ー降誕節第4主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「主なる神の平安に満ちて」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』 2章1~11節
(新約聖書 165頁).
讃美= 217,21-224,541.
ガリラヤのカナでの婚礼の宴に招かれた人の子イエスと弟子、そして母マリア。他の福音書には見られない、宣教活動に入ったイエスが弟子とともにではなく母親と同伴して披露宴に招かれるという珍しい場面を『ヨハネによる福音書』は描きます。婚礼の席ですから笑い声が聞こえ、人の子イエスもその笑い声に連なっていたことでしょう。ところでこの時代の宴のスタイルは今日の目にするものに較べて実に長期にわたりました。概ね10日ほどかかり、その中には新郎が『律法の書』を朗読したり、新婦が新郎とともに罪の悔い改めのために断食をしたりする日まで設けられます。いずれにしても厳粛な礼拝によって二人の関係が裏づけられ、タイトなスケジュールの後の宴ですからなおのこと喜びに溢れていたことでしょう。 ところがこの宴で予想しなかったハプニングが生じます。宴に用いるぶどう酒が足りなくなってしまったのです。これはあくまでも主催者たる長老たちから委託された世話役の役目ですから、新郎・新婦には責任ではありませんし、ましてや人の子イエスと母マリアが出しゃばる必要もありません。しかしざわつく宴の席で母マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなったよ」と伝えます。この箇所で興味深いのはイエスが母マリアに決して従順であったわけではなく、翻訳では「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と口答えするところにあります。このような不自然な日本語を用いるより「お母さん、それはわたしと関係ないでしょう。この場は救い主として働くタイミングではありませんよ」と受けとめたほうがよいかもしれません。しかしイエスのそのような申し出とは無関係に母マリアは「この人が何か申しつけたら、そのとおりにしてください」と勝手に申しつけてしまいます。1メトレテスは39リットル、それが六つあったのですから相当な分量です。その容積の水瓶にイエスが水を入れるように申しつけます。総量で234リットル。一斗樽で概ね十三樽というかなりの分量です。この物語がわたしたちに訴える事柄とは何でしょうか。
まず、イエス・キリストは人々の悲しみの席にも喜びの席にも人知れずおられるという指摘です。この箇所をして初代教父たちは「イエスは笑ったか」という問いを真剣に論じました。その議論そのものが現代のわたしたちには微笑ましいのですが、その時代には救い主の権威をめぐる問題として真剣に話し合われたのです。宴席で水をぶどう酒に変えるよう無茶振りされたイエスがもし笑いを知らない人であれば、この場所で敢えてこのようなわざを行ないはしなかったでしょう。次に、キリストを通して明らかにされる神の出来事は、キリスト自らはわたしたちの身近なところに宿りながらも、わたしたちは気づかないという点です。ぶどう酒を味わう人は、それがキリストのなさったわざだとは誰も気づきません。わたしたちは気づかずにキリストの恵みに預かっているとの理解がこの箇所から解き明かすことができます。そして婚宴の席に招かれたすべての人々は、世話役もバックヤードで働く人々も含めて、かぐわしいぶどう酒の香りにつつまれるという物語です。
わたしたちとイエス・キリストは、実はこのような香りによって結ばれています。わたしたちの日常は決してこのような晴れがましい婚宴の席を楽しむようなものばかりではありません。汗につつまれ、土埃にまみれながらわたしたちは生きています。さらに言えば、そのような装いとは程遠い暮らしに置かれるときもあります。しかしわたしたちはわれ知らずしてキリストの香りを帯びるだけでなく、天に召された方々と世にある復活を通して再会するその時に、キリストの花嫁としての芳しさにつつまれるのです。それは滅びにいたる臭気とは全く異なっています。このようなメッセージを届けられたその時代の奴隷たちは、農民たちは、神の備え給う「非日常」をどれほど喜んだことでしょうか。イエス・キリストが人々に伝え、また証しされようとした主の安息とはこのようなものではなかったかと思うのです。キリストのユーモアと香りの中で育まれる交わり。それはわたしたちの思いがけないところで育まれ、喜ばしい潤いとなります。時が来れば、わたしたちもキリストが設け給う宴席の中で深い平安を授けられ、悲しみの中にも喜びと新しい出会いを備えられるのです。その平安に満たされて新しい一週間を始めましょう。