2023年12月28日木曜日

2023年 12月31日(日) 礼拝 説教

  ー降誕節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「父親ヨセフが去った後に」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 2章19~23節
(新約聖書  3頁).

讃美=119,118,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
  クリスマスを扱う絵画を始めとした美術作品には、飼い葉桶に眠る嬰児イエス・キリストの姿、母マリアの安堵した表情、または天使ガブリエルのお告げ、洗礼者ヨハネの母であるエリザベトと父ザカリアのエピソード、また東方からの三人の博士や羊飼いの物語はよく扱われるところですが、そのような人々に較べてその姿が霞みがちなのが人の子イエスの父親ヨセフの姿です。幼子イエスとマリアとヨセフという家族が描写されれば自ずと母マリアとイエスとの関係が強調されますし、ローマ・カトリック教会でも東方正教会でも母マリアの膝に座ったり抱かれたりした幼子イエスという構図はステンドグラスやモザイクグラスを問わず集う人々に日常とは異なる聖なる香りと安らぎを醸します。しかしその場で父ヨセフが描かれる作品は実に少ないとの印象を受けます。

  ただ福音書では幼子イエスとの血のつながりは無いのにも拘わらず、鍵となる場所にあっては必ず居合わせ、わたしたち一般的な常識に囚われた人間の苦悩を象徴的に表わす重要な役目を担っているようにも思われます。

  『マタイによる福音書』の1章では、系図の終わりが血筋としてはヨセフで終止符を打つことにより、マリアの処女懐胎という途方もない生命の秘義が大げさな驚きと共にではなく実に淡々と描写され、これが『ヨハネによる福音書』1章の「血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」との文言の伏線にもなっています。そしてイエス・キリストの誕生に向きあう許嫁のヨセフの苦悩を通して、イエスが他の男性との関わりの結果授かった場合、その時代では石打ちの刑に処せられるマリアのいのちを救う道筋を、自らの婚約を解消してまでも尋ね求めその活路を見出そうとする一人の伴侶の必死な姿を現わします。そして東方の三博士によって自らの王権を否定されたヘロデ王の刃からイエスを救うために、本人としては前人未踏のエジプトへと逃れていきます。もちろんエジプトも当時ではローマ帝国の勢力圏内となりますが、統治の役目を担う総督からして異なるこの家族を支えるために仕事を選ぶことはできなかったでしょう。夢の中での御使いの言葉を頼りにしながらでは、従事しうる労働とはほぼ肉体労働に違いなかったかと考えられます。ローマ帝国では土木事業が極めて盛んであったからです。そしてベツレヘムでの幼児虐殺事件を辛くも逃れて故郷に戻り、イスラエルの地に帰ってきたものの、ヘロデ大王の息子アルケラオが統治していると聞き、ガリラヤのナザレの村に暮らすという、救い主イエス・キリストの生涯の物語の序章の要となりながらも、父親ヨセフは静かに姿を消していくのです。

  なぜこのような仕方でイエスの父ヨセフは福音書に姿を現わし、そして去って行くのでしょうか。勿論その時代、イエス・キリストの交わりに加わった女性たち、また初代教会の交わりに加わった人々の中には、父親や伴侶を失ったという人々は多かったことでしょう。福音書には「やもめ」という境遇に置かれた女性が少なからず登場します。また人の子イエスの周りに集まったこどもたちと、そのこどもたちを連れてきた人々との関係が親子関係にあったとは決して断定的には説明されません。肉体労働に従事し事故に遭ったり、戦争が起きれば兵士や軍属のような仕方でローマ帝国に徴用されたりする可能性もあり、当然女性よりは生命の危機に遭う機会は多かったことでしょうし、また家族の中で先立つ機会も多かったことでしょう。けれどもだからこそ、イエス・キリストはそのような人々と向きあう上で欠かせない痛みを深く知っていたのではないでしょうか。

  イエス・キリストが人々から祈りの仕方を乞われた折に伝えた、後に「主の祈り」として知られる祈りがあります。それは週毎に聖日礼拝でも献げられます。その文言の中には神という言葉はひと言も入っていません。それは「天にましますわれらの父」との言葉から始まります。この「父なる神」という言葉には、幼子イエスの胸に残像として残った父ヨセフの姿が全くないと言えば的外れになるのではとも思います。ヨセフとイエスの間には血縁はありませんした。神とわたしたちの間にも血のつながりはありません。教会員の間にあっても血のつながりのある家族ばかりだとは申せません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストが授けてくださった祈りを献げながら、血のつながりを越えた交わりを広めていけるのではないでしょうか。イエス・キリストが父と呼んだ神を、わたしたちはともにしているからです。父親ヨセフが去った後に、イエス・キリスト自らの生涯が始まります。その始まりは、新しい年のあゆみのはるか先を指し示してもいます。