2023年2月17日金曜日

2023年2月19日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ひもじさの中で起きた神の奇跡」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 10~17 節
(新約聖書  121頁).

讃美=239,316,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 このところ幾度も寒波とも呼べる寒さがあたたかな陽射しの隙を狙うかのようにやってきます。そんな日にはうどんのような汁物が食べたくなります。幼いころ、このような日の食卓には水団が出ました。こどもの健康を慮ってか具も多かったように思います。そのような熱々の汁物を食べながら聞きかじりの知識で祖母に「昔も水団食べたの、どんな味がしたの」と尋ねますと「こんな立派なものじゃないよ」との返事。目の前のどんぶりにある水団しか知らないものですから「おいしかったの」としつこく聞くうちに、普段は温厚な祖母から震える声で「お前は本当の飢えを知らない」と叱られた記憶があります。

 祖母の弟は学徒出陣でインパール作戦に従軍し、ミャンマーで戦病死したこともあってのことでしょうか、それでも外地だけの話に留まらず、内地で戦災孤児を襲った飢餓は想像を絶したと聞いています。飢餓は疫病の流行となり、戦争で親を亡くしたこどもは一方的に棒で打ちたたかれ、トラックの荷台に載せられ、檻に無理やり詰め込まれるという、今からは考えられない待遇を受けていました。飢餓が進んで盗みや略奪にも及ぶのは大人です。こどもだけを標的にした当時の国の対応には憤りを禁じ得ません。

 本日の福音書の物語は、『聖書』を味わう人にとってはおなじみと言ってよい「五千人の共食(きょうしょく)」と呼ばれる物語です。この物語は『新約聖書』に納められたすべての福音書に記載されています。本日の箇所で際立つのは「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」との記事です。この一文だけでイエス・キリストを追いかけてきた無名の群衆の切羽詰まった具合、そしてその群衆の中には治療が必要であったのにも拘わらず、これまで諦めの中で放置されてきた人々の姿が強調されています。それにも拘わらず、ひもじさの中に置かれ、慢性化した栄養不良の中で罹患したかも知れない病を抱えながらも、人々が騒ぎを起こした様子は一切見られません。すでにこのとき、群衆は迎えるイエス・キリストを通して与えられる神の愛につつまれ、落ち着きを授かっていたのかも知れません。それではこの落ち着きに気づかず、うろたえるばかりであった者は誰かと言えば、ほかならぬ弟子達でした。9章ではイエスから「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられた」はずの弟子たちは群衆を前にして日が傾き始めたのに気づき、イエス・キリストに耳打ちします。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです」。弟子のささやきは、目の前の群衆をちりぢりにさせることが目的。各々事情があるにも拘わらず、宿と食べ物について関心を払おうとはしません。イエス・キリストから授けられた権能をどこへ忘れてきたというのでしょうか。群衆からすればもう二度と主イエスに会えないかも知れない中で集まっているという切迫感に全く無頓着です。だからイエスは弟子に語りかけます。「あなたがたが食べ物を与えなさい」。答えは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。「買いに行かないかぎり」との言葉から分かるのは弟子が群衆の飢えを満たすのは、結局はお金であるとの錯覚に囚われているところです。お金がないということと、食べ物がないという事態は似て非なるところがあります。いくらお金があったところで食べ物がなければ身動きがとれない苦さを知る世代は今昔を問わず数知れないのにも拘わらず、弟子は未だこの錯覚から抜け出せてはいません。イエスは弟子に人々に五十人ずつ組にして座らせるよう命じます。互いの顔が分かり対話が可能となるギリギリの人数です。そして五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを献げ、裂いて渡して群衆に配らせたとあります。携帯食のその食事は想像以上に貧しかったことでしょうが、それでも神に感謝します。その結果何が起きたか。現代のわたしたちの理解にふさわしく言えば、落ち着きの中で人々は、自らもっていた弁当代わりの粗末な食事を、互いに分かちあったのかもしれません。奪い合うのではなく分かちあい、満たされたというのです。弟子はこの奇跡に圧倒されたことでしょう。それはうろたえる弟子も満たしてあまりある出来事だったのです。

 ウクライナ戦争やシリア・トルコの地震の現状を知るにつけ悲しむほかありませんが、報道から捨てられたような扱いを受けている地域があります。アフガニスタンです。米軍の撤収後再びタリバンが実権を握っているとの報道が流れます。それでも希望の報せを耳にします。2019年に銃撃を受け死亡した中村哲医師のその後、現地の人々はその志を引き継いでさらに農地を広げています。そして原理主義に立つ過激派のタリバンが、殺害された土地の近くに、写真入り顕彰碑を昨年建設したとのこと。「政治的な立場にかかわらず、人々の中に中村医師への特別な思いがあるのでしょう」と現地の医師は語ります。ひもじさの中で落ち着きを授かり、交わりを深めたその歴史はテロ組織の思いすらも変えていきます。貧困や不景気と深く関わるわたしたち。不安や衰えを知りつつ神に落ち着きを授けられ、誰かを支えているのではないかと、群衆の一人としてイエスの祈りに応えずにはおれません。

2023年2月8日水曜日

2023年2月12日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ゆるしに秘められた神の力」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 17~26 節
(新約聖書  110頁).

讃美=234 A,269,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 深夜から未明にかけて響く、救急車のサイレンを聞くと、目がさえて眠れなくなるときがあります。厳冬期から春先にかけて、循環器系統に病変がなかったかとしばらく目を覚まし、電話が鳴らなければ安心して眠りに就くという季節の最中です。現代では医学や医療が進歩し、その後のリハビリなども含めて後遺症は以前よりは軽度となったとは申しますが、それでも当事者からすればそれまでのように身の動きがとれなくなります。辛くないはずがありません。言わんや、日々の糧を得るため今以上に身体を用いなくてはならなかった福音書の描く世界で、今で言うところの「適切な医療措置」は実に困難を極めていたことでしょう。

 人の子イエスの癒しのわざを耳にして「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレム」からその時代のユダヤ教の指導者層、つまりファリサイ派や律法の教師の検分を受けることとなります。しかしわたしたちの瞼には、そのような冷たい眼差しは一顧にせず、ひたすら病人の癒しを行う人の子イエスの姿が浮かびます。その時代のユダヤ教の理解では「病」とはモーセの誡めから隔たったところに身を置くことにより罹患するものであり「穢れ」でもありました。そしてそれは共同体からの排除という孤立を伴うものであり、家族や親族との交わりでさえ損ないかねない刺として、人々を苛んできました。その痛みを人の子イエスは分かちあい、癒し、集う人々に交わりの回復をもたらしていました。

 そのような中、ある男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうといたします。脳の重度の機能障害を示す中風患いの人は、決して万全とはいえないどころか、その時代の医療をめぐる諸事情の中で、おそらくはイエス・キリストのあゆみを風の便りに聞いて、遠路運ばれてきたこととなります。近場に暮す人であれば、人垣に苛まれることもなく癒されたことでしょうに、人々は無情にも自らの癒やしに精一杯で床に運ばれてきた、身動きのとれない病の人には無関心です。残念ではありますが、この癒しの場所にも治療の優先順位と申しましょうか、「癒しのトリアージ」を受けてしまったのです。「床」とありますが、実際はもっと素朴な戸板に寝かされて運ばれてきた、というのが精一杯ではなかったかと思われます。一瞥されながら「この人が癒されたところで何ができよう」との心無い眼差しも注がれていたかも知れません。

 しかしこの人は決して一人ではありませんでした。この中風患いの人を戸板に乗せて運んできた、少なくとも四人の男性がいます。「何とかしてこの人垣を乗り越えなければ」との決意のもと、癒しが行われている家屋にのぼり、その天井を剥がして戸板ごと吊り下ろすという行動に出ます。紙芝居や絵本では感動的な場面かもしれませんが、その場に居合わせた人々からは異様に映り、さまざまな咎め立てや不平が出たとしても不思議ではありません。しかし男性たちには、ここまで来て引き下がりはしませんでした。何が何でも人の子イエスに癒してもらわなくてはこれまでの労は水泡に帰してしまいます。どんな侮辱も罵声も男性には耳に入りません。ただ目指すのは今そこにいるイエス・キリストの姿。このチャンスを前にして男性らは引き下がりませんでした。

 主イエスが観たのは戸板に寝かされ吊り下ろされた患者の姿だけではありません。「その人たちの信仰」、つまり懸命に縄を吊り下ろしている人々も含めてキリストは「人よ、あなたの罪は赦された」と伝えます。戸惑うファリサイ派や律法学者。そしてわたしたちもまた戸惑います。「『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて歩け』と言うのとどちらが易しいか、とあるからです。なぜ主イエスはこのように語られたのでしょうか。その解き明かしの鍵は『ルカによる福音書』17章20節にあります。ファリサイ派の問いに、イエス・キリストは答えます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。この箇所で注目すべきはイエスを理解するためにではなく、どちらかと言えば詰問しに訪れたようなファリサイ派にさえイエス・キリストはこのように答えているのです。戸板に寝かされた中風患いの人物をただ見捨てなかっただけでなく、その治療のために時と労力を献げた男性をも含めた交わりをしっかり受けいれたキリスト。この箇所には、神の国のモデルを問う初代教会の声も響きます。これを「赦し」と言わずして何と表現するのでしょうか。

 日本社会の常として「人に迷惑をかけないようにして生きる」というあり方があります。しかしこの社会通念は自己責任論に進展する危うさがあります。想定外の出来事や齢の積み重ねに従って、わたしたちには「迷惑をかけないで生きる」のが実に困難だと実感します。本当のところ迷惑をかけずにはおれません。しかし「迷惑をかけない」との言葉に潜む残酷さや傲慢さを、イエス・キリストは神の愛による、そして祈りによる「赦し」「受け入れる」わざによって打ち砕き、病を癒されました。知られざる神の愛の輝きがあります。仲間の労によって、イエス・キリストに癒された中風患いの無名の人は「寝ていた台を取りあげ、神を讃美しながら」家に帰ったとあります。時に迷惑をかけあい生きるわたしたち。神の恵みへの感謝の応えとして一歩を踏み出しましょう。

2023年2月2日木曜日

2023年2月5日(日) 礼拝 説教 (この日より、会堂での対面式の聖日礼拝を再開します。)

 ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
この日より通常礼拝を再開します。


説教=「神さまの野菜を上手に育てる秘訣」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8 章 4~15 節
(新約聖書  118 頁).

讃美=265,536,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「翠玉白菜」という彫刻品が、台北市の国立故宮博物院にあります。高さ19センチほどの手のひらほどの大きさながら、翡翠をバッタとキリギリスがとまった白菜のかたちに刻んだ名品。清朝に嫁いだ妃が持参したものとされ、台湾を代表する美術品だということで、値段もつけられないほどのお宝だとのことです。

 しかし一方で、わたしたちはこの「翠玉白菜」でも及ばない宝を授かっています。それは時に虫に食べられた穴もある本物の白菜です。白菜はアブラナの仲間で涼しい気候を好みます。しかも種まき以前によい土を備えるため耕しておかなければなりません。しっかり根を下ろせるのか、土のpHはどれくらいか、水はけがよいのか水もちがよいのか、肥えた土がよいのか痩せた土がよいのか、マルチを敷くべきか。いろいろと思案した上で手を入れてみたところで、自然災害も含めた大自然の動きにはわたしたちにはどうすることもできません。「委ねるしかない」という人の手の及ばない真っ白な「余白」が、第一次産業には必ずつきまといます。そしてその「余白」に人間が手を出そうものならば、却って飢餓や環境破壊に繋がる場合もあるというものです。

 今よりももっと作づけを自然のなすままに委ねるほかなかった福音書の描く世界には、農業や漁業の譬え話が耳を傾ける人々には最も響いたのだと思われます。方々の町から出てきた大勢の群衆のそばで、次の譬えを人の子イエスは語ります。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。続いて譬えを用いて話す理由が語られた後に「種」が神の言葉を指すこと、道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種が何を示すかが語られます。『ヨハネによる福音書』を除く他の福音書にも記載される有名な譬え話ですが、本日の箇所に付加されているのは「道端に落ちた種」が「人に踏みつけられ」との言葉とともに記されているところです。つまりこの箇所は他の福音書にもまして、人の世の様々な横やりが、神の言葉の証しにさおを差していくと語るのです。わたしたち同様、『ルカによる福音書』に記される世界で、教会の交わりに連なる人々は世の様々な誤解や妨げに遭っていたことが想像されます。

 しかし、以上のように、神の言葉の証しと、その証しに連なる人々にとって、神様との関わりを保ち続ける上での障りを挙げればきりがありません。「後から誘惑やつまずきがもたらされてその心から御言葉を奪い去る人」「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人」「御言葉は聞くが途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて実が熟するまでにはいたらない人」。特定の誰がという問題ではなしに、誰もがこのような課題を抱えたまま、各々の場で活かされているのが日々のわたしたちです。とりわけこの三年にわたるところのコロナ禍は教会の交わりにも破れや涙をももたらしました。けれども、そのような誘惑やつまずき、試練に遭って身を引いてしまう弱さ、思い煩いが、却って神の言葉とのより深い出会いに繋がるのもまた事実です。信仰とは個人の所有物ではありません。いわんや個人の思いでどうなるものでもありません。一つだけ確かなのは、譬え話の中では、種とは「神の言葉」だとはっきり記されているところにあります。これが肝なのです。わたしたちの様々な暮らしや内面の不安定さや不確かさに先んじて、神はイエス・キリストを世に送ってくださったのです。教会から離れ、放蕩息子のようにさまよう時があっても、父なる神は黙ってその帰りを待ち、物乞い同然の姿となった、荒んだ心のまま、戻ってきた仲間を責めるのではなく、抱擁して宴を催すほどに喜んでくださります。時が経ち、教会員も牧師も齢を重ね、かつての顔を見いだせなくなったとしても、神の言葉はその積年の後悔の中で必ず芽吹いて育っていたと後から気づかされるのです。イエス・キリストとの関わりがある限り、全ての荒廃した土地には神の慈しみが時に涙となってそそぎ、新たな潤いとなり、神の言葉の根が深く降ろし、豊かな実りを結びます。責めの言葉や言い訳は日々の祈りに姿を変えて、新たな地平が拓かれます。

 味わい深い白菜は雪国の畑によく育つと聞きます。人にとっては凍えるような冷たい風、真っ白な雪に埋もれる中で、白菜はそのままでも柔らかな甘みを帯びると申します。寒さは却って白菜を害虫や病気から守り、ひときわその味を際立たせてまいります。翡翠の白菜がどれほど高価な宝であったとしても、食卓に上った温かなご飯とともにいただくゆずの香る漬物、また身体をさらに温めるキムチの味に較べれば、ガラスケースの中のそれは人間の刻んだもの以上でありません。いろいろなPRがされるとはいえ、野菜を工場で作るにはかなりの無理があります。心と身体を整える神の言葉との出会いの秘訣は、心に神さまの野菜を育て、その栄養を分かちあう「余白」にあります。コロナ禍に際しなおも授かった、まだ見ぬ恵みを尊んで、新しい一週間を始めましょう。

2023年1月26日木曜日

2023年1月29日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「あなたは孤独であるはずがない」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』21 章 1~9 節
(新約聖書  151 頁).

讃美=517,495,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 年末年始に大阪市西成区のあいりん地区では「釜ヶ崎越冬闘争」の名のもと、大がかりな炊き出しや道端に横たわる方々に毛布を配布したり、おにぎりを配布したり、具合を尋ねたりする働きがいつにも増して盛んになります。公園では暖をとるためにドラム缶に火が焚かれ、公園ではさまざまなジャンルのアーティストが歌を歌い続けます。里に帰れない人々を励ますためです。その様子は現在、SNSによって知ることができます。21世紀も4分の1にいたろうとする今も、現場で仕える若者がいるのは心強いかぎり。炊き出しに並ぶ人々には30~40代の方々もいるという厳しさの中、10年に一度のこの寒波を押して活動は続きます。

 さらにそのような事情の中で、なおも暮しを互いに支えあおうと意欲を燃やす人もいます。当事者としてそうせずにはおれないという人は、たとえ住む家がなくても、自ら炊き出しのテントで包丁を握り、寄付された野菜を刻み、肉を切り、大釜に湯を立て味噌を入れます。また手にした握り飯を「兄ちゃんもな」と若者に渡します。決して「されたがり」ではなく「したがたり」ではあるけれど、それができない辛さを知っているからこその行動。その実情が分かる現場。「上から目線」での奉仕は続きません。

 本日の『聖書』では、エルサレムの神殿の境内に備えられた献金箱になけなしのお金を献げる独り身の女性の姿が描かれます。金持ちが集まって献金箱にお金を献げる中、女性は手に握りしめた銅貨二枚、今で言えば150円程度の額を神に献げます。それを見た人の子イエスは「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちはみな、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と語ります。額もまた切実です。ごく短い箇所ですが、わたしたちは教会で献げる献金のモデルとしてこの女性を引用します。しかし別の見方をいたしますと、まだこの箇所では「有り余る中から献金した金持ちたち」と「乏しい中から持っている生活費を全部献金箱に入れた女性」との関わりは分断されたままのように思えます。本来ならばイスラエルの神が臨み、現にそこにいるはずの神殿では、すべての世にある分断と、その分断から生まれるところの苦しみが癒され、交わりの回復の場となるはずです。しかし本日の箇所では、却って富める者と貧しい者との差が際立ち、人の子イエス自らもその違いを弟子に示すだけで、解決する道を示しているようには見えません。

 そのわけを、続く箇所から探ってまいりましょう。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉献物で飾られていることを話していると、「イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」とあります。当時のエルサレムの神殿に惚れ惚れしてしまう人々は『ルカによる福音書』では漠然と描かれるだけですが『マルコによる福音書』13章では弟子もまた同じように我を忘れて魅入ってしまいます。それほどまでに見事な神殿は、決してイスラエルの民が自ら建てたのではなく、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ大王の治世に再建された神殿でした。つまりこの神殿は、ローマ帝国の支配の寛容さを顕示する目的も兼ねた建造物であり、集う人々の気持ちとは異なって、極めて政治色の濃い建物でした。そのような建造物は、移りゆく世とともに崩れ去ります。ご覧の通り、本日の箇所ではエルサレムの神殿は人の子イエスが幼かったころとは全く異なっています。そこはマリアとヨセフが幼子を連れて12年もの間、詣で続けた場ではなく、いずれは滅び去る人の世の象徴に過ぎません。そしてその特性は、やがて訪れる神の愛の統治、すなわち神の国の訪れと深く関連づけられてまいります。この神殿の存続よりも大事なのは神の愛による統治であり、その統治を前にして「人に惑わされるな」、「戦争や暴動は起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」、「大規模な争いがあり、自然災害があり、飢饉や疫病がある」、「あなたがたは起ころうとしているすべてから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と人の子イエスは語ります。その後、民衆はみな話を聞こうとして、神殿の境内にいる人の子イエスのもとに朝早くから集まります。誰もが福音を求めているのです。『マタイによる福音書』24章14節では「そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」と記します。この福音につつまれて、本日の聖書の箇所の金持ちと貧しい独り身の女性の関係も変わるに違いありません。すなわち、イエス・キリストを中心として、あの「徴税人ザアカイ」がそうであったように、金持ちは時に不正な手段によって得た全財産を用いてでもこの女性の暮らしを支え、独り身の女性は貧しい暮しの中でなお神に感謝して生きるという、金銭にはかりがたい喜びを金持ちに伝えます。イエス・キリストが伝えた福音の内容とは、すべての断絶が癒され、分かちあいが回復する「神の平和の実現」をも含みます。「神の平和」は戦争がないという状態を超えています。

 遺されたわずかな財産でさえ親族の分断をもたらす世。表向き豊かだとされてはいても、誰にも看取られずに召される人の絶えない時代。そのただ中で、あなたは独りではないと語るイエス・キリストがどこにおられるのかを見極め、祈りを重ねましょう。

2023年1月17日火曜日

2023年1月22日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「神の救いはすべての人へ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章20~30 節
(新約聖書  108頁).

讃美=399,453,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 人の子イエスが弟子とともに故郷ナザレへ戻られ、村の会堂でその時代の『聖書』の巻物を手にとって教えを語られるが、村人はイエスの智恵の由来や出自や家族構成ばかりを気にして、教えの内容には全く関心を向けないという「ナザレで受け入れられない」という物語。読みようによっては、人の子イエスの世にある家族や地域との間に抱えた摩擦や誤解といった、ローカルではあるけれどもわたしたちにも人ごとならざる課題や、イエス自らの家族構成を福音書はどのように描いていたのかという問いに迫る上では大切な箇所であるようです。それは『ヨハネによる福音書』を除くほかの福音書がすべてこの物語を欠かすことなく用いているところにも明らかです。しかし本日の『ルカによる福音書』の箇所では、人の子イエスに向けられた村人の気持ちというものが、単なる無理解に留まらず、殺意にまで膨らんでいくという、極めて異様な展開を見せているところにその特徴があります。

 イエスが会堂で『聖書』にある『イザヤ書』の「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を朗読し、「この『聖書』の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めたとき、会堂にいたすべての人々はイエスを褒めた、とあります。しかしその後人の子イエスは、異邦人の暮すカファルナウムで行なった癒しを里の村でもしてくれと求めるに違いないと人々を突き放します。「預言者は故郷では歓迎されない」とし、『旧約聖書』の預言者エリヤは、干ばつと大飢饉の危機に際し、イスラエルのやもめのもとにではなく、東地中海に面したシドン地方のサレプタのやもめだけに遣わされた記事、そして預言者エリシャはイスラエルの民にいる重い皮膚病に罹患した人のもとにではなく、シリア人ナアマンのみに遣わされ、この人のほかには清められなかったと語るのです。

 『旧約聖書』の物語では、サレプタのやもめに遣わされたエリヤは、干ばつと飢饉に苦しむやもめの飢えを満たし、疫病に罹患し息を引きとった息子を祈りのうちに甦らせます。このやもめは「あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と喜びのうちに語ります。アラム人の王の軍司令官ナアマンは、重い皮膚病を身体中に患い、イスラエルの王にその病のゆえに拒絶された後、エリシャに遣わされた使者の言うとおりにしたところその身が癒されて「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かった」と語ります。エリヤの物語にしても、エリシャの物語にしても、その時代のイスラエルの民、あるいは王と申しますものはいわば乱世で、アブラハムの神を仰ぐ者はまことに少なく、預言者もまた石を投げられ、いのちを奪われかねないという事情のもとにありました。その中で預言者の言葉を信頼とともに受けとめたのが、その時代のイスラエルの民からは程遠い、都市国家シドンに暮らすやもめと息子、そして「汚れた者」としてイスラエルの王から遠ざけられたアラム人の王の軍司令官ナアマンであったとの『聖書』の記事。これこそ主イエスが故郷の人々に向けた刺激的な言葉でした。確かに実に耳に痛い言葉だったでしょうが、『聖書』の言葉には変わりません。本日の箇所にたぎる人の子イエスへの村人の憎しみは、『聖書』の言葉に従うのではなくて、『聖書』ばかりか、人の子イエスのなさる奇跡もまた、自分の思惑通りに用いたり、わが身の正当化に用いたりと、便利な道具にしようとしたりするエゴイズムの正当化のため以上には『聖書』に触れてこなかった闇に由来します。

 『聖書』を通してイエス・キリストの言葉に出会う。これはすべての人に向けられた神の愛のメッセージとの出会いです。しかし人間は悲しいかな、その素晴しいメッセージでさえ、都合よく改ざんしたり、矮小化したりしようとします。都合よく手入れをしようと試みるのです。たとえば問題ばかりの組織や政治の正当化、自己弁護の正当化、戦争の正当化。これらがどのような結果を招くかは、わたしたちはカルト宗教や政治家の『聖書』の濫用を見るまでもなく、福音書に記される荒れ野の試みの物語の中で、悪魔が人の子イエスを『聖書』を用いて誘惑するところを見れば明らかです。神を試すことを煽る悪魔は、神への猜疑心をイエスから引き出そうとしますが、イエス・キリストはその誘惑に毅然と立ち向かいます。本日の箇所でも、会堂にいた人々は憤慨するあまり、イエスを村の外、町の外にまで追い出して、崖から突き落とすという、正式な裁判を経ないままで「石打ちの刑」に処そうとします。しかしこの殺意に満ちた村人にも神の救いのメッセージである福音は届いています。この民を神は大地に根付く野生のオリーブの根とし、すべての人々を接ぎ木とされるオリーブの枝として用います。人々はイエスを殺害できなかったのです。

  わたしたちは忙しさにかまけて『聖書』から遠ざかることがしばしばです。分かりやすさを求めて参考書を用いているうちに、『聖書』より参考書がありがたくなる場合もあります。しかし『聖書』を味わう上で、最も肝腎なのは無理矢理「分かろう」とするよりも「分からない」箇所こそがわたしたちに問いかけているメッセージです。神の救いはすべての人々に向けられています。



2023年1月10日火曜日

2023年1月15日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

―降誕節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「ペトロの嘆きと喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新約聖書  109頁).

讃美=247,243,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 多くの病人を癒し、古代ユダヤ教の多くの会堂で教えを語ったイエス・キリスト。そのイエスは一箇所に留まるのではなく、いろいろなところを巡り歩いていたと本日の箇所に先立って『ルカによる福音書』は語りかけます。そして今やイエス・キリストの働きの場は、イエス自らにも身近であったであろう湖の畔に移ろってまいります。わたしたちはその湖の名が「ガリラヤ湖」ではなく「ゲネサレト湖」となっているところに違和感を覚えたとしても、本日のメッセージでは敢えて重点をおきません。この呼び名は人の子イエスが向き合う、これからイエスに出会う人々がどこに暮していたのかを示すだけであります。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯を指し、その地方から呼んだガリラヤ湖の別名です。同じ山であってもネパール側から見ればエベレスト、チベットの側から見ればチョモランマと呼ぶのと大差はありません。要となるのは、救い主としての働きを始めた人の子イエスに、誰が出会ったのかという事柄です。もちろん本日の箇所までイエスは癒しを必要とする多くの人々と出会ってきたのですが、この湖で出会うのは、人の子イエスの弟子となる者、すなわちシモン・ペトロを始めとしたガリラヤの漁師です。押し寄せてきた群衆に等しく教えを伝えるために、イエスは一艘の舟を借りて岸から少し漕ぎ出すよう頼んだとあります。その折漁師は何をしていたかといえば網を洗っていたとあります。これは漁師としての仕事を終えて破れた網を繕っていることでもあります。漁師の仕事の時間は夜。舟の松明に火を灯して湖へと網を投げてまいります。暗闇の中で漁師は魚を獲るべく模索いたします。幾度と網を投げても網には決して手応えがありません。手応えがあったと思い強引に引揚げれば、水底に沈んだ木っ端に網は引き破られるばかり。この上ない無力感と暮しの絶望の淵に立ち尽くす他なかった漁師の姿がありました。その漁師にイエスは語りかけます。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中にいい加減にしてくれ、素人は黙ってくれとの苛立ちが察せられます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。「何もとれませんでした」とは、事実上の敗北宣言であり、今日からの暮らしをどうすればよいのかという嘆きです。見通しが立たないのです。だからこそその言葉に賭けるほかありません。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。失うものはなにもない。漁には素人の人の子の言葉に賭けるほかなかったのです。
 その結果はどうなったか。漁師の予想に反して数え切れないほどの魚が網にかかり、網が破れそうになり、もう一艘の仲間に助けを求め、舟が沈みそうになるまでの収穫を得ることができました。ただし、この箇所で物語が終われば、大漁旗の話でめでたく幕降ろしとなりますが、それにしてははじめてイエス・キリストと言葉を交わした漁師のシモン・ペトロの言動は奇妙です。素直に喜べばよいものを、イエス・キリストの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と呟くのです。ペトロだけではなく、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だったというのです。よくある解き明かしでは、イエスの教えを信じ切れていなかった、半信半疑の漁師たちの畏怖の念が描かれているともされますが、果たしてその理解に留まっていてよいのでしょうか。
 実はこの箇所にはまことに象徴的な言葉が散りばめられています。例えば「魚」。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」との初代教会の信仰告白の頭文字をとりますと「魚」というギリシア語に一致します。これは教会との関わりを尊ぶ人々の連なりを示しているとも読みとれます。しかしさらに問われるのは、福音書という『新約聖書』の書物が、全てイエス・キリストの苦難と十字架での死、そして復活を軸にして展開しているということです。イエス・キリストが大祭司の手下や祭司長の下役に不当に身柄を拘束された後、ペトロは鶏が鳴く前に三度人の子イエスとの関わりを否定します。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないというだろう」。これは使徒ペトロ個人の躓きに留まらず、使徒たちが導いた教会の躓きにも及ぶ言葉です。皮肉ながら、ペトロはイエス・キリストとの関わりを否まなければ、その教えの当事者にはなれませんでした。涙をもって受けとめることができなかったのです。それでは使徒ペトロは弟子失格だったのでしょうか。破門されたのでしょうか。そうではなかったのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。多くの躓きを重ねる弱さを見抜きながら、その度に「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と語るイエス・キリスト。闇の中で頑なにあがき続けるのではなく、神の希望の光の中で、世の只中へと漕ぎ出していき、人々と交わりを育み、広げていく愛の力を信頼しましょう。わたしたちはイエス・キリストを前にして、ただただひれ伏すのみです。それが聖日の礼拝に備えられた「頑なさを砕く」という神の愛に活かされる者の決して軽んじられてはならない、尊い奉仕のわざです。礼拝の尊さです。奉仕が謙遜を失うのであれば、それはイエス・キリストの望まれはしないでしょう。どんなに小さくても、イエス・キリストに背中を押されて人に仕える、新しい一週間を始めましょう。

2023年1月4日水曜日

2023年1月8日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

  ―降誕節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。


説教=「聞け、わたしの愛する子に」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』3 章15~22 節
(新約聖書 106 頁).

讃美=291,461,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 クリスマスの出来事が人の子イエスの世に遣わされた喜びを示すのであれば、ナザレで成人にいたるまで成長したイエスがバプテスマのヨハネより洗礼を授かるという本日の箇所は、教会ではイエス・キリストの公生涯、すなわち救い主としての公の生涯の始まりとして伝えられています。つまりクリスマスの物語とはどちらかといえば神の秘義として本来は隠されているところの物語を書き記しているのに較べまして、洗礼者ヨハネとの出会い以降の物語はあまねく人々に告げ知らせられる福音を人の子イエスのあゆみを通して、わたしたちはより具体的に見聞きすることとなります。同時に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするためにきた」とあるように、洗礼者ヨハネとの出会いによって一層輝きを増したイエス・キリストのいのちの光が照らした世にある事柄を「喜びの知らせ」である福音書はみな書き記しています。
それは「領主ヘロデが自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また自分の行ったあらゆる悪事」という言葉に代表されるところの、闇にうごめく人間の破れに満ちた姿です。へロディアはもともとクリスマス物語でベツレヘムの幼子を虐殺するヘロデ大王の息子フィリポと結婚した後に、異母兄弟である領主ヘロデと恋仲になり兄弟間で離婚と同時に結婚をするとの裏事情がありました。ヨハネが指摘したのは「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されてはいない」ところです。洗礼者ヨハネは領主の振る舞いに敢然と立ち向かいます。誰から支持されるのでもなく、世にある何者から「そうしろ」と言われたわけでもなく、です。これは原罪というようなぼんやりとしたものでなくて、モーセの律法に対するところの過ちです。つまり現行罪、実際に行った過ちを過ちとして誡めたその結果、ヨハネ自らが囚われの身になっていきます。しかし同時に領主ヘロデ自らはヨハネを正しい聖なる人だと知り、恐れつつ保護し、その教えに喜んで耳を傾けていたとも『マルコによる福音書』は記します。福音書に折に触れて顔を出すヘロデ大王の係累の姿は、そのような振る舞いをただただ諦めの中で黙認するほかない態度の歪みを象徴しています。
しかし人の子イエスもまた、そのような歪みに満ちた世にある人の列に加わって、ヨハネから洗礼を授かろうとします。これはキリスト教の教会で行うところの洗礼とは意味が全く異なる「清めの洗礼」、すなわち洗礼者ヨハネのもとで歪みに満ちた世に踏み出す人の子イエスが、わたしたちの味わう苦しみを全て担って、いのちの扉をこじ開ける生涯の記念とも言うべき場面です。福音書によっては、洗礼者ヨハネがこの出来事を躊躇する描写も見受けられます。しかしもし人の子イエスが歪みを抱えた人々の列に加わらなかったとするならばどのような事態となったことでしょう。わたしたちが暮らしや社会、世にある苦しみや生きづらさをいっさい顧みない、夢幻のような救い主でしかあり得なかったのではないでしょうか。逆に言えばそれは、わたしたちが妄想の中で、仮想現実の中で自己本位に抱くところの理想としての救い主、ユートピア幻想以上でも以下でもない救い主でしかありません。人の子イエスの救い主としてのあゆみは、決してそのようなお花畑の出来事ではないのです。
例えば今、わたしたちは身近にコロナ禍、電気代やガス代、農業では肥料や家畜の餌の価格と直結するウクライナ問題と関係して、さまざまな生活上の不安を抱えています。物価高で食に苦しむこどもたちの貧困の原因は地球規模の視点と地域に根ざす眼差しによって解明されます。『新約聖書』の物語ではより深刻な生活苦の中で救い主を待ち続けていた人々の声として、弟子たちはイエス・キリストに「世の終わりの徴」を問います。それは「生活につきまとう苦難の終わりの徴」とも受けとめられます。その問いにイエス・キリストが答えるには「人に惑わされるな」「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけよ、それは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と、戦争が起こるに決まっており、さらにそれは世の終わりではないと明言いたします。不安に覆われていた人々にこれほど冷静な見通しを語りうる救い主がイエスなのです。それは世の歪みにある人々とともにあればこそ、当事者でありながら神の智恵をもって何ら慌てふためくことなくまことの救いとは何かを、人に表面上の歪みがあろうとなかろうと問わず、神の愛の力をもって、人々を鎮め、平安へと導く道としてお示しになります。
2023年の1月も第2週を迎え、しばし忘れていた課題が目眩とともに重く立ち塞がっているような思いも抱く日もありました。しかし今日の箇所では、イエス・キリストがわたしたちの歪みを担われる徴として洗礼を受けて祈っていると、神の愛であるところの聖霊がイエスに降ったとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との言葉とともに、です。もしわたしたちが行く道に少しでも不安を覚えるのであるならば、神の愛する子イエスにどうすればよいのか、祈りつつ問い尋ねてみましょう。神は必ず道を拓いてくださります。時に待ちつつ、そして時を違うことなく歩む力を、主なる神は備え給います。