ー待降節第1主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「闇をひらく救いのひかり」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』7章25~31節
(新約聖書 178頁).
讃美=94,495,540.
イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベント第一週を数えるこの聖日、わたしたちは改めて救い主を授かったマリアに向けられた神の愛の力に思いを馳せます。御使いガブリエルの受胎告知は人々の知られるところですが、決してあり得ないはずの受胎告知とその後の「処女降誕」と呼ばれるキリストの誕生の出来事は、いのちが神の秘密に絶えず護られているさまをも示しています。 その箇所に劣らず『ヨハネによる福音書』の本日の箇所にも、神の愛の力、則ち聖霊の力を深く聴き取らずにはおれない箇所です。世にあって力ある者から狙われているとするならば、あまりにも無防備に見える人の子イエスの姿。その姿に驚いたのか、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた、と申します。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ」。
『ヨハネによる福音書』の場合では、エルサレムの人々にさえ、すでに人の子イエスの出身がどこで何をしていたのか、生業は何であったのか、家族構成はどのようであったのかという、今日で言うところのプライバシーまですでに知られていたかのような会話をいたします。今日では誰にでもあり得る事態であるかもしれませんが、わたしたちであればその事態に憤りを覚えたり、恐怖を覚えたりと動揺したり狼狽えたりするのはその時代の人々も変わらなかったでありましょう。人々の目の前にはあまりに無防備すぎる人の子イエスの姿がそこにはあるのですが、エルサレムの議員たちさえ手出しをしようとしません。そのせいでしょうか、すでにエルサレムの議員たちもイエスをメシアとして認めたのではないかとの噂すら広まっていきます。
このような噂に対して人の子イエスは答えます。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている」と断言します。それだけでなく、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。その方がわたしをお遣わしになったのである」とその身の上ではなく、誰がイエスを世に遣わしたのかを「大声で」宣言します。これが自らを敵視する者をも含む人々への人の子イエスの証しです。その無防備な姿だけでなく無防備な証しにより何が起きたというのでしょうか。第一には「イエスを捕らえようとした人々」でさえ「手をかけることがなかった」ところ、そして第二には「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くの徴をなさるだろうか』と口にする」という態度でした。
先週のイエス・キリストとローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトとの関係に触れた時でも申しましたが、人の子イエスとわたしたちとの違いを際立たせるものは何かと考えますと、まず思い浮かびますのには、人の子イエスは徹底的に神に疑いなく信頼を寄せているという姿勢です。キリストとの関わりの中でわたしたちは破れを自覚しながら、なおも「キリストに従う」扉が開かれます。逆に人間の姿しか見えない人々は、破れに満ちたわたしたちも含めて、絶えずどこかに怯えがあります。その怯えは不安や混乱、暴力や争いをもたらします。わたしたちは強いから争うのではなく、競争力を体得しようとするのではなく、その弱さに無自覚だからそのように立ち振る舞おうとするのです。しかしその振る舞いが却って虚しさをもたらす瞬間があります。必死に働いてはみたものの、その結果わたしたちは自らのいのちや家族との関わりをすり減らすほかなかったという苦さを感じたことはないでしょうか。経済的に裕福にはなったけれど、引き換えに自然環境さえ台無しにしたのではないでしょうか。高度経済成長期の企業間の競争、受験戦争、業績の争いといった、個人としてはいつの間にか画一的なテーブルに乗せられての競争を美化せずに思い出すのであれば、その競争が誰を幸せにできたのかと再考してもよい時期に来ていると『聖書』は訴えているように聞えるのです。
徹底したイエス・キリストの態度の無防備を可能とするのは、聖霊の力以外にはありません。それは熱狂に当事者を導くのではなく、深い感動を伴う冷静な態度で自らのなすべき備えを整えていく道を拓いてまいります。その道が誰から何と言われようとも、神に示された道だからこそ、十字架と復活への道をイエス・キリストはあゆまれました。翻ってわたしたちはその姿を『聖書』から聴きとってどのように証しするというのでしょうか。『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ』5章16節には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とパウロは語ります。絶えず破れを抱え、「できない」と決めつけるわたしたちだからこそ「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい」との言葉が響きます。飼い葉桶に安らう幼子イエスの姿に凝縮された生き方は、何の飾り気も無くわたしたちの身近なところに隠されています。その連なりが光となり、あらゆる闘争の闇を越え広がる世をこころから望みつつ、ともに祈りましょう。