―聖霊降臨節第17主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「弱さ」
吉村厚信補教師
聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
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本日の説教台、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。