2018年5月27日日曜日

2018年5月27日(日) 説教「キリストに従う道は誘惑を退ける」 稲山聖修牧師

2018年5月27日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「キリストに従う道は誘惑を退ける」
『ローマの信徒への手紙』 8章31~36節
『ルカによる福音書』 4章 1~13節

稲山聖修牧師

主イエスは40日間空腹の中で悪魔から誘惑を受けた。まず救い主イエスに向けられたことばとは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。もし初めから悪魔がその姿を誰にも分かるように現しているならば、誘惑は成り立たない。誘惑には魅力がつきものだ。限界状況の主イエスには、悪魔そのものよりも「パン」ということばに誘惑の種を見た。実はそれは主イエスが天に昇られて後、教会が抱えずにはおれなかった課題でもあった。この箇所で「悪魔」と訳されるのは「ディアボロス」であり、実につかみどころがない。主イエス・キリストだけには留まらず、初代教会にも、日々の糧をめぐる問題が切迫し、交わりや方向性が歪められた実情が想定される。イエス・キリストは、現在のわたしたちの暮しにあっては何事においても経済効率が優先される社会で虐げられ、将来に不安しかない人々と歩みをともにする。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」との主イエスのことば。『申命記』8章3節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」との箇所だ。『出エジプト記』にあってマナとは、神から備えられた食であって、決して神の救いのわざと分断されてはならない。

次に記されるのは権力と繁栄をめぐる誘惑。悪魔はイエスにささやく。「この国々の権力と繁栄は全てわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。「この国々」とは、旧約聖書に登場する国々だけではなくて、ローマ帝国という大帝国を示している。確かにローマ帝国は広大な領域を治めるに足るだけの寛大さをもっていた。このような権力に阿ねて、あわよくば弾圧や混乱をもたらす諸勢力を教会から一掃しようと提言する者もいただろう。しかし教会が全権を委ねるべきは、教会の外部や神と無縁なところにある権力ではない。あくまでも神の支配を信頼するところに教会の力の源は存する。


第三の誘惑とは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。悪魔は詩編91編11節以降を引用する。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。悪魔をしのぐ聖書の解釈を提唱できなければ、主イエスはその誘惑に屈することになる。悪魔は自己主張を正当化するために聖書を用いる。これに対して、イエス・キリストはあくまでも聖書が何を記しているのかという一点にのみ関心を集中させ、そのことばを証しする歩みを苦難とともに辿った。聖書を用いて侵略戦争を正当化し、宣伝する世の権力とは対照的である。主イエスは答える。「あなたの神である主を試してはならないと言われている」。物語の書き手は主イエスのまことの苦難の場をエルサレムに暗示しながら、「悪魔はあらゆる誘惑を終えた」と記す。


ところでわたしたちは主イエスのように悪魔の誘惑に耐えうるのだろうか。その問いに応じることばが、誘惑の物語に先んじて記されている。それは「さてイエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を『霊』によって引き回された」との文章だ。実はこの箇所では『ルカによる福音書』に暗示された聖霊の働きが暗示されている。主イエスとて自ら勇んで荒れ野に乗り込んだのではない。誘惑は望んでもいなかった状況からもたらされる。しかし書き手は、一連の誘惑の物語を霊の働きと関連づける。イエス・キリストご自身の道を聖書の中に見出し、従うことで誘惑から逃れられる。パウロによれば、それは神の愛の力に依り頼むということだ。「では、これらのことについて何と言ったらよいのだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子を惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。人を義としてくださるのは神なのです。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取りなしてくださるのです。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです」。危険に晒された果てに、キリストでないものの軒下に逃れようと教会は何度試みたことか。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」とは、詩編44編の引用だ。パウロはこの詩編を通して、主の助けを乞い願うイスラエルの民の叫びに、教会の祈りを重ねた。誘惑に苛まれる惨めな歩みを経て、本日の荒れ野の試みの物語は記された。神ならぬ者の誘惑に屈するという教会の挫折。その傷みを癒し立ちあがらせたのが、御子を十字架につけた神。その力こそが聖霊と呼ぶべきものだ。


このような理由からも、わたしたちは聖書を糧としていかなければならない。聖書のことばこそ、天上の兄弟姉妹の絆となるイエス・キリストの証しであるからだ。憎しみや怨みから解放され、キリストを讃美する道が拓かれる。主にある誠実な歩み。インマヌエルの神は、キリストを通して、その力を注いでくださる。三位一体主日に、わたしたちはこの力の中に立つことを確かめる。

2018年5月20日日曜日

2018年5月20日(日)ペンテコステ礼拝 説教「まかれた種が芽ばえるとき」 稲山聖修牧師

2018年5月20日
泉北ニュータウン教会

ペンテコステ礼拝

説教「まかれた種が芽ばえるとき」
『ローマの信徒への手紙』8章29~30節
『マルコによる福音書』4章26~34節
稲山聖修牧師


『マルコによる福音書』4章26節~34節。この箇所にはペンテコステの出来事を語るうえで、決して欠かせない言葉が隠されている。使徒言行録1章には「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とある。つまり聖霊降臨の出来事に始まるペンテコステの出来事を語る場合、神の国、神の支配の訪れへの確信を忘れるわけにはいかないからだ。宇宙万物を創された創造主なる神が、直接御自身によって被造物を統治されるという世界観。『マルコによる福音書』は、神の国の訪れという終末論に立つ福音書の筆頭である。福音書は物語という独特の表現で神の支配の訪れを語る。興味深いのは主イエスが用いる譬えに登場するのは農作物の話が多いところだ。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫のときがきたからである』」。種には爆発的ないのちの力が秘められているが、人の知るところではない。その種を日常として蒔くのが農夫である。神の国はわたしたちの日々の暮しの交わりの中にある。その暮しにある神の国との関わりは、必ず芽ばえて成長するものの、その理由は蒔いた人自身にすら知られるところではない。

 また、別の譬えでは神の国は「からし種」に重ねられる。地上のどんな種よりも小さいその種もまた、爆発的ないのちの力を秘めている。けれども蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、やがて葉の陰に空の鳥が巣を作れるようになる。「からし種」の譬えは、種の実りに留まらず、空の鳥が巣を作る暮しの場であり、新しいいのちが育まれる場として神の国が描かれる。いのちの多様性と交わりの中で神の国が語られるその視点は、実に斬新ですらある。


 それでは、わたしたちの日々の暮しと神の国とはどのように関わるのだろうか。確かにわたしたちがキリストから目を逸らし、世の事柄にのみ眼差しを向けるならば、自分の無力さに悲しみを覚える。けれども人の目から見たその無力さやちっぽけさの中に、福音書で主イエスが譬えた「成長する種」と「からし種」の姿がはっきりと示されているならば、聖書の民の姿に、神の支配にこそ来たるべき現実を見る人々の力強さを見てとれる。


 これは日々感じることだが、あまりにも軽々しく「現実」という言葉を口にしすぎて、聖書の物語が夢物語であるかのようなねじれた意識にわたしたち陥ってはいないだろうか。本当は逆なのだ。神の国こそが、爆発的ないのちの宿る現実であり、それこそがイエス・キリストにあって開かれた神の愛の力である聖霊に押し出されてきた教会の現実ではないだろうか。パウロは「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお授けになるのです」と記す。イエス・キリスト自らが十字架で殺され捨てられることによって、わたしたちが受けるべき苦しみと死から解き放たれて、召し出された者として栄光を授けられている。キリストは、人の暮らしを召された兄弟姉妹の憩う場との壁をぶち抜いてくださった。縦横無尽な聖霊のわざを、わたしたちは深く信頼したい。

2018年5月13日日曜日

2018年5月13日(日)父母の日礼拝「あたたかい生命と温かいいのち」止揚学園 園長 福井生先生

2018年5月13日
父母の日礼拝
メッセージ「あたたかい生命と温かいいのち」
聖書:『コロサイの信徒への手紙』4章2節
止揚学園 園長 福井生先生
報告:稲山聖修牧師


カレンダーでは「母の日」として日本社会にも定着した、母親に感謝を表わすこの日。泉北ニュータウン教会では、滋賀県東近江市にある「止揚学園」より福井生(ふくい・いくる)園長、うたの保母さんとして西竹めぐみ先生、東舘容子先生をお招きし、こひつじ保育園と泉北ニュータウン教会合同礼拝として「父母の日礼拝」を行いました。定常の礼拝では説教壇に立つ稲山はこの礼拝では司会として奉仕、メッセージを福井先生が担当されました。礼拝堂には、礼拝後に保育園PTA総会が行われることもあり、うたの西竹先生・ピアノ伴奏の東舘先生による清らかな声につつまれながら、かけがえのない特性をもつお子さんと日々向きあう保護者の方々が多くお越しになり、喰い入るような眼差しとともに福井先生のお話に耳を傾ける気迫に圧倒されました。
福井生先生は、止揚学園の創立者である福井達雨(ふくい・たつう)先生から2015年に園長職を引き継がれるまでの間、重度の知的障がいを特性として持ちながら、毎日を懸命に、そして笑顔とともに生きてこられた止揚学園の「なかま」のみなさんとの出会いとふれあいから授けられた影響と、新たに園長職を授かることで見えてきたこれからの展望だけでなく、今の時代の中で福祉の世界が置かれている厳しさと、その厳しさを超えて備えられる喜びについて、時に説教壇を叩きながらエネルギッシュにお話をされていました。その中心となったのが、福井先生がお伝えくださった聖書の言葉「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」との言葉です。

準備した椅子をさらに増設しなければならないほど会衆が集った礼拝堂にこだましたのは、時に社会から排除される悲しみを味わい続けた「なかま」のみなさんと深く結ばれた「当事者」たろうとする福井園長の渾身の叫びでした。泉北ニュータウン教会とこひつじ保育園も、「教会と保育園は車の両輪」としての関係を重んじながら、今年度新たに「放課後等デイサービスこひつじ」がその働きを始めたことにより、三位一体的な関係を重視しながらキリストを軸とした動きに導かれましたが、その関係はまだ始まったばかりです。1954年に着想されたという止揚学園でさえも「なかま」のみなさんとの関わりでは一日いちにちが新しい発見に満ちており、出会いとともにある発見は、いつも自分たちを砕いていくとのメッセージは強く印象に残りました。

障がいを特性としてもつ「なかま」のみなさんは、数値化される成果を求める社会では確かに深い生きづらさを強いられてはいるが、逆にその生きかたが、わたしたちにいのちをめぐる重い問いを投げかけてはいないだろうか、とりわけ何でもかんでも枠にはめ込む式の関わりが通じないことが、いのちの温かさを静かに伝えてはいないだろうか、とのお話を繰り返されるその度毎に、礼拝堂に集められた教会員や保育園職員だけでなく、他ならない保護者の方々が深く頷かれる姿に、心打たれる思いがいたしました。

礼拝後に行われた止揚学園の先生方を囲んでの懇親会では、PTA総会の後に、なおも続けて出席してくださった保護者の方々から真剣な問いかけや感想が率直に語られ、家庭での女性のありかたが「専業主婦」から「ダブルインカム」の時代に突入し、そのライフスタイルが当り前になった時代への問いかけだけでなく、保護者の方々が日頃いだいている思いを分かちあうことができました。今の厳しい時代にあって「子育て世代」にあたる保護者の方々の悩みは決して軽くはありません。齢を重ねた方々の若かりし時代とは全く異なるだけでなく、人間関係が寸断されているだけに時として実に冷酷かつ残忍な一面を見せる世にもなり果てました。その日常に止揚学園の先生方の語りかける言葉一つひとつは、文字通り光の道を備えたのではないかと感じ入りました。世の闇が深まるほどに、キリストにしたがう人々の交わりが輝く波紋を広げていく様子を目の当たりにした一日。この日に降った大雨すらもいのちを潤す水だと得心できたこの日。この一日の礼拝に心より感謝申しあげます。

2018年5月6日日曜日

2018年5月6日(日)説教「神の愛につつまれる喜び」稲山聖修牧師

2018年5月6日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「神の愛につつまれる喜び」
『ローマの信徒への手紙』8章26~28節
『ヨハネによる福音書』16章 16~22節
稲山聖修牧師

 
『ヨハネによる福音書』が向き合った課題に終末遅延の問題があった。権力者の迫害と支配のもと、苦しみに耐えながら神の支配の訪れを待つ民には、「御国を来たらせ給え」あるいは「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」との切なる祈りがもたらされた。
 旧約聖書では、納得できない苦しみを、原因にさかのぼり本人に納得させようとする一面がある。主イエスの時代、そして教会の中でも繰り返されてきた原罪という理解。これは因果応報の理解につながる。確かにこの理解では、本人がどうしてその苦しみを味わっているのかについて、痛みを伴わない立場からあれこれと論じられるが、どこか上から目線だ。『ヨブ記』に描かれるヨブの友人も、当事者性ぬきでヨブの苦しみをあれこれ論じる。それでは真の癒しは得られない。
 神の支配の訪れがすでに訪れてはいるものの、未だ完成していない世にあって『ヨハネによる福音書』はわたしたちに特別の道筋を示そうとする。本日の箇所は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」との言葉から始まる。この言葉は、イエス・キリストが十字架で処刑され、墓に葬られ、そして三日の後に復活した後に、復活された主イエスが天に昇られ、神の支配の訪れとともに世の完成を祝い、世に再び来られるまでの期間を指すという。終末遅延の問題は、天地創造の時と天地万物を含めた世が神の支配により完成する「時の間」という中間時との理解を教会にもたらした。「時の間」にあって、わたしたちが味わう悲しみを『ヨハネによる福音書』の書き手は「女性の産みの苦しみ」に重ねる。神の支配と結びついた喜びと悲しみを「女性の産みの苦しみ」に重ねるのは実に画期的だった。
旧約聖書で描かれる女性の立場。女性が蔑まれ、時に人格すら認められないという事態がある。その女性がイエス・キリストの再臨を待ち望む、神の支配の完成を待ち望む人々の譬えとされる。
 それだけではない。嬰児を世に送り出すわざは将来へと展望を拓く。悲しみの諸元を過去にさかのぼり説明せずに、神の計画のうちに祝福された悲しみという、将来に向かう喜びが秘められた状態として肯定する。第三には、誕生した嬰児の特性は一切問われていない。『ヨハネによる福音書』の場合は女児であれ男児であれ、特別な課題があれ、いのちの誕生は全て喜びだと述べる。日々の苦しみ以上の苦しみ、悲しみ以上の悲しみである「イエス・キリストがおられない」という異常事態の中で、教会は隠された恵みに気づきつつ歩むという新しい段階を迎えた。

イエス・キリストはこの中間時に、ご自身の働きを通して明らかにされた神の愛の力である聖霊をわたしたちに贈ってくださった。パウロは『ローマの信徒への手紙』で次のように語る。それは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」。パウロは人々が言葉で祈ることすら能わない苦しみに遭うのを見抜いてこの手紙を書く。続いて「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」。これはキリストに示された神自らを示す。「霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。聖書は主の御心にかなった悲しみと願いを強調する。この世をキリストを通して肯定し神の支配と固く結ぶ。悲しみだけでなく、疑いと猜疑のない世界もまた、神の支配のもつ特性だ。わたしたちは世の現実を、神の愛につつまれて受けとめたい。聖霊の風が、五月の風のように、行く手を遮る霧を晴らしてくださるからだ。

2018年4月29日日曜日

2018年4月29日(日) 説教「神の忍耐はわたしたちの希望」稲山聖修牧師

2018年4月29日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「神の忍耐はわたしたちの希望」
『ローマの信徒への手紙』8章18~25節
『ヨハネによる福音書』15章 1~10節
稲山聖修牧師


 『ヨハネによる福音書』の成立までにはパウロの手紙から30年以上が経過している。その中で教会に集う人々は、キリストが再臨し、神の支配が完成するという終末が遅延するという問題に向き合った。終末がこの世の秩序の終焉として理解した人々は、教会だけでなく、この世の暮しそのものからも離れていこうとする。世を創造した神は悪い神であり、十字架でわが身を滅ぼすことによって汚らわしい世から遠ざかる姿勢が必要だと考える人々が増える。グノーシスという異端。この集団と同じように、世からの「解脱」を欲する傾向は今なお一部のカルト宗教に見られる。
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。『ヨハネによる福音書』で、書き手はイエス・キリストを「ぶどうの木」になぞらえようとする。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。剪定をも含めた残酷に響く表現。書き手はこの時代のぶどう農場のごく当り前の働き方を重ねる。ぶどう栽培は土地が適度に乾燥していないと、葉ばかりが大きくなり実りが小さくなる。乾燥した土地ほど、ぶどうの木は水分を求めて根を深く大地に降ろす。実際にぶどうの手入れをする農夫は、ローマ帝国の時代では奴隷の仕事であったとすら言われる。イエス・キリストを大地に根を下ろすぶどうの木に譬え、そして父なる神をぶどう農場の奴隷に重ねている。このような発想は世の中から隠遁したり、世にある暮しや生き方を否定したりするところからは生まれない。


 さらに、ぶどうの実りはそのまま口に含まれるだけではなく、ぶどう酒を造るためにも用いられる。聖書の時代のぶどう酒はアルコール度数が少ないのにも拘らず傷を消毒したり飲み水を清めるために多く用いられた。「わたしの話した言葉」によって、あなたがたはすでに清くなっている」。イエス・キリストは語る。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」。『ヨハネによる福音書』の記された時代の世の中でとりわけ知識を好む人々の間では、この世のあり方を否定するような考え方の影響力が強かった。だからこそ主イエスは「わたしにつながっていなさい!」と強く語りかけ、その理由を「わたしもあなたがたにつながっているからだ」という。『ヨハネによる福音書』では、促成栽培の実りに重ねられるような「待てない人々の求める成功哲学」を決して語らない。けれどもキリストの言葉が私たちの交わりにあり、心に根を下ろしているならば何でも願うべきだと語る。
 『ローマの信徒への手紙』には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とある。苦しみにあるのはわたしたちだけではない。全てのいのちが、わたしたちと関わりながら苦しんでいる。しかしそれは被造物にいのちあればこそであって、決して希望のない苦しみではない。イエス・キリストの十字架という滅びの苦しみは、復活という新しいいのちの希望に包まれた道を備えた。その道にあって、神はわたしたちの世にある暮らしを受けとめてくださっている。神の忍耐はわたしたちの希望であり、この希望がわたしたちを神ご自身の平安の中に招き入れる。

2018年4月22日日曜日

2018年4月22日(日) 説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」稲山聖修牧師

2018年4月22日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」
『ローマの信徒への手紙』8章12~17節
『ヨハネによる福音書』13章31節~35節
稲山聖修牧師

 社会の役に立つか立たないか。これでいのちの価値を値踏みする。聖書はこの残酷な考えの根拠として「貪り」を示す。貪りとは神を見失った者が他者を顧みず、人を道具と見なし、こき使い、その場しのぎの豊かさを求めるありようだ。創世記の失楽園の事件は、知恵の実が「いかにもおいしそう」だったからこそ起きた。兄エサウと弟ヤコブの兄弟間の争いの物語も、エサウが長子の特権を弟の調理したレンズ豆の煮物とパンと交換したのが発端。貪りがエサウから長子の権利を奪った。民数記11章では、エジプト人の奴隷の身から解放されたのにも拘らず、約束の地への旅の途中、その旅そのものを罵り、激しく不満を訴える。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚や肉をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』」。神から与えられる食であるマナを授かっていても、イスラエルの民は文句しか言わないのだ。聖書の世界に、夢や理想や型にはまった模範ばかりを求める人がいるならば、きっと挫折するに違いないだろう。余りにも見るに堪えない人間の醜悪な姿をなぜ聖書は、これでもか、これでもかと描くのだろうか。
きっとそれは世の側からは神を見失っているにも拘らず、神が決して人との関わりを絶ちはしないところに、書き手が目を向けているからではないだろうか。律法学者であったパウロに限らず、『ヨハネによる福音書』の書き手も旧約聖書を深く味わったうえで、イエス・キリストの歩みを記す。『ヨハネによる福音書』には、旧約聖書の物語には見られない逆転現象を見る。それは貪りの中で滅びにいたる他ない人の世だからこそ、救い主が訪れた!とのメッセージだ。主イエスは語る。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることはできない』とユダヤ人たちたちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。『ヨハネによる福音書』では主イエスとは決して友好的には描かれないユダヤ人。この人々と主イエスの弟子たちが同列に置かれているのは、旧約聖書の中でイスラエルの民と雑多な他国人とが等しい扱いを受けている点に重なる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。互いに愛し合いなさいとの言葉には「神自らの愛」を示す「アガペー」が用いられる。互いを大切にし、尊重し合い、泥を被ることも厭わず、痛みをともにするという深い意味がある。貪りの念極まりない限界状況の下でも、神を信頼して食を分かち合い、手を差し伸べるという神の愛と勇気とに満たされた奇跡が起きる。それこそが貪りの構造に根を下ろしているはずの暮らしを根底から変えてしまう、イエス・キリストの出来事である。イエス・キリストの出来事とは、いのちにいたる道、いのちへのガイドラインを鮮やかにわたしたちに示していく。その道をなぞっていくわざこそが「新しい掟」を祈り求めるわざにつながる。
パウロは『ローマの信徒への手紙』の中で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。「キリストとともに苦しむならば、共にその栄光をも受けるからです」と記す。律法学者でもあったパウロならではの「新しい掟」をめぐる理解がある。社会に役立つ人になろうとして憔悴するのではなく、他人と較べて要領の悪さや不器用さを呪うのでもなく、「愛する、かけがえのないこの人」を活かす交わりを、イエス・キリストにあって問い尋ね、育んでいきたいと願う。なぜならそのわざには、たった一人のいのちをも軽んじることのない、神の国の姿が隠されているからだ。

2018年4月15日日曜日

2018年4月15日 「不信仰は信仰の始まり」稲山聖修牧師

2018年4月15日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「不信仰は信仰の始まり」
『ローマの信徒への手紙』8章5~10節
『マルコによる福音書』16章9節~18節

稲山聖修牧師
 

最古の写本にはない『マルコによる福音書』16章9〜11節では、復活したキリストの姿を仰いだマグダラのマリアが、「イエスと一緒にいた人々にいた人々が泣き悲しんでいるところ」へ出かけ、このことを知らせた、とある。けれども人々はその証言を否定する。続く12節には「その後、彼らの内の二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた」とある。エルサレム郊外よりもガリラヤへの道は都落ちの弟子の姿があった。主イエスは甦ったご自身を現したが、この二人の証言も「残りの者」によって却下される。そして14節。「その後、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。その後の物語の展開は、『ヨハネによる福音書』でトマスに現れる復活の主イエスの物語と似ているものの、他の福音書の物語にない特徴がある。それは「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。「おとがめになった」という、かたくなな弟子たちにたまりかねての復活の姿である。

『マルコによる福音書』12章18節以降には「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを遺さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを遺さないで死に、三男も同様でした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」とある。サドカイ派が重んじた文書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記に絞り込まれる。この「モーセ五書」では登場人物の葬りは描かれても復活はそれとしては記されない。この点に限ればサドカイ派は近代合理主義的な考えに立つ現代人によく似ているが、果たして人はそれほど強いのだろうか。わたしたちは「死んだらお終いだ」という考えに甘んじられるのだろうか。

死後の世界への幻想や妄想の誘惑は、聖書では「口寄せ」の姿に映される。そのもとに走った人が旧約聖書ではサウル王だった。サウルは口寄せを訪ね、すでに世を去った預言者サムエルの霊を呼び出す。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主は、わたしを通して告げられたことを実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる」とのサムエルの答え。神から託された重大な役目の放棄が描かれる。『マルコによる福音書』では、キリストの復活をこの世の出来事として受け入れられない弟子のかたくなさだけでなく、その態度を戒めるために姿を現したイエス・キリストを描く。その姿は檄を飛ばす鬼コーチのようだ。内面に閉じこもる弟子たちの生き方の、滅びにいたる扉をこじ開けに現れた主イエス・キリストの姿。パウロは「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属してはいません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」と語る。神の霊がわたしたちに宿っているかどうか、はわたしたちの裁量の及ぶところではない。その高みから定めらているわたしたちとキリストとの関わりこそが、信仰なのだ。この関わりの中で、不信仰の扉をも復活の主イエス・キリストはこじ開ける。不信仰は信仰の始まりである。