―降誕前第9主日礼拝―
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。
しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。
そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。
そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。
そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。
教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。
