2018年5月20日
泉北ニュータウン教会
ペンテコステ礼拝
説教「まかれた種が芽ばえるとき」
『ローマの信徒への手紙』8章29~30節
『マルコによる福音書』4章26~34節
稲山聖修牧師
『マルコによる福音書』4章26節~34節。この箇所にはペンテコステの出来事を語るうえで、決して欠かせない言葉が隠されている。使徒言行録1章には「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とある。つまり聖霊降臨の出来事に始まるペンテコステの出来事を語る場合、神の国、神の支配の訪れへの確信を忘れるわけにはいかないからだ。宇宙万物を創された創造主なる神が、直接御自身によって被造物を統治されるという世界観。『マルコによる福音書』は、神の国の訪れという終末論に立つ福音書の筆頭である。福音書は物語という独特の表現で神の支配の訪れを語る。興味深いのは主イエスが用いる譬えに登場するのは農作物の話が多いところだ。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫のときがきたからである』」。種には爆発的ないのちの力が秘められているが、人の知るところではない。その種を日常として蒔くのが農夫である。神の国はわたしたちの日々の暮しの交わりの中にある。その暮しにある神の国との関わりは、必ず芽ばえて成長するものの、その理由は蒔いた人自身にすら知られるところではない。
また、別の譬えでは神の国は「からし種」に重ねられる。地上のどんな種よりも小さいその種もまた、爆発的ないのちの力を秘めている。けれども蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、やがて葉の陰に空の鳥が巣を作れるようになる。「からし種」の譬えは、種の実りに留まらず、空の鳥が巣を作る暮しの場であり、新しいいのちが育まれる場として神の国が描かれる。いのちの多様性と交わりの中で神の国が語られるその視点は、実に斬新ですらある。
それでは、わたしたちの日々の暮しと神の国とはどのように関わるのだろうか。確かにわたしたちがキリストから目を逸らし、世の事柄にのみ眼差しを向けるならば、自分の無力さに悲しみを覚える。けれども人の目から見たその無力さやちっぽけさの中に、福音書で主イエスが譬えた「成長する種」と「からし種」の姿がはっきりと示されているならば、聖書の民の姿に、神の支配にこそ来たるべき現実を見る人々の力強さを見てとれる。
これは日々感じることだが、あまりにも軽々しく「現実」という言葉を口にしすぎて、聖書の物語が夢物語であるかのようなねじれた意識にわたしたち陥ってはいないだろうか。本当は逆なのだ。神の国こそが、爆発的ないのちの宿る現実であり、それこそがイエス・キリストにあって開かれた神の愛の力である聖霊に押し出されてきた教会の現実ではないだろうか。パウロは「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお授けになるのです」と記す。イエス・キリスト自らが十字架で殺され捨てられることによって、わたしたちが受けるべき苦しみと死から解き放たれて、召し出された者として栄光を授けられている。キリストは、人の暮らしを召された兄弟姉妹の憩う場との壁をぶち抜いてくださった。縦横無尽な聖霊のわざを、わたしたちは深く信頼したい。
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