――特別伝道礼拝――
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
まずマルコの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけは、私たち一人一人への呼びかけ、教会への呼びかけとして受け止めたいと思います。ではなぜイエスはお命じになったのでしょうか。向こう岸に苦しんでいる人たちがいたからです。この人は墓場を住まいとしていました。墓場に住むというのは、生きながら死んだ人のように扱われていたと言えるのです。
かつて友人がフィリピンの教会に宣教師として派遣されたこともあり、最初は教会の青年や牧師たちに呼びかけて、学校に行ってからは生徒や学生、教員に呼びかけて何度もスタディツアーを行いました。ある時、フィリピン合同教会の礼拝に出た後、長老さんたちが支援をしている家族のところへ一緒に行こうということで出かけました。そこはお墓の中にあるスラムの一軒でした。このマルコの記事と同じ世界です。このお墓以外にもスラムに住まざるを得ない貧しい人たちが多くいます。生徒や学生にはよく言いました。決してその環境に屈しているのではなく、いのちのために戦っている人も忘れてはならないと。九州教区ではそれまでの欧米志向を反省しアジアに目を向けようということで始まりました。ここでいう向こう岸でありました。その中で生き生きと目が輝いている子どもたちから大切なものを教えられました。
また同時に臨床心理士として子どもや青年、時に大人の苦しみ、悩みにかかわることからも、豊かさや便利さを追求してきたこの社会の病める部分を強く感じるようになりました。そのような価値観の中で、この言葉でいうといろいろな「向こう岸」を作ってきたのではないかと思います。特にマイナスと思えることです。死や老い、病気や障害、特に悩むこと苦しむこと、失敗することなどです。宗教も多くの人にとってそうかもしれません。不登校生の高校生が「うちには宗教がない」と叫んだそうです。今のこの社会への大きな問いです。またこの日本の子どもたちの自尊感が他の国々より低いという調査もあります。
自殺ということではどうでしょうか。私は自死と言った方がいいと思います。この国は先進国の中では自殺者が多いのです。特に気になるのが19歳以下の自殺者の多さには心が痛みます。人は追い込まれたり、いろいろ不幸なことが重なると死を考えるものです。その根底にはこの私など価値がないのだという思いがあることも考えられます。
マイナスと思える苦難の極致である十字架の向こうに大きな救いがあるということがキリスト教の根本です。この社会は死を避ける文化だと恩師は言いました。少しは変わりつつありますが、まだまだです。死は決して決して暗い恐ろしいものではない、これが十字架の死から復活へと進まれたイエスが明確に強く示してくださったのです。死者も私たちも大きな御手の中にあります。天に帰った渡辺君は今も語り続けています。
そのいのちを創りだされた神が、いのちに生きることを望んでおられる。それはマイナスと思えること、失敗すること、悩み苦しむこと、病むこと、障がいを持つこと、老いること、そして死ぬこと、それらに向き合うこと、社会の問題に向き合うこと、向こう岸にわたること、そこにいのちに至る道があると教えられます。