―待降節第1主日礼拝―
―アドベント第1主日礼拝―
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「あなたはなぜ神様を信じるようになったのか」との問いは、洗礼を授かりキリスト者となったと公に言い表す場面と不可分に受けとめられがちです。しかし相応の齢になりますと、そのあり方に到達し、さらにはそのあり方に始まる道筋が実に多様であり語り尽くせぬように思えてきます。そのような理由からわたしは「『聖書』に書いてあるから」としか答えようがないと考えています。それでは福音書の世界ではどのような具合であったかと申しますと、何度も繰り返し申している通り、その場には今日『新約聖書』と呼ぶ書物はございません。その代わり人々は現代では『旧約聖書』と呼ばれる書物を大切にしながら、救い主の誕生を待ち望み、その救い主がイエス・キリストであるとの確信に立ち、その教えと行いを伝え広めてまいりました。そのわざは今日もまた続いています。
しかしかつての教会のあり方として特に際立つのは、世の終わりが近いとの切迫感が今日のわたしたちのあり方と較べてまことに強かったところにあります。例えば水曜日に行なった祈祷会では『イザヤ書』13章をともに味わいました。そのなかではとりわけユダヤ人とは異なる、バビロニア王国による審判が描かれ、そこには「身よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために」という、世に破滅をもたらす終末の一面について記されます。エルサレムの滅亡とともに囚われの身になったユダヤの民がふるいに掛けられ、神に逆らった罪人は滅ぼされるとも記されます。しかし囚われの身、すなわち捕囚の時代が長く続くなか、その後大きな石の下敷きになるようにユダヤの民には入れ替わり立ち替わり交代する支配者のもとで、必ずしも「世の終わり」が世の破滅ではなく、支配する側・される側を超えた神の愛による統治をもたらす救い主が現れるとの待望に熟成されていきます。数世代にわたる異なる民との接触と交わりに基づいて、ユダヤの民だけが救われるのではなく、すべての民が神の愛により苦しみの縄目から解放されるのだとの理解も生まれ、その理解が成熟してまいります。だからこそ『マルコによる福音書』13章でも次のように記される事情が整うのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そいうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。『旧約聖書』では世の終わりの徴とさえ理解された戦争や自然災害や飢饉。これに対してイエス・キリストの教えには「起こるに決まっている」もの、つまり戦争・自然災害・飢饉に神の意志が隠されているのだとする理解からは距離を置くメッセージが秘められています。それよりももっと肝腎な事柄があると人の子イエスは語ります。それは「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」との教えです。
それでは神の愛による統治でもある世の終わり、立ち入って言えば世の支配や苦しみの終わりとはいつ訪れるのでしょうか。この問いに答える箇所こそが本日の福音書の言葉です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じだけである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」。イエス・キリストが人の子イエスとして語った教えには、終末の訪れについては具体的には語られていません。それはわたしたちに神の愛の証しとしての宣教が委ねられているからに他なりません。語られてはいないからこそ、神の愛を証しし、その教えを伝える役目を授けられているのです。いったいその時代の誰が、救い主は飼葉桶にお生まれになると予想し得たでしょうか。クリスマスの出来事が起きるときでさえ、世の権力を振るっていたヘロデ王にも、そのはるか上に立つローマ皇帝にも、救い主がどこに生まれるのかは隠されていたのです。
だからこそわたしたちは、世に祝われる祝祭としてのクリスマスのなかに、イエス・キリストはどこにおられるのかと問い尋ねてみたいと願います。無抵抗で弱い、世には無力ないのちがあればこそ、理想からかけ離れたぼろぼろの姿になればこそ、救い主を待ち望むため「神の言葉」としての『聖書』に触れましょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と『マタイによる福音書』7章にはあります。簡易な人工知能での説明は「積極的に行動することで、求めが満たされたり、困難が開かれたりすることを説く言葉」だとあります。しかし本来はそのような処世の枠には留まらないのが福音です。それは人に限らずすべての生きとし生けるものに関わり、かつすでに天に召された方々の遺した歴史、さらにはその方々が指し示すわたしたちの行くべき道に関わる「神の重大案件」を包むのです。人生の意味などないとふてくされる暇はありません。すべては虚しいと立ち尽くす暇もありません。虚しさを満たして溢れる喜びがすぐ近くに宿されています。待降節のともしびを、ともに仰ぎましょう。
