2024年1月10日水曜日

2024年 1月14日(日) 礼拝 説教

   ー降誕節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「来なさい、そうすれば分かる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 1章35~42節
(新約聖書  164頁).

讃美=121,21-13(1~5),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 『ヨハネによる福音書』は、他の福音書に較べてその成立が十年ほど遅いというお話は前回の説教で触れました。そのような特徴を考えますと『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』にある福音書の他の「三部作」をすでに知っており、執筆の際に黙想とともに新しい福音書の執筆に着手したようです。その意味ではイエスの人としての歴史性というよりも「神の子キリスト」という超越的な理解が強調され、それに伴って物語に登場する人々の設定に手が加えられてもいます。

 本日の箇所ではガリラヤ湖で漁師であったはずのシモン・ペトロの兄弟アンデレが洗礼者ヨハネの弟子の一人として描かれています。わたしたちはこの設定の改変に驚くのですが、同時にそこにはやはり『ヨハネによる福音書』の書き手集団の伝えたかった事柄があったはずです。

 以前にも申しましたとおり、洗礼者ヨハネは、例えばファリサイ派と同じように古代ユダヤ教の集りであるエッセネ派というグループと深い関わりがあるとされています。エッセネ派とは荒れ野で『聖書』の研鑽に励み、生活共同体を作り、水によるきよめに重点を置いて暮らす人々として知られています。そしてその集りは同時に、都市や村落ではその生存が危ぶまれていたこどもたちの受け皿として働き、様々な特性をもつこどもたちがそこで育ち、群れの維持や運営に責任を担いうるこどもたちが次世代の舵取りとして研鑽に励んだと言われています。血のつながりに拠らず、洗礼者ヨハネの弟子の一人であったとされるアンデレがまず他の弟子とともにイエス・キリストに従い、そしてアンデレが兄弟であるシモン・ペトロに声をかけて弟子として従うという物語が描かれます。わたしたちのよく知るガリラヤ湖の湖畔の物語はこの箇所では描かれません。「来なさい、そうすれば分かる」との言葉が本日の記事には轟きます。

 さて始めからイエス・キリストを「見なさい、神の小羊だ」と名指しすることのできた洗礼者ヨハネでしたが、果たして他の福音書でその姿勢は一貫していたでしょうか。実のところそのような毅然とした態度が揺らぐ箇所があります。それは『マタイによる福音書』11章に記されています。この箇所で、洗礼者ヨハネはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスを批判したかどで身柄を拘束され投獄されています。その悶々とした中で、イエス・キリストの教えと行いを耳にして自分の弟子を送り問わせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネの姿は、本日のまことに毅然とした姿と、このように獄中生活を過ごす中で本当にイエスがキリストなのかと問わずにはおれない姿の間で揺れ動いています。この揺れ動きこそ、実は洗礼者ヨハネの姿としては実相に近かったのではないかと考えます。わたしたちの信仰も重なるところがあります。礼拝に招かれ出席するところは教会員の側からすれば暮らしの一面でしかないと言えなくも無いところがあります。そのようなあり方をして「自分の信仰」の是非を問うたところできりがありません。『旧約聖書』『新約聖書』を通じて描かれるのは神に従順である人々やキリストに従う人々の姿はごく限られており、むしろ仮に洗礼者ヨハネであったとしても「イエス様は何者なのか」と問わずにはおれない揺らぎを伴いつつあゆんでいるところが際立ちます。『聖書』には誰一人として超人は登場いたしません。失敗のない成功人生に導く師匠のような人もまたおりません。『聖書』に自己実現のマニュアルを求めるのであるならば、他のビジネス書をわたしはお勧めします。そうではなくて、譬え自らのもとから離れていっても、そのことを「卒業」のような節目として却って喜ぶような、自分の限界を知る人々が違いに支えあう姿に彩られています。本日の『聖書』の箇所で、洗礼者ヨハネはともに歩いていた弟子をすべて人の子イエスのもとに送ります。「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ―<先生>という意味―、どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは,『来なさい、そうすれば分かる』と言われた」とあります。揺れる気持ちの中で新たにされる出会いがそこにあります。十の説明よりキリストに従う中で与えられる出来事への気づきを大切にいたしましょう。