2024年3月29日金曜日

2024年 3月31日(日) 礼拝 説教

      ー復活節第1主日礼拝ー

 ―イースター礼拝―

時間:10時30分~



説教=「復活のイエス・キリストと出会う」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20章11~17節
(新約聖書  192頁).

讃美=  146 (1.3.4), 265 (1.3),讃美ファイル3(1.2), 21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 福音書の物語の中には、人の子イエスの筆頭弟子シモン・ペトロを始めとした弟子による「メシア告白」が記されます。それはイエス・キリストが対話の中で「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うた折、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白する場面で、人の子イエスは口外しないよう弟子たちを戒めるという具合で進んでまいります。しかしこの物語が記されている福音書三部作、つまりマルコ、マタイ、ルカによる福音書では、いずれにしてもこの告白はキリストが受ける苦難と十字架への道を前にして脆くも崩れ去っていきます。イエス・キリストが語る十字架と死、そして葬りと復活の出来事のうち、復活がどのような出来事であるのか分からず、結局はキリストの受難を目の当たりにしてある者は逃げ去り、ある者は無罪を訴えながらも深い後悔の中で自らを死に追いやります。どのように整った「信仰告白」を行なったところで、それがイエス・キリストの十字架の出来事と関わり、十字架を深く見つめていなければ歪みや欠けのあるものとなります。

 そのような弟子に比較しますと本日の箇所でのマリアの態度は実に素直です。「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。そのわけは、墓地にあるイエスの埋葬場所で、遺体が姿を消してしまい、人の子イエスの亡骸が取り去られ、どこに置かれているか分からないからだと天使に答えるところにあります。マリアには墓が空になっている様子は信仰上の問いかけでも何でもなく、遺体が失くなりただただ悲しいというその事柄に尽きます。実にその場にわたしたちがいたとしても変わらない、大切な人のいのちだけではなく身体までも失った者の素直な反応です。そのようなマリアの後ろから復活したイエスは問いかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」。マリアは復活したイエスだと気づかないまま「あなたがたあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアには十字架に架けられたイエスの身体が、死刑囚の身体でもあると忘れませんでした。もし墓地の管理人がそのことを知っており、何らかの仕方で遺体まで辱めるのであれば「わたしが引き取る」とまで申します。その時代の女性には見られない、極めて強い宣言であり態度です。自分はこの処刑された死刑囚の身内であると宣言するに等しい行為です。

 そのようなマリアの決意を知ってか、復活したイエスは「マリア」と声をかけます。その人だと気づいたマリアは「ラボニ」「先生!」と思わず叫ぶほかありませんでした。しかし不思議なことに復活したイエス・キリストは次のように語ります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。これはどういうことでしょうか。復活したイエス・キリストは、自らに気づいたマリアに対して底意地悪く殊更深い問いかけをしたのでしょうか。

 決してそうではないと、わたしはこの箇所を受けとめます。それは、これまでマリアとともにいた人の子イエスの「これまでの姿」と、これから人々が仰ぐところの、死にうち勝った復活のイエス・キリストの「これからの姿」は全く異なるというところ、つまり、死に勝利し復活したところのイエス・キリストは、身体に十字架で受けた傷を刻みながらも、怯える弟子たちと一層深い交わりを育んだ後に、父なる神のもとに上るとされるからです。今や人の子イエスは、人間として人々の傷みに寄添い、その時代人の数にも入れられなった人々とともに食卓を囲み、素性や特性すら多様なこどもたちを抱いて一人ずつ祝福されたその愛情が、今やわたしたちには見えない神の愛を証ししてきたと、神の愛の統治が直ちにわたしたちのもとに訪れるその日まで、父なる神のもとで証しし続けてまいります。その神の愛のもとにわたしたちはつつまれています。

 時は流れます。これまでのわたしたちとこれからのわたしたちは当然ながら異なります。あえて「変わらないなあ」と久しぶりの再会を喜ぶのも、時計の針が二度と元には戻らない厳粛さを知ればこそ、です。だからこそ、イエス・キリストはマリアに伝えます。「わたしの兄弟のところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたのいのちである方、また、わたしの神であり、あなたがたの神であるところへわたしは上る』と」。マリアは素直に弟子のもとに出かけ、「わたしは主を見た」と語り、託された言葉を語ったとあります。

 力のありなしによって関係性が歪められ、傷つきいのちさえ粗末にされる世は、福音書の時代もわたしたちの時代も変わるところはありません。十字架のイエスを見つめつつ復活のキリストに従いながらこれからも神の愛を証ししていきましょう。喜び、祈り、主なる神に感謝を献げるあゆみが少しずつわたしたちを変えていきます。




2024年3月21日木曜日

2024年 3月24日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第6主日礼拝ー

 ―棕櫚の主日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「濡れ衣を破る復活の兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章 33 ~ 40 節
(新約聖書  192頁).

讃美=  讃美ファイル 5,21-298,271B,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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【説教要旨】
 イスカリオテのユダから大祭司の下役へ、大祭司の下役から大祭司へ、大祭司からピラトへと引き渡されたイエス・キリスト。誰からも罪に定められなかったからこそ、このようにたらい回しにされていき、本日の箇所にいたります。イエス・キリストの十字架にいたるまでの道は、確かに苦難の道であります。しかしその苦難は運命や定めといったものではなくて、地球規模の視点からすれば神の救いの約束の実現、わたしたち「赦された罪人」の実に偏狭な眼差しからすれば思いも寄らないほど残酷な出会いと仕打ちから生じた痛みです。大祭司アンナスのもとに連れていかれたイエスはその口の利き方が横柄だと下役から平手打ちの辱めを受けます。

「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」とこの状況下にあってなおその時代の裁判の正当な手順に、自らの逮捕が沿っていないと語ります。この救い主の示される神の愛の真実さは、却って人の子イエスを罪に定めようとする側の分裂を明らかにします。
  
  すなわち本日の箇所の直前にはイエスをカイアファのところから総督ピラトのもとに連れていく人々は「自分では官邸に入らなかった」とあります。なぜでしょうか。それは異邦人であるピラトと接触することで、安息日に汚れてしまうことを恐れたからです。「汚れないで過越の食事を済ませるためであった」とある通りです。この箇所の直前にあるのが大祭司の下役と総督ピラトとの押し問答で「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」との言葉ですがこれは偽りで、人の子イエスには『律法』による過ちが一切見いだせず結論ありきの裁判、もっといえばお互いがお互いを功利的に利用しようとする歯車に人の子イエスが架けられようとしている様子が描かれているのです。人の子イエスとピラトとの対話は、人の子イエスが無罪であることを却って明らかにいたします。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。「わたしの国は、この世には属していない」。人の子イエスの語る神の愛による統治は、世にある政治に縛られるものではないとはっきり語ります。裏を返せば、ローマ帝国との競合関係にはないとの意味となり、十字架刑の適応外になります。ピラトはこのような仕方で救い主の処刑を望む者に陥れられたと知ります。ですからピラトには、イエス・キリストとの問答は計り知れないほどの恐怖となったことでしょう。ローマ帝国の代官が裁きを誤って騒動を起こせば皇帝から罰せられるからです。恐怖に基づく交わり、またお互いを利用しようとする交わりはこのように解体されバラバラにされてまいります。なぜなら互いに尊敬の念がまるでないからです。「真理とは何か」と問いかけるのがピラトにできる限りの言葉でした。

 その後のピラトの対応は、イエス・キリストとの間になるべく責任が生じないように行動することでした。つまり過越の祭の慣例に則して、集まった群衆に死刑囚の恩赦を申し出ます。しかし少なくともピラトはこう語っているのです。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」。これは事実上総督としての責任を丸投げにする、職務放棄のわざです。その結果、まことに恣意的に集められた民衆によって十字架刑が決定されてしまいます。相手への尊敬を欠いた神なき交わりが何をもたらすのか、キリストの苦難はその事実をあぶり出すにいたりました。

 年度末を迎え、知る限りではありますが人と人との関わりが絶たれていく現状に悲しみを覚える機会も増えてまいります。ことのほか喫緊では職員自ら密なるチームワークで臨まなければなし得ないはずの教育や保育、福祉の現場にも組織の拡大と儲けを第一とした、人を人とも扱わない管理者の態度が目立ちます。そしていつも濡れ衣を着せられるのは現場で当事者とともに涙と喜びをともにしてきた職員であったり、あるいは働き手であったりという具合です。相手を尊ぶ交わりが、そうでない暴力によって引き裂かれていく不条理がそこにはあります。そのような組織の中では、異議を唱える者には排除の刃が向けられます。しかしわたしたちの交わり、そしてわたしたちの連なる働きの場はそうであってはならず、またそうなるならば必ず神の愛の力が臨むことでしょう。神は正しい者のかたわらにいるだけでありません。人間は正しさを振りかざして弱い者を虐げられもするからです。主なる神は虐げられた者の側に立つ者、「弁護する者」であり、それは人がこしらえあげた濡れ衣を引き裂き、新しい道を必ず備えます。イエス・キリストの苦難は、そのような濡れ衣と枷を万人の知るところとし、そして人々に自らの苦しみと引き換えに解放の力を注ぎ込みます。イエス・キリストとともにある交わりには、お互いに頼りとしながら、かけがえのない特性を喜び、痛みをともにしタラントを活かす道が備えられています。

2024年3月14日木曜日

2024年 3月17日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書  192頁).

讃美=  243,21-466,21-27.
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【説教要旨】
 『旧約聖書』が成立する遙か前、紀元前ではおよそ一万年新石器時代、人類に贈られた穀物は野生の麦であったと申します。最初はその麦を採取し、石ですり潰して種のないパンを作っては食していましたが、次第に畑を耕しそこに水をひき、農耕という仕方で麦の栽培を人工的に行なうようになりました。貨幣のない時代、収穫された穀物の量によって都市の力は決定づけられました。羊などの家畜と異なり、穀物は長期の保存と備蓄に耐えたからです。そこではどれほどの麦が収穫できるかという「量」を競い合うこととなり、歳代で一粒の麦から七十粒近くが収穫できたとのこと。ローマ帝国の世では一粒あたり五粒の収穫だったことを考えると驚異的でした。人の子イエスの時代に近づくにあたり一粒あたりの収穫は低下し、身近ながらも貴重な食糧として扱われました。

 そのように殆どの人々が「量」に注目するところの穀物のはずですが、『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストの眼差しは異なります。収穫量に嬉々とする人々の中、他ならぬ「一粒の麦」の行方に目を注ぎながら、ギリシア人に福音の教えを説くのです。ギリシア人でもユダヤ人でもその日の食糧を確保するためには相応しい汗を流す、または時間を献げなくてはなりません。民の文化の垣根を超える対話の土台として「一粒の麦」を用いた譬え話は、人の子イエスに会いたいと切に願うギリシア人にも深く響いたことでしょう。

 すでにイエスはエルサレムの城壁の外で暮らす人々に迎えられ、聖なる都と謳われる都市へと入りました。暮らす人々は城壁の外の村人たちとは暮らしの水準は全く異なります。一粒の麦の行く末を凝視するのは貧しさに喘ぐ貧農であったことでしょう。袋に入った麦は備蓄できますが、一度蒔いてしまえば元には戻せません。その先がどうなるかは神に委ねる他はなく、未来にどのような収穫が待つのかは誰にも分からないのです。後もう少しというところで日照りに見舞われたり、病害虫におかされたりというリスクは変わりません。イエス・キリストは神に委ねて歩むその生き方を、一粒の麦に重ねます。

 近現代の日本では、人生はその人個人の自己責任のもと、その人自らに「所有」され、そして死によって完結するものだと見なされてきました。「その人がどのように生きようとそれはその人の自由だ」との言葉は現在七十歳代を超える人々の間でも一定の共通認識となっています。しかしそのような理解は本当のところ正しいのでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とは、より具体的に言えば「一粒の麦は蒔かなければそのまま、しかしもしあなたの手元を離れて蒔かれたのであれば多くの実りを授かる」とも解釈できます。そうなると25節以下の「自分のいのちを愛する者」とは「自分のいのちに執着する者」となり、「自分のいのちを憎む者」とは「自らの執着を一旦放念し、主なる神に委ねられる者」という理解も可能です。同じような譬え話は「タラントンの譬え話」としても描かれますが、要するに人生の自己決定権を表向き制約することにより「誰がために用いられたのか」という道筋へとわたしたちを招き、人生の質をより豊かなものとする道を、イエス・キリストは説いていることにもなります。

 イエス・キリストの十字架への苦難の道は、そのような「誰がために用いられたのか」という道筋の中で、最も人々から遠ざけられる生き方でもあります。人の子イエス自ら「苦い杯をとりのけてください」と呼んだ生涯です。しかしそのゲツセマネでの祈りの中で、その葛藤の中から「御心に適うことが行なわれますように」と委ねきれた人でもありました。イエス・キリストの人生は、わたしたちが目指すところの「自己実現」からは最も遠いところにあります。

 「どのように生きようとそれはその人の自由」という考え方が行き先を見失った結果、わたしたちは仕えるべき人々やテーマといったものを見失うにいたりました。その結果、外見上は豊かであっても行なわれる育児放棄や介護放棄、さらには自己自身の生き方の放棄といった事態が生じるにいたりました。そのような事件を「よくあることとして受けとめる」のか、それとも「深く胸を痛める」のかという分岐点にわたしたちは常に立たされています。イエス・キリストはどのような土地であっても種籾としての麦を撒くことを呼びかけ続けます。いのちを物心両面にわたって支えるいのちの結晶としての麦。その麦をどのように用いるのかによって、わたしたちの交わりの行方が定まります。復活によって裏づけられる、決して無駄には終らない生き方がそこにあるように思えてなりません。一粒の麦を粗末にせず、主なる神に委ねていくあゆみを、キリストの苦難は切り拓きます。

2024年3月7日木曜日

2024年 3月10日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書  191頁).

讃美=  511,21-309,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
  コロナ禍以降に急速に進んだIT社会。今や国際会議ですらリモート技術で行なわれ、電子通貨も普及を見せ、スマートフォンと銀行の口座が直結されて買い物もできるようになりました。天井からぶら下げたザルにあるお金で会計を済ませた時代とは全く異なり、実にスマートな精算システムが導入されて久しいところ。20世紀なら宇宙船に搭載するレベルのIT技術が、名刺入れほどの大きさの「携帯電話」には凝縮されています。仮想現実システムも生成型AI(人工知能)も身近になりました。

 しかしIT技術がどのように発達したとしても再現も通信もできない感覚があります。それは触覚と味覚と嗅覚です。五感のうち視聴覚はデジタル化できても、それ以外の感覚は再現できないままです。

 本日の場面では人の子イエスがマルタとマリアの姉妹のうち、妹マリアからナルドの香油で足を拭われるという場面です。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』では頭であり、香油を注ぐ女性の振る舞いに憤慨するのは『マルコによる福音書』の場合は「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」となります。いずれにしても人の子イエスに近しい人物がそこにおり女性に憤慨したとの理解は変わりません。『ヨハネによる福音書』でこの場面は口を挟む人物が「イスカリオテのユダ」とされるところにその重点もまた置かれています。

 この箇所でイスカリオテのユダは目利きとしての才能を発揮しています。それは注がれたこの香油の値打ちを「三百デナリオン」と瞬時に見抜いている態度から分かります。しかし人の子イエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。最初に記されたとされる『マルコによる福音書』では「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」との呟きさえ聞こえます。しかし果たして、イエス・キリストとの関わりの中で無駄なものなどあるというのでしょうか。わたしたちは神から様々な賜物をイエス・キリストとの関わりの中で発見します。そのどれ一つとして「無駄なもの」などありません。人の子イエスはすでに十字架への歩みを始めています。十字架刑で処刑された者は一般には弔われず、野晒しにされました。処刑場は鳥獣の餌としてあたりに骨が転がっていたところから「ゴルゴダ(されこうべ:元来は仏教でお骨を『舎利』と呼んだ語から『舎利頭』と記される)」と呼ばれていました。しかしそのような人々のただ中から、自らの社会的立場をなげうちその遺体をひきとったアリマタヤのヨセフが描かれます。救い主イエス・キリストのドラマは死によって決して終りません。

 思うにイスカリオテのユダは今を生きるわたしたちと同じ課題を抱えていたのではないでしょうか。それはすべてを効率的に考え、無駄なく対応するという姿勢です。ひょっとしたら注がれた香油に表現される経済価値を、イエス・キリストの道とはかけ離れた自分本位の善意で用いようとしたのかも知れません。しかしこの姿勢にイスカリオテのユダの課題があったのであり、わたしたちの課題も重なります。それはわたしたちが神なき善意の中で争い、神なき善意の中で人を苦しめ、神なき善意の中で傲慢になるというあり方です。世にあるあらゆる差別や排除も戦争も殆どが善意の名の下で行なわれます。それが神のもとから略奪された善悪の知識の実であることに誰も気づかないのです。便利さの美名に隠れる効率性に選別と排除が隠されている現実を、わたしたちはそのようなものだと知りつつ、神との関わりの中で受けとめなくてはなりません。あくまでもすべては授かるものであって、わが意のままに操作できるものではないのです。

 イエス・キリストはゲツセマネという場所で身柄を拘束される前に苦しみの中で祈りを献げました。それは『マルコによる福音書』では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取除けてください」との祈りでした。しかしそのような苦しみの中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と続けます。イエス・キリストを包んだナルドの香油は、暗闇の中でそのような苦しみに喘ぐ人の子イエスの姿を、いのちの光のなかでわたしたちに示します。わたしたちの味わう不条理さがあるとするならば、イエス・キリストがすでにわたしたちに成り代わって神のご計画のもとにわたしたちを引き戻してくださります。それは冷たい運命などという歯車ではなく、どのようないのちにも分かちあわれ、備えられる希望の光でもあります。わたしのものは「わたしのもの」、あなたの時間も「わたしのもの」という独占欲で占められているのではなく、わたしのもの・わたしたちのものはすでに主なる神に献げられている世界でもあります。

2024年3月1日金曜日

2024年 3月3日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書  177頁).

讃美=  258,21-575,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 多くの弟子が離れ去る中で「あなたがたも離れて行きたいか」と問われる中、人の子イエスのもとに残ったのは一二人の弟子でした。『使徒言行録』を参考にいたしますと、この時点で一二弟子とはペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダであるとされます。しかしとりわけイスカリオテのユダはその中でも異彩を放っています。「裏切り者」「悪魔」というラベリングが福音書の解釈に限らず『聖書』のテキスト自体にも明かだからです。教会の交わりはおろか世のキリスト教文化圏でも「あなたはユダみたいな人ですね」などと言うならばたちまち険悪な雰囲気になります。キリスト教の価値観と葛藤し続けた近代日本文学の歴史の中で太宰治は『駆込訴へ』という作品を「裏切り者イスカリオテのユダの独白」という構成で著わしています。

 しかしながら福音書を先入観に基づいてではなく、丁寧に読み解いてまいりますとまた別のユダの姿が現われます。『マタイによる福音書』27章1~5節では全ての弟子が恐怖のあまり身を隠す中「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と人の子イエスをローマ総督ピラトのもとに送った裁判の誤りと人の子イエスの無罪を証言します。また、イスカリオテのユダが自ら命を絶った態度をその罪深さに数える人もおります。『聖書』全体を見渡して自ら命を絶つ者としてはユダの他にヘブライ統一王国の初代王サウルがおります。このサウル王もユダもその死に方によって罪深さが際立たせられるところはありません。自死が罪だとは『聖書』では規定されてはいません。むしろ後の教会が世俗権力と一体化する中で過酷な労働を強いられた農奴や奴隷を確保するための「方便」としての教説に源があると理解した方がより適切かと存じます。

 それでは『聖書』はイスカリオテのユダを「裏切り」だと説く根拠は何でしょうか。これは渡辺敏雄牧師との読書会で知ったことですが「裏切る」とは本来ギリシア語では「パラドゥーナイ」とされ、「裏切る」よりもインパクトの弱い「引き渡す・委ねる」が適切な訳であるとのことでした。さらにはイスカリオテのユダには他の弟子にはない人の子イエスへの近さをもっていることが、祭司長とその下役らへの合図である「接吻」から分かります。他の弟子に人の子イエスとの挨拶で接吻を用いた人物はおりません。イスカリオテのユダの特徴を福音書の受難物語の中で整理しますと次のようになります。①人の子イエスは、弟子と使徒のうちの一人によって、使徒の中から祭司長たちに引き渡されました。これはイスカリオテのユダによる「引き渡し」に始まります。②イスカリオテのユダはイエスを祭司長たちに引き渡し、祭司長たちはイエスを総督ピラトという異邦人へと引き渡します。そしてピラトは人の子イエスを十字架へと引き渡します。③イスカリオテのユダの「引き渡し」は最初かつ最小の局面ですが、連続する「引き渡し」全体のわざの最初という意味ではユダの行為は決定的です。この三点を踏まえますと、イスカリオテのユダはイエスの十字架での死と復活にいたる道筋の途上で、たまたまそこに居合わせたような人物ではなく、神の領域に属するイエス・キリストとこの世、十二使徒とこの世との関係に深く負い目のある者とされたことが分かります。『ヨハネによる福音書』で人の子イエスから悪魔呼ばわりされたイスカリオテのユダですが、イエス・キリストの十字架と死、そして復活の道に関わる弟子としてはペトロ以上に個性的であると捉えられます。それではイスカリオテのユダもまた神の愛につつまれ、救われたのかどうか。この問いが気になりますが、それは神の国の訪れを見なければ何とも言えません。その「沈黙」が『聖書』を様々な決めつけや自分勝手な利用から遠ざけるためには重要だと言えます。しかし後の『使徒言行録』で応急措置的な対応の後に出現し、姿を消す使徒マティアに代わって活躍した使徒パウロの異邦人伝道に賭けた情熱を踏まえるならば、パウロが律法学者であったころに名乗っていたサウロという名とユダは決して無関係ではありません。律法学者サウロはユダ以上に罪深い者でした。同時に『旧約聖書』のサウル王も神の恵みのもとで神との関わりを見失い、その弱さと罪深さによって却って神の栄光を世に顕した者として名を刻まれています。

「一二使徒の一人」として他の使徒の「罪による連帯責任」を負ったイスカリオテのユダ。そこに働いた神の秘められた計画は、パウロは救い主イエス・キリストの復活を語り、それは文化の垣根を越えた異邦人伝道へとつながり、世界へと広がりました。幾度も蔑まれてきたイスカリオテのユダもまた、神に用いられた使徒の一人であった事実を深く胸に留めましょう。その記憶の反復がキリストとの関係というわたしたちの信仰を確かにします。