2023年11月16日木曜日

2023年 11月19日(日) 礼拝 説教

  ー降誕前第6主日礼拝ー


時間:10時30分~



説教=「すべての人にいのちのパンを」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章34~40節
(新約聖書  175頁).

讃美=420,205,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 『旧約聖書』の神は怒りの神、『新約聖書』の神は愛の神との誤解からわたしたちが自由にされて久しくなります。『旧約聖書』におきましても神は自らお造りになったいのちに対して「死んではならない」と絶えず語りかけ、『創世記』におきましてはその約束を族長に対して貫徹されようとします。そして次なる姿は「虐げられた者とともにいる神」という姿であり、それはイサクに先立って族長アブラハムの側室ハガルに授けた息子イシュマエルの名に明らかです。イシュマエルとは「神は聞かれる」との意味です。神が耳を傾け続けたのは正室サライの訴えよりも、もともとは奴隷身分であったハガルの悩みでした。さらに神は正室サラとの争いに敗れて親子ともども荒れ地へと流刑になったイシュマエルの消え入りそうな泣声とハガルの嘆きを聞き入れ、イシュマエルの将来を祝福いたします。この神の態度は『創世記』に続く『出エジプト記』でも変わらず、自らをはっきりと「奴隷解放の神」としてお示しになり、エジプトでファラオのもと奴隷として消耗されていた60万のイスラエルの民を、モーセを導き手として立て、住まう土地である約束の地カナンへと導き出しました。神は約束の地で国を建てよと語ったのではなくそこに住めと命じます。

 しかしそれでもなお『旧約聖書』で拭い去れないのは神の愛の招きにも拘わらずひたすらその招きと導きに逆らう人の姿です。『旧約聖書』で問われるのは「怒りの神」などではなく、神の慰めと癒しに満ちた恵みに応答できない、絶えず的外れなわざを繰り返していく人の闇の姿です。神の恵みの光に人の罪なる影が絶えず浮かびあがるのが『旧約聖書』の物語の特色であり、イスラエルの民の極めて厳格な現実認識であるといえます。荒れ野に響いたイスラエルの民の声は、束縛から解放してくれた神への讃美よりも、授けられた自由の中で不安に陥り、日々の暮らしを憂いては不平をつぶやき、神の備え給ううずらとマナを授かりながらもエジプトの肉鍋を懐かしがるという体たらくでした。その道筋にあり、奴隷解放のわざを目のあたりにした第一世代はモーセをも含めて旅の途上で生涯を全うするほかありません。このゆえにヨシュアを筆頭とする第二世代がヨルダン川を越えて約束の地へと入っていくのでした。本日の福音書の5章48節で「あなたたちの先祖は荒れ野でパンを食べたが死んでしまった」と語る人の子イエスの言葉は、イスラエルの民の「人間的な、あまりにも人間的な」醜態を指摘しており、それだけに福音書に記された物語の中でイエスの言葉尻を捉えようとしていた律法学者たちにはまことに耳が痛く、思わずその口を封じたくなったことでしょう。

 「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」との言葉は、イエス自らを救い主として宣言され、神の愛が世をつつむそのときのために、イエス・キリストを見て信じる者が皆永遠のいのちを授かり、キリスト自らその完成の日にすべての死者を復活させるのだ、と宣言します。それがイエス・キリストという「神のパン」すなわち「神の愛なる糧」の力です。

 荒れ野で授かった神からの食に養われてきたイスラエルの民は、日が経つに連れ次第にその食に飽き、神を呪うまでになります。まことに残念ですが、ある人には恵みであってもある人にはそのようには味わえないという事態が起こり、その様子が生々しく描かれています。しかし、『ヨハネによる福音書』の書き手には救い主の姿は実体のないぼんやりとしたものではありません。イエス・キリストをいのちの糧とする者は、絶えず新たにされ、その生き方に確信が備えられ、神の愛を証しする者となります。そしてたとえ一人になったとしても、決して孤独には陥らず、その祈りと振る舞いは多くの交わりをもたらしていくのです。『旧約聖書』では、誰もがエリヤになることはありませんでしたし、誰もがモーセにはなり得ませんでした。しかし福音書にあっては、イエス・キリストを仲立ちとした神と人との関わりを、わたしたちは人と人との交わりの中に重ね、その恵みの中で各々が神の愛の証人として活かすことができるのです。それは常に世に生じる対立の壁を越えていきます。

 新型コロナウイルスの流行のピークを越えて待っていたのは、ウクライナ戦争とパレスチナ・ガザ地区でのイスラエル軍による虐殺です。ミサイルは特に病院を「テロリストが潜伏している」場として攻撃します。実際には多くの入院患者や赤ちゃん、こどもたちが犠牲になっている状況に胸を痛めない人はおそらくいません。アル・アハリ病院というキリスト教の教会が運営母体となっていた病院も攻撃され、患者やこどもを含む471名の犠牲者が出たのはまことに痛ましいかぎりです。わたしたちは宮仕えの学者に囲まれ、『聖書』のことばで自らを正当化できる立場、そしてローマ帝国の軍隊によっても支援されたヘロデ王に踏みつけられたベツレヘムに立っています。ヘロデはその親族ごとイエス・キリスト、教会の証人を狙い執拗に追ってきます。しかしそのベツレヘムにイエス・キリストはお生まれになります。わたしたちは後戻りできない世界で、さらなるイエス・キリストとの出会いを味わいます。すべての人に自らをいのちの糧とされたイエス・キリストはわたしたちにも、あのこどもたちの中にもおられます。