時間:10時30分~
説教=「とりこし苦労からの解放」
説教=「とりこし苦労からの解放」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』13 章5~13節
聖書=『マルコによる福音書』13 章5~13節
(新約88頁)
讃美=Ⅱ80.21‐474.21‐26.可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「わたしの時代はこうだった」「わたしはこれだけやってきた」。誰でも人は経験則に則して常識を考えがちですが、そのような言葉がいつの間にかよかれと思って相手を傷つける「マウンティング」にしかならない場合があります。「マウンティング」とは本来ならば動物行動学で使われる言葉で、ある群れで自分が相手よりも優れている意志を示しながらも争いを避けるために編み出された本能に根ざす行為であると言われます。一般にこのマウンティングが溢れる場所は次第に新しい人が遠ざかり、孤立した集落から限界集落へと転じると言われます。しかしマウントをとる側の気持ちも分からないわけでもありません。明らかに時代の流れが変わっているのにも拘わらずどうすれば分からない場合、相手に自ら背負ってきた常識を超えて何かを伝えるのは至難のわざです。卑屈にならず、相手に媚びずに会話や立ち振る舞いの周波数を合わせたり理解を示したりする場合、相当な工夫や努力を必要とします。
神の国の訪れ。神の愛による世の揺るぎない統治。これを『聖書』は夢物語や死後の世界の話としてではなく、「神自らが約束した、世にあってすでに訪れてはいるものの、まだ始まったばかりの時と場所を問わない救いの訪れ」として書き記します。しかしこの時代のユダヤの民の理解では、ローマ帝国の支配への抵抗意識から、それまでの社会秩序が崩壊し、自分たちだけが神の栄光を授かるとの考えに走る者もおりました。また歪んだ選民思想がその考えに入り込むとの問題もありました。言ってみれば神の救いを前にしての異邦の民に対するマウンティングです。人の子イエスの弟子たちもまたこのような勇み足を踏んでいたと考えます。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。すべての経験則を破壊された人々は必ず新しい権威や拠り所を求めて混乱状態に陥り、次から次へと現れる偽の救い主に惑わされるだろうとの話です。畿内の県知事選挙に関してSNSを用い悪質なデマを流していた一部の人にはカリスマ的な人物が先日逮捕されましたが、その人物への支持者に共通するのは「ウィークネスフォビア」「弱者への憎しみ」という点です。日本社会でいうところの「同調圧力」だと言えるかもしれませんが異なるのは少数者や弱者、異質な者に対するバッシングを通して自分はそうではないとの陶酔に酔ったり荒唐無稽な証明を試みたりするところにあります。しかしイエス・キリストは自らがそのような激しいバッシングの相手となり苦しみを受けられました。「人に惑わされるな」との声は今も響きます。
「戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。この箇所に人の子イエスの冷静かつ現実的な視点を窺えます。「そういうことは起こるに決まっている。まだ世の終わりではない」。そしてこの混乱に「産みの苦しみ」という意味づけをします。女性の出産の苦しみを重ねます。つまり神の国を前に新しい時代が始まるときにはこのような混乱は起こるに決まっているというのです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。今朝の福音書は人の子イエスの十字架と復活の出来事から40年を経て成立したと言われます。書き手集団が見つめてきたのはその次の世代と自分たちの世代、つまり「使徒の時代」の人々が味わった苦難です。なぜこのような苦難を味わうのでしょうか。気づけば皇帝も含めて人に惑わされない少数者となっていたからではないでしょうか。しかしそれでも神の愛による統治は全うされません。
その理由とは「すべての民にイエス・キリストの喜びの報せ」が宣べ伝えられてはいないからです。様々な苦難を経てなおわたしたちは主イエスにあるところの喜びを語り、証しできます。12節にある阿鼻叫喚の世界も、もはや現実に起きている事案です。また、混乱の姿を呈してはいないというただそれだけの理由で憎しみの対象となるのも「人に惑わされてはいない」あり方の裏返しとして十分にあり得ます。「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。様々な世の混乱にあって動じなかった人々は、譬えその身が滅ぼされようとも救われるとあります。10年の間、告別式の折に体験してきたのは他でもない、まさにこの厳粛な出来事です。1945年4月にフロッセンビュルク強制収容所で殺害されたD.ボンヘッファーは不当な処刑の際に及んで次のように語りました。“It is the end, for me the beginning of Life.” 先々の不安に苦しむよりも、いつも人生は素晴しいと語り、互いに祈りあう者になりたいと願います。
