聖書箇所:マタイによる福音書24章36~44節
バビロン捕囚以降、ヘブライ人は絶えず強大な異国の民の支配下に置かれた。自由はもはや与えられず、常に何者かによって虐げられる憂き目。イザヤ書2章1節からの預言にはその行き詰まりにあって、なおも主が道を開拓してくださるとの終末論的希望が語られる。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから来る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。多くの争いや戦争の記事が描かれ私たちの困惑する旧約聖書。けれども人の愚かさや醜さをこれでもかと踏まえたうえで、イザヤ書は主の裁きが転じて人々の剣を鋤とし、槍を鎌とする、つまり争いから人みな地を耕す平安を備えると約束する。この終わりの日は、救い主の訪れに示される。それは思いがけない日に訪れるとマタイによる福音書の書き手は記す。
私たちは待降節の中で収穫感謝日礼拝を迎えた今日、何を待ち望むというのか。確かに主イエスの誕生は神の現臨される、終わりの日の先取りとして刻まれる。救い主の待望は、終末論的な響きを伴う。その響きとともに、ルカによる福音書でイエスの母マリアが天使ガブリエルから受胎告知と洗礼者ヨハネの母エリザベトの祝福を受けて語った言葉を私たちは聴く。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えで人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。マリアの賛歌を熟読すれば、権力と身分の大変動が記され、次いで、食に事欠き、ひもじさに苛まれている人々がもはや生きるに窮する必要もなくなり、富めるものとの立場が入れ替わる。そしてその大変動は、創世記で族長達を導いたアブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神からそそがれる力に基づくものなのだとの確信がある。このわざを行うのはインマヌエルの主ご自身であるところに私たちは信頼と希望を置く。これこそが後世に託せる最大の遺物であると待降節の始まりに確信したい。