2016年11月13日日曜日

2016年11月13日「こどもたちと神さまの恵みを分かち合う暮し」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1~10節

 ヨハネによる福音書では、主イエスがティベリアス湖の向こう岸に渡られたとある。ティベリアスとはローマ帝国の第二代皇帝ティベリウスに由来する。この記事からは、ヨハネによる福音書が記された時代には、ガリラヤ地方にはローマ帝国の圧力が増し人々の苦しみは他の福音書にも増して不自由であったことが想像できる。その中で主イエスは弟子のフィリポに「この人たちを食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と問う。ヨハネの書き手はこの問いがフィリポを試みるためであったと記す。
 問題は「買う」という言葉。食べさせるために今日でいう市場原理の中で用いられる物差しをもって弟子に問いかける。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答える。当時の日雇い労働者の日当は一デナリオン。今では8,000円から10,000円と見なすべきだろう。このため息交じりの言葉は、もしお金で人々を満たそうとするならば無理だと弟子に言わせているとも読み取れる。
 次にアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」と口を挟む。少年は食事の問題で困っている弟子たちに、無心で自分の弁当、あるいは自分の家族の弁当を差し出したのかも知れない。ガリラヤ周辺の人々は所用で出かける際には食事を持参することは珍しくなかった。アンデレは少年の無垢な好意を差し置いて呟く。「けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
 主イエスは少年が献げたパンを取り「感謝の祈りを唱えてから、分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」。主イエスは食事を少年から買ったのではなくて、献げようとしたその無垢で素朴な思いを受けとめ、不平ではなく神への感謝とともに群衆に惜しみなく分け与えた。その結果12の籠は残ったパン屑で一杯になった。12人の弟子たち・新たなイスラエルたる教会もまたその恵みによって満たされた。本日は幼児祝福式を執行する。激しい格差社会にありながら全てのこどもたちが満たされるための証しのわざが教会には求められている。神さまの恵みを分かち合う暮しがそこにある。