわけにはまいりません。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と本日の箇所では記されます。このような文章の中での『律法』は613の条文に分けられる一つひとつの掟というよりも、『創世記』から『申命記』にいたるまでの、かつては「モーセ五書」と呼ばれた書物、そして『預言者』とはヘブライ人の国王や民が神の備えた道から外れていくとき、王や人々を諫め、戦い、そして虐げられた人々を癒し力づけたところの、神のことばを預かった人々の物語の集合体を示しています。かたや『トーラー』と呼ばれ、かたや『ネビイーム』と呼ばれるこの書物は、人の子イエスの時代の古代ユダヤ教のファリサイ派や律法学者には正典とされ、その教えの拠り所とされていました。洗礼者ヨハネが関わっていた、荒れ野で水をもって身を清めながら『聖書』の学びに励むエッセネ派にも大切な教えが書き記されていました。

 それではこの『律法』と呼ばれる『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の誡めを含んだ物語、そして『預言者』と呼ばれる書物の内容とはどのようなものだったのでしょうか。

 その内容は、まずは天地の創造主なる神がこの宇宙といのちを六日間にわたって創造され、その後の一日に休まれたという記事が記されます。その後に女性も男性も神にかたどって創造されたはずの人間(アダーム)が神との約束を破り、楽園を追放されていきます。そしてその息子たちにいたっては神への献げものをめぐって兄が弟を殺害し、そしてその後に「慰め」という意味をもつノアの作った箱舟の物語、さらにはバベルの町の物語が続き、アブラハムの物語へと受け継がれてまいります。その後に描かれるのは、予測不可能な人生であるにも拘わらず、主なる神は自らの約束を破った後にも人間に「死んではならない」と絶えず語りかけ、弱い立場にある者の悩み、また奴隷の叫びに耳を傾け、その苦しみから解放しようとする神の姿が描かれます。この物語を読んでまいりますと「あなたは神を信じますか」という問いに違和感を覚えるようになります。それはこどもたちに対して目の前にいるお家の人やご家族、あるいは保育者に対して「あなたはお母さんを信じますか」と言っているようなもので、その問いかけそのものが信頼関係に水を差しかねない、愚問だとしか言い様がないのです。信頼関係を損ねるような問いを、寡婦や難民や孤児、社会から廃除された人々を救う神に向けるのはお門違いというものです。

 そしてこの箇所で人の子イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と語ったときに明らかにしたのは、人の子イエスもまた『律法』と『預言者』という、わたしたちが手にしている『旧約聖書』を丹念に読んだ上で、名前すらもつけられない人々やこどもたち、今でいう障碍をもった人々や感染症に罹患した人々に神の愛を具体的に証ししていったということです。これはまことに重要な人の子イエスの決意と態度を示しています。それは混沌とした世にあって、力を振るいそれこそが正義であると思い込んでいる人々、あるいはまずは競争に勝った者が正義を語りうると錯覚している人々に対して「否」を突きつける態度です。これは預言者としての態度です。そして使徒の集りとしての教会の壁を越えて、神の愛のわざをこの世へと押し広げ、尊ぶべき世俗として人々を愛し続けるという政治的な側面を否定しない統治者としての態度、そして今なお苦しみの中にある人々の痛みを癒し、いのちに希望の光を灯し祈り続けるという祭司としての態度です。『旧約聖書』を軽んじるという態度が万が一わたしたちにあるならば、それは『新約聖書』を単なる道徳の教科書に格下げしてしまうことになってしまいます。世の中は決して単純ではありません。渡る世間は鬼ばかりという現実もあります。しかしそのような現実は、そのものとしては決して絶対的なものではないのです。イエス・キリストはすでに世に勝っています。混沌とした世界に向けて神は「光りあれ」と仰せになりました。

 悲しみに心が塞ぎ込み、身動きがとれなくなったとき『旧約聖書』を開いてみてください。『詩編』には神を呪う言葉さえ記され、預言者には死を願う者さえ登場します。しかしその呪いや死を望む呟きはイエス・キリストを通して神に届いています。呪いは呪う者のいのちへの祝福へと、死を願う者には生きよとの声が響きます。

2025年2月7日金曜日

2025年 2月9日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「いのちに響く言葉を尊ぶイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章10~16節
(新共同訳 新約24頁)

讃美= 
21-403(Ⅰ.453). 
533. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日は弟子たちによる「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」との問いかけへの人の子イエスの答えが軸となるメッセージとなります。弟子と人の子イエスとの語らいのテーマとなるのは「たとえ」すなわちイエス・キリストの語る「ことば」の秘密です。

 本日引用された『イザヤ書』に先んじて、『旧約聖書』で「ことば」が主題となる物語があります。それは『創世記』11章にある「バベルの町」の物語です。「バベルの塔」と見出しがつけられますが、要は「塔のある町」ですので「バベルの町」といたします。

 『創世記』物語の大筋は次のようになります。世界中が同じ言葉を用いて同じように話していた時代、東の方からやってきた民が、シンアルの地に平野を見つけてそこに住みつきます。民は「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合います。それまでのれんがは、粘土に麦わらをすき込んで泥のような具合のときに踏みつけ、型に入れて日の光に干すもので、今日で言えば極めて環境に優しい素材なのですが、壁土と同じように水に弱く、また高層建築で用いるにも重さに堪えられません。しかし焼きれんがとなれば話は別で、技術者の思い通りに形を整え、また強度も飛躍的に上昇することから、数十メートル規模の大規模な高層建築も可能となります。古代エジプト文明の場合は切り出した石が用いられましたが、それに劣らず強度があり、しかも思い通りのかたちに焼き上げられます。さらに「しっくいの代わりにアスファルト」を用いたところから、乾燥した石灰よりも防水性が高まるという特質も加わり、おそらく古代メソポタミア地方を舞台にして人類史上例を見ないほどの画期的な科学技術の大躍進だったと言えるでしょう。

 しかしこの都市は大きな問題が秘められていました。それはこの都市の建築の動機です。それはこの町のシンボルである塔に込められています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。全地に散らされないように」との一節です。「天」とはまさしく主なる神のいるところ。そこに届く塔を建てる動機も「有名になろう」というのですから、この町に隠された人間の高ぶりというものが塔には象徴されています。しかし本来ならば天にいるところの主なる神はわざわざこの町に出向き「この人々は一つの民で一つのことばを話しているからこのようなわざに手をつけた。このままでは民が何を企てても妨げられない。人々のことばを混乱させ、互いのことばを聞き分けられなくなるようにしてしまおう」と民を全地に散らされ、都市の建設は中断され、ことばが「混乱(バラル)」したことから町の名はバベルとなったとの物語です。わたしたちはこの箇所で多くの言語が生まれたとの誤解を抱いていますが、意思疎通が不可能になるのは、自分が正しいと思い込んだとき、相手の話に耳を貸さなくなったときで、この一週間のあゆみでもどこかでやらかしてしまった覚えがあるのではないでしょうか。同じことばであっても、奢りや高ぶりがあったときには、いのちの響きどころか記憶にも残りません。

 それでは人の子イエスはどのようなことばを用いたというのでしょうか。それは「たとえ」という表現です。人の子イエスと寝食をともにしている弟子であればともかく、集まる人々の多くは文字の読み書きはできません。しかし各々のかけがえのない暮らしに根ざしたことばは用いているはずです。その暮らしを、愛情をもって受け容れながら、そのときに出会う人々の用いることばを紡いだときに、イエス・キリストの教えは人々のいのちに響いたことでしょう。今日でいう「刺さることば」として忘れられない教えとして記憶されていきました。

  ファリサイ派の律法学者の言葉は一定の知識の基礎を前提としますが、イエス・キリストの教えはそのような前提がなくても、暮らしの中にこだましたことでしょう。そして「バベルの町」の物語を超越して、新しい交わりを育んでいったに違いありません。一つの民でもなく、一つの言語でもなく、一つの文化でもなく、あらゆる人々、世界に交わりを育んでいったのです。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」から、確かに「見えず、聞かず、分からずとも」イエス・キリストが示した神の愛は、そのような限界を通して人々を包んでまいります。分からなければ尋ねればよいのです。イエス・キリストはその問いかけを歓迎します。

 互いに耳を傾けあう交わり。それがイエス・キリストを頭とした教会の交わりの原点です。『聖書』のことばはそのとき分からなくても、後になるほどと膝をつき、目から鱗が落ちるときがやってきます。その瞬間を楽しみにしていましょう。それがイエス・キリストの教えに触れる醍醐味というものです。


2025年1月31日金曜日

2025年 2月2日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「決して譲れないいのちの大原則」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』21 章12~17 節
(新共同訳 新約40頁)

讃美= 
21-494(Ⅰ.228). 
121. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を向けるなら、左の頬をも向けなさい」。人の子イエスが説いた非暴力の教えとされる言葉。先月の1月15日はマーティン・ルーサー・キングJr.の誕生日でした。マハトマ・ガンディーの影響のもと、人の子イエスの教えを「非暴力・不服従」として公民権運動を展開、39歳で暗殺されるまでの働きは、56年を経た今もなお多くの人びとの心に刻まれています。中でも”I have a Dream”のメッセージは、現在の中学生の英語の教科書に掲載され、暗唱させる場合も数あると聞きました。

 しかし本日の箇所、エルサレムの神殿の境内での人の子イエスの振る舞いは、一見するとこのような「非暴力・不服従」の教えから遠いところにあるように思えます。つまり人の子イエスが自ら語った教えと矛盾した狼藉に及んでいるように思えます。しかし、確かにそのように見えても、そこには人の子イエスの熟慮されたメッセージが隠されています。まず、「追い出す」と訳される言葉は英語ではdrive out ですが、Bad money drives out good, drive out evil thought,「悪貨は良貨を駆逐する」、「邪念を追い払う」というように用いられるのが主な用法で、そこで人が暴力によって追い出されるかどうかという疑問については文脈で判断する他ありません。ですからキング牧師が白人専用のレストランに入店し、学生たちとともに座席に座るという行為もまた人種差別という邪念へのdrive out としての表現も可能です。要はそのように人の子イエスが神殿の境内で売り買いをする人の居場所を失くした、との状況として理解できます。なぜそのような人々の居場所を失くしたかと問えば、そこは本来祈りを求める人々の居場所だったからです。「強盗」という言葉は、その意味での強い非難が込められています。

 すでに人の子イエスの世には、貨幣を中心に回る経済がローマ帝国での暮らしには充分なほど浸透していました。「両替人」とは、ローマ帝国の皇帝の顔が刻み込んである当時の通貨がエルサレムの神殿での境内では使用できないため、とりわけ貧しい人のための献金用に両替されていたことを示します。しかしその両替には手数料が商人の言い値で決められます。郵便局やATMの手数料以上に、貧しいながらもエルサレムの神殿で祈りを献げたいという人々は、経済的に閉め出されてしまうという周到な仕組みが完成されていました。「鳩」もまた「山鳩ひとつがい」として貧しい者の献げものにされていましたが、それすらも充分なお金なしには祭司を伴うところの礼拝にすら加われないありさまです。何度も触れておりますが、人の子イエスの時代のエルサレムの神殿は、あのヘロデ大王がローマ帝国の認可を得て建てたものであり、その意味では極めて政治色が強く、結果としてまことに祈りや癒しを必要としている人々が、祈りの場に日常的には立入ることの実に困難な具合をしておりました。だからこそ人の子イエスは『旧約聖書』を引用して語ります。その結果、目の見えない人や足の不自由な、その時代では遠ざけられていた貧困と孤独の中に放置されていた人々が、上辺では暴力的に見えるイエスのもとへ近寄ってまいります。イエスは本日の箇所での振る舞いにより、そのような人々のための「祈りの家」を再建されたのです。その神への誠実さを見抜いたのは怒りに震える律法学者や祭司長たちには許しがたい「ダビデの子にホサナ」つまり「万歳、やった、ダビデの子!」と叫んだこどもたちでした。このわざにより、人の子イエスはまさにキリストとしてエルサレムの神殿の中心でも歓迎されたのです。

  しかしわたしたちはこのような「祈りの家」を日常から遠ざけているかもしれないと反省します。それはこの礼拝堂がウィークデイにはこども園の施設になる、不思議な教会だという呟きとは全く異なります。パウロは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章19節で、わたしたちの身体をして「知らないのですか。あなたがたの身体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と記す通りです。礼拝堂のもつ他の設備との決定的な違いは、主の愛がそそがれるこの礼拝において、どのような人、どのようないのちをも問わず、その人自らが神の愛の力、すなわち聖霊の宿る神の神殿であり、その神殿を整えてくださるのがイエス・キリストだ、という事実なのです。ヘロデ大王とその息子らを含んだローマ帝国の支配のもとでは、もっとも開かれ、大切にされるべきこの祈りが疎んじられました。だからこそイエス・キリストは両替商や鳩を売る者をも含めて、暮らしの中心はまさしく祈りの家たる神殿であり、各々の身体もまたそのようになるために手入れをされます。究極の癒しは、そのような祈りに満ちた日々のわざと心得る月の始まりです。

2025年1月25日土曜日

2025年 1月26日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 洗礼者ヨハネが捕らわれたとの知らせ。その理由は、直接にはヘロデ大王の息子アンティパスが、自ら恋仲になったヘロディアと結婚したという「兄弟の妻と結婚の禁止」を破った態度を激しく批判したとされていますが、いよいよ権力による口封じがガリラヤにも及び、人々が口を閉ざすようになった沈黙の時の訪れを暗示してもいます。もはや町の料理屋でも市場でも誰かが目を光らせ、うかつには物事を語れなくなったその時代。イエスは一度ガリラヤを離れ、異邦人の土地カファルナウムに働きの根を下ろします。しかし宣教活動としては逆境でもあるこの圧制下を福音書の書き手集団は「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ」と書き記すのです。先日は大統領に就任したトランプ氏を前に異邦の民の権利の擁護を語りかけた聖公会のバッディ主教が注目されましたが、自由にものを語れなくなったはずのこの土地で、なぜ「光が射し込んだ」と書き記し得たのでしょうか。注目するべきは「ゼブルンの地とナフタリの地」と表現される土地が具体的にはどのような意味を『旧約聖書』では持っていたのかという点です。

 問題は「ゼブルンの地」も「ナフタリの地」も『新約聖書』の時代には概してそのようには呼ばれてはいなかったところにあります。かつてはイスラエルの12人の兄弟にそのルーツを訪ねられた、ゼブルンとナフタリという二つの部族は、すでに人の子イエスの時代にいたるまでに、アッシリア大帝国によって滅ぼされてしまいました。そればかりかアッシリアとの争いに敗北したことによって、民を陵辱されるという仕方で消滅させられ、本日の物語の舞台ではガリラヤとサマリアの文化の折り重なる場所となっていました。つまりエルサレムに暮らす人々からすると、神殿での礼拝から離れ、アッシリア人の血筋が混ざり込んだがゆえに穢れた民であるとのレッテルを貼られた人々が多く行き交いまた暮らす土地とされていたとの状況に落ち着きます。言い換えれば福音書の書き手集団は洗礼者ヨハネの逮捕という悲劇的な出来事を悲劇には留まらせるのではなく、その先にはこのヨハネの後を継ぐようにして人の子イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」との、世に暮らす人々への神の国の訪れを説き始めたという時の訪れにフォーカスを当てるのです。神の国の訪れ、神の愛による統治の訪れを説く役割が洗礼者ヨハネから人の子イエスへと移ったと高らかに宣言いたします。

 洗礼者ヨハネの逮捕はおそらくその人に救いを求めてきた人々には衝撃的であったに違いありません。特に暮らしの中で多くの苦しみを抱えてその拠り所を明らかにしたいと願う人々には水による「清めの洗礼」は意味あるわざでした。またその口から出る現状への堂々たる批判も人々の頷くところではありました。しかし洗礼者ヨハネも自覚していたように、決定的にそこに不足していたのは神の国の訪れが善悪を明確にするという意味での審判を越えて、多くの破れをもつ人々の痛みを癒すばかりか、対立関係として分裂しがちなわたしたちのあり方を和解に導き平和をもたらすところにあります。だからこそ洗礼者ヨハネが人の子イエスに洗礼を授けた際に、神の愛である聖霊が鳩のように降ってきたと記されていると考えられます。もはや混沌とした時は終わりを告げ、人々にはいよいよ不安と恐怖から解放される時がまいりました。洗礼者ヨハネの逮捕の悲しみと心細さはもはや乗り越えられつつあるのです。洗礼者ヨハネの語る「世の終わり」では異邦人はどのような扱いとなっていたのでしょうか。またユダヤの民に代々遠ざけられていたサマリアの人々はどのように扱われていたのでしょうか。そのあたりについては興味が尽きませんが、少なくとも『旧約聖書』の預言者、そして洗礼者ヨハネを通して示されてきた神の愛が、イエス・キリストの宣教と証しにあって大河のように流れ込み、獄中の洗礼者ヨハネをもいずれ安らぎに導き、サマリアの人々にまで及び、そしてその流れはいつしかローマ帝国全体をも覆い尽くし、今日においてはわたしたち極東に暮らす者までも包み込んでいるように思えてなりません。イエス・キリストに示された神の希望と癒しはそこまでに深く現代のわたしたちにまで及んでいるのです。
 だからこそ分断を叫ぶ声がそこまで来ているように思えても、何も恐れる必要はありません。人々を困窮へと追いやる声は必ず絶えます。それよりも、わたしたちはこの混乱の時代にあってなおも働く神の愛の力に目を注ぎましょう。難しくはありません。イエス・キリストがおられるならば、何をどのように語り、誰を癒すのかと祈りの中で思い描けばよいだけなのです。誰にでもない、キリストの姿を胸に焼きつけましょう。

2025年1月17日金曜日

2025年 1月19日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節 第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)

讃美= 
21-495,(310). 
21‐306(1.2.4.5.), 
21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 冷たい風が吹く中での礼拝となりますが、オホーツク海やベーリング海でカニ漁に従事する漁師たちはいったいどのような環境に置かれているのかと考えますと背筋が凍りつきます。カニを捕まえる罠であるコンテナを定置網のように荒海に投げ込んでいき、他の漁場からの帰りに回収していきます。三角波が漁船を翻弄し、海に落ちれば誰にも助けられません。甲板に押し寄せた海水はたちまち凍結します。その氷を割りながらの作業はわずか三時間の睡眠と僅かな食事ばかりの中で行われます。賞金稼ぎと同じスリルなのかもしれませんが、反対に言えばこの仕事は常に死と隣り合わせだとしか言いようがありません。事故がなくても身体は確実に蝕まれます。

 福音書の世界に漁船を見ることのできたガリラヤ湖、本日の箇所ではゲネサレト地方から眺めたためゲネサレト湖として呼ばれます。ただその漁獲は漁師の暮らしには充分ではなかったでしょう。作業の時は夜。湖に漕ぎ出し、煌々とかがり火を焚いて魚を呼び寄せて網を投じます。しかし今とは異なり湖の上で目印となる明かりは地上には僅か、月や星も雲に隠れてしまえば行く手は闇につつまれ、いのちの危機に晒されます。そのような時を経て疲れ果てた漁師。一晩眠ることもなく徒労の中で網を繕うより他はありません。

 そのような漁師に響く声があります。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。眠気と気怠さの中であれこれと願い事をしてきたその声は、それまでとは異なる響きとともに迫ります。「漁をするのか、しないのか」との決断。漁師はからかい半分に答えるしかありません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しました。しかし、何も獲れませんでした」。しかし続いたのは「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」。魚が獲れなければこの男も諦めるだろうし離れていくだろうとの気持ちもなかったわけではありません。しかしその通りにしたところ確かに昼日中にはち切れんばかりの魚が獲れました。

 実はこの魚には初代教会の信仰告白の頭文字がギリシア語で略され、隠されています。船を『旧約聖書』のノアの箱舟に重ねて救いの場としての教会に重ねる人々もいます。網に示される教会同士の絆が破れそうになったからこそ互いの繋がりが強められ、助け合う間柄となる様子がダイナミックに描かれているという人もいます。しかし、そのような解き明かしだけでは、なぜシモン・ペトロが漁の後にイエスの足下にひれ伏したのかが分からないのです。魚が獲れたのであれば喜べばよいし、教会の教勢が増せば素直に感謝すればよいのです。しかし、シモン・ペトロも他の漁師もそのようには振舞いませんでした。いや、振舞えませんでした。

 『ルカによる福音書』は紀元後80~85年に成立した福音書だと言われています。つまり人の子イエスが十字架につけられ、死して葬られた後に復活したとの出来事、そしてその後の教会の働きを物語として継承するために記された物語です。最後の晩餐を囲んだ時にペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語りますが「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と語る人の子イエスの言葉が理解できません。嗚咽しながら納得できるのは、イエスが自ら身柄を拘束されて夜半に大祭司の家に拉致されていくその折に鶏が時を告げたその時に、自らが人の子イエスを恐怖に駆られて見捨てたまさにその時でした。だからこそすべてに挫折し希望を失い、もとの生業に戻ったそのときに、復活のイエス・キリストに出会ったのであれば、誰もが同じように地にひれ伏すのではないでしょうか。その現実を充分に知りながら、イエス・キリストは語りかけます。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。世のただ中へ漕ぎ出して、あらん限りの交わりを世に投じてみなさい。その交わりはあなたのものではなく、わたしのものなのだから、やり直せるのだと。

 わたしたちは日曜日に礼拝を献げるためにこの場へと招かれます。いったいなんのために毎週日曜日教会に行くのかとご家族に問われた方もおられることでしょう。町内会のわざを覚えながらもこの場に集う方もいれば、こども園の働きの備えの中でこの場におられる方もいるでしょう。しかしこの主なる神から授かった尊いルーティンの中で、わたしたちは過酷な暮らしの中で全てを捨てて人の子イエスに従った弟子の歩みを追体験いたします。この追体験の中でわたしたちは単なる成果への喜び、あるいは出来・不出来の一喜一憂の軛から解き放たれ、イエス・キリストに祝福され、愛されていることに気づかされます。憎しみの渦巻きや不安の渦巻きにではなく、どうにもできない世の渦巻きから神の力の渦により引揚げられてまいります。だからこそ教会では礼拝が何よりも大切にされました。破れに満ちた、しかしその破れ以上に祝福されたその網に身を委ね希望を授かりましょう。

2025年1月10日金曜日

2025年 1月12日(日) 礼拝 説教

―降誕節 第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 


説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)

讃美= 21-268(97). 21‐474,
   21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 先ほど讃美した讃美歌21‐268番。1954年訳のⅠ編97番にあたりますが、今年度はクリスマスの期間には選びませんでした。それはかつて喜ばれたこの讃美歌の歌詞が多くの議論を招いた場面に由来します。例えば1節の「この世の悟りも空しきもの」は旧版では「愚かなる人は来たり学べ」、3節の「憂いある人は来たり告げよ」は「高きも低きもきたりいわえ」となっています。わたし個人としては文語体の表現も捨てがたいのです。なぜなら讃美歌は何らかの人生の記憶と直接結びついているからです。その記憶は決して否定されてはなりません。また牧師自らを省みるに決して賢い者だともこの格差社会の上部構造に属してもいません。けれども旧讃美歌の歌詞を無条件に前提としてしまった結果、クリスマスの讃美に「ひっかかり」を覚えてしまう人が跡を絶えなかった事実を受けて歌詞が改変されるに及んだとされます。現場の奏楽者の葛藤は見逃せません。その経緯を経て現在のところ、先ほど讃えた讃美歌が教会やキリスト教主義学校では一般化しています。
 ただしこのお話は讃美歌Ⅰ編を貶めるためではありません。『聖書』でも概ね30年に一度、翻訳の改訂版が出版されます。その上で手を入れる箇所には作業がなされます。それは30年の月日の中で、わたしたちの暮らし、また用いる言葉が変化するからです。『岩波文庫』の言葉もまた場合によって脚注がつけられます。また教科書の日本語も音楽の教科書に収録される合唱曲も変わります。言葉も音楽同様、川の流れのように絶えず動いていきます。そしてその流れ、則ち文脈を踏まえなくてはその理解は思わぬ誤解をもたらします。若者は年配者の言葉、年配者は若者の言葉を理解できないもどかしさから「最近の若者は」との愚痴が生まれます。古代文明に遺された落書きからも、中高年の溜息混じりの言葉と同じものが発見されます。イエス・キリストに立った上で、この変化を見渡さずには時代に媚びず、されど時代に響くキリスト教教育や伝道は難しいところです。
 本日の箇所では、そのような流れに表される世にあって、ヨルダン川で人々に悔い改めを叫び、「清めのための洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネのもとに人の子イエスがやって来たところから始まります。洗礼者ヨハネは救い主との出会いの中では、預言者以上の預言者だと言われます。『旧約聖書』で神の言葉を委託され、腐敗した政治の中で書物としての『聖書』を忘れた民衆へ生き方を変えるように呼びかけ、癒し励ますのが預言者です。中でも移ろう世にあって直々に人の子イエスと出会うのが洗礼者ヨハネです。しかし本日の箇所でヨハネは人の子イエスを抱擁いたしません。さりとて人の子イエスに「来るべき方はあなたですか」と問いかけもしません。ヨハネは、人の子イエスに「清めのための洗礼」を授かることを思いとどまらせようとします。すでに救い主は人の子の姿をとって世に現れました。洗礼者ヨハネにはこれで充分なのです。「わたしこそ、あなたから〈清めの〉洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、人の子イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。人の子イエスは、ヨハネが行うこの世、移り変わりつつ、清らかさと濁りの双方で混沌とした世にあって、まさしく清めを必要とする人と友になるためにヨハネから水による洗礼を授かりました。これはわたしたちの世界で行われる禊ぎとは全く逆で、汚れを身にまとい、無理解を身にまとい、思うままにならない流れに浸かり、敢えて人々の勝手な期待にその身を縛られるためでもあります。そのような場にわが身を置くことで、イエス・キリストの救い主としての働きは人々を解き放ち、神のあふれる祝福のもと、わたしたちとともにあるとの宣言にいたります。
 わたしたちは福音を「これしかない」と固定したり、縛ったりしたあり方に押し留めてはいないでしょうか。そのような理解は概ね30年で想い出へと過ぎ去っていきます。わたしたちが根を下ろすべきは、老若を問わず、時の流れにある『聖書』の言葉に示されたイエス・キリストです。イエス・キリストは歴史上紛れもなくユダヤ人です。しかしその姿はわたしたちには、ヨーロッパの伝統的な聖画に記されたイエス・キリストの姿になったり、人口が流動的な中東に住んでいたりという理由からアフロアフリカンのイエス・キリストの姿として、またはこの教会で描かれる東洋的な姿として多様に描かれる場合もあります。しかしイエス・キリストの性格や、その顔つきについて書き残した文章は福音書も含めて今日には遺されていません。大切なのはまさしく人の子イエスがキリストとして大地にたち、大いなる救いのわざを始めた事実。その歩みはどのような誹りにあっても紛れもなく神に祝福されたとのメッセージです。いかなる世代にも神の祝福は及んでいる事実を受け容れましょう。