聖書箇所:使徒言行録28章1~10節
海難事故から救助されたパウロはマルタ島を管轄するローマ帝国の長官プブリウスと出会う。パウロはプブリウスにマルタ島の長官という公の立場を踏み越えて長官の家族と関わる。プブリウスの父親は下痢を伴う熱病に罹っていた。パウロは祈り、手を置いてその苦しみを癒した。マルタ島の他の病人もやってきて癒しを授かる。本来なら避けられなければならないはずの重篤の病が、パウロの癒しを通して島の人々の交わりが新たにされる。このような仕方でパウロは証しを立て、深い敬意とともに船出の際には必要な支援を受けた。
もちろん人の信仰に神の恩寵が先んじるとパウロは語る。ゆえに信仰の深い・浅いあるいは短さ・長さは根本的には問われない。使徒言行録は英雄伝ではない。一度は主イエスを離れた弟子を、また教会迫害の過去をもつパウロを、使徒として神が用いた道筋が記される。だから本日の聖書の箇所にあっても「船出のときには、わたしたちには必要なものを持ってきてくれた」と記されても「わたしたちには望むもの」あるいは「欲するもの」とは決して記されない。必要なものは神自らが見極める。今必要なものに足りていても、欲する思いは足ることを知らない。その思いが余って、必要なものに事欠く人々への眼差しが塞がれてしまうことも充分あり得る。使徒言行録の物語に我が身を投げ込んでまいりますと、懸命に遭難者の救助にあたってはいても、大局的な展望を忘れ、パウロの腕に絡みつく蝮一匹で右往左往するような者であると気づく。
パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と記す。私たちは時折この言葉に違和感を覚える。文体が勧めではなく命令になっているところだ。実はこのわざが困難だからこそパウロは書き記したのではなかろうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』5章で明確に信仰義認論を展開する。その一方で『ヤコブの手紙』では「行いを欠いた信仰は死んだもの」とも記される。信仰と行い。両者を結ぶ必要にして最大のわざは何か。それは十字架の主、クリスマスの主であるイエス・キリストを仰ぐことだ。そのときにこそ、折に触れて訪れる節目としての人生の船出に何が必要なのかが必ず示される。