泉北ニュータウン教会礼拝
説教「キリストに従う道は誘惑を退ける」
『ローマの信徒への手紙』 8章31~36節
『ルカによる福音書』 4章 1~13節
稲山聖修牧師
次に記されるのは権力と繁栄をめぐる誘惑。悪魔はイエスにささやく。「この国々の権力と繁栄は全てわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。「この国々」とは、旧約聖書に登場する国々だけではなくて、ローマ帝国という大帝国を示している。確かにローマ帝国は広大な領域を治めるに足るだけの寛大さをもっていた。このような権力に阿ねて、あわよくば弾圧や混乱をもたらす諸勢力を教会から一掃しようと提言する者もいただろう。しかし教会が全権を委ねるべきは、教会の外部や神と無縁なところにある権力ではない。あくまでも神の支配を信頼するところに教会の力の源は存する。
第三の誘惑とは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。悪魔は詩編91編11節以降を引用する。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。悪魔をしのぐ聖書の解釈を提唱できなければ、主イエスはその誘惑に屈することになる。悪魔は自己主張を正当化するために聖書を用いる。これに対して、イエス・キリストはあくまでも聖書が何を記しているのかという一点にのみ関心を集中させ、そのことばを証しする歩みを苦難とともに辿った。聖書を用いて侵略戦争を正当化し、宣伝する世の権力とは対照的である。主イエスは答える。「あなたの神である主を試してはならないと言われている」。物語の書き手は主イエスのまことの苦難の場をエルサレムに暗示しながら、「悪魔はあらゆる誘惑を終えた」と記す。
ところでわたしたちは主イエスのように悪魔の誘惑に耐えうるのだろうか。その問いに応じることばが、誘惑の物語に先んじて記されている。それは「さてイエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を『霊』によって引き回された」との文章だ。実はこの箇所では『ルカによる福音書』に暗示された聖霊の働きが暗示されている。主イエスとて自ら勇んで荒れ野に乗り込んだのではない。誘惑は望んでもいなかった状況からもたらされる。しかし書き手は、一連の誘惑の物語を霊の働きと関連づける。イエス・キリストご自身の道を聖書の中に見出し、従うことで誘惑から逃れられる。パウロによれば、それは神の愛の力に依り頼むということだ。「では、これらのことについて何と言ったらよいのだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子を惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。人を義としてくださるのは神なのです。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取りなしてくださるのです。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです」。危険に晒された果てに、キリストでないものの軒下に逃れようと教会は何度試みたことか。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」とは、詩編44編の引用だ。パウロはこの詩編を通して、主の助けを乞い願うイスラエルの民の叫びに、教会の祈りを重ねた。誘惑に苛まれる惨めな歩みを経て、本日の荒れ野の試みの物語は記された。神ならぬ者の誘惑に屈するという教会の挫折。その傷みを癒し立ちあがらせたのが、御子を十字架につけた神。その力こそが聖霊と呼ぶべきものだ。
このような理由からも、わたしたちは聖書を糧としていかなければならない。聖書のことばこそ、天上の兄弟姉妹の絆となるイエス・キリストの証しであるからだ。憎しみや怨みから解放され、キリストを讃美する道が拓かれる。主にある誠実な歩み。インマヌエルの神は、キリストを通して、その力を注いでくださる。三位一体主日に、わたしたちはこの力の中に立つことを確かめる。