2024年12月31日火曜日

2025年 1月5日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「イエスの父ヨセフの背中」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章 19~23 節
(新共同訳 新約 3頁)

讃美=118, 122, 21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスの生涯、そして初代教会のあゆみの後をつかず離れず追いかけてくる一族がいます。それはクリスマスの物語に登場するヘロデ大王に始まるヘロデの息子、そして孫たちです。ヘロデ大王はすでにクリスマスの物語に嬰児虐殺という深い罪をわたしたちに突きつけてまいりますし、その息子ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネのいのちを宴の席の露と消してまいります。それだけでなく、その孫たちは『使徒言行録』で度々使徒パウロの行く手を阻む輩として描かれてまいります。その極勢期がヘロデ大王の世でもありました。

 しかしこのような狡知に長けた者、謀に長けた者たちには届かないところから、天の御使いたちは人の子イエスの家族に知恵を授け、立ちあがるべきタイミングを伝えます。『マタイによる福音書』では、このタイミングを三人の博士やイエスの父ヨセフが素直に受け容れて、生きながらえるという場面が多いところに気づかされます。果たしてこの「主の天使」とは何者なのでしょうか。天使とは神ではありませんが、わたしたちのような人ではない姿で描かれる場合が多いところです。神でも救い主でもありませんが、神のメッセージを人々に告げ知らす天的な存在として描かれます。これは『旧約聖書』から連続する存在でもありますが、わたしはこのような存在が神の愛を全うしながら人知れず召された人々の記憶だと解釈したいのです。そうでなければ『マタイによる福音書』にアブラハムからイエスの父ヨセフにいたるまでの系図など記される必要はありませんし『ルカによる福音書』でイエスの母マリアがヨセフに依らずに身ごもった出来事を祝福するはずもありません。誰よりも救い主の訪れを待ち望んだ人々の刻んだ記憶と力が、時が満ちた場面にこそ響く御使いの報せとして記されたのだと考えます。

 そのような声に押されて、長年にわたってエジプトで避難民としての生活を続けていたイエスの父ヨセフとその家族でした。そのヨセフの夢にまた主の天使が現れて次のように告げます。「起きて、こどもとその母親と連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった」。ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に帰ってきた、とあります。ヘロデ大王の治世がこうして終わりを告げました。猜疑心が強く自らの伴侶や息子まで殺害したとされるヘロデ王でしたが、人を愛することも信じることもなく生涯を全うした権力者の人生と引き換えにするように、イスラエルの地に神の希望の光が射してまいります。しかしその息子アルケラオもまた父ヘロデ大王の後継となったと知って、ガリラヤ地方に入ったと申します。実はこのアルケラオ、父ヘロデ大王にも増して暴君であったとのことでその報せがローマ帝国の知るところとなり罷免され、総督ピラトを代官とする直接統治にいたる顛末となります。この期間ヨセフは身を挺して家族にどのような時を分かちあったかと申しますと「ひきこもり」であります。「じっとして動かない」という解釈もできますが、更なる新しいステージを目指しての「備えの時」を家族は迎えます。

 このあたりのお話しは『ルカによる福音書』が詳しいのですが、重要なのは「ガリラヤ地方にひきこもった」というひと言で、人の子イエスの少年期を言い表しているというところです。しかもこの期間、誰がどのように人の子イエスを導いたかどうかについても描写しないところが他の福音書とは異なる味わいが出てまいります。

 子育てに携わる方々にはこの「ひきこもり」という言葉は決してプラスの意味では用いられません。しかしこの「ひきこもり」の時が「備えの時」として理解されるならば、その時々にあったはずの時代の常識や考えとは一線を画する個性の際立ちを育みます。譬え世の人々から否定的に見られようともその人はその人にしか出来ない賜物の中で育つことでしょうし、ましてや父親が今よりも「係累の神話」「家族の神話」の濃厚であった時代にあって伴侶マリアと息子イエスのためにすべてを献げた、息子とは血縁のないヨセフの姿が焼きつかないはずがありません。父ヨセフは本日の箇所を最後にして静かに福音書の舞台から姿を消していきます。

 思えばイエス・キリストは、人々から祈りの言葉を教えて欲しいと乞われたときに、神という言葉を用いませんでした。それは「主の祈り」に明らかですし、また後に自らの苦しみに思いを馳せ、ゲツセマネで祈りを献げた際にも「アッバ父よ」との祈りを忘れませんでした。「神の子イエス・キリスト」との称号の背景には、幼子イエスのために天の御使いの声に素直に従った父ヨセフの背中があったのではないでしょうか。そのような道ぞなえの役割を担いたいと願います。

2024年12月29日日曜日

2025年 1月1日(水祝) 元旦礼拝 説教

   ―元旦礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「初めに愛があった」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』1 章 1~5 節
(新共同訳 新約 163頁)

讃美= 21-260108, 21-262 98,21-24539

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 聖日礼拝を担う身といたしましては、他の牧師の説教を聴き、わが身を顧みるという機会の少なさに茫然自失するときがあります。つまり神との関わりなしには独りよがりの態度をとったとて誰からも何を言われるでなし、そのまま徒に時を重ねてしまう危険と隣合わせである主なる神からのお役目だとも申せましょう。

 そのような中で今朝味わう『ヨハネによる福音書』の冒頭は、他の福音書のクリスマス物語とはひと味もふた味も異なる表現で、牧師や教会に連なる者、そして『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』のように物語化されていないという意味では世にあるすべての人に対しても神の御子の誕生とはどのような出来事なのかを問いかけてやみません。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。このような書き出しで始まりますと、なるほど『ヨハネによる福音書』は実に哲学的で、古代ギリシア思想と初代教会との衝突があったのだなあと考えてしまうのですが、わたしが尊敬する牧師によれば「言葉」を発するからには何らかの「思いがある」との指摘がありました。なるほどそのように味わいますとまた異なったイエス・キリストの誕生について、救い主がわたしたちのもとに訪れたその尊さについて感じ入るところがあります。つまりわたしたちは狭い意味でも、広い意味でも相手に自らの意志を伝えようとすれば何らかの意志表示をせずにはおれない、その場合には言葉が不可欠だという見落としがちな事実です。もし話し手や聴き手の高慢さがあれば意思疎通は実に難しくなります。

 分かりやすい判例としては『旧約聖書』のバベルの町の物語があります。『創世記』11章に記された物語では、東の方から移動してきた人々は「れんがを造り、それをよく焼こう」という、その時代には画期的な発明をしてのけます。自由にかたちを変えることができるだけでなく、焼くことによって強度が飛躍的に高まります。それだけではありません。「しっくいの代わりにアスファルトを用いる」というところから、防水性も充分考えた建築を可能としました。しかし問題は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」という動機、すなわち傲慢さがその願いに潜んでいるという闇でした。

 このため主なる神は人間の動機とは反対に「降ってきて」この町の様子を調べて、人々の言葉を「混乱させて」共同作業を出来ないようにしてしまいます。昔の映画のように多くの言葉ができたというよりも、お互いの高ぶり、高慢さの結果として意思疎通ができなくなってしまったとの、わたしたちの間にもありがちな問題の根をこのように指摘します。高慢さによって相手の話に耳を傾けなくなり、暴力や権力という力を頼みとして、今も多くの人々が傷つき、その果てには争いすら起きてしまうという有様です。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というこの一行。神とともにある言というこの短い一行は、そのような破れを抱えたわたしたちが、再びどうにかして愛し合えないものかとの苦渋の決断を窺うことができます。神はわたしたちを天地創造の出来事以来愛してくださったからこその思いがあり、時を重ねるほどに互いを傷つけあう人間をそれでも大切に思ってくださったがゆえに、自らを見失ったわたしたちに語りかけてくださったのです。そのかけがえのない言葉こそがイエス・キリストなのだという理解です。

 「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内には命があった。命は人間を照らす光であった。光りは暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。万物は神の言葉によってできたが、その現状への何とも言えない心境を書き手は記しているようです。しかし神の言には神の思いが込められており、その言には世にある人の姿となりながら、神と人との交わりを今一度する瑞々しさがあり、死に打ち勝ついのちの力を十全に湛えているとの書き手の確信があります。それは神の愛のひと言につきます。

 イエス・キリストがどのような人々と食をともにし、イエス・キリストがどのような人々と出会い、イエス・キリストがどのように新しい交わりを育んでいったのか。飼葉桶に宿ったみどり児が成長し、救い主として働かれたそのあゆみを、わたしたちは各々の賜物に応じて辿ってまいりましょう。その道備えのあゆみこそが、新しい年の教会を育み、実りとなっていくものと確信します。わたしたちの幼さや頑なさなどすべて主なる神はご存じの上で、イエス・キリストを世に遣わされました。降誕節のただ中、注がれる日の光に感謝したいと思います。

2024年12月27日金曜日

2024年 12月29日(日) 礼拝 説教

―降誕節 第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「救い主は逃れの民の中に」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章 13~15 節
(新共同訳 新約  2頁)

讃美= 21-265(114),21-252(119),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『マタイによる福音書』に記されるクリスマス物語は、『ルカによる福音書』に記されるような祝祭的な雰囲気を必ずしも伴ってはおりません。福音書冒頭で記されるイエス・キリストにいたるまでの系図には、アブラハムから始まるイスラエルの民の系図に表現された歴史がいかに罪深いものであったかが記され、その歴史が記された後に、民の救い主として誕生する救い主の誕生が、聖霊によるものであり、同時に父ヨセフとは血縁としては関わりないものであることから深い不安に満ちたものとして記されます。しかし夢の中に現れた御使いのメッセージによってヨセフは奮い立ち、改めてマリアを伴侶として迎え入れる様子が描かれます。

 さらには輝く星に導かれて東の方から訪れた占星術の三人の博士たちがエルサレムで発した「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」との問いかけは、ローマ帝国を後ろ盾としたヘロデ大王、そして王宮に連なっていたであろう富裕層の人々に希望の光を灯すどころか、深い不安によって揺り動かします。大王は深い不安の中で三人の博士をベツレヘムまで送り出させ、その報せを聞き出そうとしますが御使いの言葉が博士の行方を遮り、別の新しい道を拓いて故郷に戻ることとなりました。さらに主の御使いは人の子イエスの父ヨセフにも臨み「エジプトに逃れよ、そしてわたしが告げるまで、そこに留まれ」と寄留者としてエジプトに留まるよう告げます。ヨセフはその言葉が何事なのかと戸惑うほかなかったでしょうが、これまでその言葉を尊んできた人でもありましたから、敢えて寄留者、すなわち逃れの民でもあり、現代の言葉で言えば難民としてベツレヘムからの脱出に成功します。間一髪で脱出に成功したヨセフとマリアでしたが、故郷では悲劇的な虐殺行為が行われました。人の頼る権力のもつ暴力性が浮き彫りにされるだけでなく、救い主の誕生と並行して福音書で描かれることで、公文書では恐らくは隠蔽されたで在ろうこの野蛮な行為が白日のもとさらけ出されました。こどもたちには母親がおり、父親がいたはずで、だからこそ福音書の書き手は『エレミヤ書』を初めとした預言者の書を逐一引用しては、人の子イエスの誕生の陰の悲しみが、やがてイエス・キリストの十字架での苦難と死によって分かち合われ、復活の日を待ち望むとのあり方に転換されていく様を隠すことなく書き記します。

 さてエジプトに逃れたイエスとマリアはその場でどのように暮らしたというのでしょうか。当時のエジプトはローマ帝国領ではありましたが、住民登録を行ったベツレヘムとは遠く離れています。ましてやヨセフとマリアは立場としては恵まれたローマ帝国の市民ではなく、あくまでも自己申告こそあれ、身分証明のない難民として扱われたことでしょう。おそらくヨセフの就労先と申しても身体を酷使する労役から始まり、時として言葉の通じない世界で汗を流し、そしてようやく、後のナザレでは「大工」と見なされる技術と職能を身につけて家族を養ったのではないでしょうか。

 インバウンド経済に対する反発、オーバーツーリズムに対する反発、また犯罪歴のない、日本語学校の成績ではA1クラスの就労者でさえ苦労の多い現代におきまして、わたしたちがヘロデ大王の追っ手から逃れてきたような人々の暮らしを理解するのは、当教会の設立者の生涯から申しましても当然の態度です。土山牧羔先生が留学された時分には排日移民法の果てに真珠湾攻撃が起きて太平洋戦争が勃発し、アメリカ合衆国西海岸に暮らす日系人はマンザナールを初めとした強制収容所に送られていきました。ドイツ系やイタリア系の移民にはなされなかった対応であったと申します。そのような中で若き日の牧羔牧師は合衆国東海岸部に留学されていたことから辛うじて難を逃れましたが、プリンストン大学のキャンパス外では中国人を名乗り災難を回避しながら、収容された日系人との面会や連絡を絶つことはなかったとのことです。その中で己のあり方をエジプトに逃れたあの家族に重ねて、エジプトでの苦難とアメリカ合衆国での苦難を重ね祈り励んだ月日を過ごしたに違いありません。

 2024年の世界を顧みるに、各地で絶えない争いや政変があり、その度ごとに地域の常識が変わり果て、こどもたちが食に事欠くというイエス誕生の時代から変わらない問題が解決されないまま放置されています。そのような流れを前にしてイエスの父ヨセフは傷つき、汗を流しながら家族を支えてまいります。神と家族の前に誠実な姿のモデルが、人の子イエスとは直接血が繋がらないとされるヨセフに映し出されはしないでしょうか。わたしたちは年の瀬を迎えます。そこには課題を抱えながらも温かな家族や親族がいることでしょう。もし「そうではない」と仰せになる方がいるならば、エジプトで家族を支えるヨセフを思い出していただきたく願います。

2024年12月18日水曜日

2024年 12月22日(日) 礼拝 説教

   ―待降節 第4主日礼拝―

――クリスマス礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「クリスマスのよろこび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』1章18~25節
(新共同訳 新約  1 頁)

讃美= 99,106,103,讃美ファイル 3,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  わたしたちの住まう地であるこの国に、教会の建設が公に承認されたのは明治6年、1873年だと申します。当時は大日本帝国その姿はどこにもない、明治太政官新政府による近代化を急ぐ中、国際社会への仲間入りを望んでの政治的判断でした。それまで様々な弾圧があっても屈しなかったローマ・カトリックのいわゆる「切支丹」と呼ばれた方々には朗報でした。また貧しさ原因は努力不足にあるという自己責任論が当たり前だった時代に、貧民窟と揶揄された地域には新たに教会や様々な福祉施設が設立されていきます。宣教師は出身国のキリスト教の問題を知っていましたから、志を高く抱き、自分たちが本国ではなし得なかった開拓伝道の地として日本を訪れました。福祉の世界では身を削るようにして周囲から散財だとして誹謗されても、自宅を開放して孤児や貧しく病んでいる人々に仕える人々が登場するという新しい時代が訪れました。もちろん、現代の常識からすればまだまだ種々の問題があったとはいえ、であります。

 ところで『マタイによる福音書』では、クリスマス物語が『ルカによる福音書』とは異なる調子で描かれるところにお気づきでしょうか。表向きには『ルカによる福音書』は「ローマ帝国とは異なる、神の愛の支配による救い主の教え」、『マタイによる福音書』では「古代ユダヤ教の世界に向けた宣教のわざ」という色合いが強調される機会がありますが、とくに『マタイによる福音書』では実のところ救い主の誕生をめぐる人間の葛藤の描写、それも普段は目にしない社会や人心の揺れ動きの描写に長けています。例えば救い主の誕生の箇所をめぐっては、マリアの救い主の懐胎が「聖霊による身ごもり」として一行で記され、旅の困難さやマリアをめぐる親族の物語には触れられません。その一方で、ヨセフの苦悩、則ち妊娠が明らかになった場合、マリアが晒し者にされて石打の刑に処せられるという恐怖の中で悶々とする様子が描かれ、マリアのいのちを守るそのために離縁を決意するという覚悟にまでいたる様子が描かれます。しかしその苦悩にあって見た夢の中で父ヨセフは主の天使のメッセージを授かり、厳粛な事実を受け容れ、『聖書』の約束が徐々に完成されていくという筋立てになります。さらにエルサレムの人々にあっては、ヘロデ王始めエルサレムの人々は東方の三博士の訪問に「不安を抱いた」と記され、ヘロデ大王にいたってはその王権を否定された怒りの中で不安のもとを絶とうとベツレヘムで虐殺行為にまで及び、間一髪でみどり児とマリア、そしてヨセフはエジプトへ逃れるという鳥肌もののお話が描かれます。ローマ帝国の皇帝を凌ぐ権能を与えられた救い主が、皇帝からすれば数のうちに入らない人々とその誕生の時からともにいたとの物語とは明らかに異なるのです。

 わたしたちがまだ聞かない重要なメッセージがあるとすれば、主なる神は人間の裏も表もご存じであり、そのただ中に救い主を授けたときに全てが明らかになるという出来事が示されていると思うのです。つまり救い主イエス・キリストの誕生によってそれまで当然とされていた権力や社会の常識が大地震のように揺り動かされながらも、名もない人々には必ず逃れの道が備えられ、それは『旧約聖書』にある約束の完成でもあるとの理解です。

  コロナ禍から五年を経た今、明治維新の時代のように世の中は大きく揺れ動いています。SNSで地球上のすべてが繋がったかのように思われた一方で、戦争や難民の人々に対する偏見が増し加わる時代。弱者叩きが当たり前のように思われる今、すべてを神の前に開き、その上で神の愛がそそがれるという、いのちといのちのつながりの育みが新しく生まれようとしています。わたしたちはその芽生えを飼葉桶に眠るイエス・キリストの誕生から気づかされ、新しい年への備えを始める勇気を主なる神から授かります。クリスマスおめでとうございます。



2024年12月21日(土) 夜 クリスマスイヴ燭火礼拝 説教

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後7時30分~


 

説教=「天使の観た世界とは」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2章 1~12節

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 クリスマスは12月25日、クリスマスイヴは12月24日と倣いが決まっているもの、つまり固定聖日であるとの認識に基づいて、これまでの日本ではクリスマスがお祝いされました。しかし最近では他宗教への配慮という観点から「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」との呼び方もされます。とはいえ日本でキリスト教はファッションとして、商業化された祝祭としての理解が殆ど。思えばムスリームやムスリーマへの偏見と差別も目立つようになりました。それだけに、教会のようにあえて日曜日、則ち聖日をクリスマス礼拝に指定する態度もひとつの表明かと考えます。むしろその方が大勢の人々が寝泊まりした宿屋からは相手にされなかった父ヨセフと母マリアの見守る中で、飼葉桶に安らうみどり児イエスの誕生を祝うには相応しいかもしれません。
 さて本日の週報をご覧になりますと、クリスマスに因んだ讃美歌が列挙されています。その中でこれまでの日本のクリスマスの讃美歌の倣いからは違和感を覚える歌はないでしょうか。そう、頌栄の「主よ、おいでください」と訳された讃美歌がそれです。『讃美歌21』には「アフリカ民謡」と記されます。しかしこれはアフリカ民謡ではありません。アフリカから北米大陸へと連れてこられたアフロ・アメリカン、黒人奴隷を先祖にもつアメリカ人が、祖母や祖父の代から大切してきた部族の歌、日本でいう民謡に己の生活状況を重ねて歌い継がれてきた讃美歌です。歌詞には今のところ四つの版があるそうですが「泣いている人がいます(Someone’s crying, my Lord, kumbay ya)」という歌詞を「嘆きを聞いてください、クンバーヤー(Hear me crying my Lord, kumbay ya)」とする版もあり、この訳ですと救い主を待ち望むという気持ちがより切実になります。また二つの歌詞を並べますと、悲しみに打ちひしがれている人と、その人に寄り添おうとする人との関係を歌う内容にもなります。クンバーヤーは「こちらに来てください」の意味で、歌う人々のキリストの訪れを待ち望む切々たる叫びです。キリストの救いを願い歌う讃美歌であり、飼葉桶のキリストを訪ねた人々を包むメロディーでもあり、今、人生の行方を前に途方に暮れている方々を包む歌声だとも言えます。

 「本当のクリスマスをあなたに」という種々のポスターを見かける季節でもありますが、本当のクリスマスとはいったい何でしょうか。それは「誰とともにいるのか」という問いかけに決してたじろがないクリスマスを指すのではないでしょうか。『聖書』のクリスマス物語に描かれる天使そのものは、神ではなく、人でもなく、救い主でもありません。けれども今なおわたしたちを見つめ、世の常識からすれば出会うことのなかった人々をイエス・キリストのもとに招き、勇気づけ、冷たい夜に熱い神の愛をそそぎ、明日への希望を告げ知らせた声ではなかったかと思います。イエス・キリストを通して、その声は今も人々に向けて主イエス・キリストの誕生を呼びかけています。

2024年12月11日水曜日

2024年 12月15日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第3主日礼拝―

――アドベント第3主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 
説教=「牢獄から届くクリスマスの讃美の声」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章2~9 節
(新共同訳 新約  19 頁)

讃美= 21-242,Ⅱ49,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 牧師である以上、刑務所伝道とは無縁ではおれません。けれども刑務所内の懲役刑に服する人々との接見を赦されたり、宗教的な講話を行う「教誨師」という役職は法務省から委託されたりするものであり、自ら名乗りあげるわけにもまいりません。服役囚にはそれぞれの宗教サークルに属する自由があり、ある者は刑務官の監視のもとクリスマスを祝い、または経典の意味を僧侶に解説していただく機会が、他の労務に較べて緩やかに持たれていることは存じています。釈放されても前科のある者として過酷な前途が待つ人々が自暴自棄にならないためにはぜひとも欠かせないプログラムであろうかと考えます。

 しかし最近は「無敵の人」と呼ばれる人が刃傷沙汰を起こして収監されるケースが増えてきたと申します。一般社会の暮らしに絶望した人が刑務所に入りたいがために事件を起こし、その生活の中で安らぎを得るというものです。「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ。ところが刑務所は努力しなくてもよい。社会にいる時にあれだけほしかった食べ物、どうしても得ることができなかった食べ物が、ここでは食べないと食べてくださいとお願いされる。―略―仮釈放は怖い。もう二度とシャバ(社会)には出たくない」。虐待を受けるばかりの幼いころ、身内や知り合いの家を転々としたころ、ホームレス同然の暮らしを経た彼には失うものは何もありません。いずれは自分がどのような大ごとをしでかしたのかも忘れていく日々。新幹線の中で刃を振るった青年には、実質的な意味での無期懲役という量刑は意味をもちません。「無敵の人」則ち何も失うものがないとの絶望は人をかくまで追い詰めます。このような苦しみ喘ぐ人々の社会復帰には従来の自己責任論とは別の手立てが求められています。

 しかし洗礼者ヨハネは、そのような「無敵の人」ではありませんでした。失うものが何もないからこそ、その時代の古代ユダヤ教の権力者を批判したわけではありませんでした。洗礼者ヨハネには何もなかったのではなく、救い主が必ず訪れるとの確信がありました。『聖書』を神の言葉として受け容れる人にはそれが根拠になりましたし、侮る人々には故無き信仰からの言葉として響いたかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは神の言葉にすべてを献げ、メッセージを語り続けました。そして彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって囚われの身になったのでした。彼にとっての牢とは、救い主の希望を待ち望むという祈りの場でした。しかし救い主が誰であるかに関しては覚束ないところあり、人の子イエスのわざを聞くに及んで弟子を遣わし尋ねます。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、別の方を待たねばなりませんか」。「別の方を待たねばなりませんか」との言葉には、ヨハネの期待と不安が入り交じっています。それでこそ、純然たる神の希望を授かる側の、破れに満ちた心根の正直な告白です。弟子に託したこの言葉に、人の子イエスは自らの行いを淡々と語った後、「わたしに躓かない者は幸いである」と語ります。人の子イエスが淡々と語ったその内容は、本来であれば「無敵の人」を自称する者を慄かせ、別の道を備えるにあたり充分な証しとなっています。洗礼者ヨハネの弟子が帰ると、人の子イエスは語り始めます。「あなたがたは、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。いや、預言者以上の者である」。人の子イエスが、ヨハネを「預言者以上の者である」と民衆に語ったのは、人として世に現れた救い主イエス・キリストと直に関わり、直に清めの洗礼を授けたからに相違ありません。この話の延長線上で「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」との教えが記されます。

 ベツレヘムでマリアとヨセフが探し求めた宿屋。宿屋は街道沿いの道に面して建てられた旅人が身を寄せた場所です。往々にしてそのような宿屋は、異邦人や古代ユダヤ教の戒律とは縁の無い渡世人が身を寄せた場所であったかも知れません。その場にさえマリアが救い主を出産する場所はありませんでした。しかしだからといって、二人はボニーとクライドのような「無敵の人」にはなれませんでした。二人の授かったみどり児が救い主であり、「無敵の人」を「神を畏れる人」に転換する力を授かり、全ての人を囚われの身から解放するキリストであったことに、洗礼者ヨハネの声は見事に届きました。それはクリスマスの讃美の声へとつながっていきます。

2024年12月5日木曜日

2024年 12月8日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第2主日礼拝―

――アドベント第2主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「みどり児はキリストとして生まれた」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13章 53~58 節
(新共同訳 新約  27 頁)

讃美= 96,Ⅱ 119,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 少しずつ歳末を迎えて、シャッター街が増えたと言われる現在でも、人通りの多い商店街はまだまだ健在です。改正道路交通法など気にせず、荷物を自転車に満載して行き交う人々の姿は今でも大阪の下町では健在です。物価が高くなるほど人々は少しでも安いものをとチラシを手にして買い出しに走ります。その慌ただしさはニュータウンの比ではないように思います。
 そのような時に教会のクリスマス関連のトラクトを配る人がいます。その多くが捨てられていきます。それでも人の波の潮目を見極めながら、家族連れやご高齢の方々に笑顔で接する人々は、虎視眈々と安売りの商品を買い求める群れとは異なる表情をしています。日々の暮らしに汲々としている人には分かりませんが、それでも分かる人には分かるという具合です。とは言え、イエス・キリストはどのような人のために生まれたかと申しあげれば、笑顔でトラクトを受けとる人だけでなく、暮らしに汲々としている人々のためにでもあります。
 それでは人の子イエスが譬えをもって教えを語った後に向かったナザレの村人はどのような人々だったのでしょうか。それは言わずもがな日々の暮らしに窮し、その暮らしに追われる他に道がなかったに違いありません。人の子イエスはその時代のユダヤ教の律法学者ではなく、言わんや牧師でも神父でもありません。人の子イエスもまたナザレの村では本来は大工という家業を継ぐべき若者であり、だからこそ次のように会堂で教えている人の子イエスの様子を見て語ります。「この人は、このような知恵とこの奇跡をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。
 暮らしに追われるナザレの村人の目に、人の子イエスがこのようにしか映らなかったとしても無理はなかったことでしょう。村人のこの言葉からは人の子イエスの家族構成こそ分かるものの、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という使徒パウロの言葉さえ響くかどうか考えるところです。しかし、それでこそ救い主が人の姿を見にまとって世に現れたという言葉がわたしたちに迫るのではないでしょうか。
 『ルカによる福音書』でイエスの母マリアと父ヨセフは徴税のための「住民登録」のために皇帝アウグストゥスの命令で、このナザレという村から故郷ベツレヘムへの旅を強要されました。皇帝の命令に無理強いされた旅人の群れに夫婦は身を置くほかありませんでした。そしていのちを身に宿したままの旅という危なさを経ながらも、この若い夫婦を迎え入れるはずの人々は故郷にはおりませんでした。どの宿屋からも客としてもてなしを受けず、親戚を頼るわけにもまいりませんでした。その中で飼い葉桶を初めての居場所としたのが人の子イエスだったのです。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という言葉に、今や神の愛の力が注がれます。使徒パウロは人の子としてのイエスとの出会いはなかったと言われています。しかし生活に汲々としながらもイエスを救い主だと仰ぐ人々を律法学者として弾圧しながらも、その後キリスト者とされた折に、人の子イエスの人物やイエスの起こした愛のわざ、そしてその教えとその生涯を他の弟子だけでなく、人の子イエスを知る多くの人々からその様子を聞いたとも言われています。人の子イエスと救い主イエス・キリストは決して分離はされません。
 わたしたちが世の事々、しかも多くが目を覆いたくなるような事々に気をとられたり、家族の不幸に身を置くほか術が無かったりしたときに「神さまあなたはどこにいるのですか」と涙ながらに嘆くほかない場合があります。また世の不正を糾すため懸命になってはみたものの、心身疲れ果てるばかりでなく、心すら病む場合もあります。家財を失ったときも同じです。そのようなときにこそ、飼い葉桶の中に横たわるみどり児が何者であるのかと問うてみてはいかがでしょうか。問いかけるうちに、そのみどり児がイエス・キリストであるとの確信を授かるはずではないでしょうか。飼い葉桶にみどり児を授かるとは、イエス・キリストを授かることに他なりません。この神の愛に裏づけられた出来事こそが、いかなる困難にも、いかなる悲しみにも、いかなる嘘偽りにも勝利するための足場となります。みどり児はキリストとしてお生まれになりました。誰からの苦言も疑問も遠ざける信実を、わたしたちはすでに授かりつつ、その日を待ち続けるのです。