2024年1月6日土曜日

2024年 1月7日(日) 礼拝 説教

ー降誕節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「見なさい、神のこひつじを」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 1章29~34節
(新約聖書  3頁).

讃美=164,234 A,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 クリスマスの季節が明けて初めての聖日礼拝。わたしたちは今朝の『聖書』で「こひつじ」という言葉に触れています。泉北ニュータウン教会の創設者のお名前が土山牧羔、則ち、こひつじを牧するとのお名前であり、また教会に根ざす事業体が「こひつじこども園」「放課後等デイサービスこひつじ」とありますように、この名は『聖書』に頻繁に見られるいきものに由来しています。実際の暮らしでも鶏肉はチキン、牛肉はビーフ、豚肉はポークと家畜の年齢を問わず呼ばれますが、羊の場合には一歳以下の羊をラム、それ以上をマトンと呼び厳密に区別いたします。ちなみに福音書そのものも羊の皮から幾度も脂肪を抜いて乾燥させた羊皮紙に記されています。それほどまでに『聖書』の世界では暮らしに不可欠でした。

 それなしには生存が考えられない家畜であり、なおかつ「神自らの羊」として洗礼者ヨハネは人の子イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現われるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」と語ります。他の福音書と較べて興味深いのは人の子イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを救い主として名指しをするところ、そして「わたしはこの方を知らなかった」と明言する箇所です。

 「見なさい、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣言するからには、相応の背景があったはずです。おそらくは『ヨハネによる福音書』の記された年代とも関係するところでしょう。イエス・キリストの人の子イエスとしての姿をありありと描くものには他の福音書がありますが、どれもイエス・キリストが十字架に架けられ、復活する出来事から40年から55年ほどは経過して成立します。つまり「イエス・キリスト」の姿を心に焼きつけた人々がその出来事を忘れまいと努めるなかで『ヨハネによる福音書』の場合はさらに10年ほど後のものとなっています。そうなりますと、使徒と呼ばれる人々がイエス・キリストの教えと生きざまを伝えようとしても、その時代には遙かに力をもっていた古代ギリシア思想の影響を避けられなくなります。実際『新約聖書』はギリシア語で記されています。その中でさまざまなイエスに関する誤解が起きてまいります。ある人は肉の欲をすべて絶ち、誘惑の源であるところの身体を十字架の上で消し去った行者としてのイエスの崇拝を試みます。極めて意志の強い修験道の行者のようなイエスです。実際とはかけ離れたイエスのイメージが幅を利かせる中で「世の罪を取り除く神の小羊」との叫びが響きます。「こひつじ」とはたとえ羊飼いに飼育されていたとしても極めて弱い生き物です。どれほどその時代の羊の野性味が強いといったところで、オオカミの牙や熊の手にかかればまるで熟れたフルーツのように切り裂かれてしまいます。病気にも決して強いとはいえません。ですから群れは羊飼いの手を借りなくても必死になって小羊を守ろうといたします。それほどまでに「小羊」は弱いのです。そのような弱さこそが神の愛のそそがれるべき存在であり、だからこそ「神の御子」と呼ばれていくのであります。その姿は洗礼者ヨハネの目にさえ映らぬほど小さなものでありました。

 大晦日の礼拝が終わり、わたしは急ぎ西成区あいりん地区の通称釜ヶ崎で行なわれる越冬闘争に出てまいりました。「闘争」と言ってもそれはだいぶクラシックな物言いで、実際には年末年始に一人の凍死者も出さないという長きにわたる取り組みが行なわれています。そこで活動される本田哲郎神父がおられます。その訳書に『小さくされた人々のための福音書』があるのですが、ホームレスの方々にお尋ねしたところ、様々な意見があり「わしは小さいもんとちゃうぞ」との言葉もあります。しかしわたしたちすべての人間がその小ささや弱さを実感することで避けられる争いや摩擦というものもあるのではないかと考えます。自らを大きく見せようとするからこそ争いが生まれます。それは「神の小羊」のあり方とは対極にあるあり方で、結局はやがて潰えていく強がりなあり方ではないでしょうか。イエス・キリストは教えのごり押しなど一度もされません。小さな者だからこそ授かったその器が、主なる神の大いなるわざに用いられていくのです。