2016年11月6日日曜日

2016年11月06日永眠者記念礼拝説教「ラザロの家族とともに」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章28~37節

ヨブの呻きや悲しみは、人には当事者しか立ち入ることのできない傷みを示す。その理由を問わず大切な人を失った悲しみを癒す手立てを人のわざとして私たちは知らない。その厳粛な事実を踏まえながらの「ラザロの死と復活」の物語。ラザロの地には主イエスへの憎悪が渦巻いていた。決死の覚悟のもと、一行はラザロの姉妹マルタのもとを尋ねます。マルタは世の終末の復活信仰に立つ女性であった。イエスをメシアだと告白していた。そのマルタともにマリアはイエスのおられる所に来て「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟はしななかったでしょうに」と涙を流す。私たちの言葉には破れが伴う。人の言葉になった途端神の国への確信やイエスがメシアであるとの信仰告白も悲しみを癒すには充分ではない主イエスもこの場に臨んで、所謂平常心を保ち得なかった。「イエスは涙を流された」。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」との言葉もラザロへの悼みの言葉としての陰を帯びていく。
墓地への途上マルタは「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」と、その死が揺るがぬ事実であると伝える。身体は朽ちていく最中。けれどもこの箇所で、イエスはマルタが終末信仰への確信を語っていたことを繰り返す。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。身体と同じく人の抱く悲しみもいずれ終わりを迎える。創造主なる神の栄光を見たくはないのか。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聴いてくださることを私は知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りに居る群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。主イエスの祈りは願いではない。神への感謝と確信から始まる。それがラザロの復活の宣言となる。
主イエスキリストに示された神の力が私たちに示されたとき、いかなる苦しみも悲しみも全て癒され、涙も拭われ、全てが新たにされる。ヨブの苦しみも悼みも癒され、助け主なる聖霊は私たちの背中を押してくださる。老若を問わず、私たちの目からみれば亡くなったと見なされる、眠りについた方々は、今なお主のみもとで、わたしたちを励ます。ゆえに永眠者記念礼拝は召天者記念礼拝との面を併せ持つ。天に召されていよいよ力を増す私たちの家族、動労者、兄弟姉妹。イエス・キリストを仰ぐとき、私たちもラザロの家族と同じように深い癒しと希望に基づいた確信を授かるのだ。