―幼児祝福式礼拝―
時間:10時30分~ 説教=「神のこどもたちに気づかされて」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27節
聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27節
(新約86頁)
讃美=467.461.21‐26.可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「係累に縛られる」または「係累を絶つ」との言葉があります。土地や親戚・親族との関わりの中で曰く言いがたい困難を抱えた人が、家を捨てて、または故郷を捨てて都会に出て仕事に就きます。暫く家族への仕送りを続けたものの、そのつながりを絶ったほうが生きやすさを感じた人々もいました。都会に出れば氏素性を問われず、実力で職場や社会で認めてもらえる、または認めてもらいたいとの願いから家族から疎遠になっていったその果てに、生死も含めて孤独にまつわる課題が問われます。家族を失うとはどういうことなのか。孤独死だけでなく孤独に由来するさまざまな疾病、アルコール中毒や薬物流布の温床となります。そして当の本人は何をどうすればよいのか知識を得られずに衰弱してまいります。日本の都市設計は決してすべての年齢や世代の人々には開かれてはおりません。あくまでも消費の源となる人々に絞り込まれてまいります。
もちろん福音書の世界には現代の消費社会を可能とするような人口も経済構造もありません。けれども『旧約聖書』成立の時代から一貫して流れていたのは「神の祝福」とは「子を多く授かるか」に懸かっていたという、男女の社会的役割が頑なに固定されていたという状況でした。もしも現代で伴侶の同意なく多くの出産がなされたという場合、状況によればそれは夫から伴侶に対する家庭内暴力だと解釈されます。そのような深刻な状況を、ただ人の子イエスを陥れるための詭弁として用いるところにサドカイ派の人々の大きな過ちがあります。こどもを授かれなかった家庭、なかんずく当時の女性が被った社会での偏見はわたしたちの想像を絶するところがあったことでしょう。そして譬え多くの出産を経験したところで女性の被る身体へのダメージを充分に癒すところもなく、授かったこどもたちのもつすべての特性が社会で許容されていたわけでもありません。そのような受け皿を失った社会の無責任さを放置したまま、本日の箇所で祭司職に属するサドカイ派の人々は相続の話を通して人の子イエスを試みます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にはその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか」。確かにこのような品のない議論を吹っかけてきたサドカイ派には酌量の余地があります。それはサドカイ派の拠り所となる『聖書』のテキストとは『律法』のみであり、そこには死者の復活の出来事がそのものとしては記されてはいません。各々の物語は登場人物が世にある生を全うし墓に葬られ節目を迎えます。しかしだからと言って、家族や人間の生死に関わる問題を軽々に扱ってよいとの話にはならないのです。
この態度に対してイエス・キリストは次のように答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者ではなく、生きている者の神なのだ」。アブラハムが埋葬されて数百年の後とされる『出エジプト記』の物語で、なおも神はアブラハムの神であり続けています。アブラハム自ら「大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」との約束にも拘わらず授かったのはイサクとイシュマエル、それもイシュマエルは追放の憂き目に遭っています。さらに人の子イエスは父ヨセフとの血の繋がりはありません。係累からは外れているとの見方もできます。しかしアブラハムの神はモーセには奴隷解放の神として、わたしたちには救い主イエス・キリストを遣わした愛の神として今なお現臨されておられます。その意味でアブラハムもイサクもヤコブも弔いを経ながらも弔いを超えています。『聖書』を土台とした復活の出来事への理解はこのような面からも可能なのです。
DVなどの事情なしに家族を自らの足枷としてのみ考える人がいるならば、今一度その足枷が、行く道を違わないためのキリストに課せられた軛として受けとめる必要があります。松本清張の小説『砂の器』のような、自らの夢の実現のために家族を犠牲にしたところで何も得られません。わたしたちの目の前には何よりの宝である幼子が神の祝福を授かるために招かれました。この場を覚えて祈る方々すべてにとって、この子たちは何よりの希望、何よりの喜びです。22世紀にいたる生涯を歩むお子さんらに、そしてご家族に、主のますますの祝福を祈ります。
