ローマの信徒への手紙8章37~39節
ヨハネによる福音書4章22節~30節
説教「来たる者も去りゆく者も神の恵みにつつまれて」
稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』が描かれた大変動の時代。すでにエルサレムの神殿はローマ帝国への反乱が失敗し、焼失した。ユダヤ教徒は帝国への反乱者としての烙印を押され、遠ざけられていく。その中、去りゆく立場に置かれた人々として、3章22節以降に記された洗礼者ヨハネとその弟子が描かれる。イエス・キリストの働きをめぐってヨハネの弟子たちに混乱が生じる。3章26節「彼らはヨハネのもとに来て言った。ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」。主イエスの振る舞いは、厚意を寄せていた人々にも戸惑いを与えていた。ではヨハネは自分の弟子の思いをどのように受けとめたか。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」。洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と語る。ヨハネの姿は黄昏の色に染まる山並みの荘厳な姿に重なる。
洗礼者ヨハネは私心からも名誉欲からも自由だ。その姿に、ユダヤ人が遠ざけられた時代に記された福音書に注ぎ込まれた、神の愛の力によるところの勇気を見る。その勇気は、4章22節のサマリアの女性に向けた主イエス・キリストの言葉にも明らかだ。すなわち「あなたがたは知らない者を礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」。「救いはユダヤ人から来る」との言葉が、異邦人であるサマリア人の女性へ向けた言葉であるとして堂々と記される。これはイエス・キリストの救いを解き明かす上では、旧約聖書が不可欠なことを示す。その上に立って、主イエスは語る。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。今がその時だ。神の支配は暴力による世の権力の支配を覆すにはまだ全うされていない。しかし、父なる神に招かれた礼拝が、神の支配を先どる仕方で行われ、集うものに祝福が注がれる。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この神の愛の力によってサマリアの女性は救い主の訪れを知らせる。洗礼者ヨハネがその役目を終え、イエス・キリストがメシアとして働く中で、サマリアの女性もその教えを積極的に宣べ伝える。来る者の世界と去りゆく者の世界がイエス・キリストを通じて見事につながるのだ。パウロは語る。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。