2023年12月21日木曜日

2023年 12月23日(土) クリスマス 夕礼拝 説教

ークリスマス 夕礼拝ー

時間:午後7時30分~



説教=「世のかなしみへの勝利」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2章 1~12節
讃美=21-469、21‐255、
   21‐247、21‐267、
   Ⅱ‐259(讃美歌は1節のみ歌います)

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、19時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 クリスマスと申しますとわたしたちはぬくもりに満ちた時と場所、また家族や特別に親しい人との語らいなど心が深く休まる時を思い起こします。「クリスマスまでに」という枕詞に続く言葉には「仕事を終えよう」や「故郷に帰ろう」というような含みがもたらされるのは確かです。

 しかしわたしたちが今宵直面する『聖書』のテキストの言葉には、そのような穏やかさとは異なる物語が展開されています。例えば救い主の誕生の兆しである星を目指し東の方から訪れた三人の博士たちは、その時代のユダヤ地方に君臨していたヘロデ大王に向けて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」と問います。この問いかけは事実上ヘロデ大王の統治を否定する発言でもあり、穏やかならざる事態をイエス生誕の地にもたらします。王もエルサレムに暮らす富裕層もみな一同温かな気持ちどころか不安を覚えることとなりました。王は重い腰をあげ、王宮に仕えるのではない、本来は「民の祭司長たちや律法学者」たちを総動員して「ユダヤ人の王」でもある救い主の誕生の場所を問い質します。この慌てぶりからはヘロデ大王は決して日々『聖書』に親しむ生活を送ってはいなかった態度が分かろうというものです。総動員の結果分かった土地の名前はベツレヘム。場所が特定された後には東方からの客人でもある占星術の学者たちを表立ってではなく「密かに」集め、時を確かめた上で「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも言って拝もう」とあたかも政権転覆を狙う反乱分子を探す密偵のように、学者を用いようと企みます。このように福音書のクリスマスの出来事のメッセージは表向きにはクリスマスの出来事、すなわち御子イエス・キリストの誕生を通してすべてのいのちが祝福されるという喜びに満ちた出来事を伝えようとする一方で、その陰で全く真逆の方向に動こうとする、すなわち虐げられた人々の希望と喜びを消し去ろうとする闇もまた忘れず書き記すという態度は福音書の書き手のまことに現実的な一面であります。

 先ほどの『讃美歌21』469番は恐らくみなさまにおかれましては始めて讃美される歌かと存じます。別バージョンの讃美歌ではもっと明るい雰囲気で歌われもするのですが、あえて今回は厳粛なイメージのあるオリジナルの曲を用いました。作曲者オットー・アーベルは1905年に生まれ1977年に天に召されています。72年の生涯です。一方で作詞者ディートリヒ・ボンヘッファーは1906年に生まれ1945年、39歳の折に敗戦間際のドイツのナチ政権により殺害された神学者です。もしも平和であったならば、この二人は語らう時も十分あっただろうし、家族ごとの交わりも充分楽しめたことでありましょう。けれども戦争の爪痕は二人の人生をまるっきり変えてしまい、ヘロデ王ならぬヒトラー政権の暴力によってボンヘッファーはそのいのちを絶たれてしまったこととなります。その意味ではヘロデ王に殺害されたベツレヘムのこどもたちと同じ道を辿ったこととなります。しかしわたしたちが関心を向けるべきは、このボンヘッファーが処刑の直前に遺した最期のことば、すなわち「みなさんさようなら、しかしわたしにはこれは新しいいのちの始まりです」という、いのちの終わりではなく新しく差し込む陽の光をほのめかすメッセージを遺していたというところです。この言葉はアーベルにはどのような印象とともに受けとめられたのか、それがこの曲全体に響いているように思われます。

 新型感染症禍が収束しつつあるとはいえ、決して時計の針を逆転させて「あたかも何事も無かったかのように」物事を考えられるほどわたしたちは愚かではありません。むしろ速度と効率を以前よりも増して求めていく社会に懸命についていこうとしながらも、虐げられた人々と手を繋いだり、自分の立ち振る舞いが他人の心を傷つけていたりはしないかなどと顧みる時間が奪われていく気さえいたします。けれどもその慌ただしさに「待った」をかける途方もない出来事が起きようとしています。イエス・キリストの誕生こそまさにその出来事です。どのような冷たい風に吹かれてもこの温かな灯火は決して消えることはありません。それどころか、わたしたちの胸の内に次々とその光は灯され、広められていきます。キリストの誕生に秘められた神の愛の確信とその証しは人々の交わりを輝く場とします。世の悲しみへの勝利の声が響き渡ります。